エーゲ海の藍だった瞳は、気付けば眩い金色に輝くようになっていた。
蒲公英の綿毛のようだった白い毛は、一層白さを増した。
ミルク用のスポイトも、用足し用の綿棒も、もう要らない。
命の成長は、全くもって早いものである。
「ミャ、ミャッ!」
宝瓶宮のリビングで小さな毛糸玉相手に組んず解れつ格闘しているのは、この宮の姫・ツンドラ、只今生後三ヶ月。
そう、いつかの雨の日に、目も開かぬままの状態でずぶ濡れているところをカミュが町で拾ってから、早くも三ヶ月が経っていた。
カミュと、この聖域で只一人彼女の存在を知るの手によって育てられたツンドラは、日々すくすくと成長している。
だがそれは、彼女との別れの日が近い事を、暗黙のうちに告げるものであった。
「ねぇカミュ、本気なの?」
ツンドラが取り逃した毛糸玉を拾って投げ返してやりながら、はぼそりと呟いた。
「ああ。最初からそうすると決めていた事だ。」
「でも・・・・」
「それに、もう決まったのだ。」
「え?」
「シベリアのある一家にな、引き取って貰える事になった。気の優しいご亭主と、豪快で大らかな奥方と、子供達は確かもう、皆成人したかしていないか位の筈だ。」
「そう・・・・・・。その人達は、信用出来るのね?」
「ああ。昔シベリアに居た頃は、私も何かと世話になった一家だ。住まいも比較的近い。ソリで小一時間程の距離だ。」
「それって近いの?」
「あの辺りでは近所の部類に入る。ともかく、来週にでも連れて行く事になったのだ。」
「そんなに急に!?」
「ああ。離乳も完了したし、トイレの躾も終えた。ワクチンの接種も済ませている。爪砥ぎはまだ完璧ではないが、先方は元々古い家だから、猫の爪痕ぐらい付いたとしても気にしないと言ってくれている。」
「そう・・・・・・」
「共に育ててくれた君に黙って勝手をして悪かった。」
ツンドラが無邪気に遊ぶ様を、何処か寂しげな表情で見守るカミュ。
そんな彼を、どうして責める事が出来ようか。
は小さく首を振った。
「ううん、私の事は良いんだけど・・・・・・、カミュは?本当にそれで良いの?」
「・・・・・・・ああ。私のような明日をも知れぬ者の所よりも、平和な温かい家庭で、愛情をもって飼われる方がツンドラの為だ。そうは思わないか?」
「私は・・・・・・・・」
そうは思わない。
カミュは十分、ツンドラに愛情を注いでいる。
は、そう言いかけてやめた。
心のままに行動出来るのならば、誰も最初から手放そうなどと思わない。
それでも手放す事を決意したのは、カミュなりに色々考えた末の事なのだ。
なのに、今ここで自分が寂しいだの手放したくないだのと騒げば、却ってカミュの辛さを増幅させる事になる。
「・・・・・・そうね。私も・・・・・・・、そう思うわ。」
「・・・・・・ありがとう。」
養い親が寂しげな微笑を交わすのを、ツンドラはきょとんとした顔で見上げていた。
明けて翌週の事。
ツンドラとの別れがいよいよ明日に迫った日に、事件は起こった。
旅支度を整えてやろうと宝瓶宮にやって来たが第一発見者となり、それは発覚したのである。
「どこ行ったんだろ、あの子!?」
「全く、いつの間に・・・・・・・・・」
突然宝瓶宮から忽然と姿を消したツンドラを案じて、カミュとは不安げな視線を絡ませた。
彼女がいつ何処へ消えたのか、には勿論知る由もない事であるし、所用で外出していたカミュもまた知らない。
それが二人を、より不安にさせていた。
「今までこの宝瓶宮の外へ一歩も出た事がないというのに・・・・・・」
「とにかく捜してみようよ、ね!?」
「・・・ああ。あれはまだ仔猫だ、そう遠くへは行けまい。取り敢えず、この周辺を中心に捜してみよう。」
が宝瓶宮から上、カミュが宝瓶宮から下を捜すと決めた後、二人は緊迫した面持ちでそれぞれツンドラの捜索に向かった。
それから約一時間程して。
「あっ、おかえりカミュ!」
先に宝瓶宮へと戻っていたは、帰って来た宮の主を見つけると、小走りで駆け寄った。
「どうだった、居た!?」
「・・・・・・・・いや・・・・・・」
