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現役をリタイアして、ユウさんの住んでいる町を、歩いて、自転車でぐるりと見てきました。現役のときには全くきずかなかったお寺とか神社があって、二十年以上住んでいる町の新しい発見もいっぱいありました。そして、歴史の町であることも再発見できました。 なお、説明書きは、基本的には野洲市の案内板を中心に記載していますが、ほか補足として、インターネットなどでも参考にしています。万が一間違いがありましたらご指摘下さい。直ちに訂正させていただきます。 |
駅・公官庁 |
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JR野洲駅南口。 野洲市内の唯一の鉄道の玄関。 最初の野洲駅は、官鉄時代の明治24年6月16日開業で、 隣の守山駅よりも21年も早く開業しました。当時、野洲郡 の郡都であったことから守山駅より早く開業しました。(当 時は野洲郡野洲村)今の駅舎は、昭和48年に改築された 2代目です。 2008年の調査で、1日の乗車人数は、13,744人(降車人数 は含まれてません)です。 |
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JR野洲駅北口。 |
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野洲市市役所。JR野洲駅南口から徒歩で、7分程度の所 にあります。 昭和43年10月15日に当時は野洲町役場として建てられま した。 |
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野洲市役所分庁舎。旧野洲郡中主町の町役場でした。手 前の建物は、湖南広域消防局東署分室で、奥の建物が 分庁舎です。市民サービスセンター、上下水道課、文化財 保護課などが平成22年5月までありましたが、庁舎統合 政策により跡をどのように活用するか模索中です。 |
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平成25年10月1日、我が野洲市の消防署、湖南広域 消防組合東消防署が、野洲市立図書館の隣に新しく建て 替えられました。野洲駅北口側にありました旧東署に比 べ野洲市防災センターもへ併設され、さらに非常時には、 離着陸可能のヘリポートも併設され、また、消火訓練棟 も併設されています。 |
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野洲市立野洲文化ホール。 昭和58年6月10日開館。 このホ−ルは、一流のアーティストが訪れています。 その代表は、昭和62年に、現在は、ヘルベルト・フォン・カ ラヤンが長らく音楽監督、常任指揮者であった世界で有数 のオーケストラ、ベルリンフィルハーモニーの音楽監督・常 任指揮者であるサイモン・ラトル(カラヤンの後クラウディオ ・アバドがつき、その後任にラトルが就任しました)が、バ ーミンガム市交響楽団とともにこの舞台に立ちました。京 都、名古屋を差し置いてです。ポピュラー系では、カーメン ・キャバレロそして、JPOPでは、最近では倉木麻衣などが きています。 最近、建物の老朽化と、耐震の問題で、どのようにこの ホールを運営するか問題になっています。機器の老朽化 も深刻化しています。野洲市は中主町と合併後、他市と同 じで財政難に陥ってますが、この由緒あるホールを存続し ていただきたいものです。 |
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野洲市立さざなみホール、若尾文子の夫であった故黒川 紀章の設計によります。 平成4年7月23日開館。当時は中主町立さざなみホールで した。 せっかくの立派なホールなのですが、有効に使われていま せん。目立つところでは、桂文珍の独演会が年に1度行わ れていました。それ以外、目立ったコンサート等はありませ ん。 |
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野洲市立図書館。 当初昭和54年に、小篠原の野洲市立総合センターに設立 されましたが手狭のため、平成14年に現在地に移転しまし た。 私の個人的な意見として、もう少し専門書を増やしてほし いと思っています。 |
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野洲市立総合体育館。 昭和63年10月に開館しました。県内でも有数の大型の体 育館で、温水プールが併設されています。 滋賀県唯一のプロバスケットボールチーム、滋賀レイク スターズのホームゲームも行われます。 体育館の使用料が安いため、県外からも使用の申し込み があると聞きます。 |
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野洲市健康福祉センター。 |
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野洲市立歴史民俗博物館。通称銅鐸博物館。 昭和63年 月開館しました。野洲市は日本最大銅鐸(高 さ134.7cm、重さ45.47kg)と、1996年から1997年に かけて、島根県の加茂岩倉遺跡から39口の銅鐸が出土さ れるまでは、24口の銅鐸出土した日本で一番多く出土した た町でした。 しかし当館所蔵の実物の銅鐸はほとんどなく、レプリカが 多く、当時町議会で問題化したことがあります。 現在は滋賀県から約10口ほど借り受けて展示されていま す。 日本最大の銅鐸は東京国立博物館所蔵となっています。 |
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弥生の森歴史公園。 |
