野洲市



現役をリタイアして、ユウさんの住んでいる町を、歩いて、自転車でぐるりと見てきました。現役のときには全くきずかなかったお寺とか神社があって、二十年以上住んでいる町の新しい発見もいっぱいありました。そして、歴史の町であることも再発見できました。
 なお、説明書きは、基本的には野洲市の案内板を中心に記載していますが、ほか補足として、インターネットなどでも参考にしています。万が一間違いがありましたらご指摘下さい。直ちに訂正させていただきます。 


駅・公官庁 


   JR野洲駅南口。
野洲市内の唯一の鉄道の玄関。
最初の野洲駅は、官鉄時代の明治24年6月16日開業で、
隣の守山駅よりも21年も早く開業しました。当時、野洲郡
の郡都であったことから守山駅より早く開業しました。(当
時は野洲郡野洲村)今の駅舎は、昭和48年に改築された
2代目です。

2008年の調査で、1日の乗車人数は、13,744人(降車人数
は含まれてません)です。

   JR野洲駅北口。
   野洲市市役所。JR野洲駅南口から徒歩で、7分程度の所
にあります。
昭和43年10月15日に当時は野洲町役場として建てられま
した。
  野洲市役所分庁舎。旧野洲郡中主町の町役場でした。手
前の建物は、湖南広域消防局東署分室で、奥の建物が
分庁舎です。市民サービスセンター、上下水道課、文化財
保護課などが平成22年5月までありましたが、庁舎統合
政策により跡をどのように活用するか模索中です。
 
   平成25年10月1日、我が野洲市の消防署、湖南広域
消防組合東消防署が、野洲市立図書館の隣に新しく建て
替えられました。野洲駅北口側にありました旧東署に比
べ野洲市防災センターもへ併設され、さらに非常時には、
離着陸可能のヘリポートも併設され、また、消火訓練棟
も併設されています。
   野洲市立野洲文化ホール。
昭和58年6月10日開館。
このホ−ルは、一流のアーティストが訪れています。
その代表は、昭和62年に、現在は、ヘルベルト・フォン・カ
ラヤンが長らく音楽監督、常任指揮者であった世界で有数
のオーケストラ、ベルリンフィルハーモニーの音楽監督・常
任指揮者であるサイモン・ラトル(カラヤンの後クラウディオ
・アバドがつき、その後任にラトルが就任しました)が、バ
ーミンガム市交響楽団とともにこの舞台に立ちました。京
都、名古屋を差し置いてです。ポピュラー系では、カーメン
・キャバレロそして、JPOPでは、最近では倉木麻衣などが
きています。
 最近、建物の老朽化と、耐震の問題で、どのようにこの
ホールを運営するか問題になっています。機器の老朽化
も深刻化しています。野洲市は中主町と合併後、他市と同
じで財政難に陥ってますが、この由緒あるホールを存続し
ていただきたいものです。
   野洲市立さざなみホール、若尾文子の夫であった故黒川
紀章の設計によります。
平成4年7月23日開館。当時は中主町立さざなみホールで
した。
せっかくの立派なホールなのですが、有効に使われていま
せん。目立つところでは、桂文珍の独演会が年に1度行わ
れていました。それ以外、目立ったコンサート等はありませ
ん。
   野洲市立図書館。
当初昭和54年に、小篠原の野洲市立総合センターに設立
されましたが手狭のため、平成14年に現在地に移転しまし
た。
私の個人的な意見として、もう少し専門書を増やしてほし
いと思っています。
  野洲市立総合体育館。 
昭和63年10月に開館しました。県内でも有数の大型の体
育館で、温水プールが併設されています。
 滋賀県唯一のプロバスケットボールチーム、滋賀レイク
スターズのホームゲームも行われます。
体育館の使用料が安いため、県外からも使用の申し込み
があると聞きます。
   野洲市健康福祉センター。
   野洲市立歴史民俗博物館。通称銅鐸博物館。
昭和63年  月開館しました。野洲市は日本最大銅鐸(高
さ134.7cm、重さ45.47kg)と、1996年から1997年に
かけて、島根県の加茂岩倉遺跡から39口の銅鐸が出土さ
れるまでは、24口の銅鐸出土した日本で一番多く出土した
た町でした。
 しかし当館所蔵の実物の銅鐸はほとんどなく、レプリカが
多く、当時町議会で問題化したことがあります。
現在は滋賀県から約10口ほど借り受けて展示されていま
す。
日本最大の銅鐸は東京国立博物館所蔵となっています。
   弥生の森歴史公園。
   野洲郡勧業館・野洲郡役所跡(現ザウルス公園)
 明治43年野洲郡の農業・物産進行の振興のために、木
造2階瓦葺きで、建てられました。その後郡役所が、最初
明治12年守山に建てられ、後14年に栗太郡統合した、
栗太郡野洲郡役所として草津に役所が建てられましたが、
明治31年4月に単独で野洲郡役所が、野洲村大字小篠
原に作られ、大正4年に、この勧業館に併設される形で、
新設され、大正15年の郡役所廃止まで郡の業務を担って
いました。(当時の野洲郡は野洲、守山、中主、近江八幡
の一部の地域)
 現在は、建物は撤去され、公園となっていますが、石の
門柱が当時のまま残されています。
   野洲市学校給食センター


