■55.「じじ馬鹿」
 「親馬鹿」という言葉があるが、最近の私はまさに「じじ馬鹿」状態である。というのも、昨年の年末に、ついに「孫」を持つ身になったのであるが、それだけなら何ということもないのだが、恥ずかしながら、孫の写真を携帯電話の待ち受け画面に登録するわ(しかも複数枚登録して切り替えては見ている)、帰宅すれば、まっしぐらに娘の部屋へ直行するわ、率先して孫の見張り番(?)を買って出るわ・・・・といった状態なのである。正直言って、この変わり具合に一番驚いているのは、何を隠そう自分自身なのである。
 以前、仕事には厳格で尊敬している会社の先輩が、携帯の待ち受け画面に孫の写真を登録して、帰りの車の中で私に自慢げに見せびらかすのを見て、「何だ、このひとも単なるおっさんかぁ・・・・」と、いささか残念に思い、かつ、私は多分あそこまではしないだろうと思ったのだが・・・・なんと自分も同じことをしているのである(笑)。やはり、人間、自ら経験しないとわからない、「教訓」通りである。

 しかし、何故こんなに孫は可愛いのか。正直言って、自分の子供が生まれた時とは全然違うのだ。こんなこと家内に知られたら拙いのであるが、孫に対する「愛らしさ」は、自分の子供の時と比べると格段の差なのである。何故なのだろうか。思うに理由は二つある。
 一つ目の理由は、自分の子供の時は、子供を持った嬉しさと同じくらいの、ひょっとしてそれ以上の、責任と義務を背負わされてしまったという精神的負担と子供の将来に対する些かの不安があったが、孫の場合は全くそういった負担は無い。可愛い、それだけでいいのである。何が起こっても自分の責任ではないのである。人間、義務も責任を持たなくていいほど気楽なことはない。会社勤めを経験した人なら自明の理である。こんな気楽なことはない。
 次に二つ目の理由であるが、自分の子供が生まれた時は、私もまだ25歳、要はまだまだ若く、子供をただ可愛いと思う精神的余裕は無かったのである。また、まだまだ自分だけの世界もあるし、また、時間も欲しかった。現に当時の私は、休日には子供の面倒を見ずに、学生時代の馴染みのジャズ喫茶に一人で通ったもので、未だに、ことの度に家内に恨み言を言われている。ところが、今の私は、人生の折り返し点をとっくに通り過ぎ、退職もあと数年後に控え、多少の老後の不安はあるものの、余裕綽々の人生である。旨いものは素直に旨いと感じるし、可愛いものは素直に可愛いと感じる。そういう歳になったのである。
 まぁ、そんな理由はどうでもいい。言い訳したって始まらない。とにかく孫は可愛い。
 数年前に、大泉逸郎が歌っていた・・・・・・

   なんでこんなに可愛いのかよ〜♪
   孫という名の宝物〜♪
          ・
          ・ 


(何を書いてるんだぁ・・・・ただの惚気(のろけ)ではないか? 管理人)



■54.「バカの壁」
 脳専門の医学者である養老孟司の「バカの壁」が依然として売れている。教養関係でこれほど売れた新書も珍しいのではないか。あの本のどこがそんなに読者を引き付けるのか、どちらかというと難解でそんなにわかり易い本ではないと思うのだが・・・・。 それが、この新書(新潮)のターゲットである中高年サラリーマンだけでなく、年齢・性別を問わず幅広い読者層に読まれているらしい。ある時点の調査では女性読者が45%もいたという。そういえば、普段は推理小説ばかりでこの手の本は読まない?娘が、珍しく「バカの壁」貸してねぇ・・・と持ち去ってから久しい。 

 読後の私自身の感想としては、途中で話題が反れて脱線することが多く、読み進むほどにストレスがたまったし・・・内容的にも、多少なるほどと感心するところはあったものの、そんなに面白い本だという印象は残っていない。逆に、この本が何故ベストセラーかと疑問に思ったほどである。にもかかわらず、この本がこれだけ売れたのは「バカの壁」というタイトルのインパクトの大きさ、それと帯の『「話せばわかる」なんて大うそ』という興味を引く宣伝文句の所為だと思っているのだが・・・・。 それはそれとして、書店へ行けば「買って読まないと流行に取り残されますよぉ!」とばかりに「バカの壁」「死の壁」「逆さメガネ」「まともな人」「ガクモンの壁」等々彼の著書がベストセラー・コーナーの一角を占めているし、最近では、ご本人までもが休日の朝のテレビなどに顔を出しておられる。いやはやこの不景気なご時勢にまさに「バカの壁」が「バカ」売れである。
 
