旧東海道本線(京都駅~初代大津駅)



                                国土地理院5万分の1京都東南部(部分)大正6年7月25日発行
日本の鉄道は、江戸時代末期、アメリカのペリー提督が、寛永7(1854年)年3月開国を迫ったときに、江戸幕府の献上品として、鉄道模型(客車にまたがって、人を乗せることが出来た)横浜で走らせたのがはじめとされています。
その後、明治2年11月東京~京都~大阪~兵庫間の中山道線(防衛上鉄道敷設は東海道ではなく、中山道を通るルートで計画されましたが、後に山岳を通るルートは建設困難の理由で、東海道に変更されました)および東京~横浜間支線と琵琶湖~敦賀港間の鉄道線路敷設を決定しました。そして、明治5年9月12日(新暦10月14日)新橋~横浜間、日本で始めて鉄道が営業運転されました。当時1日2往復していました。一方関西は、明治7年5月11日大阪~神戸間の営業を開始。そして、明治10年2月2日京都~大阪~神戸間営業開始しました。そして本題の京都~大津間は、明治11年8月21日に敷設建設が始まりました。そして、明治12年8月18日京都~大谷間、翌年7月15日京都~大津間が完成しました。

京都駅の設置場所について(私見)
現京都駅は、他の駅に比べ町の中心部から大きく外れた場所に設置されました。今こそ、どちらが中心部かわからないほど反映していますが、当時は、京都の南の外れの場所に設置されました。京都は四条通り河原町通りなのですが、京都の東と言えば東山と言う山並みがあり、滋賀の大津に抜ける障害となっています。それでは、今は地下鉄化しましたが、三条通り京阪京津線のルートだったら、当時の技術でも敷設出来たと思われるのですが、京都には御所があり、当時の保守的な市民は、町の真ん中に、煙を吐いて、大きい音を出して走ることを嫌った可能性があります。そのために、今日の京都駅に落ち着いたと思われます。結果的に、これでよかったのだと思います。もし京都駅が三条通りあたりに作られていたら、現在走っている新幹線も今とは違うルートになり、京都は素通りということもあり得たのです。現に、新幹線建設前に京都を素通りする案が現に存在していました。
これは、あくまで私の勝手な考えを述べただけで、実際は、明治政府が、京都経由で、今の東海道線を想定して、先を見越して場所を決めたのかもしれません。時間をかけて、調べていきたいと思っております。


写真 1

 旧東海道線は、京都駅から稲荷駅までは、現在の奈良線そのものです。
 京都駅を大津に向かって出発すると、すぐに
右カーブして、鴨川橋梁にさしかかります。

 JTB発行「鉄道唱歌東海道線今昔」の148頁
当時の賀茂川橋梁の写真が出ています。







写真 2

 奈良線複線電化工事が、平成10年頃から始まり、それまでは、旧東海道線が使用されていた橋脚が残されていましたが、現在は、写真のように疎水と師団街道の堤防のところに、一部が名残として残っています。
 奈良線が複線化される以前は当時の橋脚が
残されていました。下のリンク先をクリックし、トップページが起動しましたら近畿、東海道旧線(
岐阜~大阪)をクリックし、その後、その頁の一番下のところにある「つづき」をクリックして、最後の項目にその橋脚跡の写真が掲載されています。

吉田恭一「廃線跡を旅する」

 地図
   

写真 3

 稲荷駅構内にある明治12年に建てられたランプ小屋、日本の鉄道施設では、最古の建物で準鉄道記念物に指定されています。
 当時は、保線、客車の室内灯、駅員の持つ信号灯などは、電球ではなく、油(魚やなたね)を使用していたためその油を貯蔵するために使用されました。
 世界文化社発行「古写真で見る明治の鉄道」の135頁に当時の稲荷駅の写真が出ています。 当時のランプ小屋は、現存しているランプ小屋よりも倍の大きさがありました。これは、稲荷駅駅舎増築建て替えの折、半分に削られてしまいました。その証拠に、駅舎側のランプ小屋は、煉瓦作りではありません。そして、先の古写真を見ても、大きく見受けられます。余談ですが、古写真を見ていると稲荷大社の大鳥居が見て取れます。




 
写真 4

ランプ小屋の内部。天井を写す。
ランプ小屋に入ると、使用されなくなって、80年以上なるのに、油の臭いが残っています。

   