 三上藩




   
   
   
   
   






 神社仏閣・


   御上神社本殿(国宝)。
御上神社は、今から2200年前に天之御影神が、三上
山に降臨し、三上山を神体として鎮祭したのが始まりと
されます。
本殿は明治32年1899年に国宝に指定され、入母屋
造で鎌倉時代の建立と推定されています。
   御上神社奥宮。
 三上山(近江富士)の頂上にあります。
   保民祠。
この保民祠と、下の天保義民碑は、天保13年(1842
年)に野洲市一帯に起こった天保一揆の犠牲者を顕彰
し、その義挙の遺徳を偲ぶために、保民祠は、明治26
年(1893年)、碑は明治28年に建立されたが、祠は、
、損壊激しく平成4年に旧祠と同様式で、新築されたも
のです。
   天保義民碑。
天保一揆は、江戸幕府役人が、五尺八寸(176cm)の
間竿に六尺一分(182cm)の目盛りをして、公然と不正
検地によって、年貢増徴を図ろうとしたことに、野洲、甲
賀、栗太四万人の農民が、三上村庄屋土川平兵衛らを
指導者として立ち上がったもので、幕府役人に検地を十
万日(約273年)日延べする証文を書かせて、一揆は
勝利したが、土川平兵衛らは首謀者として江戸に送ら
れ苛酷な取り調べののち獄死した。
   大笹原神社本殿(国宝)。
寛和2年(987年)越知諸実が社領を寄進し、社殿を造
営されたと伝えています。祭~は須佐之男命ほか六神
を祀る。現在の本殿は、棟札より応永21年(1414年)
に建立された。形式は入母屋造りで、明治34年8月
2日に国宝に指定されました。
  圓光寺 本堂(重要文化財)
圓光寺は天台山門派の長福寺と、真盛派の圓光寺とを
を統合した寺で、現在は真盛宗に属し歓喜山長福院圓
光寺と称する。本堂の建立は、内外陣境柱銘から康元
2年(1257年)であることが分かる。元禄17年(1704
年)の修理により入母屋造り・本瓦葺に改造されたが、
昭和31年の解体修理で、本堂建築ではめずらしい切
妻造りに復原されました。
   圓光寺九重塔(重要文化財)
   大行事神社本殿(重要文化財)。
隣にある圓光寺の鎮守神として始まったと伝えられ才神
は高皇産霊神を祀っています。
明治期の神仏分離の令がが発せられたにもかかわら
ず圓光寺と同じ敷地内にあるのは驚きです。この本殿
のすぐ横が圓光寺の本堂です。
   生和神社本殿(重要文化財)。
生和神社の草創は、平安時代で、その後、鎌倉時代に
に冨波荘の領主鎌倉左衛門次郎が、先祖を氏神として
祀ったとも伝えられる。本殿では、蟇股(ひえるまた)、
格狭間等の意匠が、近在の大笹原神社本殿よりやや
古式なため南北朝時代の建立と考えられています。
   菅原神社神門。
菅原神社は、明治までは天満天神社と呼ばれ江部荘の
の産土神(うぶすなかみ)で、菅原道真を祭神にまつっ
ています。神門は、化粧棟木下などの彫刻から室町時
代後期ころに建てられたものと見られています。
   菅原神社本殿。
  土安神社。
先の菅原神社の御旅所として創建されました。 
   常念寺
 明鏡山と号し、慈覚大師円仁の開基といわれ天台宗
に属していたが南北朝時代(貞治年間1362〜1367)
に堂字が悉く焼失しました。そこで、応永3年(1396)常
誉真巌によって中興され浄土宗に転じた。
明応年間(1492〜1501)に豪族永原氏の菩提所とな
りました。
 本堂阿弥陀如来立像は、鎌倉時代後期のもので重要
文化財なっている。写真の山門は實政11年(1799)に
建てられました。
  石造層塔
 5層の石造り層塔で、山門をくぐって向かって右奥にあ
り、正応元年(1288)の銘を持ち重要美術品に指定さ
れています。
  兵主大社楼門。 
兵主大社は、平安時代前期の「日本三代実録」や「延喜
式(名神大)に記載された格式高い大社です。八千矛神
神(大国主神)が祭られています。
楼門は、昭和45年の解体修理時に寺垂木から天文19
年(1550年)の墨書を発見され建立年代が明らかにな
りましたが、明和3年(1766年)に大修理がおこなわれ
、下層隅虹梁(すみこうりょう)上の板蟇股以外絵様彫
刻は江戸後期の様式に変えられています。
   兵主大社拝殿翼楼。
天保13年(1842年)に建立され、昭和16年(1941年
