「・・・・・・・・どうして・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・ごめんなさい。」
「何故謝るんだ?自分が悪いと思っているのか?」
貴方のその言葉に、何も言えなかった。
まっすぐな貴方の瞳から逃れるように目を背けたら、貴方の手が目に入った。
その右薬指に嵌っているシンプルな金のリングと同じ物が、私の右手の薬指にも嵌っていた。
本当は、私の指にだけ納まる筈だったこの指輪。
それをペアにしたのは、私の我侭。
貴方は最初、『俺にはアクセサリーなんて似合わない』と恥ずかしそうに笑って拒否したけれど、私が強引に貴方の分を買った。
互いが互いに与えた、愛し合うようになって初めてのプレゼント。
けれど、もうそれらを見るのも忍びなくて、私はまたそっと視線を逸らした。
「・・・・・・俺は謝って欲しいんじゃない。俺は、こういう事には良いも悪いもないと思っている。だから、がそう言うなら仕方がない。ただ、理由ぐらいは訊いても良いだろう?何故・・・」
「ごめんなさい。」
それ以外、何も言えなかった。
貴方の言う通り、悪いのは私だと思っていたから。
貴方との恋に未来が見えない、そんな不安と不満を抱いている私が悪いと思っていたから。
相手が貴方である以上、私は普通の恋人同士なら誰もが夢見る当たり前の幸せな未来を諦めなければならなかったのに、諦めきれなかったから。
「理由・・・・、聞かせてくれないのか?」
「ごめんなさい。」
こんな理由、貴方には言えなかった。
貴方に悪くて。
それにきっと、言ったところでどうにもならなかった。
人の事ばかり考えて、自分の事はいつも二の次三の次にしてしまう優しい貴方は、私の夢にきっと付き合えない。付き合わない。
「・・・・・・・・・分かった。もういい。」
理由も聞かされず、突然一方的にこんな事を言われたら、誰だってうんざりする。
だから貴方は、すんなりと私の我侭を受け入れた。
貴方に嫌われた事は悲しかったけど、悲しむ権利は私にはなかった。
「ごめんなさい・・・・・・・・」
それが、幸せな恋を自分から手放した者に下される罰だから。
相変わらずざわざわと煩い、東京の地下鉄。
随分久しぶりだというのに、乗り方を忘れていない事が不思議だった。
「つーか、今日とかどうよ?」
「良いねー、じゃアイツも誘ってさ・・・・」
「はい、その件については明日必ず・・・・」
午後六時半の、そこそこに混んだ車内には、アナウンスの合間に連れや携帯電話と話している人々の声が響いている。
私は車両の一番端に立ち、窓ガラスに映る自分の顔を見つめた。
流れていく暗闇に映る、少し寂しそうな顔の女。
それが今の私。
緩いウェーブのかかった髪は、朝綺麗にスタイリングして来た筈なのに、もう今は少しパサついて崩れつつある。
また今度、何か良さそうなスタイリング剤を探してみなきゃ。
貴方が似合っていると褒めてくれたストレートのままだったら、こんな苦労をせずに済んだのに。
なんてぼやいてみても始まらない。
髪型を変えたのは私の勝手、私が自分で望んで変えたのだから。
二年前、貴方に別れを切り出した時のように、一方的に、勝手に。
「で、店どこにする?」
「この間のさ〜、あの店なんか良くね?」
「はい、はい、それも現在検討中でして・・・・」
相変わらず煩い地下鉄。
静かな聖域で暮らし慣れて来た今では、この煩さが耳について仕方がない。
でも、辛抱していなければならないのはあと駅四つ分程の時間。
四つ向こうの駅に着けば、予め取ってあったホテルがある。
そこで一泊して、明日の昼にはまた聖域に戻るべく、飛行機に乗っている。
慌しい里帰りだけど、仕方がない。
だって今回は、サガに頼まれた仕事の為に帰って来ただけなのだから。
またすぐに帰らなければ。
いつもの執務が待っている。
皆が待っている。
そこに貴方はいないけど。
「○○〜、○○〜。□□線、△△線はお乗り換えです。」
