どんよりと曇っていた空から、とうとう雨が降り出した。
眩しい太陽の季節の終わりを告げる雨だ。
パラパラと寂しげな降り方をするその雨を、が黙って眺めている。
その後ろ姿は雨よりも一層寂しげに見えて、俺はの背中を抱き締めずにいられなかった。
は振り返り、俺を見て微笑んだ。
穏やかで、優しげな、けれど決して幸せそうではない顔で。
「雨が降ってきたわ。」
「そうだな。」
「傘、持って来てる?」
「いや。」
「じゃあ、帰る時に止んでいなかったら、私のを貸してあげるわね。」
礼を言う代わりに、俺はの唇にキスをした。
礼の代わりではなく、戒めのつもりで。
「今来たばかりなのに、もう帰りの話をするなんて、ちょっと冷たくないか?」
「ふふ・・・・、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの。怒らないで。」
今度はの方から唇を合わせてきた。
柔らかな舌先が、俺の機嫌を伺うかのように、俺の唇を遠慮がちになぞる。
怒ってなどいる訳がない。そうとも、怒ってなど。
俺はのキスに応えながら、をベッドに横たえた。
窓ガラスを、無数の雨粒が伝い落ちている。
チラリと見た感じ、すぐには止みそうになかった。
今頃、表通りはきっと、蜘蛛の子を散らしたようになっているだろう。
店は軒先に並べた商品を慌てて回収し、道行く人々は小走りに急いだり、カフェに逃げ込んだりして。
「はっ・・・・・・」
このアパートメントから一歩外に出れば、そうして多くの人々がきびきびと
活動しているというのに、俺達は恥ずかしげもなくベッドの上でもつれ合っている。
だが、躊躇ったり恥ずかしく思ったのは、ほんの最初の内だけだった。
俺は聖域・獅子宮を預かる黄金聖闘士であり、はで、聖域から遠く離れたこの町で働き、日々を暮らしている。
そうである以上、互いの都合を合わせて会う時間を捻出するのが最優先であり、
それが一日の内のどの時間帯になるかなど、気にしてはいられなかった。
「あぁ・・・・・・・・」
俺達は、会える時に会い、こうして抱き合う。
出向くのはいつも俺からで、場所は必ずの部屋。
初めの内は外で食事をしたり、映画に誘ったりしていたが、
一線を越えてしまった後からは、あまり出歩かなくなってしまった。
会うや否や会話もそこそこにシャワーを浴びて、帰る直前までほぼベッドの上で過ごしている。
恋人にしては不健全な関係だと、自分でも思う。
恋人というよりは、まるで愛人だ。
だが、これが今の俺達の関係であり、変える事は出来ない。
俺達の中に『彼』が存在し続ける限り、そして、俺達がそれを望み続ける限り。
黄金聖闘士・射手座のアイオロス。
彼は俺との中で、正しく金色の光のような存在だった。
仁・智・勇に優れた立派な聖闘士で、誰からも慕われていた。
そのような偉大な人物が自分の兄であるという事が、俺の何よりの誇りだった。
俺は兄を愛していた。
いつか兄のような男になりたい、そんな絶対的な憧れと敬意を、彼に対して抱いていた。
俺の愛が敬愛ならば、の愛は純愛だった。
兄と同い年で、ロドリオ村で生まれ育ったは、兄の幼馴染だった。
兄と、そして俺は、暇さえあれば一緒にいて、よく三人で遊び転げていた。
幼かった俺の目には、は姉のように見えていた。
が本当の姉になってくれるのを、心から望んでいた。
そう思っているのは、俺だけではなかった。
俺達を見守る周囲の大人達は、若く初々しい二人を微笑ましげに見つめては、近い将来の予想を口々に語ったものだった。
そうして冷やかされると、は決まってそっぽを向いた。
だが、その頬は真っ赤だった。
大らかに笑いながらをからかう兄の眼差しは、温かく優しかった。
幼い俺にも、二人が近い将来結ばれるであろう事は、はっきりと予感出来た。
その日が来るのが、心底待ち遠しかった。
だが、そんな幸せな日々は、あの日、突然に終わりを告げた。
兄の死によって。
「あぁっ・・・・・・・!んっ・・・・・・・・!」
兄の花嫁となり、俺の姉になる筈だったが、今は俺の下で身を捩って喘いでいる。
今のは、俺の好きだった優しい姉の顔はしていない。
俺をどうしようもなく惹き付ける、『女』の顔をしている。
兄はきっと、のこんな顔を見た事はなかっただろう。
兄の性格を考えれば、兄がの身体に指一本触れないまま逝ったであろう事は想像がつく。
巡り合わせというのは、つくづく不思議で皮肉なものだ。
二人が結ばれるのを誰よりも望んでいた俺が、兄を差し置いてを抱いてしまうとは。
姉弟になる筈だった俺達が、引き裂かれ、再会し、男と女として新たな関係を築き始めてしまうとは。
兄・アイオロスは、その命と共に名誉も失った。
