今朝、ひとつの命が消えていた。
「・・・ちょっと。さん。何してるの?」
背後から咎めるような声が飛んできて、はぎこちなく後ろを振り返った。
「あ、あの、その・・・・・!」
その声の主である先輩は、床の上に立っている。
対して下っ端の自分は、踏み台の上。
は慌ててそこから降りた。
「金魚が・・・・・」
「金魚?」
「今、餌をあげようと見に来たら、1匹死んでいて・・・」
は、ハンカチの上に掬い上げていた金魚の死骸をおずおずと見せた。
「申し訳ありません・・・・・!」
ここはグラード財団の若き総帥、城戸沙織嬢が住まう城戸邸。その中に幾つかある応接室の中の一室である。
この部屋の水槽にいる金魚は勿論、が個人的に飼っているペットではない。
この屋敷のものは何もかも、沙織嬢のものだ。
メイドの仕事の一つとしてその世話を仰せつかっている以上、まずは誠心誠意、詫びねばならない。
・・・と、は思っていた。
だが先輩の方は、怪訝な顔をしただけだった。
「私に謝られても。謝るんなら、辰巳さんにでも謝っておけば?」
「は・・・、はい・・・・・」
「っていうかそんな事どうでも良いから、さっさと持ち場の掃除済ませてきてね。
他にもやる事いっぱいあるんだから。」
「・・・・はい・・・・・・・」
忙しげに歩き去っていく彼女の後ろ姿を見送って、は小さく溜息を吐いた。
仕事が一段落してから、はスコップと金魚の死骸を持って庭に出た。
ゴミ袋に放り込む事はどうしても出来ず、庭に埋めようと思ったのだ。
庭と言っても、綺麗に手入れをされている花壇や芝生をほじくり返す訳にはいかないが、
片隅のどこか目立たない場所ならば、景観を損なう事もないから許されるだろう。
は人目に付き難い場所を探して歩き、程なくして、丁度良さそうな場所を見つけた。
そこには何も植えられておらず、勝手に小さな花をつけている雑草がまばらに生えているだけだった。
ここにしようと決め、は土を掘った。
縁日で掬うような小さい金魚とは違う、立派な金魚だったが、あくまでも金魚である。
埋める穴は、花を一株植える程度の大きさで事足りた。
そこに金魚の死骸を納め、ひとつまみの餌をふりかけて、は静かに手を合わせた。
声を掛けられたのは、その時だった。
「何をしているのだ?」
「はっ、はいっ・・・・・・!?」
驚いて振り返って見れば、そこに居たのは背の高い、外国人の男性だった。
長く豊かな金髪をそよ風になびかせ、整った美貌がをまっすぐに見つめて優しく微笑んでいた。
彼の名前は知らない。だが顔は知っていた。確か以前にも見掛けた事がある。
彼は偶に訪れる沙織嬢の客だった。
ギリシャから来ているらしいという事は、メイド仲間の噂話を聞きかじって知っているが、
その他の事は、は何も知らなかった。口を利くのも、勿論これが初めてだった。
「あ、あの・・・・、その・・・・、応接室の金魚が死んでしまったので・・・・・」
「弔おうとしていた、という訳か。」
「は、はい・・・・・・・」
明らかに西洋人の風貌をしながら、流暢な日本語を喋る彼に驚きながらも、
しかしは、それを口に出す事は出来なかった。
彼は、自分のような下っ端の使用人が馴れ馴れしくして良い相手ではないのだから。
それなのに。
「ならば、私も立ち会おう。」
「え・・・・・?あの・・・・・・」
「少し場所を空けてくれないか?」
「あっ、す、すみません・・・・・!」
彼はの真横にやって来て、当然のように土に膝をつけて跪き、
穴の中の金魚を慈悲深い眼差しで暫し見つめてから、その長い睫毛を静かに伏せた。
「・・・・・・・・・・」
彼はここで初めて、には分からない言葉を呟き始めた。
だが、それが祈りの言葉であろう事は、何となく理解出来た。
これがギリシャ語で、これがギリシャの宗教の経文のようなものなのだろうか。
訳が分からないながらも、は自らも両手を合わせ、目を閉じて祈りを捧げた。
所作も言葉もまるでちぐはぐで変テコな儀式だったが、それをおかしく思う冷静さは、今のにはなかった。