年)に改築されていますが、中央の拝殿一棟と左右翼楼
二棟と組み合った大型の建物で滋賀県下ではめずらし
い型で、先の楼門にも左右の翼楼がつき兵主大社独特
の様式として踏襲されています。
   永原御殿御門。
永原御殿は、慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の
戦いに大勝した徳川家康は、本隊及び諸大名を中仙道
から上洛させ、自身はは、旗本に守られ、17日に佐々
木大角家一族の国侍永原氏の旧館(永原城)に入った
。そして、この永原城を将軍が上洛するおりの宿泊施設
とした。当時御殿の石垣や土塁を用いた城郭の構造を
示し単なる宿泊施設だけではなく有事に供えた軍事施
設の要素も兼ね備えていました。永原御殿は慶長6年
に初めて徳川家康が宿泊し、以降家康が6回二代目秀
忠2回、三代目家光が宿泊しましたが、幕藩体制が確
立した家光以降は上洛の必要性がなくなりこの永原御
殿は廃止されました。その時この御門は、浄専寺に移
築されました。状態は余りよくありません。永原御殿の
復元模型が、銅鐸博物館の二階展示室に展示されて
います。
   永原御殿跡
   永原御殿跡土塁。
   北村季吟の碑。
北村季吟は、漢方医であった北村宗龍の孫で、寛永元
年(1624年)12月11日に野洲市に生まれた国文学
者です。師松永貞徳の元で土佐日記、大和物語、伊勢
物語、源氏物語、枕草子などの本を注釈し、古典教養
の普及につくし、元禄2年(1689年)、幕府に詠歌を掌
る歌学方が設けられ子湖春と共に江戸に呼ばれました
。以後世襲で幕府の歌学方をつとめました。
松尾芭蕉などの弟子を育て、82歳で生涯を閉じました
。この碑には「妓王井にとけてや民もやすごおり」と刻ま
まれ、「妓王のおかげで掘られたさらさらと流れる妓王
井川を枯水に悩んだ野洲の民が田用水として使い心安
らかにくらすことができるであろう」ということです。
   妙見堂跡。
 移封によって、元禄11年(1698年)遠藤氏が、三上藩を立藩しました。初代藩主は、遠藤胤親で、遠藤氏はもともと妙見大菩薩(古代中国において北極星を天帝と見なす星宿信仰)を守り神としていたことから、第4代藩主遠藤胤富の時に文化4年(1807年)に勧請したものです。
 三上山の表登山道石段(荒廃しててますが…)は、このお寺の参道であることが分かります。 だいたい二〜三合目あたりにあり、灯籠などに文化九年(1812年)の記載があるものもあります。
  子安地蔵堂
   子安地蔵堂本堂
 室町時代、この地域は、比叡山三千坊に数えられた
数多くの巨刹があり、その中に天台宗系嘉祥寺に安置
されていた地蔵菩薩で、元亀2年織田信長による延暦
寺の焼き討ち際の兵火を免れたのがこの地蔵菩薩像
です。平安時代末期の造像と考えられている。秘仏とな
っていますが安産祈願の子安地蔵として近隣の信仰篤
く毎年一月、八月の縁日には開扉されます。
   篠原神社。
 社伝には村上天皇(在位946年〜967年)の御代、
平将門平定の軍功によって、藤原秀郷の二男、田原二
郎千時が、粟田、野洲二郡の地を賜った際、祭神等不
明の小社の正殿、社殿等三宇を建立したとあります。
 明治3年、家棟川が決潰して、建造物一切が埋没した
が、その後復旧しました。
              滋賀県神社庁のHPより抜粋
   稲荷神社本殿。
稲荷神社の創祀不詳なのですが、天智天皇の時の壬
申の乱に野洲川原で戦死した人々の供養及び鎮護国
家を祈願し、石城村主宿祢が福林寺を建立。その守護
神として天暦2年(948年)4月に伏見稲荷大明神を寺
寺域小篠原の氏神として、崇敬されたと伝えられていま
す。その後永禄年間(1558〜1570年:室町時代末期
)の争乱福林寺の伽藍は衰亡し、稲荷神社と福林寺の
一字真福院のみが残った。
   稲荷神社末社、古宮神社(重要文化財)。
古宮神社の草創は、鎌倉時代で、本殿は近くの福林寺
境内にあった十二所神社の建物を大正3年に稲荷神社
の境内に移築されたものです。室町時代の建立と考え
られ一間社流造で、昭和25年に重要文化財に指定さ
れました。
   日吉神社.
日吉神社の歴史は明らかではありませんが、少なくとも
鎌倉時代には造営されていたと考えられます。祭神は
は大山咋(おおやまぐい)神。
  日吉神社神門。
 
