もしも恋人の妙な噂を耳にしたならば、人はどうするだろう。
気にも留めずに忘れてしまう者もあろう。
直接本人に問い質す者もあろう。
だがは、そのどちらも出来ずにいた。
休憩中の雑兵達の側を偶然通りがかった時に聞こえてきた会話。
時折カノンが両手に一杯の薔薇を抱えて、深夜に聖域の外へ出て行くという噂話。
それは彼らにとっては他愛ない話題だったのだろうが、にとっては一大事だった。
何故なら、その内容はかねてより抱いていた不安を更に煽るようなものだったからだ。
実のところ、にもカノンの行動についてやや不審に思うところがあった。
愛し合うようになってから、カノンは普段の家に住み着きかねない勢いで入り浸っているのだが、毎月ある特定の日、七日の夜だけは何だかんだと理由をつけて来ないのである。
毎月毎月判で押したようにその日だけ留守にする、そんな事が二度三度と続いて少し気にかけていたところに、この話を聞いてしまったのだ。
これで気にするなという方が無理な話だった。
「珍しいじゃないか、お前が俺にポーカーで勝つなんて。初めてだな。」
「そうね・・・・・・・・」
「で、何が欲しい?」
少し悔しそうな、それでいて結構な余裕を端整な顔に漂わせながら、カノンはカードを置いた。
二人で何度もこうしてカード遊びに興じてきたが、カノンの言う通り、が勝てたのはこれが初めてだ。
二人の間のルールで、カード遊びにはいつも煙草代程度の小銭や明日の夕食など、何という事のない物を賭ける決まりである。
それを今まで良いように毟られてきたならば、ここで勝ち誇って勝利の高笑いでもしてやって良さそうなものであったが、生憎との心境はそれどころではなかった。
これが無欲の勝利というやつだろうか、と束の間考えはしたが、その勝利に酔いしれる気にはなれなかったのである。
「薔薇の・・・・・花・・・・・・・・・」
一度気にし出すと、後から後から解決のつかない疑念が湧いて来る。
その難儀な無限ループに既に陥っていたは、初勝利の喜びを噛み締める事さえも出来ずにいた。
「薔薇?薔薇が欲しいのか?」
「あっ、べ、別に何でもないの!只の独り言。」
「何だ、俺はまたてっきり欲しい物かと思ったぞ。気障ったらしく両手一杯の真っ赤な薔薇、とかな。」
慌てて取り繕ったに、カノンはからかうような笑みを見せた。
の気も知らずに。
― その気障ったらしい事、私に内緒でコソコソやってる癖に・・・・・・・・
カノンは、まだ付き合いが浅いとはいえ一応恋人というポジションにあるには、ペンペン草一本贈った事がない。
なのに何処かへコソコソと出掛けて行く際には、両手に一杯の薔薇の花を抱えている(らしい)のだ。
カノンはその花を何処へ、何の為に持って行くのだろう。
その先は、恐ろしくて想像したくなかった。
しかし、その恐ろしい想像を否応なしにさせられる日が、とうとうやって来たのである。
「これ・・・・・・・・、アフロの育てた薔薇だよね?」
を決定的に疑惑の沼に突き落とした品を持って、は今、双魚宮のアフロディーテに会いに来ていた。
その品とは、一陣の微風が吹いたらばたちどころに飛んで行ってしまいそうな、頼りなげな一片の薔薇の花弁であった。
限りなく青紫に近いピンクに見えるその薔薇は、以前アフロディーテ自身がに誇らしげな笑顔で披露してくれたものだった。
碧い海の中を漂うピンクの薔薇を水面上から見ているような不思議な色だと褒めたら、アフロディーテは珍しく本気で照れていて随分驚かされた。
こうして千切れた花弁だけを見ていたらちっぽけに感じるが、この薔薇は間違いなくアフロディーテ渾身の力作、その事を良く記憶していたは、双児宮の床の隅に砂埃に塗れて落ちていた花弁を見つけた時、アフロディーテから情報を引き出そうと考えたのだ。
カノン本人を問い詰める勇気がまだなかった為である。