無機質な暗闇に光が差し、一つ目の駅に着く。
数分振りに見た光は、束の間温もりと安心感を与えてくれる。
けれど、アナウンスから少し遅れて人の波がどやどやと出入りすると、それらはたちまち不快感へと変わる。
「痛っ・・・」
「おっ。」
買ったばかりのパンプスを、くたびれた感じの中年サラリーマンに踏まれてしまった。
人の足を踏んでおいて、『おっ』だけですか。
ムッとしながらも、折角のパンプスに靴跡が付いていないかどうか確かめる。
何とか無事らしいのを確認してほっと一安心、ふと顔を上げたその時だった。
「っ・・・・・・・・・!」
視線の先にいたのは、紛れもなく貴方。
見間違う筈もない、人の波からぴょこんと高く飛び出した、癖のある短い金髪頭。
ぎゅっと唇を引き結んだ横顔。
見間違う筈がない、愛していた貴方の姿。
なんて事。
こんな所で貴方を見つけるなんて。
二年も経って、こんな所で貴方に再会するなんて。
突然すぎる。
私はまだ、貴方を忘れきれずにいるのに。
「△△〜、△△〜。○○線はお乗り換えです。」
二つ目の駅に着いた事を告げる車内アナウンスが流れ、また人の波が出入りする。
声を掛ける勇気がない以上、そのまま波に呑まれて押し流されてしまえば良かったのだろうけど、どうしても気になって、貴方から遠ざかる事が出来ない。
人の波を掻き分けて、それとなく貴方の方に近付きながら、私は二年前の事を思い出していた。
貴方が長期の任務に就いて、突然聖域を離れたのは、私が別れを切り出した直後だった。
貴方は結局、一方的な私を詰る事も責める事もせず、ただ黙って私の要求を呑んで、ただ黙って私の前から消えた。
そしてそれ以来、貴方は他の誰よりも多忙で、一度も聖域に戻って来ない。
世界各地を飛び回っている話は聞いているけど、貴方の居場所を耳にする頃には、貴方はもうまた別の場所に移っている、いつもそんな調子。
二年前のあの時、私は身勝手な別れの理由を貴方に問い質されずに済んだ事に半分安堵して、
残り半分で狂いそうな程の罪悪感と後悔に苦しんだ。
今はもう、随分気持ちの整理がついたけれど。
貴方は今でも、勝手だった私を恨んでいる?
ううん、多分もう恨んでいないわね。
恨む程の強い感情を、貴方はきっと、もう私に対して持っていない。
貴方にとって、私はもう過去の人間だから。
「□□〜、□□〜。▲▲線、◎◎線、◆◆線はお乗り換えです。」
取りとめもない事を考えている内に、三つ目の駅に着いた。
扉が開いた瞬間、また人の波が押し寄せる。
「あ・・・・・・・」
貴方はその波にうまく乗って、電車の外に出た。
その後から後から人が出て行き、貴方の姿はあっという間に見えなくなった。
一瞬の内に色々な考えが頭の中を駆け巡り、思考回路を占領する。
まるで金縛りにでもあったように足が動かない。
「扉が閉まります、ご注意下さい。」
人の波が鎮まり始めると、扉は無情にも閉まろうとする。
慌しいこの街の地下鉄は、立ち止まって二の足を踏んでいる者を待ってくれはしない。
迷い、立ち止まる者は、容赦なく置き去りにされてしまう。
扉が閉まりかけた瞬間、私はようやく金縛りから解け、何かに弾かれるようにして動き出していた。
間一髪、扉を閉まる一歩手前ですり抜け、ホームに転がり出た。
あの眩しい金髪を目印に、貴方の姿を必死で捜す。
きっとまだ、そんなに遠くには行っていない筈。
立ち止まって右や左をキョロキョロと眺めている私を、人々が邪魔そうに一瞬一瞥して通り過ぎていく。
けれど、そんな事には構っていられない。
頭の中は、貴方の事で一杯だから。
「・・・・・・・いた・・・・・!」
ようやく貴方の姿を見つけた。
改札に上がる階段を上る、短い金髪頭を。
それまで突っ立っていた私が突然小走りに駆け出したものだから、周囲の人達はまた迷惑そうな顔で私を睨んでいる。
だけど、そんな事気にしていられない。
― アイオリア・・・・・!!