「・・・・・これで良い。きっとこの金魚は、神の下に召される筈だ。」
少しして、彼の方から口を開いた。
「君は仏教徒なのか?もしそうなら、出しゃばった真似をしてすまなかった。私の流派で勝手にやってしまって。」
「い、いえ、別に仏教徒って訳では・・・・・。そんな事、全然・・・・・」
「そうか?ならば良かったが。私の仲間に、それは熱心な仏教徒がいてな。
丁度今、一緒に来ているから、もし良ければ呼んで来て読経を・・」
「と、とんでもないです!そんなお手間を・・・・!」
どこまで本気で言っているのだろうか。
彼の言う事は、少し変わっていた。
いや、少しどころではない。
大真面目に金魚を弔ってくれる事自体が、とてつもなく風変わりなのだ。
「・・・・・・これで十分すぎるほど十分です。ありがとうございました。
ヒメもきっと喜んでいると思います。」
「ヒメ?」
「この子の名前です。と言っても、私が勝手につけて、こっそり呼んでいただけなんですけど。
尾びれが人魚姫みたいに綺麗なので。」
金魚が1匹死んだからといって、誰も気になど留めない。
他のメイド達も、執事の辰巳も、全く無関心だった。
犬や猫のようにコミュニケーションを取れない水槽の金魚達は、ペットというよりは、インテリアに近い存在なのだろう。
だが、世話係のにとっては、そうではなかった。
「本当だ。良い名を授けられていたのだな、お前は。」
それを、他の誰かが共感してくれたという事が、には嬉しかった。
金魚を弔ってくれた彼は、サガという名のギリシャ人だった。
彼のその名前と、その美しい容姿ゆえに城戸邸のメイド達の間で密かに
絶大な人気を誇っているという事以外、確かな話は聞けなかった。
ある者は彼をグラード財団ギリシャ支部のトップだと言い、またある者は沙織嬢のSPの一人だと言い、
以前、沙織嬢が十代の『聖闘士』なる少年達を集めて『銀河戦争』という格闘大会を開催したが、
彼はその関係者だと言う者もあった。
いずれもさも真実味のある話ではあったが、しかし、いずれもサガ本人の口から聞いた話ではないようだった。
来訪の頻度も時間帯も不規則極まりなく、彼が一体いつ来るのか、いつ帰るのか、それを知る者は誰もいない。
屋敷がとてつもなく広いというのも、その理由の一つなのだろう。
仮に来ていても、使用人達の皆が皆、彼に会える訳ではなかった。
だから城戸邸のメイド達は、サガや、その仲間であるらしい男性客を見掛けると、
今日はハッピーな日だと、一日中上機嫌で浮かれていた。
外国人の客自体は珍しくない。国籍・性別・年齢問わず、色々な人がしょっちゅうやって来る。
しかしこのギリシャからの客人達は、どういう訳か若い男性ばかりで、しかも美形揃いなのだ。
ジャンケンでお茶出し係に当たれば、まるで宝くじにでも当選したかのように大騒ぎし、
ほんの少しでも言葉を交わせたら、向こう数日は上の空で仕事にならない有様だった。
そうして浮かれ騒ぐ輪の中に、はこれまで属していなかった。
ここで働くようになってまだあまり日も経たないという事もあるが、
まず、人と熾烈な競争を繰り広げる事の出来るような性格ではないからだ。
ミステリアスで見目麗しい彼等の話で盛り上がっているその場の空気を壊さない程度に
相槌を打つ事はしても、お茶出し係の座を巡って皆と争う事は勿論、
自分から積極的に彼等の事を話し、騒ぎ、はしゃぐ事もしてこなかった。
だがあの日から、も密かにサガの姿を捜すようになった。
書庫のテーブルに、庭の木陰に、今日は居るかも知れないと。
あの木漏れ日のような金の髪と優しい瞳にもう一度会いたくて、毎日毎日、
胸を弾ませながら起きては、少しの寂しさと明日への期待を抱きつつ眠りに就いた。
そんな日々を何日も、何週間も繰り返した頃、の願いは遂に叶った。
ある日、いつものように掃除をしに応接室に入ると、彼がいた。
何の前触れもなく、まるでいつもそこでそうしているかのようにごく自然な様子で、水槽の金魚を眺めていた。
また会いたいとずっと思ってはいたが、こうして唐突にそれが叶うと、