「そうだったわよね、確か?」
「いかにも、私の薔薇だ。何故それを・・・・と訊きたいところだが、ふふっ、私が君に見せびらかしたんだったね、確か。」
「うん、見せて貰った。」
「初めてこの花を咲かせる事が出来た時、余りに嬉しくてね。思わず誰かに見て欲しくなって。まさか覚えていてくれたとはね。」
「良く覚えているわよ。」
ここから先を果たして本当に口に出して良いものなのだろうかと、は暫し悩んだ。
理性は、恥ずかしげもなく嫉妬心を丸出しにするなと眉を顰めている。
だが本心は、『あの噂は事実だった』と叫び、心に針を刺している。
結局、がその痛みに耐えきれなくなったのは、それからすぐ後の事だった。
「これね、双児宮に・・・・・落ちてたの。」
「・・・・・・そう。」
「カノンはこの薔薇、一体どうしたんだろうね。」
「・・・・・・・・・何故カノンだと?」
「だって聞いたんだもの・・・・・!カノンが時々夜中に薔薇を持って出て行く、って・・・・・!」
今にも不安に押し潰されてしまいそうな心が、耐えきれずに救いを求めてしまった。
一度口に出してしまった後、の唇は自身でも驚く程沢山の言葉を勝手に吐き出し始めた。
吐き出してしまわなければ心が破裂してしまうとばかりに、不安と猜疑心に凝り固まった醜い言葉をつらつらと。
「綺麗な色よね、本当に凄く綺麗・・・・・。アフロが自慢するだけあるよ・・・・・・」
「・・・・・・・」
「でもどうして?どうしてカノンがこの花を持って何処かへ行くの?何処へ持って行くの?花なんて私には一度だってくれた事ないのに、こんな綺麗な薔薇を一体何処の誰にあげてるの・・・・・・・・・?」
「・・・・・・・・。」
アフロディーテの静かな声に制されて、はハッと口を噤んだ。
「・・・・・・・ごめん。こんな事、アフロに言っても仕方ないよね。ごめんね・・・・・・」
痴話喧嘩なら本人とやり合ってくれ、位に言われるかと思えば、アフロディーテの言葉は実に意外なものだった。
「君は・・・・・、何も知らないのだから仕方がないさ。だから気にするな。」
「え・・・・・・?ど、どういう事?」
「確かに私は、カノンに薔薇を用立ててやった。それは認める。だが、奴がそれを何処へ持って行き、誰に贈っているのかには答えられない。」
「答えられないって・・・・・・・・、も、もしかして何か知ってるの、アフロ!?お願い教えて!!」
は平常心を保つ余裕すら無くして、文字通りアフロディーテに縋りついた。
しかしアフロディーテは、そんなの手をやんわりと取って離した。
「悪いね。」
「どうして!?」
「それは・・・・・・・・・、私が答えるべき内容ではないからだ。何も共有していない私が語るような事ではないのだよ。」
「共、有・・・・・?」
「それに実のところ、私もそう詳しく知っている訳でなし。どうしても知りたいのなら、君から直接彼に尋ねると良い。奴も君になら・・・・・、或いは語るやも知れんな。」
疑念に謎までもが加わったこの事態は、をとことんまで混乱させた。
何度考えても、アフロディーテの言葉の意味が掴めない。
何度も考え、何度も悩んでいる内に、今月もとうとう七日になってしまった。
そう、カノンが出掛ける日である。
悩みながら朝を迎えて、迷いながら昼を過ごし、そして夜がやって来た頃。
は意を決して、双児宮へとやって来ていた。
日付が七日から八日へと変わってすぐ、双児宮の中から人が出て来た。
その人がカノンである事を確認して、はより一層心が深みに嵌っていくのを感じた。
カノンはまた、あの不思議な色合いの薔薇の花束を抱いて階段を下りていく。
彼のそんな姿を自分の目で見てしまった事は、人づてに話を聞いただけの状態よりもを酷く不安にさせた。