貴方を追って階段を駆け上っていると、下りて来る人の波に呑まれて転げ落ちてしまいそう。
けれど、私は必死で足を励まし、人と人の間をすり抜けて、貴方の後を追った。
そして、私がようやく階段を上りきった頃には、貴方は改札を抜けたところだった。
待って。
アイオリア、待って。
「待って!」
思わず叫んでしまった私を、誰もが何事かという顔で凝視している。
けれど、こちらに頭を向けている貴方は振り向かない。
貴方はそのまま出口に向かって歩き去ろうとし、そして・・・・・・
急に立ち止まった。
立ち止まって、振り返った。
アイオリア、私よ。。こっちよ、こっち。
更にそう叫んで手でも振っていれば、貴方は多分、私の姿を見つけてくれた。
なのに、出来なかった。
それどころか、私は咄嗟に人の波に姿を隠し、貴方の視線から逃れてしまった。
急に怖くなって。
貴方が私を見つけてくれたとしても、もし貴方の視線が冷たかったら。
そう思うと、怖かった。
勝手な私には、それが堪らなく怖かった。
貴方はまだ、辺りをキョロキョロと見回している。
不思議そうな顔で。
けれど、相変わらず私は貴方の前に出る勇気が持てないまま。
やがて貴方は、疲れたような顔をして、癖のある短い金髪を右手で掻き上げた。
「嘘・・・・・・・・」
蛍光灯の光を浴びてそこに微かにキラリと光った物を、私は見逃さなかった。
二年前、私が貴方にプレゼントしたあの金のリングだった。
貴方がプレゼントしてくれた方のリングは、今は宝石箱の奥深くに眠っているというのに。
なんて事。
貴方のリングは、二年前と同じ場所にまだあるなんて。
「嘘・・・・・・・・・」
いつの間にか、頬を熱いものが伝っていた。
貴方の姿が霞んで滲む。
貴方がまだその指輪を着けていたなんて、考えもしなかった。
あの頃の二人の恋を勝手に思い出にしてしまっておきながら、未だそれに囚われている馬鹿な私とは違って、貴方はまだあの頃のまま。
「嘘よ・・・・・・・・・」
貴方の右薬指にまだ嵌っていたあの指輪の金色の光は、馬鹿な私に、自分の愚かさをこれ以上ない程思い知らせてくれた。
ふと気付けば、私は貴方が立っていた出口にいた。
けれど、もうそこに貴方はいない。
階段を上がりきって地上に出て、周囲を見渡してみても、もう貴方の姿は見つけられなかった。
冷たい夜風が、頬に残った涙の筋を乾かし去るのを感じながら、私は今になってあの時の貴方の気持ちが分かったような気になった。
自分の事はいつも二の次三の次にしてしまう優しい貴方は、不安と不満にがんじがらめにされて疲れてしまっていた私の気持ちを、多分何より一番に考えてくれていた。
貴方自身の気持ちを押し殺してまで。
多分、あの頃の私が思っていた以上に、貴方は私を愛してくれていた。
でも、今更分かってももう遅い。
今になって貴方に縋り付いたら、あの時の貴方の気持ちが無駄になってしまう。
私を思ってくれた貴方の優しさを、私自身が踏みにじってしまう事になる。
古傷は、いたずらに抉るものじゃない。
下手に触れば、以前よりずっと強い痛みを感じる事を、私は思い知ったから。
「馬鹿ね・・・・・・・」
なんて事。
こんな大事な事を、二年も経ってから分かるなんて。
こんなに時が過ぎてから、あの時よりも強い痛みと後悔を感じるなんて。
こんな、ムードも何もない、何という事のないありふれた駅で。
こうしている間にも、後から後から人の波が上がってきて、出口の前に立っている私を邪魔そうに避けて足早に歩き去っていく。
交差点の信号が点滅し始めたのを見て、私もようやく、彼らに交ざるようにして急ぎ足で歩き始めた。