ハッピーとかラッキーとかよりも驚きの方が大きくて、声も出せなかった。
「やあ。おはよう。」
振り返って、先に口を開いたのは、サガの方だった。
にこやかな微笑みに促されるようにして、はやっとの思いで『おはようございます』とだけ呟いた。
「新しい金魚を入れたのだな。」
「は、はい・・・・・・、でも、何故それを・・・・・」
「以前から時々見ていたものでな。今日は新顔がいるなと思ったのだ。」
ほら、こいつだ、と水槽越しにサガが指さした金魚は、確かに、最近飼い始めた新参者だった。
大きな水槽に対して、金魚は5匹。
数の増減や金魚の個体差に気が付くのは、さして難しい事ではない。
だがそれは、多少なりとも関心を持って継続的に観察している者に限って言える事だ。
何の興味もない者が適当に言い当てられる事ではなかった。
「そ・・・・、そうなんです。死んだヒメの代わりに、2週間程前に。」
「名前は?」
「つけていません。」
「何故つけない?」
「変に情が移って、死んだら悲しくなりますから。」
そう答えて、は笑った。
たったそれだけの、他愛のない話。
聞いて、笑って、流して、それで終わりの筈だった。
それなのに。
「だが、君はきっと、やはり情を移すのではないかな。たとえ名前がなくても。」
「え・・・・・・・?」
「君に世話をされている魚達は、幸せだ。」
サガは息が止まりそうな程に優しい微笑みを、に投げ掛けた。
恋に落ちた時というのは、いつなのだろうか。
激しい胸の高鳴りを感じたその瞬間なのか、それとも、また会いたいと思うようになった時には既に落ちていたのか。
ただ一つ、確実に言えるのは、今はもう、その想いを止められないという事だけだった。
「失礼致します。沙織お嬢様。」
「・・・お入りなさい。」
重厚な寝室のドアをノックすると、中からすぐに返事があった。
「し、失礼致します・・・・。」
は殊更に恐縮しながら、沙織嬢の寝室に入った。
沙織嬢は、可憐なネグリジェ姿でベッドの側にいた。
捲られた上掛けが、彼女が今にもベッドに入ろうとしていたのを物語っていた。
「何です?」
彼女はきっと、がベッドメイクか片付けにでも来たのだろうと思っているに違いなかった。
メイドが主の部屋を訪ねるのに、それ以外の用などないのだから。
だが、そうではないから緊張する。
は震えそうになる自分をしっかりしろと励まし、恐る恐る口を開いた。
「あ、あの、夜分遅くに申し訳ございません・・・・。
お、折り入って、その、お嬢様に・・・・・、お、お伺いしたい事がありまして・・・・」
「何です?」
さっきと同じ言葉でも、今度はニュアンスが違っていた。
一瞬、意外そうな顔をした沙織嬢は、ベッドの側を離れ、に歩み寄って来た。
もう今更引き返せない。
ここに来るまでに何度も何度も練習した事を必死で思い出しながら、は続けた。
「あ、あの、あの・・・・・、ギリシャから来られる・・・、お客様の事で・・・・」
「ギリシャからのお客様?」
「は、はい・・・・。あの、サガ様・・・と仰る方、なのですが・・・」
「サガ?彼がどうかしましたか?」
どうしても、どうしても、サガに会いたかった。
会って、募る一方のこの想いを、自分の気持ちを、彼に伝えたかった。
何週間先、何ヶ月先になるか分からない機会を、そもそもあるかどうかも分からないそれを
あてもなくただ待つ事は、もうこれ以上出来なかった。
だから、思いきって自分から行動を起こしたのだ。
こんな冒険は、の人生の中で初めてだった。
「あの・・・・、ま、またお越しになるご予定はありますか・・・・!?」
沙織嬢は、きょとんとした瞳でをまっすぐに見つめていた。
彼女に何もかもを見透かされた気がして、は逃げ出したい程の羞恥心に駆られた。
顔が熱く火照っているのが、自分でも分かる位だ。
だが、元より何も訊かれずに教えて貰えるとは思っていなかった。
この為に尤もらしい口実も考えてきたのだ。
「あ、あの、この間お越しになった時に、忘れ物をなさいまして・・・・!