『知らぬが花』という言葉の通り、知らないままの方が良かった、無理にでも知らない振りをしていた方が良かったのだろうかとも思ったが、気付けばは、それまで身を隠していた大きな柱の陰から飛び出して、カノンの背中を真っ向から見つめていた。
カツン、と靴音が止み、カノンがゆっくりと振り返る。
仮にも愛し合う者同士だというのに、こんなにも気まずい対面は初めてだった。
「・・・・・・・・。何をしているんだ、こんな所で。今何時だと・・・・」
「カノンこそ・・・・・・」
「?」
「カノンこそ、こんな時間にそんな物持って・・・・・・何処へ行くの・・・・・・・?」
消え入りそうな声でそう言うのがやっとの状態だったに比べて、カノンは余りにも平然としていた。
薄らと微笑みさえ浮かべられる程に。
「何処・・・・・・と訊かれてもな。」
「答えてくれないの?」
「答える程でもないだろう。お前には何の関係もない場所だ。」
「私には関係のない場所・・・・・」
「ああ。」
「それって、私という存在を知られちゃいけない人が居る場所、って解釈しても良いの?」
の言葉に棘を感じ取ったらしいカノンは、そこでようやく事態の深刻さに気付いたように表情を引き締めた。
「・・・・・・・何を勘繰っているのかは訊かずにおいてやるが、俺は別に・・・・」
「どうしてそんな言い方をするの?」
「・・・・・・・」
「お前には関係ない、だなんて。カノンって飄々としてて何に対しても割と冷静で、そこがカノンの良い所だって思ってたけど・・・・・・・、悪く言うと冷たいね。」
「冷・・・・・・、おい、どうしてそんな方向に話が・・・・・」
「冷たいよ。」
何か言いたげなカノンを、は悲しそうな瞳で見据えた。
「カノンのやってる事が私には分からなくて、不安で・・・・・、一人で幾ら考えてみても、嫌な想像ばかりして余計不安になっちゃって・・・・・・」
これではまるでカノンをなじっているだけではないかと自分を戒めながらも、は自らの口を閉ざす事が出来なかった。
「それでもカノンは、『お前には関係ない』って言うの・・・・・・・?私はカノンの何?」
「・・・・・・・・・・座れ。」
「え・・・・・・・・・・?」
「ちょっとそこに座れ。」
カノンは諦めたように小さく溜息をつくと、目の前の石段を指差した。
「昔、一人の男がいた。男は物心ついた時から既にその存在を抹消され、影の道を歩かされていた。だが、それでも良かった。何故なら男には光の道もあったからだ。自分で歩く事は出来ぬが、な。」
「光の道?」
カノンと共にそこに座ってすぐ、カノンは要点の掴めない話を始めた。
やけに漠然とした内容だ。
「男は夢を抱いていた。自らの手では掴めない光を、輝かしい光の道を行く片割れに掴ませ、男達を・・・・・、男をあんな過酷な道に追いやっておきながらまだなお『我の僕であれ』などと抜かす女神と、その女神が守護する地上を足元に平伏させ、思う存分光を浴びるという、な。」
だが、そこに『女神』『片割れ』という単語が出て来た。
それを聞いては、その話の主人公である『男』というのが、何となくカノン自身の事であるような気になった。
「だが男の片割れは、男の心を悪だと罵り、決して出られぬ碧い檻に男を閉じ込めた。何度も死線を彷徨った挙句、男はそこで別世界への入口を見つけた。命からがら逃げ着いたその先が・・・・・・、海神の海底神殿だった。」
「海底神殿・・・・・、そんな御伽噺みたいな・・・・・・」
「そう思うだろうな。だが本当にあったのだ。そして男はそこで、海神を誑かした。自らを海神の使徒だと偽り、海神の名と意志、そして力を利用し、自らの野望を遂げようとしたのだ。片割れと決別し、望みを絶たれた男に怖いものなどなかった。本当に・・・・・、神をも恐れぬ男だった。」
カノンの微笑に、一瞬自嘲のようなものが混じったのは目の錯覚だろうか。
