じっとりと湿気を含んだ風が肌に纏わり付く。
温暖湿潤気候特有の蒸し暑い夏の夕暮れ。
そう、ここはギリシャではなく、東京・城戸邸である。
「女神とはまだか?」
些か待ちくたびれたアイオリアが何とはなしに呟いた。
「諦めろ。女の支度は長いもんだ。」
それを聞いたデスマスクが煙草を燻らしながら答える。
二人を含めた黄金聖闘士達は、沙織とが支度を終えるのを待っていた。
今日は日本の夏の風物詩、花火を見に行くのである。
ムードが出るからという理由で慣れない浴衣を着付けられた彼らは、足元にスースーと風が通るのを心許なさそうにしている。
今か今かと待っていたその時、ようやく二人が姿を現した。
「皆さん、お待たせいたしました。」
「遅くなってごめんねー!」
たおやかな装いの二人を見て、待たされた疲れも吹き飛ぶ一同。
揃いの紺地の浴衣に身を包み、髪を上げ、香水ではなく石鹸の香りを漂わせる二人は正に大和撫子。
普段とは一味違う魅力に、皆一瞬言葉を失った。
「女神、良くお似合いです。」
「まあ、ありがとう。」
滅多に着た事のない浴衣姿を褒められた沙織は、初々しく頬を染めた。
普段の大人びたメイクを落とし、ほぼ素顔に近い状態の彼女は、今日ばかりは普通の少女に見える。
こうして見ると、年相応の可憐な魅力を持つ少女だ。
そしてはといえば。
「なかなか色っぽいじゃねえか。」
デスマスクの感想に、全員が心の中で賛同した。
あわせた襟元から覗く白い肌、露になった項がやけにセクシーだ。
同じ姿をしていても、沙織の初々しい魅力とは対照的に、成熟した女の色香が溢れている。
「前から聞きたかったんだけどよ、和装の時は下着着けないって本当か?」
悪戯心半分そそられ半分で、デスマスクはの浴衣の裾をぴらりと捲った。
一瞬見えた白い太腿に、密かに一同の視線が集まる。
「やめてよ!何すんのよ!?」
「痛ってぇな!何もビンタするこたねえだろ!?」
「されて当然だ。不埒な蟹め。」
皆デスマスクを一通りなじりはするが、珍しく制裁は加えない。
それは沙織の前であるからという理由の他に、眼福を与えてくれた事に対するささやかな礼のつもりであった。
沙織はそんな一同の様子を微笑ましげに見守っていたが、時計を見て鶴の一声を放った。
「さあ皆さん。そろそろ参りましょう。」
目的地に着いた一同は、人込みを掻き分けながらゆったりと歩いていた。
「さあ、どこから回りましょうか。」
「花火までにはまだ時間があるから、まずはぐるっと夜店でも見ようか。」
「ええ。」
軽い足取りで前を歩く女性陣に従う黄金聖闘士達。
いかつい外国人男性10数人と、それを引き連れて歩く女性二人組に、周囲の視線は釘付けである。
沙織はこれが気に入らなかった。
折角普通の少女の装いをしたからには、束の間でも自由を味わいたかった。
「さん、私のお願いを聞いて頂けませんか?」
「何?」
「私と逃げて下さい。」
「え!?な、何急に!?」
「お願いします!少しだけでも自由な時間が欲しいのです!」
彼らの耳に入らぬよう声のトーンは落としているが、沙織は真剣だ。
その様子に心打たれ、は頷いた。
「ありがとうさん!そうと決まれば早速撒きましょう!」
「え?きゃっ!」
沙織は嬉しそうに言うと、の手を取って駆け出した。
黄金聖闘士達は慌てて後を追ってくるが、人込みに阻まれて追いつけない。
いくら身体能力が抜きん出ていても、こういう場所では小柄な女性の方が小回りがきく。
かくして、沙織との逃避行(違)は始まった。
一方、撒かれた方はといえば。
「くそっ、仕方ない。手分けして捜すぞ!」
「妙な輩に絡まれない内に見つけ出さねばな。」
「見つけ次第タダじゃおかねえ。女神にはガツンと説教喰らわせて、は乳揉みの刑にしてやる!」
「その時はお前も異次元島流しの刑だぞ。」
微妙なやりとりを交わしながらも、数人ずつに分かれて二人を捜し始めた。
各種食べ物・当て物・ヨーヨーに金魚すくい。