 ところで、思い浮かべてみると我々の周囲には色んな「壁」がある。 イラク紛争一つをとってみても、アメリカの「独りよがり」という致命的な要因はあるにしても、「宗教の壁」「文化の壁」「民族の壁」「政治の壁」他色んな「壁」が複雑に絡み合い、解決の道のりを遠くまた難しいものにしている。 また、最近では北朝鮮の拉致問題。小泉首相の参院選を意識したパフォーマンス見え見えの訪問にもかかわらず、依然として残りの拉致被害者の行方は不明のままである。これも「国境の壁」「政治の壁」「民族の壁」「歴史の壁」他色んな「壁」がまだまだ行く手を大きく阻んでいるようだ。 また、国内に目を転じても、年金問題にみられる「政治(家)と民意の壁」。未払いがあろうと国民に申し訳ないとも思わないし、そもそも自分たちは議員年金で手厚く保障されるから国民年金がどうなろと知っちゃいない。最近の政治家の発言を聞いていると、ほとんど全員がその程度(レベル)の意識しかないのではないかとさえ思えてくる・・・・・。 さらに身近な例では、若者との間の「言葉の壁」や「世代の壁」。思春期の子との「親子の壁」、会社では「立場の壁」「上司と部下の壁(私に限ってはこれは無いが・・・・^_^;)」。  かように我々の周囲はまさに「壁」だらけである。
 
 それではこれらの「壁」を破るにはどうすべきか。養老さん曰く・・・というより、私なりの読後の解釈だが、物事に対する「絶対的な見方」「一元論的な発想」から脱却して、多元的に生きる意味を追求するべきである。国も個人も、そして宗教も、「壁」を乗り越えて、「壁」の外との調和をはかること。それが解決策だという。  しかし、どう考えても、長い歴史の中で様々な迫害を受けながら教義を確立してきた宗教が、そう簡単に他を認めるとは思えないし、そんなことをしたらその時点でその宗教の教義は存続意義をなくしてしまう・・・。また、相手の立場になって考えるといっても、例えば、家族を拉致され、20年以上も国からも認められないままに訴え続けてきた拉致被害者家族の苦労は、言葉では何とでも言えるが、本当の意味での理解なんて到底無理である。 

 考えるに、「個人」にしても、「絶対的な」物事の見方・考え方、つまり「こだわり」があってこそ個人なのであって、それを捨てれば国民皆「金太郎飴」状態になってしまう・・・・。「国」にしても、基本は先ず自国の利益であり、それを無視して他国のために・・・なんてことはあり得ないのである。 つまり、私が言いたいことは、個人にしても国にしても、先ず、基本は「絶対的・一元的な考え方」がベースであり、その意味での「バカの壁」は持つべきなのである。それなくして、「相手も素晴らしい」なんて言うのは、聞こえはいいが綺麗ごとであり虚構でさえあると思うのであるが・・・。

 そいうえば、この間テレビ出演していた著者も相当自分の「壁」にこだわった発言をされていたが・・・・。やはり、「バカの壁」から抜け出すのは相当難しいらしい・・・・。

 ところで、この本を関西人が著したら「アホの壁」・・・・気さくで馴染み易いタイトルだが、一昔前一世を風靡?した関西の漫才師自称「アホの坂田」の間抜け顔が浮かんできて、どうも知的レベルが落ちるような気がする・・・・。



■53.「初夢」
 2004年新春。今年は年末年始が9連休ということもあり、ゆったりとした穏やかな心境で正月を迎えることができた。先ずは、家族そろってお神酒(我が家には神棚というものが無いので唯のお酒か?)を頂き、お雑煮とお節料理を食し、年賀状に目を通し、そして近所の氏神さんへ初詣。旧村にある鄙びた神社でその名を「添御縣座(そえみあがたます)神社」という。名前からして由緒がありそうだが、流石に奈良、延喜式内社とある。その氏神さんで「お守り」を交換し、チョッピリ生姜が入った甘酒を頂いて帰るのが我が家の元旦の恒例行事である。