写真 5

各ランプ類。左から場内信号灯、車掌手持灯、信号灯、合図灯、馬灯(軍馬輸送灯(貨車用))、
車号灯、尾灯、待合室灯。

写真 6

腕木式信号機の腕木部。左から出発信号機、場内信号機、遠方信号機。

稲荷駅のランプ小屋の内部の見学ができます。 方法は、以前はJR宇治駅にて予約できましたが、今は、JR西日本お客様センター
0570-00-2486へ電話し、オペレーター呼び出しとし、オペレーターが出ましたら、「JR奈良線の稲荷駅のランプ小屋見学希望(希望日時
(午前中)等を伝え、JR宇治駅に連絡を取りたい」、と伝えられましたら、後ほど、JR宇治駅から電話がかかってきます。

写真 7

JR稲荷駅を出て約1kmほど行くと、民家の並びが不自然な民家(線路沿いのクリーム色の前の民家が斜めに建っている)が見えます。そこが、旧東海道線と、現奈良線の分岐点です。グーグル・マップや車のナビの地図の明細にすると、後年、旧線の跡地沿いに家が建てられたということが容易に想像できます。




写真 8

 旧東海道線沿いに建てられた家並みと道。

写真 9

 冒頭の旧版の五万分の一の地図を見ていると稲荷駅を出発して奈良方面に向かっていたのが大きく東を向ける地点があります。現在もその名残としてその線路跡にそって、府道35号線が走っています。写真は深草谷口町交差点。





写真 10

 大きく東へ向きを変えた後、実は、現在の名神高速道路は、京都東IC付近まで、旧東海道線の跡地を利用して作られています。地図で名神高速道に沿って山科区内に入っていくと道路の際の南側に小野小学校があり、その東端の民家ところに旧東海道線山科駅があったという碑が建っています。
 明治12年8月18日開業、大正10年8月1日廃止。
 世界文化社発行「古写真でみる明治の鉄道」
135ページに旧山科駅の写真があります。






写真 11

 山科駅跡を過ぎて、名神高速道路をふたたび沿って行くと、京都東インターチェンジを過ぎてしばらく沿うと京阪京津線の大谷駅の際をとおり、すぐに蝉丸トンネルにはいります。写真の撮影位置は、名神高速道上り線、蝉丸トンネル西口の上にある道からの撮影で、写真の手前あたりに、旧大谷駅がありました。駅については、古写真等で確認することができません。そして、旧大谷駅をでて、すぐに、日本人の手による初めての山岳トンネル旧逢坂山トンネルの西口がありました。
 大谷駅は、現在も山に囲まれた寂れた地域にもかかわらず駅が設置されたのは、明治12年8月18日に京都駅からこの大谷駅まで仮営業を開始しましたが、後に述べる逢坂山を越えるにはどうしてもトンネルを掘らねばならないため、京都より東を少しでも早く開通するため仮営業の終点駅として設置されたと思われます。
先の「明治の鐵道」の135頁に旧逢坂山トンネルの西口の上から撮影された想像される写真が掲載されています。

写真 12

  上の名神高速道の写真撮影場所から振り返ると、「旧東海道線 逢坂山とんねる跡」という碑が建っています。これは、高速道建設の折、旧東海道線跡を利用した為に18m下に西口は埋没したために日本人だけの手によって設計し建設された記念物的な価値のあるものであったので、この日が建てられたのだと思われます。
 この逢坂山トンネルは、明治11年10月5日に東口、同年12月5日から西口の掘削工事が始められ、1年8ヶ月後,死者5人を出して明治13年6月28日に完成しました。全長664.8mで、兵庫県の生野銀山の労働者(刑務所上がりの労働者が多く井上勝自身もツルハシを持って掘ったり、労働者たちと一緒に飲食を共にしたりしたというエピソードがあるそうです)を招致して、掘削のためイギリスから購入した削岩機を全く使用せず、ノミやツルハシを用いて手で、堀抜いたと言われています。




写真 13

上 大阪交通科学館時代の展示、下は京都鉄道博物館。

逢坂山トンネル西口の上部に掲げられていた逢坂山トンネルのつくられたられた所以。西口埋没させるおりに、取り外され、現在は、京都鉄道博物館にて、展示されています。
「皇國の山巖を鑽り
鐵軌道を通ずるは
此の洞(トンネル)
権輿為り(もののはじめ)
績用は以て後に徴す可きなり
是の擧たるや
明治十一年十月より起こし
山の東西を夾み
齋しく穿壔の工に就く
明くる年九月透徹して
中に會す
其の延袤三百六十四間なり
而るに石質は粗悪にして
蓋壁に適せず
故に擧邊
磚(煉瓦)を疊みて焉を固む
今茲今月
全く功を竣ふ
乃ち剏めて車を行る(矣)
董工は國澤能長と曰う
見に工部六等技手なり
       明治十三年六月
          鐵道局長
             技 監 井上勝 誌
              属官  村井正利 書
と書かれています。
               (京都鉄道博物館の説明文より)

