同じクラスにいる、慧(けい)という人物は、どこが変だ。 どこかどう変なのかは、正直よく分からない。ただ、初めてその姿を見た時に、そう感じた。 それなりにクラスには馴染んではいる。だけど、自分の目には変に見える。変というより、浮いているというのだろうか。慧の見ている世界は、自分達の見ている世界と違うような気がしてならない。まるでひとり、別世界にいるように感じるのだ。 かなり曖昧な理由だが、とにかく、あまり関わりたくない人物である事ははっきりしていた。 しかし、そうはいっても出席順が近かったせいで、授業などのグループ行動は一緒。厭(いや)でも関わる事になる。それでも、なるべく目を合わさないよう、言葉を交わさないよう気を付けてきた。 ――ある実験授業の時だった。 「違う、」 それは、自分に向かっての声だった。 目線を上げると、慧のそれとがぶつかった。 「その分量、間違ってる」 初めて聴くその声は、――今まで慧の事は視界から除外してきたので、授業などの発言があったとしても、耳の記憶に残る筈もない――慧にひどく似合っていたが、どこか違和感があった。何というか、生身の声というより造られた声。まるでコンピューターで合成された機械のような独特の声音(こわね)。 「――あ、悪い、」 その何ともいえない静かな声に妙な威圧を感じてしまい、つい謝ってしまった。 それにしても、あれこれ考え過ぎて、授業を疎(おろそ)かにしてしまうとは、ちょっとした不覚だ。 実際、授業など真面目に受けても面白くも何ともない。言葉や記号の羅列が耳から耳へ流れていくだけだ。しかし、このような実技の授業は結構面白かったりするので、真面目に取り組んでいた。 それなのに、である。 慧以外の人間に指摘されたのなら、こんなにも沈んだ気分にはならなかっただろう。 「謝らなくても……、変な奴、」 「変って、それは――」 言葉を途中で切る。変なのは慧の方だ。今まで曖昧だったその理由が、はっきりと分かった。 慧は、表情を全く変えずに言葉を発したのだ。 陶磁器のように、つるりとした白磁(はくじ)の肌。髪はしっとりとした艶やかな漆黒。そして、人形のように造り物じみた容貌。頭の上から足の先まで生身の人とは思えない程、綺麗な姿を象(かたど)っている。 そう、まるで人形そのものだ。 数多く存在ずる人形の中でも、動く人形――自動人形。巧妙なからくりで手足は動くが、表情の変わらない人形……。もしかすると、その細い首の後ろに、ネジ巻きの穴があるのではないか、という錯覚を覚えた。 他の連中も同じような印象を持たないか、とそれとなく訊いてみたが、皆が皆、 「そんな事はない」という返事が返ってくるだけで、逆に「妙な事を言うんだな」と、こちらが変な眼で見られる羽目となった。 男としては毛色の違う容貌をしているが、ただそれだけで、それ以上でもそれ以下でもないらしい。それが普通の反応であって、自分が変にこだわり過ぎているのかも知れない。 それが、きっかけといえばいいのだろうか。人形のそれと同じ無表情な慧と、言葉を交わすようになったのは。 あんなにも関わらないようにと避けてきたのに、初夏を迎える頃になると、周りからは慧とは一番の友人という位置に認識されるようになり、それを否定するには、あまりにも距離が縮まっていた。 その距離が縮まっていくごとに、慧の無表情な表情も少しずつ変化していった。もしかしたら、主観的にそう見えるだけかも知れない。しかし、初めて言葉を交わした時の、あの硬かった表情が徐々に柔らかくなっていく様は、蛹(さなぎ)がいつ殻を破って美しい成虫になるのだろう、と待ちわびるガキのように、歓喜と不安が入り混じった、何とも落ち着かない気分にさせられる。 もっと直接的に言うならば、お伽話のように、人形が生身の人へと変わっていく過程を、スローモーションで見ているような感じだ。それなら最終的に、どのような変貌を遂げてくれるのか、是非とも見てみたい――という気持ちが湧いても不思議ではないだろう。 そう思い始めた矢先、忘れようとしても忘れられない出来事が起こった。自分は完璧な当事者だというのに、他人事のように実感がない。 未だに、どうして、あんな事になったのか、曖昧なままだ。 足許の影を焦がす熱い陽射し。照り付く太陽の輝き、照り返す地面の眩しさ、うねる熱い風。 鬱陶しいと思っていた梅雨が過ぎると今度は、根こそぎ奪っていくような暑さが待ち構えていた。限度を知らない太陽のぎらつきは、持て余し気味の体力や堤防の低い理性を、簡単に殺(そ)いでいく。 その上、死に急ぐように啼(な)き叫ぶ蝉の聲(こえ)は、更に不快感を募らせた。 学校の通り道に、そこそこに広い神社があった。中秋の名月が巡ってくると、ちょっとした祭りが催されるから、多分それなりに名の知れた神社なのだろう。広い境内には、御影石の燈籠(とうろう)が立ち並び、鬱蒼(うっそう)とした木々の間からは、鮮やかな朱色の鳥居が見え隠れしている。 その境内を慧と肩を並べて歩いていく。 まだまだ高い陽射しを避ける為、遠回りになるが、この神社の中を帰り道にしていた。 濃い緑が創る影は、どの影よりも暗くて涼しいからだ。 しかし、この日は、いつもより暑く感じた。 