夜だというのに、地面に影が出来ていた。
 薄っすらとした蒼い影、蒼い世界。
 厭(いや)に明るいと思ったら、斜め四十五度くらいの天球に満月に近い月が架かっていた。
「綺麗な月だね、」
 隣に歩いている慧(けい)が、夜空を仰いで月を見つめている。
「うん。月がこんなに明るいなんて、知らなかった」
「そう? ――そうだね、月は自分から光を発せないから、」
 そうだ。月は太陽のように、自ら燃やして輝いたりしない。ただの岩石の塊だった。柔らかいけど、少し寂しげな光は、太陽からの輝きの御裾分(おすそわ)けで、辛うじてこの地上まで届いている。当然の知識なのに、改めて目の当たりにすると、不思議に新鮮な感動が込み上がってくる。
「――『月の水』って、知ってる?」
「え? 何それ? 月に水なんかないだろう?」
 慧の端整な横顔が、ころころ、と鈴を転がしたように笑う。
「ないよ。そうじゃなくて、ある本に載ってたんだけど、どこかの国の諺(ことわざ)なんだ。――どんなに望んでも、決して手に入らない事を『月の水』っていうんだって」
「手に入らない?」
 成る程。要するに「無い物ねだり」と同じ事か。月に水は存在しない。存在しない物をいくら望んでも、手に入る訳がない。それを月に引っ掛けるなんて、なかなかロマンティックじゃないか。
 その、月からの蒼い光を浴びた、慧の横顔を盗み見る。
 切実に願っても、手に入らなくて……、でも、諦める事も出来ない――、
「――自分にとっての『月の水』って……ある?」
「え?」
 こちらを向いた慧の瞳と正面からぶつかる。いつも吸い込まれてしまいそうになる闇色の瞳が、今は月の光に反射して少し蒼味を帯びていた。
 いつもと違う瞳に見つめられて、少し、鼓動が高まる。
「あ……、否(いや)、ない、かな? ――うん、ないな」
 ――本当は、ある。あるのに、はっきりと口にする事が出来ない。分かっている。口にする程の度胸も勇気もないのだ。譬(たと)え、それを言葉にした所で叶う筈もない。それよりも、今あるもの全てが、失われてしまう方が遥かに怖い。
 ああ、そうか。だからこそ「月の水」なんだ。自分の無い物ねだりを浮かべると、それが実感として身に染(し)みる。
「――慧は? ないのか? その、『月の水』って奴が、」
 逆にそう問い掛けると、慧はふい、と顔を前に向け、蒼い世界の、更にその先を見越すような視線を投げかけ――、
 そして――、
「……ある、」
 小声ながらも、きっぱりと言い放った。
 月の光に晒(さら)された、その姿は確かに慧という人間なのに、何か、もっと別の生を思わせる。もともと中性的な雰囲気を纏(まと)った姿が、益々その存在を曖昧にしていく。
 月からの――太陽の光を反射させて――弱い光が照らしているだけで、世界はこんなにも蒼く、変貌を遂げるものなのか?
 蒼い世界――本当に、ここは自分のいる世界なのか?
 蒼い屋根。蒼い壁。そして、蒼い地面と影……。
 ――ここは、本当に、自分がいてもいい世界なのか?

 眩暈を、感じて――
 蒼く染まったこの世界から逃れるかのように、目を閉じる。

「――どうかした?」
 声をかけられて目を開くと、再び月の光が目に飛び込んでくる。しかし、それは先程の歪(いびつ)なものではなく、とても綺麗に――全てが、美しい形と色で映し出されていた。
「否……何でも、ない――、」
 月には何か、不思議な力でも備わっているのか?
「……慧の、『月の水』って何だよ?」
 慧の存在が今以上に、綺麗に、そして、狂おしい程に、いとおしい……。
 思わず、抱き寄せたい衝動に駆られてしまいそうになる。
「……望んでも手に入らないから、秘密、」
 月を見上げていた慧は、蒼味を帯びた黒い瞳をこちらに向け、淡い笑みを浮かべる。
「言って……言ってみればいいじゃないか。案外簡単な事かもしれないぜ?」
 慧の望みとは、一体何だろう? もし、叶える事が出来たら、どんなに悦(よろこ)ばしい事だろう――。
「言ってもいい?」
「ああ、」
「後悔しない?」
「ああ……え?」
 自分達の足は、いつの間にか止まって、地面に根がはったように動かない。
すっ、と慧の細いけど、しっかりとした手が揚(あ)がり、自分の肩に触れて――、
「それはね――」
 そして――、月の光を浴びた慧の綺麗な顔が、近くに寄り添って、互いの影が重なり合う。


 そうして、自分にとっての「月の水」が、そうではない事に気付かされたのだ。


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OCT.01.2003. update



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