英雄だった彼は、たった一夜にして、女神殺害を企てた逆賊と蔑まれるようになってしまった。
それにより、弟である俺の立場も一変したが、もっと気の毒だったのはとその一家だった。
の家はごく普通の農家で、聖域内部の事情など勿論知る由もなかったのに、
行方をくらました女神や、共に消えた射手座の黄金聖衣の事を何か知っているのではないかという
疑いをかけられ、の一家は全員、何日も拘束されて尋問された。
特に、兄と公然の仲だったは、俺と同じく厳しい詮議を受けた。
結果、とその一家に対する疑いは晴れ、無事に解放されたが、
その時にはもう、ロドリオ村に達の居場所はなかった。
謀反に加担したかも知れない娘とその家族を、聖域の教皇を崇拝していた村人達は、
以前のように受け入れられなくなっていた。
居た堪れなくなったとその家族は、逃げるように村を出て行った。
丁度今のように、夏の終わりの雨がそぼ降る日の事だった。
と再会したのは、今年の初夏だった。
所用でこの町を訪れた時、通りを歩いていくを偶然見掛けて、我が目を疑った。
黙ってロドリオ村を出て行ったきり、何処へ行ったか分からなかったが、まさかこんな所にいたとは思いもしなかった。
声を掛けると、も酷く驚いた。
二人して往来で立ち止まり、只々、驚くばかりだった。
その驚きが少し落ち着くと、今度はどうしようもなく嬉しくなってきた。
懐かしくて、嬉しくて、心が弾むというのはこういう事を言うのだと思った。
気が付けば俺は、をカフェに誘い、柄にもなくひっきりなしに喋っていた。
話したい事も訊きたい事も山のようにあって、収拾がつかなかった。
たった一度のティータイムでは、この十数年間は到底語り尽くせなかった。
それから俺は、せっせとこの町に通うようになった。
の仕事が終わる頃を見計らってやって来ては、レストランで夕食を共にし、
休みの日は出来るだけ早く来て、と連れ立って歩き、デートの真似事をした。
昔はとてつもなく大きく感じた年の差は、今となっては全く気にならなかった。
俺はもう、あの頃の兄より何歳も年を取り、身体も大きくなっていた。
そして、華奢な少女だったは、美しい大人の女性に成長していた。
そんなに、昔とは種類の違う好意を寄せるようになるのに、時間はかからなかった。
しかし俺は、その気持ちをに打ち明ける気はなかった。
俺の中には、今も兄・アイオロスが生きていたからだ。
かつての兄との、清らかな愛をまだ覚えていたからだ。
そして、あの日の悲劇も。
兄の汚名が無事にそそがれた事はにも伝えていたが、俺の中では解決のついた事でも、にとってはそうではない。
兄の汚名がそそがれたからと言って、それで兄がの元に帰ってくる訳ではない。
あの日の悲しみや苦しみが、の記憶から消える訳でもない。
それなのに、今頃になって俺が想いを寄せれば、の古傷を抉る事になるかも知れない。
そんな事になる位ならば、旧友のままで良い。そう思っていた。
だが。
「あぁっ・・・・、もう・・・・・、きて・・・・・、お願い・・・・・・」
「ああ・・・・・・」
「んっ・・・・、あぁっ・・・・・・!」
初めに求めてきたのは、の方からだった。
勿論、戸惑った。
幾ら求められたからといって、本当に俺がを抱いてしまって良いのかと、兄に対する後ろめたさが重く圧し掛かった。
だが結局、拒む事は出来なかった。
泣きそうな顔で俺を求めるに恥をかかせる事は出来なかったし、
何より俺自身が、男として、の魅力に抗えなかった。
「あっ、んっ・・・・・!あぁっ・・・・・・・!も、っと・・・・・・」
「こうか・・・・・・・?」
「あああっ・・・・・・・!」
気が付けば俺は、どうにかなりそうな程の罪悪感と快楽に身を焦がしていた。
「もっと・・・・・、もっと・・・・・、抱いて・・・・・・・!」
「分かってる・・・・・・、もっと激しく、だろう・・・・・・?」
「ひっ・・・、あぁぁっ・・・・・・・!」
そして今では、を躊躇いなく抱けるようになっている。
もまた、回数を重ねる毎に、奔放に俺を求めるようになっている。
「あん・・・・・!ああっ・・・・・・・・!愛・・・してる・・・・・・・」
抱かれている時、は決まって俺の首をかき抱き、俺の耳元に愛を囁く。
だが、その愛は俺に向けられているのではない。
それに気付いたのは、関係を持つようになって少ししてからだった。
俺にあれからの年月があったように、にもまた、あれからの歴史があった。
聞けばの一家は、ロドリオ村を出た後すぐに、遠縁の者を頼ってこの町に移り住んだようだった。
ロドリオ村で生まれ育ち、俺達兄弟と過ごした時間とほぼ同じ長さの時を、ずっとこの町で過ごしてきたという訳だ。