   日吉神社本殿(重要文化財)
現在の本殿は、鎌倉時代後期に建てられたもの、形式
は一間社の流造りです。昭和19年9月5日に重要文化
化財に指定されました。
   虫生(むしゅう)神社
 その起源は詳らかではないが、かつてこの地域の服
部郷があり、このうちの錦織部の人々ここに居住して、
虫生社を勧請したと伝えられています。
 
              滋賀県神社庁のHPより抜粋
   虫生神社本殿

 祭神は、月讀命。
   銅鐸出土跡の碑。
   藤塚。
親鸞が関東から帰洛の途中に江州木邊村に逗留のお
り、農民に法話をした際、藤つるのから食器に土をつめ
ると翌朝になってその器から青芽が生じたので、村人た
ちはそこに土を積み、柵を設けて「藤塚」というようにな
ったとて伝えられています。
この石碑は親鸞六百五十回遠忌祈念に」建立されたも
のです。「重遺恩」の三文字はそのときの門主孝慈の筆
によります。
   錦織寺表門。
錦織寺は、親鸞の足跡を残す唯一本山で浄土真宗の
一派真宗木辺派の本山です。現在の門主は第22代木
邊円慈です。
先代の門主、僧名木邊宜慈(木邊成麿(明治45年4月
1日〜平成2年5月2日)は、京都大学の中村要技官に
教えられ反射望遠鏡の反射鏡を作られ、「木辺レンズ」
として、天文学会では名の知れた人物です。宜慈の作っ
た最大の反射望遠鏡60cm反射望遠鏡(1957年昭和
32年完成)は、京都大学花山天文台から、1968年11
月に開設された飛騨天文台に移され、現在も微光天体
観測に活躍しています(飛騨天文台は屈指の光学式太
陽系内天体観測で有名です)。そして昭和11年に「反射
望遠鏡の作り方」を書き表し昭和24年に改訂し、昭和4
2年に新版として書き改めています(絶版。古本として購
入は可能)。
   錦織寺、御影堂。
現在の御影堂は、元禄7年(1694年)の火災で全焼し
、御影堂は、元禄14年(1701年)に再建されました。
 親鸞は、真宗根本聖典である『教行信証』を書き記し
たが、全六巻のうちの「真仏土の巻」と「化身土の巻」と
をここで述作されたと伝えられています。
 嘉禎3年(1237)、浄書完成の歓びを門侶の請によっ
て、真正面向きに「満足の御影」を描がかれそれを御影
堂の本尊としています。
 錦織寺の名の由来は、暦仁元年(1238)に天女が蓮
の糸で織ったと言われる錦を、朝廷に献上したおり、時
の天皇、四条天皇より「天神護法錦織之寺」という勅額
を賜ったところから錦織寺となりました。
   錦織寺  阿弥陀堂
