20 鳥肌?

 最近の若い人の会話を聞いていると、その言葉使いに「ん?」と思うことがよくある。
その代表例が「鳥肌が立つ」という言葉である。どうも「鳥肌が立つ」と言う言葉の意味をはき違えているような気がする。

 テレビ等でも、若い人たち、特に女性がよくこの言葉を使っているが、よく聞いてみると、どうも物事に感動した時に、その気持ちを表す言葉として使っているようである。例えば○○というグループのコンサートを見に(聴きに?)行って「鳥肌が立つほど感動したワ〜!」等という具合である。

 本来は、「鳥肌が立つ」というのは、酷い寒さに震えるような時、あるいは余程恐ろしい体験をしたり怖いものを見たりした時に、肌寒く感じて「ゾ〜」とする生理現象を表わす言葉である。まさに言葉の通り鶏の羽をむしった後の皮膚のように、毛穴(ブツブツ)が立つ生理現象のことである。私なども子供の時、テレビや映画で「怪談」を見た時にそういう経験をしたことがあるし、最近ではテレビでよく放映している「心霊現象」を見たときに思わずゾ〜ッとして「鳥肌が立つ」ことがある。

 ちなみに、我が娘にもこのことを確かめてみた。 やはり(?)娘も「最近の若い子」である。
「…・・だけど感動した時に本当に鳥肌が立つンだもん…・・」
う〜〜んっ!と思いつつ、常日頃から理解ある父親を自称している「私」としては、我が娘の言うことを信じない訳にはいかなかった。

 世の中、時代の変遷とともに「考え方」「感じ方」が変わってきたのと同じように、人体の造りや仕組み、生理現象も変わって来たのかもしれない・・・・。若い人達のことを「新人類」と言うが、彼等と我等旧人類の間には、人類学的にも顕著な生理現象の隔たりが、知らぬ間に生じているのかも知れない・・・・。

「国語辞典」も一度見直す時期が来たのかも知れない?

・・・と、本来ならここで筆を置く予定であった。
しかし、筆を置かずによかった。もう少しで恥ずかしい思いをするところであった。

 中学時代から大事に使っていた金田一京助編集の「明解国語辞典」(三省堂)が古くなった(実は辞書も古くなったが、それよりも老眼が進み小さい字が見えなくなったというのがより事実に近い・・・・)ので、つい先週新しい辞典に買い換えたばかりなのだが、そこには

「鳥肌が立つ」
  寒さや恐怖・精神的ショックなどの強い刺激で皮膚が鳥肌のようになる現象。近年、「鳥肌が立つほどの名演」など、強い感動を覚える際にも使う。

と書いてあった。

 昔は辞典は「一生物」だから高くても良い物を買え・・・などと言ったが、辞典も数年おきに買い換える時代が到来したのだろうか・・・・・?
  

[*集英社「国語辞典第二版」]



19 良識も時には負ける?

朝、コーヒーが飲みたくなり、出社前に行きつけの喫茶店へ立ち寄った。

 新聞を読もうと新聞立てを見たが、今日は新聞が一つも残っていない。
見ると、一人の男性がテーブルの上に何冊も新聞を積み上げて、その内の一誌を読んでいる。手持ち無沙汰な私は、そのテーブルへ近づき、丁重に「一ついいですか」と新聞に手を掛けたが、その男から「読んでいるんです」と予想外の返事が返ってきた。
当然「どうぞ」という返事が返ってくるものと期待(?)していた私は、一瞬、この男の毅然とした返事に躊躇したが、そんな感情は表には出さず、それで引き下がれば男が廃るとばかりに、再度「読んでないではないですか」と更に追い打ちを掛けたが、この男、今度は「こいつ何を言っているのか」と言わんばかりに、私を横目で見上げて「今から読むんですヨ」との返事。私も負けじと男を睨み付けたが、朝から、こんなことで言い争っても気分が悪い。煮えくり立つ感情を抑えて諦めたのであった。

 「良識ない者に良識は通用しない」「正義も時には悪に負ける」という人生の一面の真理を再認識した一瞬であった。(何をそんなに大層な…・と思われるかもしれないが、こうでも思わないと腹の虫が収まらない!)