の一家は、ロドリオ村で暮らした日々を、忌まわしき過去として葬り去った。
聖闘士や聖域の事を記憶の奥底に埋め、何もかもを無かった事にして新しく生き直そうと決めた。
そしてにも、そうする事を求めた。
は、それに逆らえなかった。
家族の気持ちを考えれば、逆らう事など出来よう筈もなかった。
はこの町で学び、働き、そして数年前には結婚もした。
だがその結婚生活は、子供も授からないまま、僅か一年程で破綻したとの事だった。
これといった明確な理由があった訳ではない、ただ、すれ違ったのだと、は言っていた。
それからは、ずっとこのアパートメントで独り暮らしをしている。
俺と再会するまでは、仕事場とこの部屋を往復するだけの退屈な毎日だったと、笑って言っていた。
それは多分、嘘ではなかった。
離婚してから、はずっと独りで、隠者のようにひっそりと生きてきた。
いや、恐らく結婚していた頃も、それ以前も。
兄と死に別れてからずっと、はその心に誰も受け入れなかった。
そこにはずっと兄がいたからだ。そして、今もなお。
そんなの気持ちは、俺にもよく分かった。
誰かに忘れろと言われて、忘れられるものではないのだ。
俺達は、彼を心から愛していた。
その想いの強さに順位をつける事は出来ないが、性別や立場が違い、愛の形が違う分、の方がきっと俺より辛かった。
俺は兄と同じ黄金聖闘士となり、兄の遺志に触れ、受け継ぎ、全てを乗り越える事が出来た。
だが、は違う。
はあの日の悲しみを、兄への思慕の情を、ずっと引き摺り続けてきた。
兄を失っただけでなく、兄にまつわる何もかもを否応なしに捨てさせられて、気持ちに区切りをつける事も出来ずに。
何度目かのセックスの時に、俺はそれに気付いた。
は俺を通して、兄に抱かれていた。
だが、それを責め、咎める事など、どうして出来ただろうか。
「・・・・・・ああ」
俺に出来るのは、兄の代わりに、に応える事だけだった。
「俺も愛している・・・・・・・・」
「ああっ・・・・・・・・・!」
の耳元に囁き返すと、は嬉しそうに身を震わせ、恍惚とした表情になる。
そして、より一層俺を強く抱き締めて、うわ言のように繰り返すのだ。
愛している、愛している、と。
「愛している、・・・・・・・・」
だから俺も、何度も繰り返す。
兄もきっと、そうするだろうから。
「愛している・・・・・・・・・」
そして俺自身もまた、を愛しているから。
雨はまだ降り続いている。
勢いが強まる事もないが、弱まってもいない。
しとしとと寂しい雨が、ずっと続いている。
「・・・・・夏ももう終わりね。」
俺の腕の中で窓の外を眺めながら、がポツリと呟いた。
「ああ。そうだな。」
夏が眩しければ眩しい程、終わりを告げる雨は寂しい。
は覚えているだろうか。
俺達が離れ離れになったあの日も、こんな寂しい雨だった事を。
「今年の夏は、何だかあっという間だったわ。」
「そうだな。」
「貴方に出逢えたからね、きっと。」
寂しげに微笑むに、俺も微笑み返した。
「ありがとう、アイオリア。本当に・・・・・・、ありがとう。」
は、俺に対して罪悪感を抱いている。
俺は俺であって兄ではない事も分かっているし、俺に兄を重ね、束の間の快楽と幸福感に浸るのを恥ずかしく思っている。
ふとした拍子に、の言葉尻や表情、態度の端々から、そんな苦悩が読み取れるのだ。
あまり人目につきたがらないのも、それ故だ。
俺の隣で堂々と俺の恋人として振舞う事を、は躊躇う。
束縛も、干渉も、将来の話もしない。
まるで自分にはそんな資格などないと言わんばかりに。
「・・・・・フッ、おかしな人だな。礼を言うような事など、何もないだろう?」
だが俺は、兄の代わりを務める事を、不思議と嫌だとは思っていない。
それでの苦悩が少しでも和らぐのなら、身体だけの関係に甘んじる事も厭わない。
は俺の恋人だと誰彼に触れて回りたい訳でもないし、に兄を忘れて欲しいとも思わない。
俺も兄を忘れる事など、まして疎む事など出来ないのだから。
だが最近、ふと途方に暮れる時がある。
幼い頃、森で迷子になった事があるが、その時によく似た感覚だ。
進むべき道を見失って、どうすれば良いのか分からない。
進めば良いのか、引き返せば良いのか、その場に留まれば良いのか。
いずれを選ぶのも全て間違っているような気がして、自分の意思では何一つ決められない。
そんな、どうしようもない不安を感じる事がある。
「・・・・・・・貴方に出逢えて良かった。」
「俺も、に出逢えて良かった。」
俺達のこの関係は、いつまで続くだろうか。
あと何日、何ヶ月、それとももっと長く?
来年の夏、はまだ俺の隣にいてくれるだろうか。
その夏が終わる頃、俺達はまた、こうして一緒に雨を眺めているだろうか・・・・・・。