聖域小咄 2




ギリシャの聖域という所に、アリエスのムウという男がいました。
ある日の事、ムウは自分の宮に帰るべく、十二宮を下っておりました。
その時、処女宮の手前で、ムウはふと足を止めました。


「そんな!話が違うじゃない!」

中から誰かの話し声が聞こえます。
いえ、話し声というような、穏やかな声音ではありません。
怒りや焦燥感、そんなのっぴきならない感情を含んだ女の声が、
処女宮の外に居るムウの所にまで聞こえて来ました。


「今になってそんな事言わないでよ!」

誰の声かは、すぐに分かりました。
閉鎖的で神話の時代から時を止めたようなこの聖域に、現代文明という名の風を通すべく、
現代っ子にしてやり手の大財閥の総帥である女神が遣わした仕事人、です。
一体、彼女は何をそんなに憤っているのでしょうか。


「一緒に作ったんでしょう!?それも、シャカの方が乗り気だったじゃない!忘れたの!?」
「さて、そうだったかな。」
「そうよ!とぼけないでよ!」

話の相手は、この処女宮の主・シャカのようです。
激昂しているとは対照的に、シャカの口調は飄々としたものでした。
何があったのかは知りませんが、相手がここまで怒っているのだから、
取り敢えずは受け答えだけでも真摯な態度に出れば良さそうなものなのに、
生憎とシャカはそれが出来ない男でした。
彼が謙る相手は女神と老師ぐらいのもので、あとは誰に対しても、基本的に上から目線の男なのです。


「とにかく、私に押し付けられても困る。」
「押し・・・・・!信じられない、何なのその言い方・・・・・・!」

それにしても、一体何があったのでしょう。
この二人が何かを作った、それも、シャカの方が乗り気だった、という事は分かりましたが、
一体何を作ったのでしょう。
この修羅場のど真ん中を通り抜けていく勇気が湧いて来なかった事もあり、
ムウは暫くその場で様子を伺う事にしました。



「大体、私は最初嫌だったのよ!だからやめようよって言ったじゃない!」
「だが、最終的には君も納得した。まるで私が無理に事に及んだような言い方をするが、
そうではない。君も納得した上で、楽しんでいた。君の方こそ、それを忘れたのかね。」
「そ、それはっ・・・・・・・・・!」
「己の事を棚に上げて、人を責めるのは如何なものかと思うがな。」

言い合いの主導権を握っていたのは、最初はの方でした。
しかし、いつの間にか押され始め、主導権はいつしかシャカに渡っていました。


「確かに最初は私の方が乗り気だった。しかし、途中からは君もかなり乗り気だったぞ。
いや、むしろ君の方が積極的だった。
忘れたのかね。君の方からねだってきたのではないか。
あの時の事を、私ははっきりと覚えているぞ。君は言ったではないか。
まだ足りない、もっと、もっと入れて欲しい・・・・、と。」

囁くようなシャカの声は、何だか淫靡な響きでした。
言葉に詰まったが、小さく息を呑むのが分かりました。
それと同時に、ムウの身体に衝撃が走りました。
何となく、分かったような気がしたのです。
この二人の間に、一体何が出来たのか。



「・・・・じゃ、じゃあ、私のせいだって言うの・・・・・・?
だから私一人で何とかしろって言うの・・・・・・?」

ああ、こんな事があって良いのでしょうか。
はこの聖域に文明開化を起こすべく、女神が遣わした貴重な人材なのです。
しかも、仕事上だけではなく、プライベートでも女神の大事な友人なのです。
そのを黄金聖闘士が傷物にした、しかもその責任を果たさないとなれば、
一体どんな事になってしまうでしょうか。


「そんなの話が違うわ・・・・、酷すぎる・・・・・・!」

いいえ、もはや女神は関係ありません。
ムウ自身が、の悲しい涙を見たくないと思っていました。
それはきっと、ムウだけではなく、黄金聖闘士全員が同じ気持ちだった筈です。
それなのに、何故シャカは、を傷付けて平気な顔をしているのでしょう。


「何と言われようと、無理なものは無理だ。
もう一度はっきり言っておくが、私をあてにするのはやめてくれたまえ。」

確かに、お世辞にも人情に篤いとは言えない男です。
むしろ、冷淡とか、高慢ちきという言葉の方がぴったりな男です。
ですが、無責任に軽はずみな事をする愚かな男ではなかった筈です。
ナニをすればどうなるか、そんな太古の昔からの常識ぐらい、心得ていた筈です。
それともまさか、一時の激情に酔いしれ、堕落して、愚か者になり下がってしまったのでしょうか。
一部の―――誰とは言いませんが某蟹など―――、遊び慣れしている不届きな輩達とは違い、
シャカには色事に対する免疫が無いに等しかったのかも知れません。
だからこそ、いともたやすく呑み込まれ、理性の歯止めが利かなかったのではないでしょうか?
そして、後になって己のしでかした事の大変さに気付き、怖気付いて逃げようとしているのではないでしょうか?