 上記の御影堂と同じく元禄7年の火災で全焼し、天保
2年(1831)に再建されました。本尊の阿弥陀如来は、
親鸞が、常陸国の霞ヶ浦の水底からあげられた仏像で
親鸞は笈の上に載せ帰洛を共にし、途中、美濃国正蓮
寺にて、毘沙門天王の霊告(近江国木邊の地にて仏法
を広める)を受け、お告げ通りこの木邊を訪れ、下記の
毘沙門堂に滞在され、仏法を広げ、この仏像を本尊とし
て本壇に安置されたとされています。この本尊は、先の
元禄7年の火災によって破損していましたが、平成20
年11月に修復されました。
   錦織寺 天安堂(毘沙門堂)
 他の浄土真宗のお寺にはない毘沙門堂は、本来浄土
真宗のお寺として開山したのではなく、それは延暦寺第
3代座主慈覚大師円仁が、弟子円智を使わし、この地
にお堂を建立(天安2年(858))し、比叡山から毘沙門
天王を移して本尊とされ、以来約380年の間天台宗の
霊場でした。その後、先のお告げにより親鸞は、このお
堂にしばらく滞在し仏法を広げられましたのがこの錦織
寺の基となりました。
 その毘沙門天王像は最澄が、比叡山に開山するとき
に東塔北谷にあった霊木をもって作られ、鞍馬寺の毘
沙門天王と同木同作と伝えられています。
お堂は、天正の火災で焼失、さらに元禄7年にも火災に
遭い、文久元年(1861)に再建され、さらに平成19年
に大改修がおこなわれ現在に至っています。
   妓王寺。
妓王井川を作るよう清盛に嘆願し完成させた妓王の遺徳をしのんで旧里江部荘の人々が、妓王、妓女、母刀自、佛御前の菩提をとむらうため妓王寺が建てられました。
寺内を見学を希望される場合は、野洲市観光物産協会(電話077−587−3710)へ問い合わせて下さい。
  妓王屋敷跡跡。 
妓王と妓女姉妹は、約800年前に橘次郎持長の娘としてこの野洲市のこの地に生まれたとされています。父は保元の乱(平安末期1156年)で亡くし、母刀自・妹妓女と共に京へ上り白拍子(歌舞をする遊女)となり、特に妓王は、平清盛の寵愛を受け、清盛から「何か望むものはないか」と問われ。妓王は当時、水不足で悩んでいた農民を気遣って、「ふるさとに水路を導いてほしい」と嘆願し、5年の歳月をかけて、野洲川から水路(妓王井川)を完成されました。妓王は、野洲の農民にとって水不足から逃れることが出来ました。
 妓王の出生地として、ここ野洲の中北とするのが知られていますが、和歌山県の紀の川市粉河町とする説、北陸の福井市三郎丸とする説があり、伝説上の人物かも知れません。
 くわしくは、滋賀報知新聞HPにでています。