 「良識」といえば、最近の小泉内閣の人気も「良識」の範疇を越えているような気がしてきた。支持率80%以上が続き、国会中継の視聴率がプロ野球の巨人戦を上回り、1枚50円の小泉首相のポスターを買わんと女子高生が列をつくり、小泉内閣を批判すれば世間から袋叩きに合い……・正に、異常とも言える「小泉人気」が世間を席巻している。当のご本人もこの事態の推移には、内心戸惑っているのではないだろうか。

 当初は、小泉内閣の誕生に期待していた国民も、ぼちぼち「何か変だぞ。何も実績がないのにこの異常人気はおかしいぞ。本当に期待してもいいんだろうか・・・」と気づき始めてもいい頃ではないだろうか。

 私も小泉内閣に期待している国民の一人であり、かつ「良識」ある庶民を自負している者でもあるが、最近の小泉内閣の異常人気には多少の懸念を感じざるを得ない。

「政治は人気商売ではない」のである。
この人気が落ちない内に、一刻も早く具体的な成果を見せて欲しいものである。
小泉さん、お願いしますヨ!!


18 切れやすい若者

 最近の若い人の会話を聞いていると「ムカつく」「切れる」という言葉をよく耳にする。「ムカつく」というのは、このコセコセした世の中で多少の腹立ちはや無を得ないことでもある。しかし「切れる」という言葉は何処か怖い。以前は「プッツン」という言葉が流行り有名女優にも「プッツン女優」と評される女優もいたが、これはまだ愛嬌があり許容の範疇にある。しかし「切れる」という言葉の背後には何か暴力的あるいは攻撃的ななニュアンスを感じる。最近若者の凶悪犯罪が新聞記事を賑わすことが多くなったが、根底にはこの「切れる=アウト・オブ・セルフコントロール」があるように思うのは、私だけであろうか。

 私達が若い時、といっても子供時代のことであるが、学校から帰るとカバンを放り出して直ぐに外へ遊びにでた。近所の広場であったり、道路であったり、稲を刈り取った後の田圃であったり、また、山や川や海であった。当時は何処にでも遊び場があった。またそこには、上は中学上級生から下は小学下級生にいたる「縦の遊び仲間」があり、「缶蹴り」をしたり「チャンバラ」をしたり「相撲」をしたり、また山や海へ冒険にも行ったりした。そしてその仲間には必ず、腕白で頼りがいのある年長者(大将)がいてみんなを仕切っていた。遊びにもそれぞれルールがあり、それを破ると、大将に怒鳴りつけられたり、投げ飛ばされたりした。仲間はずれにされるのが怖くて、しぶしぶ従ったものだ。そうして「遊び仲間」の中で揉まれることを通じて、子供なりに、団体行動にはルールがあること、我慢も必要な事、目上の人を立てること・・・というようなことを、無意識のうちに身に付けてきたように思う。

 ところが最近の子供達は、どうもこういった経験をする機会がほとんど無いのではないか。学校から帰れば自分の部屋でファミコンをしたり、外へ出て遊ぶと言っても、結局は友達の家へ行って、気の合った2〜3人の友達と、これもテレビゲームをしたり駄弁ったりで、昔(?)のように、上下の人間関係の間で「揉まれる」ことが無くなっているように思う。このような人間関係での「切磋琢磨」無しに、親から好きなものを与えられ、チヤホヤされながら、そのまま大人になっているように思うのである。

 最近「教育改革」の必要性が叫ばれている。教育の中で奉仕活動を経験させたり、個性を伸ばす教育システムを導入したり、教師の努力が報われ評価される制度つくったり・・・・・といったことが検討されているようだが、それはそれで改革すればいいだろう。しかし、それだけでいいのだろうか?それだけで立派な人間に育つのであろうか。

 無責任かもしれないが、私にはその答えは解らない。しかし、「教育改革」だけでは無いような気がしてならないのだが・・・・。


17 感性少なき者は・・・・
「陽を浴びて ちから一杯ペダル踏む 新しき靴眩しくひかる」

 これは、私が中学二年生の時に作った「短歌」である。国語の授業の宿題で作ったものである。短歌を二題作るという宿題だったが、もう一つの歌は覚えていない。何故、35年以上も前に作ったこの歌だけを覚えているのかというと、次のような事情である。