「ちゃんと責任取るって言ったじゃない・・・・・・・・!」

いや、どうも違うようです。
これまでの話を聞いて判断する限り、今になって事の大きさに気付いて怯んだというよりは、
を弄ぶ為、口先だけ調子を合わせていた、という感じです。
怖気付いたのだとしても許せない話ですが、己の欲望を満たす為に最初から守るつもりもない約束を
餌にして女を誑かすなど、聖闘士として、いえ、某黄金聖闘士の言葉を借りれば、
男として認められない、言語道断な下衆野郎です。


「ちゃんと責任取ってよ!」

が一段と大きく声を張り上げ、シャカに詰め寄ったその時、
ムウは堪え切れずに処女宮の中に踏み込んでいました。



「その通りです。」
「ムウ!?」

ムウの出現に驚いたは、思わず怒りを忘れたかのように目を丸くしていましたが、
ムウはの隣に寄り添うと、に変わってシャカを叱責し始めました。


「話は聞かせて貰いましたよ。シャカ、貴方はそれでも黄金聖闘士ですか。
黄金聖闘士として、いえ、一人の人間として、貴方は責任を取るべきです。」
「立ち聞きとは行儀の悪い。しかし、無理なものは無理だ。何と言われてもな。
私はとても受け付けられぬ。」
「な・・・・・・・」

ムウは思わず絶句しました。
何という勝手な言い草でしょう。
仮にも、憎からず思っていた女が自分の子を身籠ったというのに、
それを『受け付けられない』とは、何と見下げ果てた性根でしょう。


「・・・・・・・もう良い、分かりました。」

ムウは静かに息を吐いて心を落ち着かせると、ある決意を胸に再び口を開きました。


「見損ないましたよ、シャカ。私はもはや貴方を黄金聖闘士とは、いえ、人間とは認めません。
、こんな男に何かを期待するのはもうおよしなさい。
この男が負う筈だった責務は、代わってこの私が引き受けます。」
「えぇっ!?本当!?」
「はい。」

ムウは迷う事なく頷いた。


、貴女にしてみれば、部外者の私にこんな事を言われても少しも嬉しくはないでしょう。
ですが私は・・・・」
ううん、そんな事ない!本当に良いの、ムウ!?
え、えぇ・・・・・

が突然、それまでとは打って変わって晴れ晴れとした満面の笑みを浮かべました。
その代わり身の速さに若干驚きはしましたが、それしきの事でムウの決意は少しも揺らぎませんでした。
の悲しい涙は見たくない、その気持ちに変わりはないのですから。


「・・・本当です。私が貴女と共にその子を育て、見守っていくと約束します。
ですから貴女は、余計な事は考えずに、お腹の子を無事に産む事だけを考えて・・・」
はい?
「・・・・・はい?
驚いた、初耳だな。、君、腹に子が居るのかね?」
「いやそんな筈は・・・・。私も初耳なんだけど。
えっ!?
えっ?


訳の分からないやり取りの後、ムウは暫し呆然とその場に固まってしまいました。
明晰なムウの頭脳も、流石にこの展開には全くついていけなかったのです。











「違うのよ〜!これの事なの!」

が笑いながら差し出したのは、袋に詰められたクッキーでした。


「シャカがね、お茶受けにジンジャークッキーが食べたいって言い出したのよ。
でもジンジャーを切らしてて。諦めてって言ったら、じゃあ何でも良いから
スパイスの効いたクッキーを作れって我儘言い出しちゃってねぇ。」
「人間、食べたい物がある時は、それを身体が欲しているという事なのだ。
あの時の私の身体は、香辛料を求めていたのだ。」
「でね、仕方なく作り始めたんだけど、シャカが色んなスパイスをどんどん入れ始めちゃって。
味がメチャメチャになるからやめなよって言ったんだけど、シャカったら言う事聞かないのよね〜!」
「無礼な。人をまるで幼子のように。スパイスというのは、配合次第で如何様にも
奥の深い味を引き出す事が出来るのだ。私はそれを模索しただけに過ぎない。
大体、君も途中から面白がって、あれが足りないだの、これをもっと入れろだのと言っていたではないか。」
「で、出来上がったものがコレなんだけど、試食してみたら不味いの何のって!