 正月といえば、やたらと「初××」の付く言葉が多い。初春、初日の出、初詣、初夢、初釜、書初め、姫初め(?)・・・・等々、数え上げればキリがない。それだけ「新しい年への期待」が大きかったのであろ。しかし逆説的に言えば、昔からそれだけ庶民の暮らしは苦しかったということの裏返しでもあるのだが・・・。

 元旦の夜に見る夢が「初夢」である。その夢の内容で一年を占うのである。自分で言うのも可笑しいが、私も人並みに?夢は見るのだが朝になればそのストーリーをすっかり忘れてしまうので、家内からは「記憶力?が悪いのネェ」とバカにされている。その私がこの元旦の夜に見た初夢を覚えていたのである。しかもそれは「富士山」の夢なのである。初夢と言えば「一富士、二鷹、三茄子」。まさに新年早々実に縁起がいい夢なのである。
 
 話がそれるが、「一富士、二鷹、三茄子」という言葉。富士は日本一の山で何となく納得できるのだが、二番目の鷹と三番目の茄子がどうもぴんと来ない。どうして縁起がいいのか分からない。疑問に思い調べてみたら諸説がある。

 一つ目は「徳川家康説」。家康が、出身地である駿河の国(現静岡県)で自慢できるものとして「一富士、二鷹、三茄子(家康は茄子が大好物だったらしい)」と言っていたらしいということで、家康の自慢の品を初夢にみれば安泰すなわち縁起がいいという説
 二つ目は、「富士」は日本で一番高い山、「鷹」は一番強い鳥、そして「茄子」は「成す(成就する)」に繋がると言う縁起担ぎの説。
 三つ目は、家康が4月頃に三保へ遊びに行った時、この時期には珍しい茄子を見つけて買おうとしたところ、物凄く高い値段を吹っかけられた。その時「駿府で高いものと言ったら富士山と愛鷹山(鷹)だけだと思っていたが、茄子も高いものよ」と言ったという家康の言葉がことわざになったという説。他にも諸説あるらしい。

 話を戻して、初夢の中でも一番縁起がいい「富士山」の夢を見たのだから、今年こそは素晴らしい一年になるに違いない。宝くじでも当るのだろうか。それとも我が日本が復活を遂げるのであろうか・・・・。
 腰抜けの北朝鮮外交、表向きは「親友」だと主張してはいるが誰が見ても「追従」でしかない日米関係、パフォーマンスしか頭にない自画自賛の小泉首相、新聞を賑わす物騒な事件の数々、そして減り続ける収入と膨らむ将来に対する不安・・・・。そんな2003年よりは、明るく期待が持てる2004年になるのだろうか。何と言っても富士山の初夢を見たのだから・・・・。とりあえず?富士山の初夢を見たのだから・・・・。でも夢の内容が・・・・・。

 私が見た富士山の初夢
確かに富士山には違いないのだが実はこんな夢である・・・・・・・。
 場所は明確には分からないが、海の向こうに見えたからどうも西伊豆のようである。見えたといっても山裾だけで頂上の部分は「謹賀新年」の横断幕が邪魔になって丸っきり見えない。でもってそこらにいた全員で横断幕を外しにかかるのだが紐がこんがらがってなかなか解けない。悪戦苦闘の結果やっと紐を解いて横断幕を降ろしたと思ったら、富士山は雲の中・・・・(笑)。こんな夢である。

 縁起がいい「富士山」の初夢には違いないが、この内容では今年もあまり期待できないような気がする。新年早々、実に中途半端な夢を見たものではある・・・・・。

[注釈]
 新年早々、どうしてこんな詰まらない夢をみたのか。私にはその答えはハッキリしている。実は昨年11月初めに三泊4日の箱根伊豆旅行へ行ったのであるが、事前に富士山のビューポイントを調べ上げ、徹底的に富士山を見ることに拘った旅であったにもかかわらず、結果は、大涌谷から一瞬富士山の山頂が見えただけ・・・・という惨憺たる結果。以後、その悔しさ、無念さから解放されることなく、携帯の待ち受け画面と会社のパソコンのデスクトップに富士山の壁紙を張り、また毎日ホームページのライブカメラで富士山の姿を確認するという日が続いているのである・・・(涙)。