 授業の中で、宿題で作ってきた短歌を全員が披露し「これが一番!」という歌を全員の挙手で決めたのである。当然(?)のことながら、私のこの歌は選から漏れてしまった。ところが、田中先生(今でも覚えている。こわい顔をした厳とした感じの年配の女先生であった)が、全体を総括して、「先生は、○○君(私の事)のこの歌が一番いいと思います。新入生が元気一杯自転車をこいでいる。その新しい運動靴が朝陽に輝いて目に焼きついたその感じがよく出ているワ。すごく印象的な歌だと思います」というような事を仰って、光栄にもこの私の歌を一番に選んで下さったのだ。

 本来なら、先生に「一番」に選んで貰ったのだから嬉しい筈である。「やったア!」と心から喜べばいいのである。ところが、私の小さな心は、嬉しさどころか「後ろめたさ」で一杯であった。というのも、実はこの歌は、実際にそのような光景を目にして感動のあまり作ったものではなく、宿題の納期に追われた挙句、たまたま目の前にあった、自転車の広告、所謂新聞広告の写真を見て、ありもしない「感性」を総動員させて作った「苦心の作」だったのである。

 中学二年生の純粋な心を持つ(今も持っているぞ!)私は、その製作プロセスに「後ろめたさ」を感じ、誉められたことに「気まずさ」を感じたのである。

 現在、私は水彩画を描いている。主に風景である。そしてこの歳になった今も絵で「同じようなこと」をやっている。特に着色段階で、悩んだあげく、色々な教則本の気に入った作品を思い浮かべ、この景色はこの色を使った方がいい感じが出るんではないか.....等ということを、時々やっている。

 特に「緑」の処理が難しい。実際の山や木立は青々として実に素晴らしい。一本一本の木が各々の緑を輝かせている。しかし、その緑も実際描いてみると、緑色一色になって、何とも「のっぺり」した(こんな表現あったかな?)平坦な緑になってしまう。そこで、緑色に様々な色を混色してみる。やっとそれで一応絵の体裁は整うのだが、実際とは似ても似つかぬ・・・とまではいかなくても、現実の色合いとは多少(ここが大事!)異なる色となってしまう。最後は、かつての「印象派」の画家達も似たようなことをしていたではないか…・と自らを納得させる。そして、多少の「後ろめたさ」を感じながらホームページにアップしている。

よく考えてみると、やっていることが、中学の時から全然進歩していない(?)。

感性少なき者は、こうして常に「後ろめたさ」を感じながら生きているのである.....。


16 10年後の日記

最近、NHKのテレビドラマで「定年ゴジラ」というドラマを放送していた。60歳で銀行を定年退職した男が如何に定年後の生活を立ち上げていくか。家族や同じ団地に住む定年の先輩(?)達と繰広げる人間模様が多少コミカルに描かれていた。10年後に定年を控えている私にとっては、他人事とは思えないテーマであり興味深く視聴した。
それだけでは治まらず、10年後の私あるいは私達夫婦は、一体どのような生活を送っているのだろうか.....ということが非常に気になり,多少の希望的想像を込めて日記の形で綴ってみた。
以下「10年後の日記」


2011年5月25日(月)

今日は天気がいいので、女房と二人で奈良公園へスケッチに出かける。以前「絵手紙」で花や野菜やらを描いていた女房が、最近、私に触発されて水彩スケッチを始めたのだ。お陰でこうして二人でスケッチに出かけることが出来るようになった。嬉しいことである。月曜日ということもあって、奈良公園は思いの外人出も少ない。やはり観光地はゆったりと過ごすには平日に限る。

鶯池の畔に二人で腰掛けてスケッチブックを広げた。私は以前にも描いたことがある浮見堂を、女房は池に浮かぶボートを描いた。天気もよく、気分も清々しい。完成後二人で互いの作品の批評会、多少意見の違いはあったが、これは感性の問題でありやむを得ない。

久しぶりに食べた「おにぎり」が実に旨かった。やはりたまには自然の中でおにぎりを頬張るのもいいものだ。さて次回はどこへ行こうかな。

2011年5月26日(火)
今日は女房は堺市に住んでいる友達と、大阪へ久しぶりのカラオケに出かけたので私一人留守番である。10年ほど前からその友人の誘いでカラオケを始めたようだが、私はまだ女房が歌う歌を聞いたことはない。まあ、聞きたいとも思わないが......。