沙織はあらゆる店に興味を示した。
今までこういう場所に来た事がないらしい。
楽しそうに表情を輝かせては、の手を引いてあちこちを覗いて回る。
今、二人は腹ごしらえの真っ最中であった。
「おいしい!私、外で立って物を食べるのは初めてですわ!」
「これが屋台の醍醐味なのよねー!」
綿飴やたこ焼きを交互につつき合い、沙織とは満足そうに笑った。
「さんに教えて頂かなければ、きっとこんな味も知らないままでしたわ。ありがとう、さん。」
「やだ、何言ってるの!そんなお礼言われるような事じゃないわよ。」
特別な運命を背負っているせいで、沙織はこんな当たり前の事を知らない。
せめて今日ばかりは普通の少女のように楽しんで欲しい。
綿飴を齧りながら少ししんみりしていたその時。
「やっと見つけましたぞ、女神!」
「「!!」」
背後に現れたのは、カノン・アイオリア・ミロ・カミュの4人組であった。
腕組みをして仁王立ちで二人を取り囲む。
は薄笑いを浮かべてひらひらと手を振った。
「は、はぁい皆さん。お早いお着きで・・・」
「心配したんだぞ。さあ、俺達と一緒に来るんだ。」
ミロは安堵した表情を浮かべて、の手を引いた。
その時、沙織が突然持っていた食べ物を彼らに差し出した。
「皆さん、その前に一口味見をいかが?とても美味しいですわよ。」
「滅相もございません。恐れ多い事でございます。」
「まあまあそう言わずにどうぞ!」
沙織は渋るカノンに無理矢理綿飴を齧らせた。
「うっ、甘い・・・!ベタベタする・・・!」
途端に嫌そうに顔を顰めるカノン。
その隙をついて、沙織がに耳打ちした。
「さん、そのたこ焼きを皆さんに。早く!」
「え?あ、OK!」
はたこ焼きを一つ楊枝に刺すと、ミロの口元に運んだ。
「はいミロ!おいしいわよ〜!」
「ん?俺か?どれどれ・・・」
まんまと乗せられたミロは、嬉しそうに口を大きく開けた。
その中に放り込まれる熱々のたこ焼き。
「ぐっ・・・!」
「どうしたミロ!?」
「ぐむっ、むっ・・・!!」
「ほらほらカミュも!はいあ〜〜ん♪」
「まっ、待ってく・・・ぐぅっ・・・!!」
「アイオリアもは〜〜い!」
「なっ!?うぅっ・・・!!」
「カノンもほらほら!」
「ぐっ!?!?」
熱さに目を白黒させる彼らを尻目に、沙織とは再び駆け出した。
4人を撒いた二人は、用心の為お面を購入した。
これで追っ手も撒きやすくなるだろう。
安心した二人は、クジ引きの店で立ち止まった。
「あら面白そう!少し遊んでも構わないかしら?」
「勿論!」
沙織は店番のヤンキー系兄ちゃんに小銭を渡すと、嬉々としてクジを引いた。
しかし結果はハズレ。
「残念ですわ・・・。もう一回!」
懲りずになお挑戦する沙織。
その時、背後に大きな影が忍び寄った。
「これはこれは女神に。随分お楽しみのようですな。」
慌ててお面を被った沙織とは、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこに居たのは、ムウ・アルデバラン・シャカを引き連れた童虎であった。
「ひ、人違いじゃないですか?」
「どなたかとお間違えじゃございません?」
「ホッホ、主君を間違える程モウロクはしておりませんぞ。」
「ウサギの仮面で御顔を隠しておられても、我らは欺けませんぞ、女神。」
「さ、そこの黒猫のお嬢さんもご一緒に来て頂きましょう。」
「早くその間抜けな仮面を取りたまえ。女聖闘士であるまいし、仮面など不要であろう。」
観念した二人は、大人しくお面を取った。
「分かりました。でも私のお願いを聞いて下さらなければ戻りません。」
「何でしょう?」
「あの1番の景品を当てて下さいな。どうしても欲しいのです。」
4人は仕方がないといった風に頷いた。
クジなど、ムウの能力をもってすれば一瞬で目当てのものを引ける。
しかし、沙織はそれを見越したかのようにこう言った。
「但し、力は使わないで下さいね。それでは反則ですもの。」
