40.「匂い」と「臭い」
 前回のエッセイでは、この2001年を振り返ってみて一番印象に残った、とうよりもこの不景気な世の中でサラリーマンとして最も感心のある小泉政権発足とその後についての「私見」を書いたが、今年最後となる今回は、やはり世界を震撼させたあの米国同時多発テロについての「私の見方」を書いてみようと思う。

話しが飛躍するが、何時ぞやの読売新聞「編集手帳」に、・・・・「におい」は漢字で「匂い」とも書くし「臭い」とも書く。「匂い」は「鼻で感じるよい刺激」で「臭い」は「悪い刺激」であるらしい。この間神戸の焼鳥屋が付近の住民からこの「におい」が迷惑だということで訴訟され臭気対策と慰謝料を命じられた。道すがら店から漂う焼き鳥を焼く「匂い」は空きっ腹を刺激するが、付近の住民には「臭い」に変わる・・・・・というようなことが書いてあった。

実は私の家でも似たようなことがある。気持ちよくお風呂に浸かっているときに、換気扇から隣の台所で魚を焼く「におい」が入ってくるのである。隣人はよほど魚が好きなのであろう塩鯖や秋刀魚を焼く「臭い」が頻繁に漂ってくるのである。あえて「臭い」と書いたが、私も塩鯖や秋刀魚は大好物で昼の定食にはよく食べる。しかし、その「匂い」も風呂場で嗅ぐとたちまち「臭い」に変わってしまう。隣人も意識的に嫌がらせをしているという訳でなく、致し方ないと諦めはているが・・・・・。確かにこのように、自分にとっては「匂い」でも他人には「臭い」ということもあるのである。

あの全世界の注目を集めた米国同時多発テロおよび米国によるアフガニスタンへの報復攻撃から3ケ月あまりが経過し、タリバンはほぼ一掃され、先日暫定政府も発足した。米国およびアフガニスタンで多くの罪もない死傷者を出した今回の事件も、テロの主犯格とされるビン・ラディンが捕捉されないまま新しいステップへ移行しようとしている・・・・・・。

私にはテロ直後に、米国ブッシュ大統領が世界に向かって「正義」の名のもとに必ずテロ犯を捕まえ報復する・・・・と強く訴えていたあの声明報道が非常に印象に残っている。そして当然のことのように、日本を含め多くの国がその声明に同意を示し協力を申し出た。しかし、テレビ報道や特別番組を見ていて、何故米国が今回のテロの対象にされたのか、以前から何故米国大使館等の施設がテロの対象とされてきたのか・・・・といった解説はほとんどなかったように思う。

 ブッシュ大統領の声明通り、米国はビンラディンを匿っているアフガニスタンのタリバン政権への「正義」の名のもとの攻撃を開始した。確かに悲惨なあのテロ犯に対する米国の報復だけを捉まえれば「正義」かもしれない。しかし遡って、第二次大戦後、米国が「正義」や「世界の警察国家」の名のもとに中東等で採ってきた大国主義的な政治的対応は本当に「正義」であったのか・・・・・。それは米国の思い上がりに過ぎないのではないか・・・・。今回のテロに対する米国の報復を「正義」とするなら、米国の中東政策に対する報復行為としての今回のテロはどうなのか・・・・・。ビン・ラディンにとっても今回のテロは米国に対する聖戦(ジハード)であり「正義」ではなかったのか・・・・・。米国がこういった観点で今までの大国主義的な「発言」「行動」を反省し改めていかない限り、仮にビンラディンを捕まえても根本的な解決にはならないと思うのだが・・・・・。

世界には、様々な宗教があり、様々な民族があり、当然のことながら様々な考え方、価値観がある。そような世界では、自分の「正義」が必ずしも他人にも通用するとは限らない・・・・・。自分にとっての「匂い」も他人には時には「臭い」となる。このことは肝に銘じておかねばならない・・・・。

 昨日で仕事も終わり、不条理な事件や暗い出来事に終始したこの1年が終わろうとしている。あまり天気がいいので外を歩いてみた。葉を落としてしまった桜の木の枝先ではもう来年に向けて新芽が育っていた。私達の世界でも来年の開花に向けて新しい萌芽が育っているのであろうか・・・・・・。