「下にも居なかったの!?どうしよう・・・・・、上にも居なかったのよ、何処に行ったん・・・」
「いや、居たのは居たんだが・・・・・・」
「えぇっ!?居たの!?なんだ、それを早く言ってよーー!!」
安堵の余り、はカミュの肩をバシバシと叩いた。
だが、叩かれているカミュの顔色は冴えない。
「どうしたの?何かあった?まっ、まさか死んでたんじゃ・・・・・!」
「まさか!ピンピンしていた!してはいたんだが・・・・・・・」
「だが?」
「居た場所が・・・・・・・・、大問題なのだ。」
深刻そうに呟くと、カミュは深い深い溜息をついた。
二人は今、夜の闇に溶けるようにして佇んでいた。
といっても、人目を忍ぶ逢瀬だとか、そんなロマンチックな目的ではない。
何を隠そう、これから他人の宮に押し込むところなのである。
「本当にここに居たの?」
「間違いない。ちらりと覗いた時に、ツンドラがミロにじゃれついているのを見た。」
声を押し殺して呟いたカミュは、頭上にある蠍のレリーフを見据えた。
そう、ここはミロの宮・天蠍宮である。
カミュの話では、ツンドラはミロの所に居るとの事であったが、には何故それが大問題なのか、未だに納得できなかった。
「なんでコソコソ連れ戻しに行くの?ミロだったら話せば分かるでしょ?」
赤の他人ならともかく、相手は気心の知れた仲間なのだ。
一言言えば、すんなり納得して返してくれる筈なのに。
しかし、何度そう説得しても、カミュは頑として聞き入れなかった。
それどころか、ミロに隠れてこっそりとツンドラを連れ帰ると言い出したのである。
「コソコソ入るなんて・・・・・、泥棒みたいじゃない?」
「泥棒にでも押し込み強盗にでも、喜んでなってやる。仔猫を育てていたなんて知られるよりは100倍マシだ。」
「そんなヤケクソにならなくても・・・・・;」
「嫌なら宝瓶宮で待っていても良いのだぞ、私が一人で行ってくる。」
「行くわよ、行くけどさ・・・・・・」
何をそんなに恥ずかしがっているのか分からないが、とにかくカミュはツンドラの事をひた隠しにしたがっている。
どうしても、何がなんでも、死んでもバレたくないようだ。
そんな無意味な意地に呆れつつも、はカミュの後を追って天蠍宮に足を踏み入れた。
幸いにも、ミロは留守だった。
というか、留守にしていそうな時間帯を選んでやって来たのである。
流石竹馬の友、とでも言おうか。
カミュの推測は、実に的確に当たっていた。
「お邪魔しま〜〜す・・・・・・・」
「フッ、。誰も居ないのだから、いちいち言わなくても良いのだぞ。」
「でもなんか・・・・・・、ちょっと気が引けるじゃない?」
「全然。」
涼しい顔で真向否定すると、カミュは早速部屋の中を捜索し始めた。
が、捜索はするまでもなかった。
二人の姿を見つけたツンドラが、自ら尻尾を振り振り近寄って来たのである。
「ミャミャッ!」
「ツンドラ!こんな所に居ては駄目だろう!?悪い子だ。」
「ミャゥッ!」
親友の部屋を『こんな所』呼ばわりしなくてもと思ったが、は敢えて突っ込まずにおいた。
何故なら、ツンドラを抱き上げたカミュは、それはそれは嬉しそうな笑顔を浮かべていたのだ。
あまり焦りを表に見せなかったが、やはり内心は相当心配だったのだろう。
も釣られて笑顔になりながら、ツンドラの顔を覗き込んだ。
「良かったね、カミュ。」
「ああ。」
「こらっ、ツンドラ〜!勝手にお家飛び出しちゃ駄目でしょ〜!?」
はカミュの手からツンドラを受け取って、指先で軽く小さな額を突付いた。
遊びたい盛りの仔猫は、それを遊びの始まりだと勘違いしてじゃれついている。
そんなほのぼのとした光景をにこやかに見守りつつも、カミュは一方で警戒を忘れてはいなかった。
「さあ、そろそろ戻ろう。万が一ミロが帰って来ないとも限らない。」
「でも・・・・・・・」
「何だ?」
「ミロ、もしかしてこの子飼う気になってたんじゃないの?やっぱり勝手に連れ出しちゃ・・・・」
「構わん。奴の事だ。今夜一晩ぐらいは落ち込むかもしれんが、勝手に出て行ったものと思ってすぐに忘れるだろう。明日の朝にはケロッとしている。」