午前中、冬の間中家の中に入れておいた欄の鉢を外へ出し、植え替えたり手入れしたりして過ごした。今年の冬も綺麗な花を咲かせて楽しませてくれるだろう。

午後は、久しぶりにのんびりと本を読んで過ごした。丸谷才一のエッセイだ。ユーモアもありとても面白いエッセイで、読んいても疲れないのがいい。それにしても彼の知識は相撲から和歌まで本当に幅広い。頭の中にどれだけの知識が詰まっているのか。

近い将来、人間の「頭」と「パソコン」をコードで繋いで「情報」のやり取りが出来るようになるのであろうか。そうなれば、先人の知識を無駄なく後世に引き継げるのに.......それよりも自分で勉強せずに「ノーベル賞受賞学者○○博士の頭脳」というCDを買えば....等とつまらないことを考える。

今日は、ゆったりとしてそれでいて充実した一日であった。

2011年5月27日(水)
神戸へ嫁いでいる娘が孫を連れて帰ってきた。前回は正月に旦那と顔を見せたきりだからほぼ半年ぶりか。旦那が出張ということで今日は泊まりだ。女房はよせばいいのに、頻りに「うまくいってるの?」とか「困ってることはないの?」とか聞いていたが、娘はよそ吹く風だ。

久しぶりに賑やかな夕食であった。やはり食事は賑やかなのがいい。私も張り切って、娘が好きだった「タラコスパゲティ」を作ったが、塩分が足りないとかなんとか言ってもう一つ評判が良くなかった。これからは自分だけで楽しむんだと心に誓う。

それにしても孫は可愛い。昔、大泉逸郎という歌手が自分の孫を歌った「孫」という歌が大ヒットしたことがあった。その時は、大の男が情けないなんて思ったものだが......。
「なんでこんなに 可愛いのかよ 孫という名の 宝物 .......」

2011年5月28日(木)
今日は週1回のスポーツジムの日だ。体力の衰えを防ぐために女房と通っているのだが、行くたびに逆に体力の衰えを痛感する。情けない。以前はベンチプレスで70kgは楽勝であったのに、最近は50kgが精一杯である。まあ、こんなものか....と一人納得する。

私がスポーツジムへ通う目的は、勿論、マシンや水泳で運動することもその一つではあるが、何といっても、その後の風呂とサウナが堪らない。こういう施設の風呂は広くてゆったりとしている。お湯も流しっぱなしでいつも綺麗なのもいい。風呂の縁に頭を乗せて身体をいっぱい伸ばして......これで窓から山や海でも眺められれば温泉気分である。サウナもいい。じっと座って、ただ汗を流す。そうしていると、体の中の「悪いもの」も汗と一緒に吐き出していくような気がする。

サウナも済んで、ロビーで女房が終わるのを待っていたら、Yさんから、今度の日曜日に山辺の道へハイキングに誘われる。Yさんとはこのスポーツジムで知り合った。3年前に銀行を定年退職され、今は悠々自適の生活を過ごしておられる。そういえば、長い間奈良に住んでいるが山辺の道は初めてだ。女房と二人で参加することにする。

2011年5月29日(金)
今日は3ケ月に1回の同期会だ。定年前からずっと続いている、気の合った同期5人の飲み会だ。定年後も最後の二人になるまで続けようということで、3ケ月に1回集まって飲んでいるのだ。毎回が楽しみである。

二人は私と同じように60歳で現役を退いたが、後の二人は嘱託で残って働いている。この二人は元気だ。やはり、仕事を離れると、自分では気づかぬ間に老け込んでいるのか。互いに近況報告し合ったが、皆それぞれに工夫して充実した老後を過ごしているようだ。

Hは定年後、実家の後を継いで兵庫県の田舎へ引きこもっているのだが、今日は奥さんと二人で出てきて、奥さんをホテルで待たせているようだ。一緒に連れてくればいいのに...と皆で冷やかす。Hと言えば、現役の時、奥さんと週1回は頑張っていると豪語していたが、流石に今は無くなってしまったと寂しそうに言っていた。現役時代から頭髪を気にしていたKとTも随分薄くなってきたようだ。とくにKなんか、すっかり禿げ上がっていたが、当時の予想ど通りの禿げ方で、それなりに様にさっている。Sだけが今も髪の毛が黒々としている。そういえば5人の中では彼が一番若かったか。