39.今年最後の愚痴

 早いもので、2001年も師走となり次の年に変わろうとしている。テレビや雑誌で年末スペシャルと称して「1年の重大ニュース」が振り返られる時期である。

 この1年を振り返ってみると、世界では、何と言っても我々をテレビの前に釘付けにしたあの米国同時多発テロとそれに対する米軍のアフガニスタン攻撃、国内では深刻なデフレに伴う大企業の倒産と失業率の増加、狂牛病騒動等々・・・・・・色々な出来事があった。輝かしい21世紀の幕開けとなるはずであった2001年、我々の心に危機感や不安を感じさせる様々な事件や問題が発生した、どちらかと言うと「灰色」の暗い1年であったように思うのは私だけであろうか。

 「灰色」と言えば、「日本」はそれよりも「我々の生活」は一体この先どうなるのであろうか・・・・・・。そう言えば、何とかそう言った現状を変えて欲しいという国民の期待を受けて華々しく登場した小泉内閣の発足から早8ケ月が経過しようとしている。私もその時は?小泉首相が何とかしてくれるのでは…・・と期待した一人である。

 就任後の彼を見ていると、思いのほか抵抗勢力の反対にも会わず、また抵抗に会っても相も変わらぬ密室協議で玉虫色の結論を出して「案ずるよりも生むがやすし」等と自画自賛しているし、はたまた「トップは方針を出したら後は知恵者に任せるものだ」といってアドヴァルーンを上げるだけで後は担当大臣や委員会に任せっぱなしといった状況である。それでも、取りあえずは何とか構造改革の「方向性」だけは打ち出すところまできた。そういった小泉首相の手法をテレビで「言い値の7がけの戦略」と評していたが上手く言ったものである。

 しかし、取りあえずは構造改革の方向性は打ち出したものの、景気が良くなる兆しは一向に見えない。良くなる兆しどころか悪くなるばかりである。今回の改革では「痛みを伴う・・・・」が連呼され、国民の痛みを伴うのが当然であるような風潮になってきている。確かに現状の政治や経済の歪を直すには思い切った構造改革が必要であり、大胆な改革には痛みを伴うのは止むを得ない。しかし、改革後のわれわれの生活がどうなるのか、その青写真を全く示さずに「痛みに耐えてくれ」と言われても「はい解りました」とは言えるものではない。一国の最高政治責任者として、国民に対して「○年後には、こういった生活を勝ち取るために、こういった痛みに耐えてくれ」とハッキリした形で明確に示すべきではないだろうか。だが、そんな小泉内閣でも支持率は依然と高い。最近では、支持率というよりも人気投票と言う気がしないでもないが・・・・・・。

 先日のテレビニュースで、青木建設の経営破綻について小泉首相が「ぼちぼち構造改革の成果が出てきた・・・」等とうそぶいていた。勿論不良債権を抱え込んだ企業の責任は大であるが、その陰でリストラに怯える数千人の社員がいることをどう思っているのか。総理たるもの、自分の政策に対する自画自賛もいいが時と場合を考えて発言して欲しいものである。

 しかし現実問題として、生活に困っていない政治家に国民の痛みなんて分からないであろうし、それを期待するほうが甘いというものかもしれない。そんな政治家に舵取りを任せざるを得ないとは・・・・・と改めて思い知らされた発言ではあった。

 今年最後の雑文も愚痴っぽくなってしまったが、来年こそは、せめて回復の兆しだけでも見せて欲しいものである。



38.私の展覧会の見方
 先月、奈良県立美術館で「印象派の父 マネ展」を鑑賞した。「笛を吹く少年」を見ておきたかったのである。ゆっくり鑑賞したいと思い平日に訪れたにもかかわらず、会場は主婦や学生で思いの他一杯であった。そう言えば、最近ゆったりと鑑賞した美術展などお目にかかったことがない・・・・・。