「そんな、人を鶏みたいに;」
「大体、ミロも私と同じ聖闘士だ。いつどこでどうなるとも知れぬ身。奴に渡すぐらいなら、私がこの手で育てている。というか、むしろ私の方が遥かにマシだという自信すらある。奴に任せていたら、栄養バランスも何も考えないような餌を食わされて病気になりかねん。それだけならまだしも、夜遊びしていてうっかり餌をやり忘れるなどという、言語道断な事態にもなりかねん。」
「・・・・・・;」
「・・・・・・・だが、ここで暮らす事がツンドラにとって良くないと思うから、里子に出すと決めたのだ。」
「それは・・・・・・・・」
カミュの言う事は尤もだった。
どちらがより飼い主に相応しいかはこの際置いておくにしても、カミュが一番気にしている点で言えば、ミロもカミュも同じなのだ。
カミュの苦悩を今一度感じて、が黙り込んだその時だった。
「お、なんだお前達!来てたのか。」
「「ミミミミミロ!!??」」
「どうした、二人してそんなに驚いた顔して。」
朗らかな笑顔を浮かべながら、宮の主ミロが帰って来た。
ミロは大股でドカドカとリビングに上がり込んで来ると、ポケットの中身をそこらに放り出し、今度はキッチンへ行ってミネラルウォーターなどを飲んでいる。
帰った早々騒がしい男だとは思いながらも、なるべく彼の注意を惹きたくない二人は敢えて黙り込んでいた。
だが。
「ああ、もう見つかったか。どうだ、そいつ可愛いだろう?」
ミロはの腕の中に居たツンドラを目ざとく見つけて、にこにこと笑った。
「あ、そ、そうね、あんまり可愛かったものだからつい・・・・・」
「そうだろう?人懐っこい奴だしな。名前はキティだ。
仔猫だからキティ。ははは、分かり易くて良いだろ!」
「分かり易いも何も、そんな時期限定な名前・・・・。お前、育った後の事など何一つ考慮に入れていないだろう。」
呆れるカミュに、ミロは『別に良いだろ!』と言い返すと、またリビングに戻って来た。
「こいつだってこの名前が気に入ってるんだぞ。呼んだらちゃんと返事するんだ、なあキティ?」
「ミャ。」
「ほら!」
ミロは誇らしげに微笑んで、の手からツンドラ、いや、キティを受け取った。
「ね、ねえミロ、この猫・・・・・・、飼ってるの?」
「ああ。といっても今日からだけどな。宮の通路でうろついていたところを拾ったんだ。」
「!」
その決定的な宣言に、カミュは多大なショックを受けたような顔をした。
それだけは阻止したかったのにと、そう顔に書いてある。
「し、しかしミロ。余計な世話かもしれんが・・・・・・」
「何だ?」
「私達のような者に、生き物を育てる余裕があるとは、私にはとても思えんのだ。そう、何と言えばいいのか・・・・・、金銭的な事ではなく、心のゆとりというか平穏な暮らしというか・・・・。任務で宮を空ける事もある。時間だって不規則で、命の保証すらない。猫にだって感情はあるのだぞ。寂しい思いをさせるのは可哀相だと思うのだが・・・・・」
カミュは言葉を選び、慎重に話した。
だがミロは、そんなカミュの言葉を、はははと笑い飛ばしたのである。
「またお前の悪い癖が始まったな!何故お前はいつもいつもそう後ろ向きなのだ!?なんだ、悩むのが趣味なのか?」
「・・・・・・・趣味ではない。私はただ・・・・・」
「何でもいちいち深く考えすぎて自爆するのがお前の悪い癖だ!堅苦しい事ばかり言わないで、少しは肩の力を抜け。でないと、今に禿げて氷河に笑われるぞ?」
「余計なお世話だ!!」
ミロのこの何の悪意もないジョークが、カミュの逆鱗に触れた。
「大体お前はな、責任感がなさすぎるのだ!私が悩みすぎだというなら、お前は能天気すぎだ!人の事を言う前に、まず自分の悪い癖を自覚しろ!」
「何だと!?」
今度はミロが怒り出す番だった。
尤も、カミュの事情など何も知らないミロにしてみれば、何の前触れもなく突如キレられて、尚且つアホ呼ばわりされてはムッとするのも当然だが。
「そもそも、何故俺がお前に指図されなければならんのだ!?」
「指図などしていないだろう!!」