  検索エンジンより「祇王出生地」と入力し、「滋賀報知
新聞」の所をクリックして下さい。
    
   長澤神社
 滋賀神社庁のホームページによりますと、大宝3年(703年)の創建と伝え、近江国司紀朝臣友安が朝廷に奉聞、官符を賜って宮殿を造営、神田、封戸が附与され、
正一位勲三等長澤三処太神の勅額掲げられたといいます。現在の社殿は、明治5年、佐々木氏綱が再興したものと言われています。
 石柱に書かれた長澤神社の文字は、元帥海軍大将東郷平八郎の筆によります。
   長澤神社の県内最大の幹囲を誇る藤の木。    
  妙光寺山磨崖仏。
崖に露出する岩に高さ160cm、厚さ10cmの彫られた地蔵立像で、鎌倉時代、元亨四年(1324年)7月10日造立とあります。珍しいのは、尊像の足に沓(くつ)がはかれていると言うことです。
   福林寺跡磨崖仏。
妙光寺山と大岩山にはさまれたところに福林寺跡と伝えられる遺跡があります。福林寺は、天武天皇(在位671〜685年)の時に時の石村主宿禰(いわきのすぐりすくね)が鎮護国家を祈念して建立された寺院とされ永禄年代(1560年代)の争乱が起こりまで存続したとされています。東寺の末寺であったことから福林寺に関する古文書が残されています。寺院推定地背後の山麓に磨崖仏(写真)があります。どのようないわれがあって彫られたかはよく分かっていません。室町時代の初期に作られたとされています。
   福林寺跡磨崖仏。
   平家終焉の地。
歴史上、平家は1185年3月に起こった壇ノ浦の戦いで敗れ、平家は滅んだとされていますが。時の平家の将軍平宗盛父子は助け捕らえられ、源氏の源義経は、兄源頼朝に会うため宗盛父子と共に鎌倉に向かったが、望みがかなえられず、宗盛父子と共に京へ戻る途中、京まであと1日の地、近江国篠原宿(現野洲市大篠原)にて、義経は、部下の橘公長に命を下し宗盛を斬首し、嫡男清宗、次男能宗そして、2名の男子(名前は不明)を斬首して、平家は完全に滅亡しました。1185年6月21日のことでした。
   妓王井川。
白拍子妓王は、平清盛に嘆願して、野洲川から導いた農業用水路で承安3年(1173年)に完成されたとされています。今でも田畑を潤わしています。
 
   近松勘六ゆかりの家。
近松勘六行重(寛文9年〜元禄16年2月4日(1669年〜1703年3月20日))は、赤穂浪士四七士のひとりで、源義高の末流を称し、先祖は近江国の佐々木六角家の典医近松家を継いだ。祖父の近松伊看は、医者となり三次浅野家に仕え、その子行生に山鹿流兵学を学ばせ武士として仕え、その子が勘六で、彼にも山鹿流兵学学んで武士として仕えた。
赤穂浪士討ち入りの時は、勘六は、吉良家の剣豪清水一学と戦って、滑って泉水に落ちて大けがをしました(清水一学と実際に戦ったという記録はありません)。討ち入りが終わって、泉岳寺へ向かうときに駕籠に乗っているのが近松勘六です。
近松勘六は結婚していなかったのですが、家僕に勘三郎というのが主人に忠実で浪人となったため暇を出そうとしたがあくまで参仕すると願い、後に義僕といわれ、、近松を名乗っても良いというようになって、その勘三郎を先祖に持たれている方が今のゆかりの家を管理されています。
   背競べ地蔵
 この二体のお地蔵さんは、鎌倉時代のもので、中山道
を行き交う旅人道中護ったといわれています。また、当
時は乳児がよく死んだので子を持つ親たちが、「我が子
もこのお地蔵さんくらいになれば、あとはよく育つ」と背
比べさせるようになり、いつしか「背くらべ地蔵」と言われ
るようになりました。
  百足山 十輪院
 中山道沿い野洲川のほとりに、明暦3年(1657)に
徳允居士が開いたお堂で、徳允は立入氏の祖先で、お
堂は立入家が代々護り伝えてきた。黄檗宗直指庵の末
寺でした。本尊は、地蔵菩薩立像で、鎌倉時代に遡ると
考えられる。同じく鎌倉時代の聖観音立像も祀られてい
ます。お堂の向かって右にある灯籠(天明5年(1785)
は、かつて夜に川を渡る旅人が迷わずに毎晩灯りをと
もしていたもので、野洲川畔にあり、対岸の灯籠は新川
神社に移されています。さらに野洲晒を詠んだ芭蕉句碑
「野洲川や身は安からぬ さらしうす」があります。
屯倉(みやけ)神社
   