 最近「絵画鑑賞」が静かなブームとなっている。特に、日本人は「印象派」贔屓で、モネ、ルノワール、セザンヌ等「印象派」の「名画」が展示される展覧会は人が一杯でゆっくり鑑賞などできたものではない。そういう私も印象派は好きである。他の時代に比べ、風景画が多いからであろうか?何故か印象派の絵には心惹かれ、かつ見て心が和み落ちつく。私も平均的な日本人ということであろうか。どういう訳か、物心付いた時には「相撲は大鵬、野球は巨人・・・・」。平均的な日本人になっていた。これは、好き嫌いの問題であり、自分自身では如何ともしがたい。

 所謂「名画」というのは、後生の美術史家が勝手に決めただけ(本当にそうか?)で、本来、芸術というのは、いいかどうかはそれを見た人が判断すべきものではないか・・・・・と思う。ルネッサンスが好きな人もいれば印象派が好きな人もいる、写実的な絵が好きな人もいれば抽象的な絵が好きな人もいる。これは、見る人の好き嫌いつまり「感性」の問題である…・・などと言いながら、私自身、有名な「名画」が来日すると、野次馬根性丸出しで見に行ってしまう。

 さて、この雑文のタイトルである本論の「展覧会の見方」である。
 見方といっても「作品の鑑賞方法」と「会場の回り方」の二つがある。

 先ず前者の鑑賞方法についてである。私は常々思うのだが、例えば「睡蓮」でも「積みわら」でもいいが、全く同じ絵をモネ以外の現代の無名画家が描いたら、それは「名画」として評価されるだろうか。私たちはその絵を見に行くであろうか。やはりモネが描いたからこそ「名画」なのであり、私たちも入場券を払って見に行くのである。守旧的であり古典的技法が主流であった当時のサロンにおいて、「印象派技法」という新しい技法に挑戦したからこそモネは評価された(当初は評価されるどころか批評家から罵倒された)のであり、その背景があるからこそ、モネの絵は「名画」なのである。モネだけでなく、有名な他の画家についても、それぞれに美術史の中で彼らが果たした「役割(技法、表現方法、生き方等)」があるからこそ、彼等は評価されるのである。
 そいいう意味では、やはり絵画を鑑賞する前にその作家あるいは作品について多少の予備知識を仕入れておくべきであるし、できれば美術史等を読んで、その作家についての歴史的位置付け、作品、評価、交友関係などを調べておくべきである。そうすれば、何も知らないで、ただモネだからという理由だけで見に行って「わぁ綺麗っ!」「この絵好きぃ!」で終わるのと違い、
本当の意味での「鑑賞」ができると・・・・と思うのである。人により、いろんな鑑賞方法があるのでこうでないとイケナイとは言わないが、少なくとも「名画」に向かう時は、目だけではなく「心」でも感じて欲しい・・・と思うのである。

 次に「会場の回り方」である。大概の展覧会では、70〜100点の作品が展示される。それらの作品を一つ一つ時間を掛けてゆっくりと鑑賞していたら、時間が何時間あっても足りないし、まず人混みに揉まれて見終わった後でドッと疲れが出てしまう。特に、名画の前では人の流れが止まってしまい全然進まないことも度々である。こんなことでは、見た後で結局どれも印象に残らずじまいということになってしまう。

 私は、先ず、一つづつの作品に20〜30秒掛けてとりあえず最後まで見てまわる。幸い私は長身なので、壁に懸けた絵ならどんなに混んでいても列の後ろから十分鑑賞できる。長身に生まれて良かったと思うのはこの時だけである(関係ない!)。そして、一巡した後で、気に入った印象に残った作品5〜6点を、再びしかも今度は時間を掛けてじっくりと見直す。そうすれば、疲れることもないし、その5〜6点だけでも深く印象に止めることができる。大概の展覧会では、所謂目玉となる「名画」「名作」は10点以内であり、この方法で十分堪能できる。そして最後に出口付近にある特設売場で作品集を買って帰り、家に帰ってから、実物を思い浮かべながらゆっくりと、反芻しながら作品集をながめる。

 これが、私の展覧会の「見方」であるが、皆さんにもお薦めする。
(そんなこといちいち言われなくてもとっくにしているゾ!そうですか?)。
 



37.「共生」ということについて

 自然界には「共生」という関係が存在する。カバとある種の鳥、イソギンチャクとクマノミ、タナゴ(魚)とカラス貝等の関係がこれにあたる。例えば、カバは体にたかる虫を鳥に捕ってもらい、その代わりに鳥はその虫を食料として貰うと同時に外敵からの安全を守ってもらう・・・このように、どちらか一方が相手に依存するのではなく、お互いが相互に役に立っている関係である。もっと大きな観点でみれば、自然界全体が生物と生物の共生関係によって成り立っているとも言える(ふむ、専門的!)。

