私はたった一人で闇の中を彷徨っていた。
いつも側に居る筈の仲間は、誰も居ない。
光も見えない。
行く先も分からない。
私はただ、一人で闇の中を逃げ惑っていた。
「・・・・ギャァ・・・・、ホギャァ・・・・・」
不意に、何かの声のような音が聞こえてきた。
鳥の鳴き声か?
いや、違う。
「ホギャア・・・・、オギャア・・・・・・」
赤ん坊だ。
人間の赤ん坊だ。
赤ん坊が甲高く細い声を精一杯張り上げて、泣いていた。
「ホギャア、ホギャア・・・・・・」
やけに耳に障る声だった。
うるさくて、不愉快で、私はその声が聞こえない所まで逃げようとした。
その時。
「・・・・何処へ行くのです、サガ?」
女神のお声が聞こえた。
私を咎めるような厳しさを含んだその声音に、私は一瞬、ハッと立ち止まった。
私は何処へ行こうとしているのか?
そう、何処かへ。
何処でも良いから、何処か遠くへ逃げねばならないのだ。
走ろう。
走って逃げよう。
そう思って一歩を踏み出しかけた時。
「・・・・忘れませんよ、サガ。」
「ムウ・・・・・・」
目の前の暗闇から、突然ムウが姿を現した。
「師を殺された恨み、私は一生、忘れはしません・・・・・」
「う・・・・、うぅ・・・・・!」
ムウの冷たい瞳が恐ろしくて、私は別方向へ逃げようとした。
すると、その先に今度はアルデバランが現れた。
「アルデバラン・・・・・!」
「よくも俺を騙してくれたな。ずっと信じていたのに・・・・・」
怒りを孕んだアルデバランの静かな声に苛まれ、私はまた逃げ出そうとした。
しかし。
「中途半端な事するなよ。今更善人ぶられちゃ、今まで散々踊らされてやった俺はどうなるんだ?」
「デ、デスマスク・・・・・・・」
「我が兄を殺した報いを、その身に受けるが良い。」
「アイオリア・・・・・・・」
「如何に己を偽り、姿を変えようとも、悪魔は決して神にはなれぬ。」
「シャカ・・・・・・・!」
逃げようとする先々に、次々と仲間達が現れては、私を責め立てた。
「ゆ、許してくれ・・・・・・!」
逃げる私を、赤ん坊の泣き声が追いかけてくる。
「ホギャア、ホギャア・・・・・・・!」
一際大きくなった赤ん坊の声が、耳をつんざく。
うるさい。
やめてくれ。
もう許してくれ。
「去れ、愚かしくも悪しき者よ。」
「ろ、老師・・・・・!」
「真実は決して塗り替えられん。忘れるな、サガ。」
「ミロ・・・・・・!」
「何が神の化身だ。貴様の真の姿は、卑劣な悪魔だ。人を操り、その手を血に染めさせて・・・・・・」
「シュラ・・・・・!」
「貴方の中の『正義』が消えた時に、貴方も未来永劫、消滅すべきだった・・・・」
「アフロディーテ・・・・・・!」
私は、『許してくれ』と何度も繰り返し叫びながら、闇の中を走った。
走れば走る程に、赤ん坊の声が大きくなっていった。
「ホギャア、ホギャア・・・・・・・!」
うるさい。
「オギャア、オギャア・・・・・・・!」
うるさい。
「もうやめてくれーーッ!」
助けてくれ、誰か、誰か。
救いを求めて叫んだ瞬間、赤ん坊の声は消えた。
すると、暗闇の中からまた一人、黄金聖闘士が静かに現れた。
「・・・・・WHO ARE YOU?」
それは私の聖衣を纏った、双子座の黄金聖闘士だった。
「WHO ARE YOU?」
「お、お前は・・・・・・!」
「・・・・・俺は知っているぞ。」
ゆっくりとマスクを外し、顔を見せたその男は、我が双子の弟・カノンだった。
「お前は悪だ。邪悪そのものだ。」
「カノン・・・・・・!」
「血を分けたたった一人の肉親をも、平気で殺そうとする。お前こそが悪魔よ。」
「私は・・・・・・・、私は・・・・・・・・!」
薄く笑ったカノンの顔を、私は震えながら見つめていた。
するとまた、誰か別の声が聞こえた。