瞬きをしている間にまた真顔に戻ってしまったカノンの表情からは、もう判断する事が出来なかった。
「やがて男はそこで、七人の使徒に出会った。自らと同じ立場である海将軍が六人に、叶わぬ恋に敢えて身を焦がす美しい人魚が一人。彼らは全員海神の意志の下に集い、海神に絶対の忠誠を誓っていた。彼らの忠義は本物だった。海神の名の下に穢れた地上を洗い清めるのだと、何の疑いもない目で男に熱く語っていた。内輪でただ一人、忠義を持たない裏切り者に向かって、な。」
男を含めた七人の海将軍に、美しく儚い人魚が一人。これはいよいよ御伽噺の世界である
海将軍については知らないが、そも人魚というのは架空の生命体であって実在はしない。
実在するという逸話もまことしやかに囁かれてはいるが、どれも今一つ信憑性に欠けるものばかりなのだから。
だがには、カノンの話を冗談だと笑い飛ばす事など出来なかった。
「男は彼らと同等の立場でありながら、同等とは考えていなかった。自らの野望の為、海神同様彼ら同胞を欺き裏切って、次々と闘いの場へ送り出した。」
「皆・・・・?海将軍も、人魚も皆・・・・・?」
「そうだ。皆が闘い、血を流していたその最中、男は死にたくなるような事実を突きつけられた。絶え間なく荒い波が押し寄せてくる岩牢の中で男が死なずに済んだのは、運が良かったからでも男の実力でもなく、女神の加護のお陰だったと。男は最初、信じなかった。信じてしまえばその男はどうなる?男がそれまでにしてきた事の意味はどうなる?」
「それは・・・・・・・・・・」
心底恨み、憎んでいた相手にいつの間にか無償の愛を与えられていたら。
そう考えると、確かに頭が混乱してしまいそうだった。
誰に、何を、怒れば良いのか。
恨めば良いのか。
悔やめば良いのか。
他人事ながらにもそう感じるのだから、当の本人である『男』のその時の胸中はどんなにか酷いものだったろう。
は唇を噛み締めて、カノンの話に聞き入った。
「男は身を引き裂かれそうな葛藤に苦しんだ。だが結局、男はその事実を受け入れた。受け入れて・・・・・・・・・、死を選んだ。」
「え・・・・・・・・・・?」
「女神に借りを返し、非礼を詫びて、せめて最期ぐらいは片割れと同じ、女神の使徒としてあろう、とな。」
「じゃあ、その男の人は・・・・・・・・」
『男』が死んだのなら、その男が生きてここに居るカノンである筈はない。
話の根本にあった仮定を覆されて、は再び困惑した。
だがカノンは、笑ってこう言った。
「・・・・・・・フフッ、ところが、だ。男は死ななかった。」
「・・・・・・・・そ・・・・・・なの?」
「悪運だけは強かったんだな。或いはまた女神の加護を受けたか・・・、いずれにしても、愚かな男よ。」
「他の人達は・・・・・・、残りの使徒は・・・・・・、どうなったの?」
「・・・・・・・・・・殆ど全員死んだ。」
男が、カノンが死なずにいてくれて良かった、などと思った事を、は即座に後悔した。
浅はかな考えだったと後悔せずにはいられなかった。
それ程に、『死んだ』と呟いた時のカノンの表情は悲しげだったのだ。
「生き残ったのはシードラゴンとセイレーン、男ともう一人の海将軍だけだった。残り五人の海将軍達は全員闘いの中で壮絶な最期を遂げ、人魚は瀕死の身を引き摺って海神の形代だったジュリアンという男の命を救い、己の恋を全うして絶命した。」
「そんな・・・・・・・・」
「その後セイレーンはジュリアンと共に地上の復興に勤しみ、男は毎月八日、彼らの月命日になるとこうして夜中にコソコソ花束を持って、彼らの散った海にそれぞれ手向けに行くという訳だ。女を不安にさせながら、な。」
いつものように飄々と笑うカノンの胸に、は堪らず縋りついた。
「・・・・・・・何故お前が泣く?」