「ううむ・・・、仕方あるまい。お前達、やるぞ。」
「はっ。」
4人は渋い顔でクジを引き始めた。
しかしなかなか当たらず、次第に躍起になり始める。
「さん、今の内に。」
「OK!」
沙織とは、抜き足差し足でその場を立ち去った。
「さん、あれは何?」
「あれ?ああ、射的ね。懐かしい〜!」
「やって下さいな!」
「私が?よーし、じゃあ頑張ってみようかな。」
は代金を払うと、鉄砲を受け取って狙いを定めた。
標的は小さな熊の縫いぐるみである。
しかし。
「くっ、難しいわね・・・!」
「頑張って、さん!」
「もう一回!」
は袂を捲り上げると、身を乗り出して鉄砲を構えた。
しかしその時、何者かがヒップを撫でる感触に驚いて飛び上がった。
「なっ!?だ、誰!?」
「何て格好してんだよ。ケツも触りたくなるっつーの。」
振り返ったの目に映ったのは、サガ・デスマスク・シュラ・アフロディーテの4人組であった。
そして先程の犯人はどうやらデスマスクらしい。
サガとシュラとアフロディーテに鉄拳を喰らっている。
「済まなかったな。それはともかく、やっと見つけましたぞ女神。」
「も。心配したよ。」
「さあ、俺達と来て貰おう。」
「ったくバカ野郎が。如何わしい連中に絡まれたらどうするつもりだったんだ。」
「デスの方が如何わしいじゃない!」
「何だ口ごたえか?どうやらマジで乳揉まれねえと分かんねえみたいだな。」
「いやっっ!やめてよ!!」
「やめんか蟹!」
を羽交い絞めにしたデスマスクを拳骨で制して、サガは二人に向き直った。
「しかしデスマスクの言う事も尤もです。妙な輩に何処かへ連れ込まれでもしたらどうするのです!」
残りの3人が、その通りと言わんばかりに何度も頷く。
「いや、それは大丈夫よ!ほら見て、お祭りなんてカップルばっかりよ。男ばっかりで来る人なんていないってば!」
「俺達は男ばっかりで行動しているが。」
「い、いや、そうじゃなくてね!そう、ナンパなんてここじゃ場違いなの!ね?」
すかさずシュラに突っ込まれたは、しどろもどろで言い訳した。
しかしまだ彼らの態度は変わらない。
横を見ると、沙織が観念したようにしょんぼりと肩を落としている。
は深呼吸を1回すると、シュラの腕に自分の腕を絡めた。
「分かったわ。でも一つだけお願いしても良い?」
「な、何だ?」
「私の代わりにこれやって欲しいの。当てたいんだけどどうしても当たらなくて、このままじゃフラストレーションがたまっちゃう。」
腕に柔らかい感触を感じる。
とどめに『ね?』と小首を傾げられ、シュラは頬を少し染めつつも、から鉄砲を受け取った。
情けなくも陥落したシュラに、非難半分やっかみ半分の視線が3人分突き刺さる。
「し、仕方ない。どれが欲しいんだ?」
「あれ。あの熊と、そっちのアヒルと、そこのペンギンと、向こうの犬。」
「4つもか。」
「待ちたまえ。君一人では大変だろう。私も手伝おう。」
「本当!?アフロありがとう!」
はシュラの腕から離れると、今度はアフロディーテの腕に絡まった。
それを見たサガとデスマスクも名乗りを上げる。
は嬉しそうな笑顔を浮かべると、サガとデスマスクの手を引いて台の前に連れて行った。
「頑張ってー!」
「頑張って下さい皆さん!」
「お任せ下さい女神。。」
「一撃で当ててやるぜ!」
すっかりやる気になった4人の後ろで、沙織とは目配せをした。
そしてそっとその場から離れた。
「何とか撒けたわね。」
「本当に。ありがとうさん!お陰で自由を満喫できましたわ!」
「いえいえ。それよりそろそろ花火の時間ね。」
「あらもう?では移動しましょう。一応彼らにも知らせておきますわね。」
二人は花火が打ち上げられる川岸の方へと歩き始めた。
そして、沙織が黄金聖闘士達にテレパシーを飛ばそうとしたその時。
「ねえねえ彼女達!二人?」
「俺達と遊ぼうよー!」
「え?」
前言を撤回せねばなるまい。