太陽に熱せられた空気が体に纏(まと)わり付いて、額から流れる汗を拭っても、又、流れ出てくる。それを繰り返しながら歩く。 心なしか肩にかけた鞄が、やけに重い。 不意に隣の慧の存在が気に懸かり、横目で見やる。 そこには、思いもよらない姿の慧があった。 ――汗を、流していた。 汗など、慧には縁のない生理現象だと思い込んでいたので、かなり驚き、狼狽(ろうばい)した。否(いや)、汗くらい慧も流すだろう。人形ではないのだから。 そして、慧が汗を流している、という姿を目の当たりにして、何故それが厭で、忌まわしく思ってしまうのか。この、ほの暗い感情は、一体どこから湧いてくるのだろう? 白い顳(こめかみ)から、小さな粒となって流れ落ちていく雫。 頬を伝って、綺麗な曲線を描いた顎をなぞり、地面へと吸い込まれ――、 「何?」 こちらの視線に気付いた慧は、いつものように無表情だった。その感情のない顔と汗は、嘘の産物のように見えた。 雨に晒(さら)された、哀れな人形のように。 腐敗していく、花のように。 大切にしていたものが、突然汚らしいものへと変化したように。 言いようのない苛立ちが、足許から這い上がってくる。 いても立ってもいられなかった。 無言のまま慧の腕を取り、砂利道を逸れ、繁みの中へ分け入る。そして、青々と生い茂った樹に、状況を掴み切れていない慧の背を押し付けた。 「どうし、た……あ、」 白い首筋を流れる汗を、口唇(くちびる)で拭い取る。途端に塩辛い味が口内に広がった。 厭だった。慧に汗は似合わない。生身の人ではなく、人形のままの方が似合っていた。 そこで自分は、完全に慧を人形として見ている事に、初めて気が付いた。 動く人形――自動人形として。 対等な友人でいながら、どこかで観賞する為の玩具として。だから、このように勝手に汚れる事が許せなかった。 首筋から頬へ、その白い肌に舌を這わせ、そして、口唇を重ね合わせる。薄い口唇は、見かけと違って柔らかく弾力があり、少し離して、今度は違う角度から重ねる。 もう、止まらなかった。 この突然の苛立ち、焦燥(しょうそう)をどうにかしたかった。己の勝手な欲望を昇華させる為だけに、眩しく反射するシャツを剥ぎ取る。 「ん……、あっ」 だが、慧はちゃんとした人間だった。触れた肌は汗ばんでいて、しっとりと吸い付いてくるし、ちゃんと鼓動の音も掌に伝わってくる。口唇で触れると、小さく慄(おのの)いて小刻みに震えた。 「……ぁ、ああ……っ、」 慧は挿し貫かれながらも、人形のように何の抵抗もなければ、受け入れも見せず、ただ、己のいきり立つ欲望を静かに飲み込んでいった。 蒸し暑い空気の中、慧の身体はひんやりと冷たいのに対し、その裡(うち)は優しい程に温かく、やはり慧はちゃんとした人なのだ、とぼんやりそう思った――。 訳の分からない衝動に突き動かされて進んだ先には、後悔しか残っていなかった。 「……ごめん、」 謝りながら、体をピクリとも動かない慧の身なりをきれいにする。 閉じられた瞳は何を物語っているのだろう。やはり、それは怒りだろう。もはや、友人という対等の関係ではなくなったのだ。いや、元々そんなものは存在しなかった。ただの幻想に過ぎなかった。 そして、最後にもう一度謝る。 「――いい、」 「え?」 閉じられた瞳が、開く。 深くて暗い闇色の瞳が、まっすぐ伸びてきて、自分を射る。だが、その瞳に怒りの色は見当たらなかった。 「謝らなくても、いい」 「でも……、」 慧は、その先を言わせないように、指で口唇を塞いでくる。 「いいんだ……、そう望んでいたから、」 「――?」 何を言っているんだ? 望んでいた? 慧が何を望んでいるのか、全く見当もつかない。 塞いでいた指が横に滑り、肩に触れ、 「順序はどうであれ、ずっと、こうして触れたかった……」 そう言うと、額をその肩に押し付けてきた。 触れたかったという事は――、そういう事なのか? だったら、慧はいつから、そんな秘めやかな感情を持ち、自分に向けていたのだろう。初めて言葉を交わした時なのか、最も近しい友人と周りに認識された頃なのか――? 先程とは違う、何ともいえない感情が込み上げてくると同時に、深い後悔の念にかられてしまう。 「慧……」 そっ、と呼びかけると、慧は静かに顔を上げる。 「慧がどう思っていようと、やっぱり謝っておくべきだと思う」 改めて頭を下げると、 「いいって言ってるのに……、変なの」 そう言うと、慧はふわり、と笑みを浮かべた。 初めて見る慧の笑顔。人形だったそれが人間へ、――否、数段も飛び越して、天使のように優しくて穏やかな笑み。 それは本当に、綺麗な笑顔だった。 ――結局、今までの慧は、人形のフリでもしていたのだろうか? それともお伽話のように、悪い魔女の魔法が解けて、めでたく人間に戻ったのだろうか? それは、今現在に至っても分からない。しかし、自分としては後者の方だと思いたい。 そう思わなければ、今、こうして腕の中にいる慧の歓喜に溢れる綺麗な姿を、この先も見る事などなかったかも知れないのだから。 |
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