「ごめ・・・・・・、だって・・・・・・・・、私、自分が恥ずかしくて・・・・・・!」
「・・・・・・お前は何も知らなかったのだから気にするな。いや、お前だけじゃない、あの海底神殿での出来事を詳しく知る者は、この十二宮には誰も居ない。」
「そう・・・・・なの・・・・・・?」
「別に話すような事でもあるまい。」
は、アフロディーテが『話せない』と言った訳が分かった気がした。
アフロディーテは、カノンの恐らくは一番辛いであろう過去を知らないのだ。
何も共有していない、というのはそういう事だったのだ。
その時その場に居た者以外が後で何を知り、何を語ったところで、それは真実ではないのだから。
だから、こうして涙している自分も、まるで偽善者のような気がして恥ずかしかった。
彼らの死を悼んでやれる程、自身は彼らの事を何も知らないのだから。
だがカノンは、密かに自己嫌悪に陥っているを責めもせず笑いもせず、おもむろに手元の薔薇を小分けにしてに寄越し始めた。
「な、何・・・・・?」
「少し持っていろ。」
「い、良いけど・・・・・・・、どうして?」
「こうやって、花を八つの束に分けるんだ。そして一束ずつ、それぞれの散った海に手向ける。」
「そうなんだ・・・・・・・」
「一つは北太平洋、シーホースのバイアンに、一つは南太平洋、スキュラのイオに、一つはインド洋、クリュサオルのクリシュナに、一つは南氷洋、リュムナデスのカーサに、一つは北氷洋、クラーケンのアイザックに、一つは南大西洋、セイレーンのソレントに、一つはジュリアンが打ち上げられた名も無い浜辺、マーメイドのテティスに・・・・・・」
の手の中に、一束ずつ小ぶりの花束が増えていく。
身を捧げる場所と相手を得た薔薇達は、只の無造作な束だった頃よりも遥かにその表情を豊かにしたように見えた。
「そしてもう一つは北大西洋・・・・・・・・・、シードラゴンのカノンに。」
「カノン・・・・自身に・・・・?」
たとえ冗談でもそんな縁起でもない事は言わないでくれ、と言おうとして、は口を噤んだ。
何故ならカノンの顔は、悲しい響きの言葉とは裏腹に一点の苦しみも悲しみもない穏やかなもので、『あの時自分も死んでいるべきだった』などと後ろ向きに考えているような顔ではなかったからだ。
「そう、過去の俺自身への手向けの花だ。神を誑かし、神に楯突き、己の野望の為に幾つもの命を奪った大罪人・シードラゴンのカノンは、その罰を受けてあの時ポセイドンの海底神殿で死んだ。」
「じゃあ・・・・・・・、カノンは?今のカノンは一体誰なの・・・・・・?」
「・・・・・・・・・分かりきった事を訊くな。今の俺は黄金聖闘士・双子座のカノンだ。」
それを見たは、安堵した微笑をまだ涙の残る顔一杯に浮かべて最後の一束を受け取った。
「・・・・・ふふっ、出た、決め台詞!」
「決め台詞って言うな。」
「でも・・・・・、もう一つ訊いて良い?」
「ああ。」
「どうして生き残った・・・・えと・・・・セイレーン?・・・さんにも手向けるの?それから、アイザックって確か・・・・・」
「ソレントの奴も、あの頃の自分を葬りたがっているだろうと思ってな。俺の口車にまんまと乗せられて、命よりも大事なフルートを無意味な闘いの道具にしていた頃の事など、すっかり葬ってしまって無かった事にしたいと思っているだろうよ。元は虫も殺せないような優しい男だからな。」
「・・・・・・そっか。本当は音楽家なんだね、ソレントさんって。」
「の卵、らしいがな。詳しくは知らん。アイザックはお前の言う通り、カミュのアレだ、弟子だ。」
「やっぱり。でもその人って確か・・・」
アイザックという名を聞いた時から疑問に思っていた事を、は口にしようとした。
するとカノンは、が皆まで言わぬ内に饒舌に語ってくれた。