 自然界だけかと思っていたら、政治の世界にもこの「共生」関係は存在している。所謂「族議員」と「関係業界」の関係、「自民党」と「公明党」、「保守党」の関係等がまさにこれである。族議員は関係業界の利益を守る、その代わり(見返りと言った方が正しいか?)に「票」を確保できる。自民党は公明党、保守党と連立を組むことによって過半数を確保できる、その代わりに保守党、公明党は野党の立場から脱却して、積年の夢であった「政権」の一翼を担うことが出来る。まさに、お互いの利益を共存させるための「共生」関係である。

 しかし、政治の世界には、自然界にも存在するもう一つの「関係」が存在する。「寄生」という関係である。寄生というと、サナダムシ等人体に棲みつく「寄生虫」を思い浮かべるが、あまりにもグロテスクなので、もう少しましな「蔓植物」に例えて説明することにする。蔓は宿主となる木に巻き付いて、しかもその木から栄養を貰って(と言うより奪って)大きくなる。しかもこの関係では、寄生植物が宿主の栄養を吸い尽くして、最後には宿主が枯れ朽ちてしまうこともある。これは、まさに一方的な依存関係である。このような関係は、政治の世界では、「利権」に群がる議員先生の関係あるいは構図といえる。新たな利権が発生すると、必ずそこには「先生」の名前が見え隠れしている。そして、その利権から「金」という栄養を吸い取り、腹(私腹)を肥やすのである。そして、栄養を吸い取ることに夢中になるあまり、手を後ろに回されてしまう破目になるのである。

 現在、小泉内閣のもと特殊法人改革が「検討」されている。全ての特殊法人を廃止・分割・統合・民営化の方向で見直そうというのである。敢えて「検討」と書いたが上記のような「共生」「寄生」の温床となっている特殊法人の見直しを、張本人達の論議でどこまで進めることができるのか疑問だからだ。やはり最近になって所謂族議員の反対意見や反発が目立ち始めた。小泉内閣いや今や小泉首相の手腕の見せどころである。今回ばかりは、国民の期待を裏切らないためにも、いつものように玉虫色の結論で終わらせることのないよう不退転の覚悟で望んで欲しいものである。。少なくとも「まだ一部の政治家には期待が持てるぞ・・・」と思える結論を出して欲しいものである。

 しかし政治の世界にも、「共生」「寄生」といった自然の「掟」「法則」が通用するとは・・・・・自然は偉大である。


36.酒の場の教訓
 酒の肴は、何と言っても「人の陰口」と「下ネタ」に限る。酒の場はこれらがないとどうも盛り上がりに欠ける。特にメンバー共通の陰口の対象がいる場合はそれだけで場が多いに盛り上がり、他に肴はいらないくらいである。

 酒の席で人の陰口を言うことは多少の「後ろめたさ」「罪悪感」を感じるが、それも酒の席ならある程度許されるという安心感があるし、陰口を共有することによる連帯感を得ることもできる。(他の方法では得られないのか・・・・?)しかし、これも飲む相手を見極めないと後で大変なことになる。特に上司の陰口をいう場合は、心して掛からねばならない。一生を棒に降ることにもなりかねない。

そこで、酒の場で人の陰口を言う場合の注意事項というか教訓をまとめて見た。

1) 絶対に自ら率先して言わない。人が言った後で、必ず「君もそう思うだろう・・・・」という言葉に続けて発言する。決して主導権は握らないように。

2) 自ら率先して発言したい場合は、皆も同調してくれるという確信を得てから発言する。この判断を誤るととんだ目に会う事がある。

3) 先程も言ったが、飲む仲間を見極めて発言する。特に陰口の対象と親しいと思われるメンバーがいる場合は決して言ってはならない。本人に直接話すのと同じことである。

4) ある程度の覚悟をしたうえで発言する必要がある。親しいメンバーだと思って安心してはならない。「ここだけの話し・・・」と断わってもその効果を期待してはならない。人の口なんて思うほど固くはない。いかなる場合も安心は命取りである。