久しぶりに、飲んで騒いで、今日は疲れた。心地よい疲れだ。

2011年5月30日(土)
今日は朝から特段予定もなく、女房と二人でコーヒーを飲みながらテレビを見たり、庭の草抜きをしたリ、ホームページの更新をしたりしてのんびりと過ごした。

夕方、同じ奈良に住むMさんから電話があり「寿司でも食いにいこうか。奥さんも連れて来いよ」という。Mさんには直接仕えたことはないが、一時期同じ職場にいたこともあり、今は副社長に上り詰めている。以前から、時々こうして電話があり寿司をご馳走になったりしている。

猿沢の池の畔にあるいつもの寿司屋だ。そういえば女将も歳をとった。でも相変わらず美人だ。美人は何故か美人のまま歳をとる。Mさんは相変わらず元気だ。確か私より4つ年上だが......やはり人間刺激がなくなるとダメだ。久しぶりに最近の会社の情勢を聞く。「自由化」で大変なようだ。もう私とは関わりない世界だというものの、やはり気になる。久しぶりに食べた寿司は美味だった。近いうちにまた連れてきてネと女房に約束させられる。

帰りの道すがら、女房がぽつりと言った一言が胸に引っかかっている。
「仕事している人って、いつまでも若いわネ」

2011年5月31日(日)
今日は、先日スポーツジムで約束した、Yさんのグループに参加しての山辺の道のハイキングだ。みんな定年組の夫婦で明るく愉快な人たちであった。私もいつまでもあんなに明るく生きられるだろうか。

天理から桜井まで約6時間あるいた。天気も良く、まさにハイキング日和であった。緑が多いとあれだけ歩いても何故か疲れが残らない。途中の農家でスナップエンドウを買った。夕食に湯がいてマヨネーズをつけて食べた。昨日の寿司も美味であったが、このエンドウも旨かった。やはり野菜は取れたてがいい。

そういえば、今週は二回もおにぎりを食べた。こうして外でおにぎりを頬張れるのも元気なうちだ。


以上、10年後の一週間の日記だ。これだけ、充実した毎日を過ごすことが出来るだろうか(過ごしたい)。
何かの本に、退屈な老後を過ごさないためには「最低でも三つの趣味」が必要だと書いてあった。一人でできる趣味、夫婦二人で楽しめる趣味、それとグループに参加して楽しめる趣味。しかも定年になってから始めるのではなくて、50代になったらボチボチ準備する必要があると。
さて、ぼちぼちと考えるか。


15 いつまで続く?この不況!

 「バブル崩壊だ」「不況だ」と言われて随分と久しい。そう言えばかれこれ10年にもなるのだ。元通産省役人で作家だった某元経済企画庁長官が随分前に「・・・・不況も・・・・上向きの兆しが・・・・」なんて無責任なことを言っていたが、いっこうにに良くなる気配が見えない。特に関西では「そごう」の経営破綻をはじめ、金融機関の倒産等が相次ぎ、かの有名な御堂筋の南側(いわゆる心斎橋や難波辺り)も、今や陰では「倒産ストリート」と呼ばれているらしい。関西における景気回復の唯一の「希望の星」であった大阪へのオリンピック誘致も「絶望か?」の新聞記事。お先真っ暗である。こんな状況では、キタ新地のタクシー運転手も商売上がったりで、今では1万円を越える長距離客も週に片手の指程も無く、こういった長距離の客を「お化け」と言うらしい。「出た〜!」という訳である。

 冗談(半分本気)はさておき、嘗ての「経済大国」も今はその陰も薄い。戦後「経済立国」一本槍で邁進してきた日本、「経済」しか世界に誇れるものがない日本。その日本が「経済の冠」を失えば後に何が残るのか・・・・。

 嘗ての大航海時代に全盛を極めたイギリス、オランダ、ポルトガル等の国がその後どうなったか。最近、そんなことも頭の隅をちらっとかすめる。平家物語の一節「....盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし....」(むむ、日本よ、これでは寂し過ぎるぞ!!)

