車のクラクションが鳴り響く交差点、スーツ姿の人の波。
道を歩くにつれて、排気ガスや、通りすがった洋食屋から漂って来る、トマトソースの匂いに変わる風。
歩く人の顔ぶれも、信号の色も、何もかもが目まぐるしく変化する、忙しいこの街の名は東京。
二人は今、そこに居た。
「東京って、こんなにゴミゴミしてたっけ?」
「ふふ、忘れてしまいましたか?ここは貴女の故郷でしょう?」
「そうだけど、聖域での暮らしに慣れちゃったから。久しぶりに帰って来ると、なんか調子が狂っちゃうのよね〜。」
「なるほど。ならば、慣れない私が息苦しいのも無理はありませんね。どうもこのトーキョーという街は、いつ来ても忙しなく感じて落ち着きません。ここで生まれ育った貴女には申し訳ありませんが。」
涼しげな微笑で不快を訴えるムウに、は苦笑した。
元来静かな場所を好む彼は、騒々しい大都市に出向く事を嫌う。
それがいくら任務や沙織への使いだとしても、いつも何だかんだと上手い言い訳を見繕っては避ける事が多い。
ところが今回は沙織から直に頼まれた為、流石の彼も断りきれなかったようだ。
しかし、気の向かない仕事を仰せつかったムウには気の毒だと思うが、案内役として同行したは、このちょっとした二人旅を楽しんでいた。
「良いのよ、苦手なものは誰だってあるんだから。でもね、今の時期は、東京も満更捨てたもんじゃないなって思えるわよ。」
「というと?」
「桜。丁度今が盛りみたいね。良い時に来れて良かったわ。」
にっこりと微笑むに、ムウはああと頷いた。
「日本にはそれがありましたね。満開の桜は、それはそれは絶景だとか。」
「そうよー!だから皆、桜が咲いたらお花見お花見って浮かれてね。」
「ほう。それ程素晴らしいものなのですか。私はまだ一度も実物を見た事がないので、良く分かりませんが。」
「・・・・・・じゃあ、お花見する?良いポイントがあるんだけど。」
は、ムウの顔色を伺うように誘った。
今回の旅の目的は仕事だ。
つまり、滞在中はそれ相応に予定が詰まっていて、ゆっくり羽根を伸ばす暇は取れない。
だがは、ムウと桜が見たかった。
誰にも秘密の、とっておきのあの場所に行けば。
降りしきる桜の花びらの下でなら。
今一歩で恋人になりきれない今の関係を、変えられる気がしたから。
「いえ。折角ですが、遠慮しておきましょう。騒々しいのは苦手なのです。」
だがムウは、その誘いを断った。
ただとにかく人込みが嫌なだけだというのは分かっている。
しかし、拒まれたように感じるのは何故だろう。
「そう。」
少し悲しくなった事を悟られないように、はにっこりと微笑んだ。
締め慣れないネクタイを解いてソファに投げ捨て、その隣に自分の身体も放り出してから、ムウは深々と溜息をついた。
繁華街の中心にそびえ立つ高層ホテルの窓から見える夜景は、派手なネオンに彩られて、人工的な美しさに輝いている。
今頃同じ光景を隣の部屋で見ているであろうの表情を想像して、ムウはまた溜息をついた。
用事を片付けている間も、女神との会食の間も、ホテルに戻るタクシーの中でも、エレベーターの中でも、は笑顔だった。
笑顔で、寂しそうだった。
「こんな筈ではなかったのに・・・・・・」
桜の花を直接見た事はなくても、ホテルのTVでやっていたニュースは昨日見た。
都内の有名な桜の名所で花見をする、羽目を外した酔客達が、こちらに向かって酔った顔をヘラヘラと緩ませていた。
いくら美しい所でも、花など見もせず真っ赤な顔をして騒ぐ花見客でごった返す場所では、行く気にならない。
そんな所へ行く位なら、ホテルのラウンジの方が幾分マシだ。
そう、場所など問題ではない。
ただと語らい過ごす時間に水を差さない静けさがあれば、それで良かった。
今更そんな事を口に出して言わずとも、は分かっているものと思っていたのだが、どうやらそれは少々甘かったようだ。
「ああ、やってしまった・・・・・」
自分でも不思議だが、笑顔でおやすみなさいと告げられた時にようやく思い出したのだ。
殆ど恋人のような関係でも、正確にはまだ恋人でなかった事に。
まだちゃんと気持ちを伝えていなかった事に。
それなのに、が一から十まで自分の気持ちを分かる筈などないではないか。
どうしてそんな事に、今まで気付かなかったのだろう。
しかし後悔しても時は既に遅く、は自室のドアを閉めた後だった。
今からでも間に合うだろうか。
最後にもう一度大きく溜息をつくと、ムウはその勢いを借りるようにして立ち上がった。
鳴らないと思っていたノックの音が、一瞬心をざわめかせた。
ついさっきまで感じていた寂しさや悲しさが、途端に緊張と期待に姿を変える。
「ムウ・・・・・・・」
「良かった、まだ起きていましたか。」
「うん・・・・・、でもどうしたの?何か用?」
「昼間言っていたポイント、今から案内してくれませんか?」
少し不安そうな、けれど穏やかな笑顔のムウを見て、は一瞬泣き出しそうに顔を歪めた。