場違いな野郎が二人現れたのだから。
「結構です。」
がキャッチを追い払うが如く対応するも、奴らは全くめげない。
「待ってよー!4人で花火見ようよ!」
「んでさあ、その後パーッと飲みにでも行かない?カラオケでも良いし!」
「ご遠慮しますわ。私まだ未成年ですし。」
沙織の何処かズレた断り方が、却って男達の気を引いた。
「うっそ、彼女お嬢様!?すっげぇ言葉遣い丁寧だよね!」
「未成年!?んな固い事言わないでさー!そっちのお姉さんも居るんだし、ね?」
「だから結構ですってば。行こう、沙織ちゃん。」
「はい。」
は沙織の手を取ると、男達には目もくれずに歩き出した。
しかし奴らはの手を掴んで離さない。
「お姉さんまでそんなつれない事言わないでよー!」
「お生憎だけど連れがいるの!さっさと離してよ!!」
「じゃあさあ、その子達も混ぜて遊ぼうよ!俺らもダチ呼んで人数合わせるからさ!」
「ほう、ではお言葉に甘えて遊んで貰おうか。」
突然聞こえた野太い声に驚き、男二人が竦みあがった。
恐る恐る振り返れば、そこに居たのは腕組み&仁王立ちのアルデバラン。
その後ろからぞろぞろと他の黄金聖闘士達も現れる。
「ひっ!」
「なっ、何だよこいつら!」
風流な浴衣に身を包んではいても、いかつさは隠せない。
しかも殺気立っているのだから、その恐ろしさは尋常ではない。
「どうした?俺達と遊んでくれるんじゃなかったのか?」
「遠慮は要らんぞ。どこからでもかかってこい。」
ミロが不敵に唇を吊り上げ、アイオリアが一歩前に出る。
「身の程を分からせてあげよう。」
「少し頭を冷やすが良い。」
アフロディーテが冷ややかな笑みを浮かべ、カミュが凍気を纏い、とどめに。
「「落とし前をつけて貰うぞ。」」
双子の凄まじい殺気が炸裂する。
場違い男二人組は、転がるようにしてその場から逃げて行った。
途端に全員から殺気が消える。
「あ、ありがとう皆さん。」
「お手数をお掛けしました・・・」
沙織とは、取り敢えず頭を下げた。
しかし。
「ご自分のお立場をお考え下さい、女神!」
「無事だったから良いものを、何かあったらどうするおつもりですか!?」
出るわ出るわ小言の嵐が。
二人はサガを始め、数人にこっぴどく説教を喰らった。
「ご、ごめんなさい・・・」
「さんを責めないで!私が悪かったのです!私が自由に楽しみたいなんて思ったから・・・」
沙織の弱々しい言葉尻に、一同は叱責を止めた。
彼女は人より恵まれているが、その反面、叶わない事も多い。
その事は黄金聖闘士達も良く分かっていた。
に対しても、沙織を勝手に連れ回したと怒っている訳じゃない。
何かあったらという危機感故に声を荒げてしまった。
「皆の者。今回は何事も無かったのじゃから良しとしようではないか。」
童虎が一同を代表して締め括った。
「それよりほれ。ご所望の品ですぞ、女神。」
「おお、そうだった。もほら。」
数人から手渡されたのは、先程逃げる口実に使った夜店の景品。
律儀にも全部取ってきてくれたらしい。
沙織との腕の中に次々と積み上げられていく。
「「・・・・ありがとう。」」
二人は小さく呟くと、腕の中の物を見て微笑んだ。
黄金聖闘士達も微笑を浮かべる。
「全く、お陰で口の中が火傷でヒリヒリする。」
「ごめんね、ミロ。」
「許して欲しかったらキスして直してくれよ。」
意地悪く笑って、ミロはの肩を掴んだ。
「だ、だからごめんってば・・・」
たじろいだ所に、更に後ろからデスマスクが現れる。
「おらおら乳出せ乳。お仕置きタイムだ、揉み回してやんぜー!」
「やっ!やめてよ馬鹿ーー!!」
がミロとデスマスクに挟まれてもがいていると、川の向こうから大きな花火が打ちあがった。
一同の視線が夜空に釘付けになる。
「あ!花火が始まったわ!」
「まあ本当!綺麗ですわね!」
「おお。絶景だな!」
「遅れを取ったな。さあ、見に行くぞ!」
次々と上がる花火に向かって、一同は軽い足取りで歩いて行った。