写真 14

 鐵道記念物に指定されている逢坂山トンネルの東口。
 右端に写っているのは、明治31年4月15日に開通した上り線用のトンネルで、左記に掘られたトンネルは下り線として使用されるようになりました。






写真 15


 東口のトンネル上部に掲げられている石額は時の太政大臣 三條実美の筆によるもので、「樂成賴功  明治庚辰七月 三條實芙」と書かれ、「工部省の技術を尽くして落成することができた」と言う意味でしょうか?
「楽成」とは、本来「落成」の意味ですが、落盤事故の「落」を嫌って「楽」としたそうです。
   
写真15-1


東口トンネル内より大津方面を見る。
正面にあるビルは、松浦ビル。

写真 16

 逢坂山トンネルを出た後、旧東海道をまたぐための桁橋がありました。橋そのものは撤去されていますが、京阪京津線の現国道161号線の踏切のところに煉瓦積み橋台跡が残っています。今は、その上に、松浦ビルが建っています。





写真 17


前方に見えるビルが松浦ビル。この国道一号線を旧東海道線は走っていました。ここよりもうすぐ米原よりのところから、今は桜並木があり、JRの現在の大津駅から桜がきれいに見えましたが、近年、駅と国道一号線の間にホテルや、マンションができ、今ではあまり見えにくくなってしまいました。

写真 18


家並みか、草津方面行きの上り線あたりに線路が走っていたと思われます。前方に茶色い建物の(ホテルα-1)の前方あたりで、現在の東海道線と合流して、現膳所駅へとつながっていきます。

写真 19


ホテルα-1。この写真の右端あたりのところで現在の東海道本線と合流していたと考えられます。

写真 20


現在の「膳所駅」、ここの駅は、明治13年7月15日に馬場駅として開業し、その後、大正2年6月1日大津駅と改名、そして、大正10年8月1日に再び馬場駅となり、このときは貨物駅となり旅客扱いはなくなりました。そして、昭和9年9月15日現在の膳所駅となり、ふたたび旅客扱いを再開することとなり現在の姿となりました。
明治末期に特急の前身最大急行、そして特急が、新橋~神戸間を走るようになったときは、停車駅として、馬場駅の全盛期でした。現在は、普通電車のみしか止まりません。
明治時代の馬場駅の写真は、先の「古写真で見る明治の鉄道」の135頁に掲載されています。
 また、膳所駅は、滋賀県内で最古の駅です。

写真 21


京阪石山線、島ノ関駅~石場駅間にある小舟入川橋橋梁。わずか5mほどの橋ですが、橋の銘板には鐵道省の名があり、大正時代から昭和初期に建造されたものと見られ、官鉄時代のものであることを伺わせます。



写真 22


現在の京阪京津線浜大津駅。実はこの駅こそが明治時代の官鉄(国鉄)の大津駅だったのです。明治13年7月15日開業で、馬場駅からスイッチバックして、この初代大津駅まで運転されました。当時は、財政難で、長岡~馬場駅間は、鉄道建設されず。そのため明治15年5月1日琵琶湖を走る大津~長濱間を太湖汽船が就航し水路交通とした。しかし、その後鉄道建設が進みわずか7年間の就航、明治22年7月1日に廃止されました。、そのため、時の明治政府は、太湖汽船に対して賠償金を支払われたそうです。その後、大正2年6月1日大津駅から現在の浜大津駅に改称されました。




 
写真 23


1801号蒸気機関車(1800型蒸気機関車)

 明治13年に開通した京都から馬場間のうち、特に旧山科駅~大谷間は25パーミルの急勾配であるため馬力のある機関車が求められ、イギリスのキットン社に最初8両が発注された機関車で、輸入直後から、明治25年(1892年)までは、56号機関車、その後明治42年まで40号と改名し、さらに、明治42年(1909年)の車両形式称号規定の制定により、1800形蒸気機関車となりました。
 下の写真は大阪交通科学館開設(昭和37年1月)から、平成5年頃までは、1801号蒸気機関車(1800形蒸気機関車2号機)のナンバープレイトを付けて野外に展示されていましたが、現在は、屋内にて、明治20年頃の姿で展示されています。現在は、京都鉄道博物館に展示されています(上の写真)。

