「いい風。気持ち良いね。」
「そうだな。」
秋の夕日を受けて煌く海を見つめて、君は眩しそうに目を細める。
髪を風に靡かせて佇むその横顔を、未だ私は愛しく思う。
「もうすっかり秋だね。」
「そうだな。」
微笑を向ける君の視線が、僅かに私から逸れている。
私の視線もまた同じ。
君の後ろで寄せては返す波を見つめる。
君の涙は見たくないと言ったら、臆病者だと責められるであろうか。
だが、これが私の望みなのだ。
君には泣いて欲しくない。
雨に打たれても風に晒されても、凛と咲く花であって欲しい。
私が愛した君のままで居て欲しい。
最後まで。
「最後に来た時はまだ暑かったね。泳げたもの。シャカってば、何度誘っても絶対一緒に泳いでくれなかったよね。」
「そうだったかね?」
「そうよ。いつも誘うだけ誘っておいてさ、私の事放っておいて一日中瞑想してるんだもの。つまんなかったな〜。」
拗ねた口調の割には棘がない。
むしろ、思い出を懐かしく楽しく振り返ってさえいるようだ。
それを聞いて、私は安堵の笑みを零した。
私と同じように、君も私と過ごす時間を楽しんでいたのだろうと、そう思えるから。
君が表現する喜怒哀楽、全てが私を惹き付けた。
口論になって本気で怒った顔すら、私は心の中で愛でていた。
、君程私の中に深く入り込んだ人間はいない。
「しかしそういう時間を君は楽しんだ、違うかね?」
「・・・違わない。」
「やはりな。私も楽しかったのだから、君が楽しくなかった筈はないと思っていた。」
私の言い方が可笑しかったのか、君が笑った。
この笑顔は、いつか他の誰かのものになるのだろうか。
いつか私の知らない所で、まだ見ぬ誰かと出逢うのだろうか。
「いつ発つのかね?」
「・・・明日。」
の旅立ちを知らなかったのは、私が努めて自らの耳に入らないようにしていたからだ。
聞きたくなかった。
私達が離れる日など。
「君は恵まれているな。君を必要とする人間が沢山いる。」
「そんな大袈裟な事じゃないわ。ただ、私を育ててくれた院長先生に恩返しがしたいだけ。血は繋がっていないけど、私にとっては父親みたいなものだから。」
「彼はそんなに悪いのかね。」
「あんまり良くないみたい。もう昔みたいに子供達の世話は出来ないわ、きっと。だから私が頑張らなくちゃ。院長先生の代わりに。」
「頑張りたまえ。彼も子供達も、君の帰りを心から待っているだろうから。」
誰を責める事も出来ない理由で、私達は離れてしまう。
を止める権利は、私にはない。
けれど。
行かないで欲しい。
私の心が痛むから。
そんな醜い本音を、私はにぶつける事が出来ない。
ぶつけられる筈もない。
「離れてしまっても、二度とここへは来れなくなっても、シャカの事は忘れないわ。」
「そうかね。」
「こんなに好きになったのはシャカが初めてだから。忘れられないわ。」
寂しそうな翳りを帯びた君の瞳が儚く微笑む。
どんなにか、その身体を抱き締めてやりたい事だろう。
そして私も同じ気持ちだと、言ってやりたい事だろう。
しかし、それを言って何になるというのだろう。
引き止める事など、出来はしないのに。
「シャカさえ良かったら、いつでも日本に遊びに来てよ。」
「悪いがそれは出来ない。私は女神の聖闘士だ。私事で女神から預かる処女宮を空ける訳にはいかない。」
「・・・・そうよね。ごめん、無理言って。」
君の瞳が僅かに揺らめいた。
この期に及んで嘘をつき、君を傷付けた自分を呪いたくなる。
だが、満更嘘でもない。
心のままに首を縦に振れば、私はきっと君の事しか考えなくなる。
女神も聖闘士である自分もかなぐり捨てて、君の側から離れられなくなる。
それは出来ない。
してはいけない。
「でもねシャカ、これだけは覚えていて。もう二度と会えなくても、私は忘れないわ。」
もう一度『忘れない』と繰り返す君が、狂おしい程に愛しい。
私とて忘れられない。
『忘れてくれるな』と言って、せめてその心だけでも永遠に我が物にしたい。
しかし、あまりにも残酷ではないか。
身体は遠く離れて二度と会う事も叶わないのに、心は繋ぎ止めたまま。
の幸福な未来を握り潰す権利は、私にはない。
「忘れたまえ。」
「・・・・なんで?なんでそんな事言うの?嘘でもいいから・・・」
「嘘をついて何になるのかね。感傷に流されるな。歩みを止めて過去を振り返ってばかりいるような者は、私は好かない。」
「そんな・・・・」
君が言葉を失った。
戸惑ったように黙り込む君に、私ははっきりと別れを告げた。
「よく聞きたまえ。悲しみの時はやがて過ぎる。必ず。だから君は君の未来を歩きたまえ。きっと素晴らしいものの筈だ。」
「シャカ・・・・」
「分かったかね?」
「・・・・ん、分かった・・・。」
君は健気にも涙を堪えて微笑んでくれる。
それが唯一の救いだった。
もし君が涙を零してしまったら、私は君を手放せなくなるから。
「さあ、もう帰りたまえ。帰国の準備もあるだろう。」
「シャカは?」
「私はもう少し風に当たる。」
「・・・・そう。」
寂しそうなには悪いが、しばらくここで一人になりたかった。
きっとこれが最後になる。
明日、見送りに行くつもりなどないから。
そんな私の意思は、どうやらにも伝わったようだ。
ぎこちない笑顔がそれを物語っている。
「じゃあこれで。」
「うむ。達者でやりたまえ。」
「シャカもね。元気で。」
「うむ。」
別れを告げたものの、君はしばらくその場を動かなかった。
名残惜しげに私を見つめて。
別れの接吻をせがまれているのは分かる。
しかし、それに応える事は出来ない。
応えてしまったら、私は己の心を止められなくなる。
やがては諦めたのか、寂しげに笑って去って行った。
一人になった砂浜で、私はただ立ち尽くしていた。
『さよなら』とは言えなかった。
その言葉だけは、どうしても口に出来なかった。
悲しみの時は過ぎる。
けれど、私はきっと明日の夢は見ない。
君のいない未来など見えない。
固い理屈で君を突き放しておきながら、何とも無様な事だ。
は、私を冷たい男だと嫌っただろうか。
きっと嫌われただろう、そう思っていた方が楽だと思う。
なのに何故であろう。
そのつもりで生きてゆくには、駄目になりそうな程悲しみが消えない。
「、私も君を愛している、誰よりも・・・・」
出来る事ならもう一度だけでも、君に口付けたい。
もう一度だけでも、君をこの胸に抱きたい。
もう叶わぬ願いは一粒の涙となって私の頬を伝い、潮風に運ばれて消えていった。