「己が手を見よ、サガ。余を殺めたその手を。」
「はっ・・・・・!」
いつの間にか、私の手はどす黒い血に塗れていた。
「うっ、うわぁ!!」
私は慌てて、マントで手を拭った。
白いマントに、血の跡がベッタリとついた。
それでも私の手は、血塗れのままだった。
その血はまるで己の傷から溢れ出ているかのように、私の手を不気味な色に染めていた。
「くそっ・・・・!何故だ、何故・・・・・!?」
私は必死で手を拭い続けた。
拭っても拭っても落ちない血を、半狂乱になって拭い続けた。
「無駄だ、サガ。そんな事で、その手の穢れは決して落ちぬ。」
「教皇・・・・・、シオン様・・・・・!」
いつの間にか私の目の前に立って、冷ややかに私を見下ろしている教皇・シオンに、私は泣きながら教えを乞うた。
「どうすれば・・・・、私はどうすれば良いのですか!?どうすれば、この血は・・・・!」
しかし彼は、何も答えてはくれなかった。
彼はただ冷ややかな眼差しで私を一瞥し、踵を返しただけだった。
「お待ち下さいシオン様・・・・・・!シオン様ぁぁぁぁっ・・・・・!」
歩き去っていく彼の背中に追い縋る事さえ出来ず、私はまるで無力な子供のように、その場で咽び泣く事しか出来なかった。
震える程の孤独と恐怖の、そのどん底で。
「・・・・・・ガ・・・・・・・・」
「うぅ・・・・・・・」
「サガ・・・・・・・」
「はっ・・・・・・!」
気が付くと、が側にいて、遠慮がちに私の肩を微かに揺すっていた。
つい今しがたまで私の周りを塞いでいた暗闇は、跡形も無く消え失せていて、
天井の照明の灯りが、心配そうなの顔をはっきりと照らしていた。
「大丈夫?」
「あ・・・・・・あぁ・・・・・・・・」
。
教皇補佐という名目で女神が遣わした、日本人の女。
聖闘士でも何でもない、ごくごく普通の、我々とは棲む世界の違う女。
がこの聖域にやって来て、もうどれ位になるだろうか。
ついこの間の事のようでもあるし、もう随分経つ気もする。
「お水飲む?持って来ようか?」
ある日突然、違う世界からやって来た彼女は、聖域をどんどん塗り替えていってしまった。
いや、塗り替えようとしたのは女神だ。は自ら意識してそうしようとしているのではない。
はで、それまでの自分の世界とはまるで違うこの聖域に大いに戸惑いながら、日々を過ごしてきただけだった。
笑ったり、怒ったり、時には涙を見せたり。
そんなの存在が、聖域を、特にこの十二宮を、どんどん変えていっている。
光を、もたらしてきている。
眩し過ぎて直視出来ず、平伏して僅かに仰ぎ見る事しか許されない、強大で鮮烈な光ではない。
穏やかな陽だまりのような、柔らかくて温かい光を。
「・・・・・・いや、いい。」
その光を、最初は受け入れられなかった。
それから、恐る恐る触れてみた。
おずおずと求めてみるようになった。
そして、いつしかその気持ちが強くなっていった。
「私の事は構わなくて良いから、は帰れ。もう夜も遅い。」
「でも・・・・・」
「何度も言っているが、幾ら補佐とはいえ、何もこんな遅くまで私に付き合って仕事をしてくれる必要はないのだぞ。
君はもう少し、他の連中のやる気の無さを見習うと良い。」
小さく笑って、に背を向けた。
一刻も早く、から離れてしまわなければならなかった。
でなければ、己の立場を弁えずに、縋り付いて、乞い求めてしまいそうで。
女神によって新しい風を吹き込まれたこの聖域に、実のところ、私は未だ戸惑い続けている。
何しろここは、永い、永い、気の遠くなるような不変の時を重ね続けてきた場所だ。
その前時代の価値観は、私の骨の髄まで染み付いてしまっていて、
部屋の模様替えのように綺麗さっぱり入れ替えられるものではなかった。