5) 飲むたびに人の陰口をいうことは避ける。いつも言っていると「それだけの人間か」と思われてしまう。時には政治経済等について高尚な話もして見せる必要がある。

 以上、酒の場で人の陰口をいう場合はこの教訓を肝に命じてから実践すべきである。酒は楽しく飲むもの。そのためには、楽しく人の陰口を言い合い、場合によってはコケにし、愉快に盛り上がり・・・・・・。しかし、酒は破目を外さないようにほどほどにすべきである。
酒はほろ酔いが一番である。

注)ここに記した教訓を守ったにもかかわらず、内容が上司に漏れてしまい左遷させられたといった場合についても、筆者は一切感知しないし責任をとらない。

後記)酒の場の教訓と言う事で多少面白可笑しく書いたが、私が何時も酒の席で人の陰口ばかり言っている訳ではない。誤解の無いように・・・・(~_~;)



35.手巻き時計

 最近の腕時計は便利になって「ネジを巻く」必要がなくなったが、昔の腕時計は、いわゆる「手巻き時計」というものであった。私が中学へ入学する時に、父に始めて買って貰った腕時計は、腕に付けて動いていれば自動的にゼンマイが巻ける「自動巻」であったが、父は「手巻き時計」を愛用していた。手巻き時計に「こだわり」を持っていたのか、毎朝日課のようにネジを巻いていたもので、そんな父の姿に、妙に大人の気配を感じたものだ。

 誰だったかのエッセイに、人生をこの「手巻き時計」に例えたくだりがあった。確か、人生も「手巻き時計」のようにネジを巻いたり弛めたりの繰り返しであるが、巻き過ぎたら切れてしまうし、弛め過ぎたら止まってしまう・・・・・といような内容だったと記憶している。

 特に我等サラリーマンは、会社へ行けば、好むと好まざるとに拘わらず、仕事の納期や上下の人間関係、あるいは社外の顧客との対応等様々な緊張を強いられる。責任あるポジションともなればなお更ストレスも貯まる。先程の「手巻き時計」に例えればゼンマイがぴんと張りっ放しの状態である。緊張した状態が長く続くと、「心のゼンマイ」がプッツンと切れてしまい、切れてしまったら「修理」に出さねばならない。特に我ら凡人の「精神」なんて「鋼」のようには強くはない。だから「心ゼンマイ」が切れてしまわないうちに、弛める必要があるのである。そういう訳で、「心のゼンマイ」を休ませる休日を如何に過ごすかが重要なテーマ(大層な!)となってくる。

 休日の過ごし方にも色々ある。1日中、テレビを見たり居眠りしたりしながら、ゴロッと寝転がって過ごす方法、普段はなかなか時間が取れない読書に集中する方法、ゴルフをしたり、絵を描いたり、植木を弄ったりして趣味に過ごす方法…・人それぞれに、色々な過ごし方がある。しかし、私の経験からすると、「1日中ゴロッと…・・」というのは、一見効果がありそうで意外とダメである。ゼンマイが弛みすぎてしまうのである。弛みすぎると休日明けの月曜日がこれまた体がだるくて辛い。いわゆる「ブルーマンデイ」である。

 やはり、休日にも適度な緊張が必要である。そうかといって、仕事を持ち帰るのは論外である。それでは気分転換にならない。仕事の緊張とは異なる、「安らかな」あるいは「穏やかな」緊張(そんなのあるか?)が必要なのである。要は、仕事以外の趣味でも何でもいいから、何かに没頭することによって、先ず気分転換つまり気持ちの切り替えを図ることが大事なのである。更に適度に考え事をしたりして頭を使うことによって、適度な緊張感を持続させることである。そうすれば、スムーズに、気分良く月曜日を迎えることが出来るのである・・・・・・等と言いながら、月曜日の午前中に一生懸命ゼンマイを巻いている私ではあるが・・・・・。