 筆者が毎日見ている富士山はこれだっ!
  ◆駿河湾に浮かぶスカンジナビア号からの富士山ライブカメラ◆





■52.「蝉の鳴き声論争」   〜入院の時間を持て余して徒然なるままに〜

 ジージー・・・・最近騒々しい蝉の鳴き声に眼を覚まされる。先日の台風の朝以外は毎朝である。蝉時雨などという風流な言葉もあるがこれではまるで蝉豪雨である。病室の横に小さな木立がありどうも元凶はそこらしい。散歩がてらに行ってみたら大きな樹の幹といわず小枝の先まで蝉だらけである。葉にまでぶら下がっているしぶとい奴もいる。一本の樹に100匹以上はいるだろう。そんな樹が10本以上もある。それらが一斉に鳴くのだからうるさい筈である。うるさいだけならまだしも暑苦しくて堪らない。しかもどうもよく見るとクマゼミのようである。そう言えば体が大きく黒っぽい。子供の頃に田舎で聞いた蝉の鳴き声に比べるとどうも大阪の蝉の鳴き声は品が無くていけない・・・・・。

 当時の夏休みの子供の遊びと言えば先ずこの蝉採りが思い浮かぶ。庭の大きな柿木や神社へ行ってよく蝉採りをしたものだ。蝉も賢いものでなかなか幹の低いところには止まらず、柄の長い蝉採り用の網にさらに棒を結わえ付けて高い幹にいる蝉を狙うのだが、長いために思うように扱えず、小便をかけられて逃げられたものだ。私が育ったのは舞鶴であるが、思い起こしてみると、当時はニイニイゼミかアブラゼミが殆どで、たまにツクツクボウシの泣き声が聞こえようものなら宿題を放っぽり出して採りにいったものである。ところが今住んでいる奈良でニイニイゼミの姿を見つけることは全くない。そんなに注意して見ている訳ではないが見かけるのは殆どがアブラゼニである。あの小柄で木肌のような羽模様をもつ、まるで忍者のようなニイニイゼミはどこへ行ったのか。見た目にあまり華やかさがなく、どちらかと言うと「田舎者」と言う感じの脇役的存在ではあったが、なんだか寂しい思いがする。同じ関西でも生態系がちがうのか。それとも、宅地化の影響であの蛍のように絶滅化の道を歩んでいるのか・・・・。

 芭蕉の有名な句(奥の細道)に「閑(しずか)さや 岩にしみ入 蝉の声」という句がある。芭蕉が当時の山形領(県)にある奇岩・洞窟の中に建つ立石寺(山寺)に立ち寄った際の句である。暑さを忘れさせる趣のある句である。昔の蝉はどうも岩にしみいるような控えめな声?で鳴いていたらしいが、最近の蝉は泣き声も大きくなってきたのか・・・・・?世の中が騒がしくなってきた分蝉も大きな声で鳴かないとその存在を主張できなくなったのかも知れない。

 先ほどの芭蕉の句の蝉は「ニイニイゼミ」だというのが定説?であるらしいが、その蝉の鳴き声を巡って「蝉の声論争」というのがあったらしい。昭和の初期に斎藤茂吉があれは「アブラゼミ」だと主張し仲間と論争になり何でも現地調査までしたらしいが、結局はやはり「ニイニイゼミ」であるということで落ち着いたらしい。別に蝉の種類なんてどうでもいいような気もするが、そこはやはりプロのこだわり(?)か。しかし、いったい現地に赴いて何を調査したのか?蝉の分布を調べたのか?でも、今現地で鳴いている蝉が元禄時代にもそこで鳴いていたとは限らない。ひょとしたら江戸のアブラゼミが暑さに耐えられなくなって避暑がてらに山形まで出かけて行かなかったとは言いきれない…。(それはないか)いずれにしても昭和初期の歌壇もよほどヒマ、失礼優雅であったのであろう。