「してるから言ってるんだ!!何だ、お前は俺の保護者か!?何かしようと思ったら、俺はいつでもお前に許可を貰わないといけないのか!?」
「誰が保護者だ!お前みたいな人の話を聞かん男の面倒などみきれん!冗談じゃないぞ!!」
「それはこっちの台詞だ!!!面倒なんかみられて堪るか!!」
「も〜〜、いい加減にしてよ!!止めなさいってば二人共!!」
双児宮の兄弟程ではないが、十分に修羅場を展開しているミロとカミュを何とか止めようと、は声の限りに叫んだ。
だが、珍しく目に見えて熱くなっているカミュと、機嫌の悪いミロの喧嘩がそんな事で止む筈がない。
二人は益々激しく、過激に罵りあった。
「とにかく!!猫を飼おうが犬を飼おうが、俺の勝手だ!!部外者は引っ込んでろ!!」
「部外者だと!?」
「そうだ、キティは俺が拾ったんだからな!俺の猫だ!お前に文句を言われる筋合いはない!!」
「ふざけるな!!!ツンドラをここまで大きくしたのは私だ!!!」
カミュの怒声が響いた直後、リビングは一瞬にして水を打ったようにしんと静まり返った。
ミロやは勿論、言った本人のカミュですら、驚きを隠せていない。
「・・・・・・・あ〜あ・・・・、言っちゃった・・・・・・」
「ツンドラ・・・・・、って?もしかして、この猫の事か?」
「わ、私は・・・・・・、私は・・・・・・・・・、くっ!!」
見る見るうちに赤面したカミュは、苦しげに顔を歪めて天蠍宮から走り去った。
途方に暮れたミロとが、なす術もなくその背中を見送っている後ろで、ツンドラだけがそ我関せず遊び転げていた・・・・・・。
「カ〜ミュ。帰ってたんだね。」
「・・・・・・・」
宝瓶宮のリビングで、灯りも点けずに肩を落としてソファに座っていたカミュに、は背後からゆっくりと歩み寄った。
「ミロにね、ちゃんと話しておいたよ。」
「・・・・・・・そうか。」
「馬鹿になんかしてなかったよ。まあ・・・・・・ちょっとは笑ってたけど。」
「・・・・・・・・・やはりな。」
ぼそりと呟くカミュの声は、どこまでも暗く重い。
にしてみれば、何をそんなに傷つく程の事があるのか分からないが、カミュにしてみれば、きっと沽券に関わる問題なのだろう。
はもうその事には触れずに、カミュの隣に腰を下ろした。
「ツンドラはね、まだ返してくれなかった。」
「・・・・・・・・・だが、ツンドラは明日・・・・」
「ミロからの伝言。『シベリアに強制連行なんて馬鹿かお前は!?俺が猫なら絶対嫌だ!感情が云々と言うのなら、少しは猫の気持ちも考えてやれ!俺は断固反対だ!どうしても連れて行くというなら、俺と千日戦争覚悟で天蠍宮まで迎えに来い!それまでツンドラは返さん!!』だって。ミロもツンドラの事、よっぽど気に入ってるみたいね。」
「・・・・・・ツンドラ、と言ったのか?」
「言ってたよ。まあ、『キティの方が絶対可愛い!』ってずっとブツブツ言ってたけど。」
可笑しそうにクスクスと笑うに、カミュは初めて微かな笑顔を見せた。
要するに、ミロは『宝瓶宮でお前が飼え』と、そう言っているのだ。
全く、彼にかかれば、悩みも迷いも一瞬で蹴散らされてしまう。
まるで、散々苦悩していたこちらが馬鹿みたいだ。
何と馬鹿馬鹿しくて、そして有り難い事であろう。
「・・・・・・私は、良い友人に恵まれた。」
「そうだね。」
「、君もだ。感謝している。ありがとう。」
少し気弱な微笑を浮かべたカミュに、は笑って手を差し出した。
「さ、迎えに行こう。ツンドラが待ってるよ。」
「ああ。行こう。」
その手を取って立ち上がりながら、カミュは久しぶりに心がすっきりと晴れる爽快感を感じていた。
再び向かった天蠍宮では、何故か黄金聖闘士全員が集まっていた。
彼らに散々笑われからかわれ呆れられ、カミュは更に落ち込まされる事になった。
そう、彼が最も恐れていた事態に陥ったのである。
羞恥と怒りの余り、カミュはその先頭をきっていたミロに死闘を挑み、それを止めようとした周囲も巻き込んで、その夜の天蠍宮は荒れに荒れたのだが。
何はともあれ、ツンドラがシベリアへ送られる事はなかったという。