 一方、政治の世界に目を向けても、一向に将来のビジョン、この不況から脱却するマスタープランが全然見えない。「行政改革」「財政改革」「経済構造改革」「金融改革」「社会保障改革」「教育改革」…・・改革の目白押しである。こうして見ると、改革の対象になっていない分野を見つけることさえ困難ではないか。それだけ「日本の政治」「日本」そのものが「疲弊」しているということであろうか。

 そんな状況にありながら、この先、日本がどのような国を目指して、どのように進んでいくのかが全くみえない。正に「一寸先は闇」の状態である。いつリストラされるかわからない。年金もあまり当てにはできない。健康保険も自己負担が増える。こう金利が低くては退職金を銀行に預けても利子が期待できない等々、確かに先行きが暗過ぎる。

 これほど景気が上向かない理由は色々あるであろうが、その一つは、経済的にもそこそこ余裕があり、人口構成上も大きなウェイトを占めるいわゆる「団塊の世代(そう言えばこの言葉の由来も、先程の某元経済企画庁長官が書いた本のタイトルではなかったか?)」前後の人々が、将来の定年後の生活に不安を感じて、「買い控え」に走っているからではないかと思うのでる。そういう点でも一刻も早く、政府は「夢のある将来ビジョン」を明確にすべきである。それこそが、正に政治家の使命であると思うのである。今の日本政治、自民党政治を見ていると、小泉内閣こそが「改革」の最後のチャンスではなかろうか。

 私も「団塊の世代」直後の生まれであるが、一日も早く「儲かってまっか?」「さっぱりですわ」から「ぼちぼちですわ」になって欲しと思う今日この頃である。

「小泉首相!頼んまっせ!族議員なんかいてまえ!」



14 車内ポスターに異論有り

 近鉄電車の車内広告に、「フリーッパータイプの携帯電話」をチャックで閉じて開かないようにした写真に「Be quiet」という一言の標語を書いたポスターを見かけた。

 以前から、俳句や写真、絵などのイメージで「お年寄りに席を譲る」「足を組まない」「カバンを背負わない」といった電車内でのマナーをポスターで掲示しているのだが、結構面白いものもある。  

 しかし今回のこのポスターには素直に頷けないものがある。確かに電車内で大きな声で携帯電話を掛けている人を見かける。しかし、車内放送等でしつこく徹底された効果か、最近では車内で携帯電話を使う人も少なくなってきたし、使っても遠慮がちに小声で話す人が多くなってきた。また、「iモード」の普及によってメールが主流を占めてきて、電車内でモクモクと携帯電話に向かってメールを打ったり、一人ニコニコしながらメールを見ている人も増えてきた。よく見ると、これも一種異様な光景ではあるが・・・・。

 それよりも、最近(よく考えたらず〜と前から)車内でうるさいのは、携帯電話で話す人よりも、辺り構わず大きな声で話しまくっている、賑やかな「おばちゃん」連中である。特に関西では、この「おばちゃんパワー」が猛威をふるっている。一人の時は一見性情穏やか(?)かに見えるが、一旦集団を形成するやそのパワーたるや手が付けられたものではない。他人がどう思おうとお構いなしで、かえって「おばちゃん」と言われることに類希なる「誇り」を持っている。真に如何ともしがたい。

 私も、時々仕事の用事でやむを得ず車内でPHS(関係会社がPHS事業をしているので愛用しているが、特にこれで不自由なし)を使うことがあるが、今まで大きな声で喋っていたおばちゃんが、まるで犯罪者を見つけたかのようにジロっと睨んでくる。腹のなかでは「バカヤロウ!あんた等のほうがよほどうるさいではないか」と思いながら、小心者の私はそれを声に出して言うことができない。

今度
近鉄電車に、「おばちゃんの口」にチャックをしたポスターに取替えるように投書してみよ〜。



13 「感性」ということについて

 最近読んだ五木寛之の本に、フランクルという医師が強制収容所での体験をドキュメントにした「夜と霧」という本の一節を紹介したくだりがあった。

 「ナチスドイツの手によって、アウシュビッツへ送り込まれたユダヤ人。一説によると、600万人のユダヤ人がガス室で殺戮というよりむしろ「処理」されたといわれるが、そういう極限状態のなかで、最後まで、自殺したり、あるいは抵抗して射殺されたり、あるいは栄養失調で死んだりせずに生き延びた人間−地獄よりももっとひどいと思われる極限状態を生き延びたのはどういう人々か。