 この芭蕉の句は実は発案は「山寺や石にしみつく蝉の声」という句で推敲を経て「さびしさや岩にしみ込む蝉の声」最後に「閑さや岩にしみ入る蝉の声」に落ち着いたらしい。俳句の名人も実は一発勝負ではなかったのである。多少「なぁ〜んだ」という気がしないでもないし、それなら素人の自分が短歌を詠むのに何度も弄くり回しているのも当たり前なんだと安心もする。それにしてもやはり芭蕉は名人である。素人の私なら蝉の声が「岩にしみ入(いる)」なんて思いもつかない。私がよめば「岩に響き渡る」である。

入院で時間を持て余しながらこんな下らない事を考えている・・・・。



■51.娘が嫁ぐ

娘が嫁ぐ日まで後残り約三週間となった。本人と女房は式や新居の準備に慌しく走り回っているが、私はというと、「蚊帳の外」というか、時たま買物の荷物運びに運送屋よろしく付合わされる程度で、いつもながらの「日常」を送っている。これが、娘が嫁ぐ日を直前に控えた「父親」の姿である。

小説やテレビドラマの世界では、娘を嫁がせたくない父親の姿とか、結婚相手を「嫉妬の目」で値踏みする父親の姿とかをさも当然のことのように描いているが、私の場合は一向にそういう心境にならない。そんな気配を悟られて嫁ぐ娘を祝っていないのではと誤解されたら困ってしまうのだが・・・・。勿論、娘を嫁がせるのだから多少の淋しさと、私も世間並に娘を嫁がせる立場になったのだ・・・・という多少の感慨はある。しかしどうもぐっと胸に迫るものがない。

言訳がましいが、親が子を育て嫁がせるのは当たり前の事であり、自分もそうやって両親に育てられ、見送られてきたのである。言わばそれが普通の家族の姿なのである。更に言えば、今の時代にこういう言い方をすると「男尊女卑」ではないかと勘違いされるかも知れないが、息子の場合は、進学や就職で心配もし、時には意見の衝突もあったが、娘の場合はあまりそういうこともなかったような気がする。多少生意気なところはあるが、明るく素直にすくすくと育ってくれた。放っておいたという訳ではないが、父親としてあまり心配もしなかったし、どちらかというと、娘の事は母親に任せていたところがある。自分ではこれが普通の父親だと思うのだが・・・・。

そうは言っても、やはり娘の存在が家庭に波風を立てた事もあった。特に高校生から短大にかけての頃、同じ食卓に座っても、娘に気を使って余分なことを言わないように気を配ったり、少しでも小言みたいなことを言おうものなら「そんなこと私の勝手でしょっ!」と、ここまで自分一人の力で育ってきたかのような発言をする娘に戸惑いもした。いわゆる反抗期であるが、当時は、どこかギクシャクした父娘関係であり、家の中も少しピリピリしていたように思う。それも、娘が社会へ出て、特に私が娘の勤める会社へ出向した辺りから、共通の職場の話題もあってか、二人の間に何となく父娘らしい会話が生まれ始めた。勿論、私が出向の件を娘に伝えた時は「お父さんが来るなら私辞める!」と言って私を困らせたものだがそのうちに諦め、朝の通勤は同じ車両でという訳には行かなかった(同じ電車には乗っているのだが・・・)が、帰りは時間調整をして二人揃って帰宅したりするようになった。今でも、勤める会社は別になったが、時々電話で連絡を取り合って同じ電車に乗り、取りとめも無い会話を交わしながら一緒に帰宅することもある。こうしてやっと世間並の父娘関係に漕ぎつけたと言うのに・・・・・。

最初の話題にもどるが、娘を嫁がせる直前になっても、そんなに感動するでもなく、世間で騒ぐほどの淋しさも感じない自分の姿に、最近、多少の後ろめたさを感じるというか、ひょっとしたら自分は冷たい父親なのだろうか戸惑ったりもしている。しかしそれも式の当日が近づくにつれどう変わっていくのか、また、式の当日、娘からの両親へ贈る言葉を聞いて涙するのであろうか・・・・・等と、自分の心境の変化を楽しみに?見守っている今日この頃である。