しかし、私を戸惑わせるのは、その前時代の価値観よりも、もっと個人的な感情だった。
「ふーっ、食った食った!腹一杯だ!」
「私も〜!ちょっと食べすぎちゃった・・・・・!」
「しょうがない奴だな、そんな事ではまた太るぞ?」
「『また』って何よー!?」
ミロととカノンが、楽しそうに笑い合っている。
個人的な夕食会や酒宴など、ほんの何年か前には考えられなかった事だ。
それを心から楽しんでいる3人を、私も同じテーブルに着きながら、微笑んで見守っている。
だが、楽しければ楽しい程、私の心は追い立てられていく。
お前にはここに居る資格などないと、他ならぬ私自身が、私の中の罪悪感が、私を追い立てる。
「お腹いっぱいになると、動くの億劫になっちゃうね〜!」
「じゃあ泊まって行けば良い。ベッドなら俺のを貸してやるぞ?半分な。」
「あははっ!またそんな事言って〜!」
思わせぶりにウインクするミロに、があっけらかんと笑う。
そんな二人を、眩しいと思う。
ミロには、新しい時代の恩恵を受ける権利がある。
女神の戦士として闘い、歴史の裏で人知れず死んでゆくだけではなく、
一個人として、人としての幸福を求めて生きる権利が。
「フン。ならば俺も泊まって行くか。ベッドのもう半分、借りるぞ。」
「誰が貸すか!お前は帰れ!」
「が帰るなら帰るが、泊まるというなら俺も泊まってやる。間違いがあってはいかんからな。」
「間違いって何だ!それならお前の方こそ危ないだろうが!」
ミロだけではない。
カノンにも、他の黄金聖闘士達にも、白銀や青銅、末端の雑兵に至るまで、今や皆にその権利がある。
「私から言わせればどっちもどっちだ。二人共、悪ふざけも程々にしておけよ。」
「何だサガ、もう帰るのか?」
「まだ少し、仕事が残っているのでな。」
たった一人、私を除いては。
天蠍宮から上へと続く階段を、私は再び上り始めた。
一歩、一歩、罪を噛みしめながら。
誰からも、そうしろと求められた事は一度もない。
だからこそ私は、私だけは、己の罪を忘れてはいけないのだ。
再び与えられたこの命は、女神の為に、己が罪を償う為に。
「サガ!」
後ろから、の声がした。
「・・・・・、どうしたのだ?」
「仕事、残ってるんでしょ?手伝おうと思って。」
の微笑みに、心の片隅が疼くように痛んだ。
この申し出を嬉しく思い、が追いかけてきてくれた事を喜ぶ自分が戒められる痛みだ。
「ああ・・・・、はは。いや、すまなかったな。
何もに手伝わせようと思って言ったのではなかったのだが、そんな風に聞こえたか。」
「ううん、違うの。私が勝手にそう思っただけ。一人より二人でした方が、早く終わるでしょ?」
二人という言葉に、また心が疼いた。
そう、私はいつしか、と二人きりになる時間を待ち侘びるようになっていた。
小さいけれど、温かなこの光を、私だけのものにしたいと思ってしまうようになっていた。
「・・・・・有り難う。だが、その必要はない。」
だが、どうしてそんな事が出来ようか。
そんな資格が私にあろうか。
「手伝って貰う程の事ではないのだ。良いから君はもう帰りなさい。
もう遅いから、ミロかカノンに家まで送って貰うと良い。」
「あ・・・・・」
の返事を待たずして、私はに背を向け、また階段を上がり始めた。
少し向こうに、人馬宮が見え始めた。
厳然とそびえ立つかの宮が、そこに宿る我が親友の高潔な魂が、私をじっと見据えている。
私の罪を、それを私がどう贖おうとするのかを、じっと見ている。
― ああ・・・・、分かっている・・・・・、分かっているとも・・・・・・
私の幸福は、皆の幸福。
私個人が、誰かと愛し合う事ではない。
そう分かっているのに、それでも私はまだ、への想いを断ち切れずにいる。
穏やかな日差しの差し込む執務室で、珍しくが居眠りをしていた。