 その後の、機関車は明治30年代には、6200型、6400型、2120型、大正5年頃には、9600型などが加わり走っていました。
写真24


青梅鉄道公園にある9608蒸気機関車。梅小路90年史によると、9600型のトップナンバーの新製配属は、梅小路でした。大正2年に配属され、東海道線の勾配区間を力強く走りま
した。写真の9608号機は、ほとんど関西で活躍したみたいですが、東海道線にて活躍したかどうかは不明ですが、京都~馬場間を走った可能性は大です。 その9600号機は、昭和に入って、太平洋戦争時に、標準軌道に改装され大陸へ出征し、再び日本に戻って来ませんでした。ここでも、戦争は、人間の心を腐らせ、冷静さもなくす絶対してはいけないということをかいま見る思いがしました。
写真25
写真26


梅小路蒸気機関車館にも9633型が、あるのに、なんで、わざわざ東京までで行ったかと申しますと、9600型の初期の型は、写真のように、ランボードからキャブのラインが違うからです。いろいろHPで調べましたが、初期型で原型に近い形で残っているのはここだけでした。
写真27


この機関車は、5500型 2Bの配列で、実はこの蒸気機関車は、東海道線にには配属されていないようで主に東北・常磐線に活躍したようですが、東海道線には5100型、6270型と、この機関車の兄弟機関車が、活躍していましたが、現存せずピンチヒッターとしてこの機関車を掲載しました。写真の奥にある機関車は、8620型機関車のトップナンバー!(残念ながら、後年、空気ブレーキ用の圧縮空気貯タンク取り付けのため少しランボードを、段違いに改造されています)
   写真28













   写真29


この1070形式1080型蒸気機関車は、C10、C11などと同じタンク型機関車なのですが、実は、明治の時には、テンダー型イギリスのタブス社製の6270型蒸気機関車そのものなのです(ネルソン社製は6200型とされ、ネルソン、タブス合わせてネルソン型蒸気機関車と称していました)。後年、国産で大型蒸気機関車を製造することができるようになって余剰になってローカル線に使用できるように一部をタンク用に改造したものです。今回この1080型は、2009年9月、日鉄鉱業から、
梅小路蒸気機関車館(現京都鉄道博物館)で、静態展示されることになりました。
6270型6289号機時代は東海道本本線の急行列車牽引していましたので、掲載しました。
   写真30











  写真31


 現在の京都~山科間のルート。
明治期に作られたルートは、トンネルを作る技術が未熟であったため、山を避けるために遠回りしましたが、明治43年に現在のルートの調査測量がおこなわれ、大正3年に着工され、大正10年8月1日に開業しました。この地点は山科大カーブとして昔から撮り鉄の撮影ポイントとして有名です。
 この写真から、一直線になぜ引かなかったのか疑問が残ります。それはおそらく勾配を少しでも緩くするためにではないか(京都より大津の方が標高が高く、旧線で最急勾配25%、現線で、10%の勾配となっています)、工事費用を安くするため線路を引くための堤を少しでも短くするため、山沿いに走らすためだったのかもしれません。


参考までに、明治29年9月1日現在の急行の時刻、明治39年4月16日現在の最急行、明治45年6月15日現在
の特別急行の時刻を掲載します。ページ上の都合で停車駅は米原~京都間を除いて一部省略しています。
滋賀県、京都にお住まいの方にはお気づきだと思いますが野洲から草津の間にある守山駅がないのに不審に
思われるかもしれませんが、守山駅は明治45年4月16日開業で、急行、最急行の表示時期には駅として存在
していませんでした。石山駅も明治36年4月1日の開業で、急行の表示時期のみ存在していませんでした。ちな
みに私の住んでいる野洲駅は明治24年6月16日の開業です)のみ掲載します。
        新橋  品川  横浜  平沼  大船  国府津 山北   沼津   静岡    浜松  豊橋
急   行  600  609  648   →   722  808  1003  1020  1210  1410 1506
最急行    800   →   →   837   →    935   1003  1124  1229   1408 1455
特別急行   830   →   →   908   →   1001  1023  1139  1239   1410 1453  
         大府   名古屋   岐阜   大垣   米原 彦根 河瀬 能登川 八幡 野洲 草津
急   行  1625   1702   1745  1809  1916 →   →   →   →   →  2023
最急行      →     1625    →    1723  1818 →   →    →    →    →   →
特別急行    →    1614    →    1704  1800 →   →   →    →   →    →    
         石山    馬場   大谷  山科  稲荷  京都   大阪   三ノ宮   神戸     下関
急   行    =    2043    →   →    →  2130  2235  2317   2322∥
最急行     →    1925    →   →    →  1959  2056  2136   2140∥
特別急行    →    1905    →   →    →  1938  2033  2111   2122   ~ 938    



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