つ、次に来られた時にお返ししようと思いましたもので・・・・・!」
しどろもどろなの言い訳を最後まで聞き届けた沙織嬢は、
おもむろにの横をすり抜けていき、手帳を取ってすぐに戻って来た。
「・・・・・・あら、偶然。明日来る予定になっていたわ。」
「・・・・・え・・・・・・!?」
予想もしなかった返答に、頭が真っ白になった。
「時間は、そうですね・・・・・、多分、午後になるかと。
私は明日も朝から出掛けていますが、私の代わりにおもてなしを頼みましたよ。」
呆然としているに向かって、沙織嬢はにっこりと微笑んだ。
その時は只々驚いて頭が回らなかったが、少し落ち着いてみれば、それが嘘だというのはすぐに分かった。
偶々翌日に来る予定だったなんて、そんなわざとらしい偶然は普通ない。
だが、どうであれ、それは実現してしまった。
「・・・・いや。申し訳ないが、これは私の物ではないようだ。」
手元に返されたハンカチを、はいっそ逃げ出したい気分で受け取った。
「だが、君がこれを私の忘れ物だと思って、律義にずっと預かってくれていたというのは、沙織嬢から伺っている。
その気持ちはとても嬉しく思っている。どうもありがとう。」
「・・・・いえ・・・・・・」
どうしてサガがお礼を言ったり、まして申し訳なく思う必要があるだろうか。
このハンカチは、他の客が忘れていった物なのに。
正直、サガの来訪予定を訊いたところで、すぐに会えるとは思っていなかった。
予定があっても暫く先か、或いは全くの未定か、そう思っていた。
ところが、こうして思いもかけない事になってしまい、口実のつじつまを合わせる時間、
つまり、ハンカチを買いに行く事が出来なかったのだ。
本当は休みの日に都心のデパートへ出向いて、彼に相応しそうな上等な物をゆっくり選びたかったのに、
朝から仕事が山積みで、デパートどころか近くのコンビニにさえも行く暇がなく、
背に腹代えられずに、誰のだか分からない忘れ物を無断で拝借してしまったのである。
そんな自分が酷く愚かしく思えて仕方がなくて、サガに会えた嬉しさよりも、心苦しさや後悔の方が勝っていた。
「こちらこそ、お手間を取らせまして、すみませんでした・・・・・・。」
短慮、浅はか、考え足らずな馬鹿。
自分に対する悪口が、際限なしに頭に浮かんでくる。
沙織嬢にも、サガにも、余計な気と労力を使わせておいて、何という不手際だろうか。
「・・・・・・・・」
その不手際は、そっくりそのまま、の心の準備不足と言えた。
折角勇気を出して行動したのに、ほんのちょっと不測の事態が起きた位で動揺して、台無しにしてしまったのだから。
「・・・・・あの・・・・、只今、お茶をお持ちいたします。」
「いや、どうか気を遣わず。今日は書斎に届け物をしたら、すぐに失礼するので。」
不測の事態?
そうではない。
千載一遇のチャンスだった。
もう二度と、こんなラッキーは起こり得ないと断言出来るのに。
「・・・・そう、ですか・・・・・」
それなのに、どうして自分はそれを掴み取れないのだろう。
ハンカチなど、元々単なる口実に過ぎないのに。
そんな物どうでも良いから、早く告げてしまえば良いのに。
「・・・・では、また。」
このぎこちない空気に耐えかねたように、サガは帰るそぶりを見せた。
何か妙だとは思っているだろうが、それを深く考える気はないのだろう。
当たり前だ。
彼のような眩しい人が、こんな冴えない小娘を顧みる事などある訳がない。
そんな事は、最初から分かっていた筈なのに。
「お前達も、またな。」
サガは水槽を指先でそっとつつき、金魚達にもさよならを告げた。
彼がまたここに来て金魚達を眺める事は、恐らくはあるのだろう。
これまでのように、何週間先か、何ヶ月先かに。
その時、この想いは、果たしてどんな風になっているのだろうか。
ずっと燻り続けているままか、それとも、枯れてしまっているのか。
「・・・・・待って・・・・下さい・・・・・・」
嫌だ。
相手にされないのは百も承知で、だけどそれでも、気付かれぬまま枯らしてしまうのは嫌だから、
だから、勇気を振り絞ったのだ。
「・・・何か?」
振り返ったサガを、はまっすぐに見つめた。
「貴方が・・・・・、貴方が好きです!」
死ぬ程の勇気と共に、やっとの思いで絞り出した言葉は、あまりにも月並みだった。
しかしそれ以上言葉を接ぐ事も出来ず、は息を潜めて、驚いたように目を見開いているサガを見つめていた。
「・・・・・・・・」
やがてサガは、驚いていたその表情を柔らかく変えた。
それは息が止まりそうな程、優しい、優しい、微笑みだった。