パソコンに向かっている姿勢のまま、時折前のめりに揺れている。
寝かせてやりたくて、私はをそっと抱き上げて連れて行った。
女神の御寝所へと。
そこに横たわる事を許されているのは女神だけだと知りながらも、私はを女神の豪奢な寝台にそっと横たえた。
「・・・・・・・・」
私は、眠るの頬をそっと撫でた。
柔らかいその感触に、胸が詰まった。
許されるのならば、ずっとこうしていたいと思った。
いつか、許される日は来るだろうか。
いつか、務めを果たし終える事が出来たら、その時私は、を求める事を許されるだろうか。
「・・・・・・・・」
いつか、そんな日が来るかもしれない。
許される事ではないと思い続けてきたが、こうして眠るの側にいると、ふとそんな希望が湧いてきた。
叶わなくても良い。
に伝わらなくても良い。
私の中にその希望があるだけで、闇の中に一筋の光を見出したように、救われる思いだった。
「・・・・・・・・・・・・」
眠るに微笑みかけて、私は自分の懐にゆっくりと手を入れた。
隠し持っていたのは、禍々しい輝きを放つ黄金の短剣。
それと気付いた時には既に、私はに向かってその鋭い切っ先を振り下ろしていた。
「やめろーーーッッ!!」
私は夢中で、短剣を振り下ろす私の腕を掴んだ。
「邪魔をするな、サガ!」
「お、お前は・・・・・・!」
私はいつの間にか、私ではなくなっていた。
「お前は・・・・・、アイオロス・・・・・・!?」
を殺そうとしていたのは、私ではなく、アイオロスだった。
「アイオロス、正気か!?何故お前がを殺そうとするのだ!?」
射手座の黄金聖闘士・アイオロス。
仁・智・勇を兼ね備えた、最高の聖闘士。
そんな男が、無防備に眠る女を殺そうとするなど、考えられなかった。
「・・・・・正気か、だと?」
アイオロスは、血走った目を私に向けた。
「この女は害悪だ。この聖域を混乱させ、お前の心を掻き乱す、邪悪な存在だ。」
「そ、そんな・・・・・・!」
「お前は聖域の教皇。その身も心も、全ては女神のもの。
女神の為、聖域の為、お前はその全てを捧げ尽くすべきなのだ。それでこその教皇であろう?」
「っ・・・・・!」
返す言葉も無かった。
本来その『教皇』になる筈だったアイオロスを誅殺した私に、反論など出来る訳もなかった。
「わ・・・・分かっている・・・・・・・、分かっている・・・・・・・・!
しかし・・・・、何もを殺す事はあるまい・・・・!?」
私の贖罪に、は関係ない。
私はアイオロスの腕を力の限りに抑え付け、その凶刃からを必死に護ろうとした。
「・・・・・フン。異な事を言うものよ。」
しかしアイオロスは、私の必死の抵抗を一笑に付した。
「お前もかつて、同じ事をしたではないか。」
「うぅっ・・・・・・・!」
アイオロスは、腕を抑え付けている私をものともせず、再び短剣を振りかざした。
「降臨したばかりの女神の化身に、無垢な赤子に向かって・・・・・、このようにな!!」
「やめろーーーーっっっ!!!!」
「・・・・ガ・・・・・・サガ!!」
「はっ・・・・・・!!」
気が付くと、が私の肩を揺さぶっていた。
「・・・・・・・・・・・・・」
心配そうに私を見ているの瞳を、私は呆然と見つめ返した。
「大丈夫?酷くうなされてたけど・・・・・・」
「あ・・・・あぁ・・・・」
が生きていた事に、あれが夢だった事に、私は心の底から安堵した。
「平気だ。すまない、驚かせたな。」
「そんな事・・・・。お水、持って来るね。」
「いや、いい。大丈夫だ。構わないでくれ。」
私は椅子から立ち上がり、に背を向けた。
「私の事はいいから、はもう帰・・」
「よくないよ!」
の鋭い声が、私の声を遮った。
「サガ・・・・・、このところ何だか変よ・・・・・?
この間もこんな風にうたた寝して、うなされていたでしょ?