 それは、必ずしも、体が丈夫な人とか、強い意志をもった人とか、最後まで希望を捨てなかった人に限らなかったと言うのです。強制収容所で外へ連れ出されて、死んだ人達の死体を埋めるためにスコップで穴を掘っているとき、林の向こうに真っ赤な大きな夕日が今にも沈みそうになっているのを見て、「おーい、見ろよ。なんて素晴らしい夕日じゃないか」というようなことを言う人。あるいは、水溜りに映った風景を見て「まるでレンブラントの絵のようだ」と感動してその水溜りを覗きこむようなタイプの人が生き延びたというのだ。

 こいうことを読むと、人間に生きる力を与えてくれるのは、自分たちが日常どうでもいいことのように思っている小さな事、例えば自然に感動するとか、夕日の美しさに見とれるとか、懐かしい歌を口ずさむというような、自分たちが日常何気なく行っている、生活のアクセサリーのようなことが、意外と、実は人間を強く支えてくれることもあり得るんだといことなのです。(以上本文を引用)」

妙に納得できる文章だと思いませんか。

 誰かが唄う演歌に「東京砂漠」という歌があったが、世の中まさに「砂漠化」が進行している。地理学的な意味ではなく、政治、教育、社会生活、人間関係、精神世界全てひっくるめて「人間社会の砂漠化」が進んでいるように思う。

 そういう砂漠化が進む世の中で、我々の心に、一滴の水にも値する「潤い」を与えてくれるのが、「感じる心」すなわち「感性」だと思う。美しい風景を見て心から美しいと思い、本を読んで主人公の生き方に感銘し、他人の思いもよらぬ親切に触れて感動し・・・・・・そういう、ものごとに対して「感動」する心を、我々は大切に持ちつづける必要があるのではないだろうか。

皆さんも私の水彩画を見て、感動しませんか。
バカヤロー!こんな絵で感動するか!ごもっとも・・・・m(__)m


12 心のダイエット
 ひょんな事から、ダイエット関係のホームページを検索してみた。
あるわあるわ。食事療法、フィットネス、ビール酵母、エステ、ツボ、お茶・・・・・・。

 まさに、世の中「ダイエットブーム」である。書店を覗いても大きな書店には必ず専門のコーナーが設けてある。不景気なこのご時世に、きっとこの業界だけは大儲けで笑いが止まらないことだろう。・・・・

 ついでに、とあるホームページの「掲示板」を覗いてみた。
「18歳、158cm、85kg。現在ダイエットにチャレンジ中で〜す。」(ごもっとも)
「20歳、167cm、80kg。ダイエットは私の一生のテーマで〜す。」(ふむふむ)
「25歳、153cm、48kgの女の子で〜す(←女の子でいいよネ)。」(なぬ?)
         *(   )内は思わずあげた私の声。
実に明るい。本当に肥満に悩んでいるのだろうかと疑いたくなる。

 ダイエットに次いで最近目立つのが「美容整形」である。テレビでもよく、整形前あるいは整形後の女性の特集をやっている。見ていると、この人なら確かに大金を賭(?)けて整形する値打ちがある・・・・と、一応は納得する人もいるが、なんでこの人が・・・・と思うケースもある。感心するのは、出演している女性が皆アッケカランとしていることである。実にアッケカランである。

 しかし、本当にこれでいいのか・・・と、中年サラーリーマンとしては思う訳である。女性が綺麗になるのには反対はしない。むしろ結構なことである。しかし、そこまで外見に拘らなくてもいいではないか。それで、本当に人生の活路が見出せるのか・・・・と、再び中年サラリーマンとしては思う訳である。

 肥満をセールスポイントにしているテレビタレントもいるではないか。肥満の女性でも、きちんと結婚して幸せな家庭を築いているではないか。(結婚してから、三食昼寝付きで肥えたのヨ)

 そんな時間とお金があるなら、外見ばかりにとらわれずに「心のダイエット」に投資した方がいいのではないか。本を読んだり、色んな人と付合って見聞を広めたりすることによって、変な見栄や拘りを捨て去る努力をしたほうがいいのではないか・・・。