人生張り詰め過ぎず弛め過ぎず
、「手巻き時計」のように生きたいものである。



34.「癒し」について

 最近「癒し」という言葉をよく耳にする。「癒し」の本も出ている。「お香」や「ポプリ」の香りを楽しむのも「癒し」の一つであろう。「ハーブ茶」を楽しむのもそうであろう。最近これだけ「癒し」が注目を浴びているのは、我々が住む「現代」がそれだけ荒廃して人の身も心も疲れ切っているからだろうか。

 私も時々お香を「聞く」(お香は嗅ぐのではなく聞くらしい)。お香の香りを聞いていると確かに気持ちが落ち着いてくるし気分もゆったりとしてくる。しかし私の場合は、どちらかと言うとお香の薫りを楽しむというより、お香を聞く時間を持つということによって、気持ちを切り替えているようなところがある。いわば、お香を聞くのが「目的」ではなく気分転換の「手段」なのである。

 「癒し」で思い出したが、10年程前に「1/f のゆらぎ」という言葉が流行った。何処だったかのメーカーの扇風機が「1/f のゆらぎの風」を謳い文句にしていた。確か「1/f」というのは、小川のせせらぎとか、微風とか、蝋燭の炎とかのように規則性と不規則性が上手い具合に調和している状態を現す「学術用語?」で、この状態を人間が快適に感じるらしい。人間の体のリズム(心拍?)も「1/f のゆらぎ」ということなのであろう。どうもこの辺りが、「癒しブーム」の「走り」なのであろうか。とすれば、「癒し」というのは「1/f のゆらぎ」と同じように、音楽、香り、匂いあるいは読書でもそうだが、自分のリズムや感性に合った外的な刺激により、自分の精神状態がリラックスさせること・・・・・・と言えるであろうか。

 音楽の世界も今や「癒やし」ブームであり、レコード屋(最近はCD屋?年が分かる)に行っても、癒やし系のCDが沢山並んでいる。多分、大勢の人がそれらのCDを買っていくのであろう。私は今までこの手のCDは買ったことはなかったが、最近の売れ筋コーナーに置かれていた「the most relaxingfeel」というCDを買ってみた。別に流行に遅れまいと思った訳ではないが、ただ何気なく買ってしまったという感じだ。

 家に帰って、裏面の解説をじっくり見てみると、テレビのドキュメンタリー番組のテーマ曲が多い。聴いたことのある曲も何曲か入っている。
       「世紀を越えて」:NHKスペシャル「世紀を越えて」のテーマ曲
       「神々の詩」:TBSドキュメント「神々の詩」テーマ曲
       「運命と絆」:NHKスペシャル「家族の肖像」テーマ曲
       等々


 私は、本来「音楽」は、JazzやBluesを何もしないでじっくり「聞き込む」のをよしとしていた。というよりも学生時代に、とても本など読めそうもない薄暗いJAZZ喫茶で黙々と音楽に聞入っていたスタイルが染込んでしまったのか。そういえば学生の時に、音楽を聴きながら本を読んだり勉強したりする友人がおり、私も何度か試みたがどうしても音楽の方へ気が行ってしまい、本の内容は全く頭に入らなかった。聖徳太子は7人の話を同時に聞いたという逸話が残っているが、私は二つでこの調子だ。淋しいがやはり凡人ということか。

 今回のこの「癒し」のCDは初めて買ったジャンルにしては結構気に入っている。いずれも真剣に聞入るという曲でなく、穏やかでゆったりとしたメロディーの曲がほとんどである。確かに聴いていて不思議と気持ちが落ちついてくるのである。

 ちなみにパソコンで作業をしながら聴いてみた。キータッチも軽やかになり、作業の効率もぐっと良くなったような気がする。
 前述したCDには番組のテーマ曲が沢山入っていたが、テーマ曲は番組の途中でもバックに流されることを考えると、やはり「癒し」にむいた曲は基本的にはBGMにむいた曲なのであろうか。

 しかしよく考えて見ると、パソコンに向かって夢中に作業をしながら音楽を聴いて「癒し」になっているのだろうか。



33.女性は非論理的?