何だか最近、無理しすぎじゃないの・・・・?」
「・・・・そんな事はない」
「そんな事あるよ。この間、ミロの所で夕食をご馳走になった時だってそう。
結局あの夜、双児宮に帰らなかったんだってね。」
何故それをと訊きかけて、口を噤んだ。
情報の出処は、訊かずとも分かりきっている事だった。
「カノンも、サガが最近ちょっと頑張りすぎだから心配だって言ってたよ。」
「それは嘘だろう。」
「う゛・・・・、ま、まあ、一言一句違わずにそう言った訳じゃないけど、でも、心配してたのは本当よ!?」
今振り返れば、きっとは必死な顔をしているだろう。
その表情が目に浮かんで、思わず笑みが零れた。
「と、とにかく、お水持って来るから、ちょっと休んでて!」
が忙しげに出て行くと、執務室の中は途端に静まり返った。
窓の外は漆黒の闇に覆われていて、またこんな時間まで付き合ってくれていたに申し訳なく思った。
は、何も分かっていない。
何も分かっていないから、自分の尺度で考えて、私を心配するのだ。
― すまない・・・・・・
が戻らない内に、私は執務室を出た。
教皇の居室の片隅にある、ごく狭小な物置用の小部屋。
そこに私の罪が、人知れず埋もれている。
久しぶりに取り出して、箱の蓋を開けると、途端に時が遡った。
宵闇の色をした仮面と、黄金の短剣。どちらも昔と些かも変わらない不穏な光を放っていた。
それは正しく、私の罪そのものだった。
何年時が経とうとも、決して色褪せる事はない。朽ちる事もない。
今しがた、夢と現の狭間で出遭ったアイオロスに、私は心の中で詫びた。
前教皇に、黄金聖闘士達に、私が欺き、操り、葬ってきた者達全てに。
そして、に。
― ・・・・・・・
を想う者は、他にもいる。
その内の誰かが、早くと結ばれてくれる事を、私は願っている。
の瞳がその者だけを映してくれれば、そうすれば私は・・・・・
「・・・・みーつけた。こんな所にいたのね。」
「・・・・・・・・・・・」
だが、はいつも私の側にいる。
そして私は、願いとは裏腹に、それを密かに嬉しく思ってしまう。
「そう言えば私、ここに入るの初めてだわ・・・あ、入っても良い?」
「ああ。」
小さく笑って頷くと、は子供のように無邪気な笑顔になった。
「お邪魔しま〜す♪・・・うわ、何か色々置いてあるね・・・・・!」
「物置だからな。尤も、どれもガラクタばかりで、値打ち物は何も無いが。」
「へぇ〜・・・・、あ、でもそれは何か凄そう・・・・・」
そう言ってが指差したのは、黄金の短剣だった。
「・・・・そうだな、これは・・・・ある意味ではな・・・・・・」
「ある意味?」
きょとんとしているの顔を見ていると、ふと、喋ってしまいたくなる衝動に駆られた。
十数年前、この短剣で、私は、赤子だった女神を殺害しようとしたのだ、と。
「私は・・・・・・」
飛び出しかけた言葉が、喉につかえた。
「・・・・・・・・」
無関係なに喋って、何になる?