   甲山古墳。(圓山古墳より)
六世紀前半の円墳で、直径30m、高さ10mの規模をもち
、内部には西に開口する横穴式石室があります。
整備発掘調査により、装飾具(金糸、銀製くちなし玉、ガラ
ス玉など)鉄製の武具(甲冑、太刀、矛など)、馬具等が出
土しました。
   甲山古墳の横穴式石室。
石室には、奥に向かって下がっている通路があり、部屋は
奥から見て右側に袖を持ち、長さ6.8m幅2.8m高さ3.
3mの規模で、床面には玉石が敷き詰められています。中
央部には、長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの熊本県宇
土半島の凝灰岩で作られた家型石棺を安置しいます。
   圓山古墳。
直径28m、高さ約8mの六世紀初めに作られた円墳で、
墳頂は標高126.3mを測ります。盗掘を受けていたもの
の、石室から、約10,000点のガラス玉鉄製冠の立飾、
銀製の耳飾等の装身具、装飾をこらした刀、馬具などが出
土しています。
   圓山古墳の石室。
石室は、奥に向かって天井石が一石づつ階段状に低くなり
、床も斜めに下がる通路があります。
部屋は、奥壁に向かって左側に袖を持ちながさ4.3m、幅
2.45m、高さ3.1mを測り、床には玉石が敷き詰められ
ています。
原質玄室(部屋9入り口側に、長さ2.85m、幅1.43m、
高さ1.83mの熊本県阿蘇凝灰岩をくりぬいた家形石棺が
があり、さらに奥に奥壁に沿って奈良県二上山算出の凝灰
灰岩で作られた印籠型の受け部を持つ組み合わせ式家型
石棺も見つかっています。
   天王山古墳。
北に前方部を向けた六世紀初頭の前方後円墳です。大岩
山古墳群唯一の前方後円墳で、比較的形状が残されてい
るので現状保存され、西側には石室もありますが公開はさ
れていません。
1994年に、この天王山古墳、甲山古墳、圓山古墳を国、
滋賀県の補助を受け保存修復及び発掘調査をしてのち19
99年に桜生(さくらばさま)史跡公園として整備されました。
  大塚山古墳。
径57m、高さ8mの円丘部と、その北西にながさ8.5m、
幅33mで二つに区分けされた造出をもつ五世紀前半の帆
立貝型古墳です。鶏、舟、家、水鳥などの埴輪が出土して
ています。 
   亀塚古墳。
江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に
亀塚の名前が生まれました。古くから土とり場となっていた
ため後円部の墳丘はあまり残存せず、平成19年の試掘調
査により帆立貝形あるいは前方後円墳の形と推察されて
ています。円筒埴輪、朝顔型埴輪などの出土品、古墳の形
状などから古墳時代後期初頭の五世紀後葉〜末期に作ら
れたと考えられています。
   冨波古墳。
冨波古墳は、大岩山古墳群では最古に位置づけられる古
墳で、墳丘はすでに削平され、水田となっていましたが、昭
和57年の発掘調査で初めて発見されました。
   古冨波古墳
古冨波古墳は、明治時代に三角縁神獣鏡が3面が開墾中
中に発見されたということが報告されています。昭和49年
年の宅地造成に伴う確認調査で、墳丘は直径30mの円墳
と推定されています。
   宮山2号古墳。
宮山2号古墳は昭和37年新幹線新設工事中に偶然発見
されました銅鐸調査中に土取り中に発見されました。墳丘
丘は、直径16m高さ3.5mの小規模の古墳で、横穴式石
室で、底石と前後の横石(木口石)しか残っておらず、198
8年〜1991年の修復整備の時に石棺として花崗岩を使
って修復されています。大岩山古墳群中最後の古墳で60
0年頃作られたと思われています。
かつて、宮山1号古墳は、国道8号線沿いにありました。



 
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