 先日ある高名な経済評論家の講演を聞く機会があった。その中でこんな話題があった。

 「ルイヴィトンのバッグの購入者は、日本国内だけでなく香港等海外での購入も含めると約6割が日本人である」というのである。6割?本当か?と思ったが、日本での異常と言えるほどのブランド指向、流行を考えると「さもありなん」と頷ける。

 流行と言えば思い出すのが、先ず「ミニスカート」そして「パンタロン」「ロングスカート」もっと前では「ダッコチャン」(古いっ!)というのもあった。最近では「ルーズソックス」「ガングロ」更にあたらしいものでは「ミュール」……・・。

 しかも、どれを見てもまさに「一世を風靡した」というか「猫も杓子も」というか、何れも男性から見ればここまで一様に同じファッション、流行を追い求める女性というのは一体どんな生物(失礼っ!)なのか・・・・と不思議に思わせるほど大流行であった。(注:ミニスカートのように不思議なだけでなく男性の目を楽しませてくれたものもあった)

 女性は何故こうして流行に溺れやすいのか?私は考えてみた。貴重な時間を割いてこのテーマを分析してみた。そして得た結論は「女性は論理的な思考は苦手である」ということである。最近テレビでご活躍の田島陽子先生がなんと言おうとこれは間違いない。

 男性なら先ず考える。「このファッションは自分に合うだろうか」、ミニスカートの場合だと「私みたいな太い脚をしてるのにミニスカートを着るなんて無様ではないだろうか。しかも太股までさらけ出すなんて無謀というものではないだろうか」・・・・・・・この時点で、日本人の場合、本来なら半数はミニスカートを断念する。いやしなければならない。更に男性なら考える。「こんなに多くの人がミニスカートを履いていたら個性がないと思われないだろうか」「これはメーカーの陰謀ではないのか」・・・・・・等々。つまり、男性が得意とする論理的思考を以てすれば、猫も杓子もという流行はあり得ないのである。

 「女性が論理的思考ができないなんて馬鹿にしないでよ!」という女性がいるであろう。しかしよく考えて欲しい。自分の生活を振り返ってみて欲しい。論理的な女性が、毎朝20分も30分も掛けて化粧をするだろうか。「もしかして化粧をすれば私も…・・」という根拠のない理論で、膨大な時間膨大な金を掛けている女性が果たして論理的と言えるであろうか。

 とは言うものの「だから女性って可愛いんだよネ…・」と思うのが「論理的?」な男性なのである。



32.感謝の気持ち

 私は仕事の関係で時々天理市を訪れる。天理市はご存じの通り天理教の町で、日本で初めて宗教の名前を冠した市でもある。

 先日天理の町を歩いていたら、お昼を少し過ぎた頃何処からともなく音楽が聞こえてきた。「君が代」に似たどこかおごそかな旋律であった。私はその後の光景を見て驚いてしまった。音楽が鳴り始まると、道を歩いている天理教の信者(通常天理教の半纏を着ているのでそれと分かる)の人たちが道端に立ち止まり手を合わせてお祈りを始めたのである。自転車に乗っていた帰宅途中の中学生の一団までもが自転車を降りて同じようにお祈りを始めたのである。見渡すと街角のあちこちで人々が手を合わせてお祈りしているのである。天理市へはもう何回も訪れているが、こんな光景に出くわしたのは初めてであり、無宗教である私はこの光景に一種異様なものを感じたと同時に、何かハッとさせられた一瞬でもあった。

 私はあまり宗教には詳しくはないが、手を合わせた時彼らは多分「教祖の施し」にあるいは毎日大きな出来事もなく無事に過ごせていることに対して感謝していたのであろう。私にはそう思えた。

 私達は毎日美味しいものを食べ、小ぎれいな服を着て、会社へ行き、好きな本を読み、音楽を聴いたりして暮らしている。しかし、よく考えてみると日々何かに対して「ありがたい」と感じているであろうか。一週間いや一月に何度感じているであろうか。恥ずかしながら自分自身この一週間を振り返ってみても「感謝の念」を感じたことは一度もない。当たり前のように妻が作った食事を食べ、当たり前のように電車に乗り、当たり前のように仕事をして給料を貰い、当たり前のように飲んでいる。何もかもが当然であるかのように平和な日々を過ごしている。