「それも詳しくは知らんが、冥界から蘇ってくる時に、カミュと氷河が女神に随分ごねたらしいぞ。『俺にアイザックを返してくれ!』だの『アイザックは私の心の薔薇だ!』だの。」
「うっそだー、あの氷河君やカミュがそんな事言う!?」
「ああ嘘だとも。」
「まっ・・・・・・・、たもう!カノンってば!!」
「ははは。」
さっきの今でこんな冗談を言う所がカノンらしい、と思いつつも体よくからかわれた事がやはり少し悔しくて、はポカポカとカノンを叩いた。
カノンはそれを、さも楽しげに笑って受け止めた。
とても楽しそうに。
「まあそれは冗談だが、氷河とカミュの願いが叶ったのは事実だ。だが、ついでだから奴にも手向けてやろうと思ってな。仲間外れは可哀相だろう?」
「ついでって;」
「まあ、奴も氷河を憎み荒れていた過去の自分を、少なからず恥じているようだからな。それに、只でさえ気が昂っていた奴の耳元に嘘八百吹き込んで良いように操ったのはこの俺だからな、その詫びだ。」
「あ・・・・・・・・・」
下らない冗談の中に混ざった一片の真実を垣間見た気がして、はまた口を噤んだ。
カノンはきっとカノンなりに、同胞の事を思っていた。
当時のカノンは気付いていなかったとしても、多分。
初めて自分という存在を見せる事が出来た彼らとの出会いは、それまでその存在を誰にも知られなかったカノンにとって、決して取るに足りない出来事ではなかった筈。
などと知った顔で言えばカノンに怒られると思い、口には出来なかったが。
「・・・・・・・お喋りが過ぎたな。そろそろ行って来る。」
カノンは不意にの手から八つの花束を受け取ると、スッと立ち上がった。
「待って!私も一緒に・・・・・・行って良い・・・・・・?」
誓っても良い。元々ついて行こうと考えていた訳ではなかった。
ただ、カノンの立ち姿を見上げた瞬間、口が勝手に動いていたのだ。
一緒に行ってどうするんだ、と軽くあしらわれるだろうか。
それとも、本気で嫌がられるだろうか。
内心緊張しながらも、はカノンの返事を待った。
「・・・・・・・・駄目だ。」
「・・・・・・・・・そ・・・・っか。そうよね。ごめん、でしゃばって・・・・」
「今夜は駄目だ。海が荒れているらしいからな。」
「え・・・・・・?」
「お前みたいなカナヅチが荒れた海にノコノコ行ってみろ、一瞬で波に攫われて土左衛門だ。だから今夜は来るな。」
私は別にカナヅチじゃありません、と反論するのも忘れて、はカノンの顔を凝視していた。
自分で頼んでおいて何だが、ついて行く事自体は迷惑ではないのだろうか、それが不思議だった。
「海が穏やかな日なら・・・・・・・、今度からは連れて行ってやる。だから今夜は大人しく家へ帰れ。」
「今度から・・・・・・・・・」
「文句は言わせんぞ。俺が海に撒く花束は八つで十分だ。それ以上増やす気はないからな。」
「・・・・・・・・・・・」
「分かったのか?分かったら返事をしろ。」
「は・・・・・い・・・・・・」
ポカンとした表情のまま間の抜けた返事するに、カノンは一瞬吃驚する程優しげな表情で笑いかけた。
優しく、どこまでも優しく、まるで今にも泣き出しそうな表情で。
「・・・・・・・・行って来る。」
次の瞬間、カノンは今度こそに背を向けて、階段を下りていった。
八人の海神の使徒達に捧げる、八つの花束を大事そうに抱えて。
シーホース、スキュラ、クリュサオル、リュムナデス、クラーケン、セイレーン、マーメイド、
そしてシードラゴン。
彼らがそれぞれに散った海で、限りなく青紫に近いピンクに見えるあの薔薇達は、間もなく波にたゆたう事になるだろう。
碧い海の悲しい色を纏った華やかな薄紅色の薔薇の葬列とそれを見つめるカノンの姿、その光景を自らの目で見た時には、今よりもっとカノンを愛するようになるだろう。
「・・・・・・行ってらっしゃい。」
は確かに、そう確信していた。