それで私の罪が赦される訳ではないのに。
「・・・・・いや、何でもない。」
「・・・・そう。」
口を噤んだ私に、はただ、優しく微笑みかけただけだった。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。サガも、今日はもうおしまい。ね?」
「・・・・・・」
「さっさと片付けて、早く帰ろっ!」
はさっさと箱の蓋を閉じ、片付けてしまった。
千の岩よりも重い私の罪も、の手にかかれば、軽々としたちっぽけなガラクタになってしまう。
だが、私にはやはり、それをガラクタにする事は出来なかった。
「さっ、早く早く!」
「・・・・・・すまない・・・・・・」
「え・・・?」
袖を引くの手を、私はやんわりと振り解いた。
「・・・・・サ、ガ・・・・・?」
「・・・・・君が、心配してくれる気持ちは有り難い。だが、その必要はない。
私の事は、もう放っておいてくれ。」
私を見つめる黒い瞳が、微かに揺れた。
「・・・・・あ・・・・・・、ごめん。迷惑、だった、ね・・・・・・」
暫くの沈黙の後、はぎこちない笑顔を浮かべた。
傷付けてしまったのは、明らかだった。
「・・・・・・そういう・・・訳ではないのだが・・・・・・」
私は、愚かだった。
いっそを傷つけて、無理矢理遠ざけてしまえばと考えた癖に、
いざそうすると、より一層大きく膨れ上がった罪悪感に押し潰されそうになるなんて。
「私には、私のやるべき事が色々とあるのだ。
それは私にしか分からない事で、幾ら教皇補佐とはいえ、君が全て把握出来るものではない。」
「・・・うん」
「執務に対して熱意を持ってくれるのはとても嬉しいが、何も私と同じスタンスで取り組む必要はない。
私は君に、もっと自分の時間を楽しんで貰いたいと思っているのだ。」
その罪悪感から逃れたくて、私は必死に弁解を連ねた。
「君が来てから皆・・・、特に黄金聖闘士達は、良い意味で変わってきている。全て君のお陰だと思っている。」
「そんな・・・・・・・」
「些か冗談が過ぎる事も度々あるが、皆、君を大切に思っているし、君と過ごす時間を心から楽しんでいる。
それは君も、分かっているのではないか?」
「・・・・・・どういう・・・・・意味・・・・・・?」
「・・・・君に想いを寄せている者が、君の周りに何人もいる。
そのいずれかの想いに応えるのが、君の幸福に繋がると・・・・・・、私は思う。」
の瞳をまっすぐに見つめて、私はそう言った。
ややあって、はまたぎこちなく笑った。
「・・・・・・・あ・・・・はは・・・・・・、ありがと・・・・・・・。
そんな風に言われると、お世辞でもちょっと嬉しい・・・・・。」
「そんなつもりは・・・」
「でもね」
次の瞬間、私は気付いた。
のその黒い瞳に、涙の雫が浮かび上がっている事に。
「・・・・・・私が好きなのは、貴方なの。」
「・・・・・・・」
「気持ちを押し付けて迷惑かける気はないけど、心変わりするのも・・・・・、
今すぐには・・・・・・ちょっと難しいかも・・・・・・」
が踵を返す間際、微笑ませている口元が微かに震えているのが見えた。
「っ・・・・・・・!」
その瞬間、私はの腕を掴んで引き寄せ、胸の中に抱きしめていた。
「・・・・・・・・・ど・・・・・・・して・・・・・・・・・」
「・・・・・すまない・・・・・・」
私は、愚かだった。
結局私は、自分を抑えきる事が出来なかった。
「・・・・・・何で・・・・・・謝るの・・・・・・?」
「・・・・・私には・・・・・・、君の気持ちに応える資格など無いのに・・・・・・・」
「資格って何・・・・・?」
は顔を上げて、黒く潤んだ瞳で私の顔をまっすぐに見上げた。
「好きよ、サガ・・・・・・・。それじゃ駄目・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・」
「貴方に迷惑をかける気はないわ。貴方のやろうとしている事を邪魔する気はないし、
話したくないなら無理に教えてくれなくて良い。何もかも全部把握したいなんて思わない。」
熱い雫が、1粒、2粒と、私の頬を伝い落ちた。
「ただ・・・、サガも望んでくれるなら、一緒にいたい・・・・・。
それだけじゃ、駄目・・・・・?」
私の頬を優しく拭う細い指先の感触に、私は抗えなかった。
「・・・・・・、私は・・・・・・」
私は、本当に愚かだ。
贖罪の最中にありながら、心のままにを求めようとするなんて。
が私に与えてくれるのと同じ位にまっすぐな愛を、与え返してやれるかどうかも分からないのに。
「・・・・・私も・・・・・・・」
しかし、それでも私は、もう引き返せなかった。
温かなこの光を求める心を、止められなかった。
「・・・・・君を・・・・愛している・・・・・・」
もしもこれが、もうひとつ罪を重ねた事になるのなら、その罰はどうか、私一人に。
唇を重ね合わせて、私はそう祈った。