 妻には給料を渡しているのだから食事を作ってもらうのは当然だし、仕事をしているのだから給料を貰うのも当然である(労働と給料が等価かどうかはここでは別問題としておく)。それ相当の対価(労働)を提供しているのだからその見返りを受けるのは当然のことである。まさに合理的な「give and take」の思考である。でもそれだけであろうかと思う。それだけでいいのだろうか…・と思う。

 子供の頃、ご飯を残すと「お百姓さんが汗水たらして作ってくれたのに残しては申し訳ない」といって両親にたしなめられた。ご飯茶碗に米粒が一粒残っていても注意されたものだ。私と同世代の人々はほとんどが同じ経験をしているであろう。このように昔は人々の心の片隅に物事に対する感謝の気持ちがあった。何かあると「ありがたい。ありがたい」と言っていた母親を子供心に不思議に思ったものだ。食事で思い出したが、そう言えば我が家でも「いただきます」「ごちそうさま」の言葉を聞かなくなった………。

 私達の生活からどうも感謝の言葉が消えつつある。言葉だけならまだしも感謝の気持ちが消えつつあると思うのは私だけだろうか。昭和の世の中にあった「仁」「義」「礼」「節」「忠」「孝」等の言葉は時代の移り変わりとともにどこかへ消え去ってしまったのか。

 今朝、いつも行く喫茶店でコーヒーを運んできた女の子に「ありがとう」と言ったら素敵な笑顔を返してくれた。 



31.再びダイエットについて

 ダイエットはこのエッセイでは二度目のテーマ(*)、再登場である。

 映画ならリバイバルは名作と決まっているが、エッセイの場合は、必ずしもそうではない。どちらかというと、前回の続きあるいは言い忘れというケースがほとんどである。

 私は現在、ビール酵母でダイエット中である。ここまでは前回書いた。聞くところによると、このビール酵母があちこちの店で品切れになっているらしい。

 私は、ヨーグルトにビール酵母を混ぜて(他の方法があるのか素人の私は知らない)、朝食に食べているのだが、これがまた不味いの何のって・・・・。正確に言えば、美味くもなく不味くもないのだが・・・・・何とも言えず「不気味な味」なのである。例えれば,黄な粉をヨーグルトに混ぜた味を想像されたい。目の前にそんな物を出されて、一大決心無くして口に出来る人が果たしているであろうか。私は、それを毎朝続けているのである。時には、目に涙を浮かべて「オエーッ!」っと言いながら・・・・。

 今からビール酵母ダイエットを始めようという人がいたら、この場を借りて忠告したい。「止しなさい!他の方法を探しなさい!ビールはやはり飲んで楽しむものです・・・」

 ダイエットといえば、直ぐに効果が出る人とそうでない人がいる。私はどうも後者らしい。この数ケ月間、朝はビール酵母入りヨーグルト、昼はコンビニのおにぎり2つ、夜は缶ビール一本とおかずのみという、まるで修行僧のような食生活に耐えぬき、時には立ち眩みをも辛抱しながらやっとのことで2キロ減。女子マラソンの有森裕子ではないが我ながら「自分を褒めてやりたい」の心境である・・・・・と言いたいところだが、まだまだ目標の半分である。しかし、こんな食生活で果たして体が持つであろうか・・・・?

 ダイエットといえば思い出すのが友人のK君である。彼と一緒に昼食を食べに行った時のことである。食事を終えて店を出てから「さあ、次行こか」と言うので、当然喫茶店へ行ってコーヒーでも飲むのかと思いきや、何と彼は、再び別の店へ入ろうとするではないか。私は、呆気に取られたものの何とか断ったのだが、後で聞いたら、前の店で食べた定食(うどんと少し小さめの丼のセット)の丼が物足りなかったらしい。そんな彼でもガッシリはしていたが、決して肥満ではなかった。どんな内臓をしているのか・・・?そんな羨ましい人間もいるのである。

 最近、そんなに外では飲まない私が、何回か連続して飲む日が続いた。飲めば食べるし、話しが弾めば酒量も増える・・・・。という訳でここ数ケ月間の涙の苦労の成果も元の木阿弥。情けなくて、涙もでない・・・・。

さぁ、再度挑戦してみるか・・・・・・・!

(*:NO.12「心のダイエット」)