「・・・・・・今から?」
「ええ。今すぐに。」
「・・・・・・でも、もう髪も解いちゃったし、化粧だって殆ど落ちてるし・・・・・」
ムウが行く気になってくれたのは嬉しい。
けれど女心が邪魔をして、すぐに頷けない。
本当なら、髪も服もメイクももっときちんとしたかったのだ。
今に限って少し強引なムウに、は嬉しさと困惑が混じった複雑な心境になった。
「問題有りません。私もこんな格好ですから。」
しかしムウは事も無げにそう言って、自分を指差した。
上着もネクタイもなく、きっちりと留めてあったYシャツのボタンは、上から二つ程外れている。
普段衣服を乱す事のないムウの、少しだらしない姿に、は泣き笑いのような表情を浮かべて頷いた。
「ここ・・・・・・ですか?」
案内された場所は、想像していた場所ではなかった。
が望むなら、多少の不快さは我慢しようと覚悟を決めてきたのだが、着いた場所は繁華街から少し外れた、ただの静かな町角だった。
「そう、ここよ。正確に言うと、ここから、かな。」
「ここから?」
そう言われても、周囲には家や店が立ち並ぶだけで、特に目を惹くようなものは何も無い。
花見客らしき団体も居ない。
何の変哲もないこの場所が、本当にそのポイントなのだろうかとムウは訝しんだ。
「これは・・・・・!」
その疑問は、に導かれるままコンビニの角を曲がった途端に解けた。
角を曲がったそこは、延々と向こうの方まで続く桜の並木道だったのだ。
今が盛りとばかりに咲き誇る桜は、先が見えなくなる程の花霞を広げて、無機質なアスファルトの舗装道路を薄紅色に染めていた。
「何と見事な・・・・・・・・」
「でしょう?どう、気に入った?」
「ええ、とても・・・・・・・、とても素晴らしい。」
口元に感動の笑みを浮かべて頭上を見上げるムウを見て、は嬉しそうに微笑んだ。
「普段は何て事ない道なのよ。そこの川だって、只の汚い溝川だし。」
「ほう。どれですか?」
「見ても汚いだけだよ?」
「・・・・本当だ。」
「だから言ったでしょ〜。」
並木の向こうの川を覗き込んで肩を竦めたムウに、は苦笑した。
道路の中央に深く掘り下げられたその川は、なるほど、目を凝らせば確かに汚い川だが、夜の闇と桜の花びらがそれを巧く隠している。
「でもね、この時期だけは別世界みたいに綺麗になるんだよね。」
ゆっくりと桜の下を歩きながら微笑むの髪に、桜の花が一片舞い落ちる。
艶やかな栗色の髪に、たおやかな桜の花を飾ったは、ムウの目にとても眩しく映った。
「・・・・・・・ええ、とても綺麗ですよ。」
「でしょう?ここなら人込みもないし、良い場所でしょ?実はね、ここは・・・・・」
綺麗と言ったのはの事なのに、それに気付かず喋り続けるの屈託のない笑顔に、今度はムウが苦笑した。
の髪についた花びらは、まだそのままの状態でふわふわと揺れている。
触れてと誘うような、その軽やかな動きに目を奪われ、触れようか触れまいか、ムウは暫し迷った。
「ムウ?どうしたの?」
「えっ・・・・・?あ、いや、何でもありません。」
「もう、聞いてた?私の話。」
「あ、いやその・・・・・、失礼。」
面目なさそうなムウに小さく笑うと、はムウが聞き逃していた話をもう一度始めた。
「ねえ、この道をまっすぐ行ったら、どこに着くと思う?」
「この道を?・・・・・・さあ。トーキョーの地理には詳しくありませんので。」
「ここをまっすぐ行くとね、私が育った孤児院に着くの。だからここには、子供の頃からの思い出が一杯詰まってるんだ。色んな思い出が一杯。」
は、花霞で煙る道の向こうに投げ掛けていた瞳を、ムウに向けた。
「・・・・・ここの桜をね、ムウに見せたかったの。秘密の大事な場所だから、ムウと来たかったの。今までずっと言えなかったけど、ここでなら言えそうな気がしたから。」
「・・・・・・・」
「ずっと言いたかったの。私ね・・・・・・・」
少し緊張したように微笑むの頬が、心なしか舞い散る桜の色に染まって見える。
薄紅色に色付いた唇が、重大な秘密でも紡ぎ出そうとするかのように開くのを、ムウは黙って見ていられなかった。
「ムウ・・・・・・?」
突然人差し指を唇に押し当てられて驚いたは、瞬きも忘れてじっとムウを見つめ、ムウはの唇に人差し指を当てたまま、ふわりと微笑んだ。
まるで桜の蕾が、人知れずそっと綻ぶように。
「とても素敵な場所ですね。ここに来れて良かった。」
「あの、ムウ・・・・・・?」
「また来年のこの時期も、二人で桜を見に来ましょう。」
まだ呆けたように立ち竦んでいるを腕の中に抱きしめて、ムウは戸惑うように小さく開かれた桜色の唇に、己の唇を寄せた。
「愛する貴女の、大事なこの場所に・・・・・・・」
深く澄んだムウの声が、愛の言葉を紡いだ後。
驚いたように見開かれていた黒い瞳はゆっくりと閉じられ、
髪を離れた桜の花の一片は、春の夜風に舞いながら、夜の闇に溶けていった。