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野洲郡勧業館・野洲郡役所跡(現ザウルス公園) 明治43年野洲郡の農業・物産進行の振興のために、木 造2階瓦葺きで、建てられました。その後郡役所が、最初 明治12年守山に建てられ、後14年に栗太郡統合した、 栗太郡野洲郡役所として草津に役所が建てられましたが、 明治31年4月に単独で野洲郡役所が、野洲村大字小篠 原に作られ、大正4年に、この勧業館に併設される形で、 新設され、大正15年の郡役所廃止まで郡の業務を担って いました。(当時の野洲郡は野洲、守山、中主、近江八幡 の一部の地域) 現在は、建物は撤去され、公園となっていますが、石の 門柱が当時のまま残されています。 |
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野洲市学校給食センター |
三上藩 |
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神社仏閣・他 |
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甲山古墳。(圓山古墳より) 六世紀前半の円墳で、直径30m、高さ10mの規模をもち 、内部には西に開口する横穴式石室があります。 整備発掘調査により、装飾具(金糸、銀製くちなし玉、ガラ ス玉など)鉄製の武具(甲冑、太刀、矛など)、馬具等が出 土しました。 |
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甲山古墳の横穴式石室。 石室には、奥に向かって下がっている通路があり、部屋は 奥から見て右側に袖を持ち、長さ6.8m幅2.8m高さ3. 3mの規模で、床面には玉石が敷き詰められています。中 央部には、長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの熊本県宇 土半島の凝灰岩で作られた家型石棺を安置しいます。 |
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圓山古墳。 直径28m、高さ約8mの六世紀初めに作られた円墳で、 墳頂は標高126.3mを測ります。盗掘を受けていたもの の、石室から、約10,000点のガラス玉鉄製冠の立飾、 銀製の耳飾等の装身具、装飾をこらした刀、馬具などが出 土しています。 |
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圓山古墳の石室。 石室は、奥に向かって天井石が一石づつ階段状に低くなり 、床も斜めに下がる通路があります。 部屋は、奥壁に向かって左側に袖を持ちながさ4.3m、幅 2.45m、高さ3.1mを測り、床には玉石が敷き詰められ ています。 原質玄室(部屋9入り口側に、長さ2.85m、幅1.43m、 高さ1.83mの熊本県阿蘇凝灰岩をくりぬいた家形石棺が があり、さらに奥に奥壁に沿って奈良県二上山算出の凝灰 灰岩で作られた印籠型の受け部を持つ組み合わせ式家型 石棺も見つかっています。 |
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天王山古墳。 北に前方部を向けた六世紀初頭の前方後円墳です。大岩 山古墳群唯一の前方後円墳で、比較的形状が残されてい るので現状保存され、西側には石室もありますが公開はさ れていません。 1994年に、この天王山古墳、甲山古墳、圓山古墳を国、 滋賀県の補助を受け保存修復及び発掘調査をしてのち19 99年に桜生(さくらばさま)史跡公園として整備されました。 |
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大塚山古墳。 径57m、高さ8mの円丘部と、その北西にながさ8.5m、 幅33mで二つに区分けされた造出をもつ五世紀前半の帆 立貝型古墳です。鶏、舟、家、水鳥などの埴輪が出土して ています。 |
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亀塚古墳。 江戸時代には、後円部の墳丘が亀に似た形から、字名に 亀塚の名前が生まれました。古くから土とり場となっていた ため後円部の墳丘はあまり残存せず、平成19年の試掘調 査により帆立貝形あるいは前方後円墳の形と推察されて ています。円筒埴輪、朝顔型埴輪などの出土品、古墳の形 状などから古墳時代後期初頭の五世紀後葉〜末期に作ら れたと考えられています。 |
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冨波古墳。 冨波古墳は、大岩山古墳群では最古に位置づけられる古 墳で、墳丘はすでに削平され、水田となっていましたが、昭 和57年の発掘調査で初めて発見されました。 |
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古冨波古墳 古冨波古墳は、明治時代に三角縁神獣鏡が3面が開墾中 中に発見されたということが報告されています。昭和49年 年の宅地造成に伴う確認調査で、墳丘は直径30mの円墳 と推定されています。 |
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宮山2号古墳。 宮山2号古墳は昭和37年新幹線新設工事中に偶然発見 されました銅鐸調査中に土取り中に発見されました。墳丘 丘は、直径16m高さ3.5mの小規模の古墳で、横穴式石 室で、底石と前後の横石(木口石)しか残っておらず、198 8年〜1991年の修復整備の時に石棺として花崗岩を使 って修復されています。大岩山古墳群中最後の古墳で60 0年頃作られたと思われています。 かつて、宮山1号古墳は、国道8号線沿いにありました。 |
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