に勧められて、ムウは恐る恐るクッキーを一枚、手にしてみました。
匂いを嗅いでみると、確かに匂いがします。
スパイシーを通り越して、強烈な、おどろおどろしい『臭い』です。


「作り始める時に私、作るのは良いけど、出来上がったものはちゃんと責任持って食べてよねって
言ったのよ。それなのにシャカったら、一口味見して、『無理だ』なんて言うのよ!
「ものには限度というものがある。大体、コレがここまで暴走した出来に仕上がったのは、
君が調子に乗ったせいだ。従って、君が責任を取るべきだ。」
「私だって無理よこんなの!大体、シャカがおかしな事をし始めるから・・・・!」

二人は再び小競り合いを始めてしまいましたが、ムウは一人、呆然と抜け殻のようになっていました。
言い様のない脱力感に、口を利く気力さえ湧いて来ません。
ついさっき括ったばかりの腹が、だらしなく弛んで弛んで、何処までも伸び広がっていきそうな
感覚までしてきます。


「とにかく、私一人でどうにかしろって言われても無理だから!」
「一人ではないだろう。それ、そこに自ら引き受けると挙手した奇特な者が居るではないか。」
「・・・・・・・はい?

二人の視線を一身に浴びて、ムウはようやく我に返りました。


「・・・・いやっ、いやそれはやっぱり駄目よシャカ!あれは勘違いしてただけなんだから!
こんなのムウに押し付けるのは悪いよ!ここはやっぱり私達で何とかしなきゃ・・・・!」
「本人が引き受けると言っているのだから構わんだろう。」
「いやでもそんな・・・・・・・!」

そんな事を言い合いながらも、二人はムウをじっと見つめて来ます。
申し訳なさの欠片も見当たらない態度のシャカはともかく、
大層恐縮し遠慮しながらも、助けて欲しそ〜な目で見上げてくる
無視する事は、どうにも気が咎めます。


「・・・・・ぅ、わ、分かりました・・・・・・」

気が付くと、よせば良いのに、ムウは引き受けてしまっていました。


「で、でも・・・・、本当に良いの・・・・・!?」
「え、ええ。引き受けると言いましたしね。」
「でも、本当に本当に・・・・!?」
「ええ。」

ムウの曖昧な笑みにも気付かず、は嬉しそうに顔を輝かせました。


「有り難う〜!助かる〜!じゃあコレ、宜しくお願いします!」
「は、はい・・・・・」
「じゃあ、私はこれで!」

ムウの手に、キナ臭い匂いのする物体を押し付けると、は弾むような足取りで
帰って行きました。
取り残された男二人は、暫しその場に佇んでおりましたが。


「・・・・・・フフフ」
「・・・・・・何がおかしいのです」

不意に腹の立つ含み笑いを浮かべたシャカに、ムウは仏頂面で返しました。


「いや、知らなかった。そんな眉毛の割に、君は存外、男気に溢れているのだな。」
「・・・・・・・・」
「勘違いで未完結に終わったのが残念だ。君の求婚劇など、そう滅多やたらに見られるものではないからな。」

シャカは明らかに、ムウをからかっていました。
からかって、おちょくって、遊んでいました。


「いや全く、面白いものを見せて貰った。今日は一日、愉快な気分で過せそうだ。ではな。」
お待ちなさい。

おちょくるだけおちょくって帰って行こうとしたシャカの腕を、ムウはガッシリと掴んで引き止めました。


「まあそう急いで帰る事はないでしょう。折角ですから、偶にはお茶でもご馳走して下さい。
茶菓子もある事ですし・・・・・、ね?
・・・・・・・(汗)

にっこりと微笑みながらクッキーの袋を掲げてみせたムウの目は、
勿論、笑ってはいませんでした。
そしてシャカは、金輪際、通路で妙な会話をしてはいけないと約束させられたとか何とか。


めでたし、めでたし。(←何がめでたいんですか BY ムウ)




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後書き

っはい!毎度おなじみ、馬鹿話でございます。
久しぶりなのにこんなんで申し訳ありませんが、
個人的にちょっとこのドッキリ勘違いネタが気に入っておりまして(笑)。
皆様にもお楽しみ頂ければ嬉しい限りです。(←頂けるか)