 そういう私も、先日から毎朝、ヨーグルトに「ビール酵母」を入れて飲まされている。飲んでいるのではなく、飲まされているのである(ここが違う)。冒頭の「ひょんな事から・・・」というのも、ビール酵母とは一体何ぞや・・・・という訳である。

「50歳、183cm、82kgの中年サラリーマン。現在ビール酵母でダイエット中でございます。」


11 民主主義と建前え

 先日、自治会の総会に出席した。

 各委員会、会計等の報告が終了した後、住まいの近くに新しい団地が造成されるという住民から「民主主義の時代だから、私達には団地の造成に反対する権利がある。自治会としてこの問題に取り組んでほしい」と言う発言があり、会長さんも、返答に困って、とりあえず先方の業者に詳細を聞いてみるという返事をされていた。

 ちょっと変だな・・と首を傾げる発言であった。
確かに「反対」する権利はある。しかし、その団地の何が問題なのかを明確にせず、ただ、隣にできるからと言う理由だけで反対するのは如何なものか。ましてや、そこに団地を造る業者の権利、そしてその団地に家を買って住む人の権利はどうなっているのか。よく考えてみれば、自分たちが先住民(?)みたいなつもりでいるが、私達が今住んでいる団地が造成されたときも、すでに旧村の住民の人達が居たのではないか。

 最近、自分の利益だけを最優先にして、何でもかんでも反対する人が多い。反対が「自己主張」ででもあるかのように。

 「企業」にしろ「自治会」にしろ、組織や団体を運営するうえで、一番大事なのは、互いの意見や生活をを尊重し合うということ、自分という「個人」が大事なように、他人という「個人」をも尊重するということ。これが、基本のルールである。多分発言者も、家族という「組織」のなかでは、優しくて理解ある人のいいご主人なのであろう。それが、他人のこととなると、何故、こう変わるのだろうか。

 よく考えてみると、彼は、自分が長い間慣れ親しんできた環境が変わるので反対しているのではないか。新しい団地ができてどんな人が入居してくるか分からないので反対しているのではないか。便宜上、「民主主義」という言葉を使っただけで、いわば「民主主義」は「建て前」なのではないか。

 そういえば、考えてみると、この世の中には「建て前」がいかに多いことか。学歴しかり、職業しかり(職業に貴賎なし?)、「平等」だ「自由」だというけれど、それはあくまで「建て前」であり、「差別」「不条理」「偏見」は世の中に厳然として存在しているではないか。その最たるものが憲法第9条。誰が考えたって自衛隊は軍隊ではないか。(飛躍しすぎ!)

 「建て前」についてもう少し考えてみると、憲法には、信条の自由、職業の自由、思想の自由、学問の自由等「自由」について、様々な定めがある。では、何故、憲法として定める必要があるのか。それは、現実社会の実体が必ずしもそうではないからではないか。人間が持つ「偏見」「不条理」が「自由」を侵害しがちだからではないか。「親は子を愛しなさい」と敢えて定めていないのは、それが親子として当たり前のことだからではないか。私は、憲法学者でもないし、法律を専門とする者でもないが、そんな気がする。

 そう考えると「建て前」と「現実」の違いということが理解できる。あくまで「建て前」はそうあるべきという「理想」なのである。

 話が横道へ逸れてしまったが、何故、日本で本当の意味での「民主主義」が育っていないのか。皆さんもご承知の通り、「民主主義」「議会政治」「自由主義」等の考え方は、ヨーロッパの近代化の歴史の中で、いわゆる「市民階級」による「支配階級」との血にまみれた闘争の結果として生まれてきたものである。その「結果」のみが、何のプロセスもなしに日本に持ち込まれた。そこに、根本の問題があるように思う。日本の国民は政治に無関心と言われて久しいが、自分で勝ち取ったものではなく、与えられたものだからではないか。「泡銭は身に付かず」というが、自分が一所懸命働いて稼いだお金は、誰だって大切に使う。そういうことではないだろうか。

 書いている内に、自治会の総会の話が大きくなって、憲法、民主主義の話になってしまった。このまま書いていたら、話がどんどん横道へ逸れていきそうな気がするので筆を置く