青い空に、白い二つの雲。
ずっと寄り添って流れて行けそうな、やがては少しずつ離れて、別々の空を漂って行きそうな。
そんな雲を見ながら、君は笑って答えた。
「私の夢?そうねぇ・・・・・・」
君の夢は?
有りがちな質問を君にしてみたいと思ったのは、俺自身が将来の夢など考えてみた事がなかったからだろう。
俺は幼い頃からこの聖域で聖闘士としての訓練を受け、今は亡き兄のように立派な黄金聖闘士になる事、それだけを見据えて生きてきたからだ。
それを夢だと言うなら、俺の夢はもう叶った。
兄のようになれているかどうかはまだ分からないが、俺は紛れもなく獅子座の黄金聖闘士だからだ。
「小さい頃はね、一杯あったのよ。ケーキ屋さんにお花屋さんでしょ、看護婦さんにスチュワーデスにプリマドンナ。ふふっ、バレエなんて習った事もないくせにね。少し大きくなって、ちょっと世の中が分かったつもりになっていた頃は、妥当に星の子学園の保母さんかな、なんて思ってた時期もあったっけ。」
幼い頃望んでいた俺に、俺はなった。
しかし今になってふと振り返れば、俺は君の言うような夢を見た事がなかった。
野球選手、パイロット、妥当なところでサラリーマン。
そういう夢を見た事がなかった。
「今の夢?そうねぇ・・・・・、子供の頃より難しいわよね、夢を見るのって。どれもこれも今更なれる訳がないって、夢を見るより前に先に諦めちゃうのよね。ふふっ、つまんない生き物だね、大人って。でも、今だったらたとえば・・・・・、妥当なところで、なんて言ったら言い方悪いけど、好きな人と普通に結婚して、普通の幸せな家庭を作る、とか?」
言った後で『なんてね!』と照れたようにそれを打ち消す君を見て、一瞬心臓が跳ねた。
それなら俺も、夢見た事がある。
君と出逢ってからの事だが。
「でもね、やっぱりまだ想像出来ない。具体的に何なのか分からないんだけど、まだ何か可能性が残ってるような気がして・・・・・・。勿論、普通の奥さんっていうのも凄く憧れるんだけど、何だろう・・・・・、何かもっとこう・・・・、何かがあるような気がして。」
遠い空に思いを馳せるように投げ掛けた君の、何処か心もとない瞳が、俺にこう言った気がしていた。
それ以上何も言うな、と。
無限の可能性へと続く私の旅路を塞がないで、と。
そう。
もう十年も昔の、夏の初めの事だったな。
十二宮の麓、十年の間にすっかり古くなってしまった君の家を、君が感慨深げに見つめている。
君を最後まで見送る役が回って来た事を、俺は本当に嬉しく思う。
「・・・そうね。私も寂しい。色んな事が一杯あったものね。」
すっきりとショートに切られてしまった君の髪は、君が笑う度に軽やかに揺れている。
良く似合っている。
こう言っては失礼かもしれないが、年の割には若く見える。
尤も、これは昔からだったな。
君がいつだって年の割には若くて、時には幼くさえ見えたのは、君が東洋人だからというよりは、きっと君のそのまっすぐで素直な性格のせいなのだろうな。
君のその笑い声だって、十年前から少しも変わっていない。
皆が居て楽しかったあの頃と、全く同じように。
しかし、この十年の間に、聖域は随分と様変わりしてしまった。
かつて君を囲んで共にここで暮らした者達は、その殆どが己の黄金聖衣を後継者に譲って、或いは己の黄金聖衣を預けるに値する聖闘士を育成する為に故郷や新天地へと移ってしまい、この聖域に居るのは今ではもうサガと俺、そして、君だけになった。
だが、その君も今日旅立つ。
君はあの日俺に言ったように、自分の可能性を見出した。
いつ頃からか、君はもうこの狭い聖域の中だけでは納まりきらず、その羽根を大きく羽ばたかせたな。
成長し、押しも押されぬ世界的大財閥のグラード財団総帥となられた女神の下で。
聖闘士として女神に仕える俺達とはまた違った形で、君はグラード財団総帥・城戸沙織嬢に仕え、あの頃の君も知らなかった君を見つけた。
そして。
「落ち着いたら、またあの人と遊びに来るわ。その前に、式に招待するからきっと来てね。」
君は俺ではない別の男と恋をし、長い長い年月をかけて、それを愛に育てていた。
奴も俺と同じく聖闘士としてしか生きられない男かと思っていたが、意外にも奴にはまた別の才能があった。
奴が正式に黄金聖衣を返上し、僅か数年の間にめきめきと頭角を現した商才をもって一足先に自分の故郷に帰ったのは半年前の事。
「やだ、社長夫人だなんてそんな大袈裟なものじゃないわよ!まだまだ当分は二人三脚なんだから。」
君は自分自身で培ってきたものを活かし、奴と力を合わせて、新たな人生を歩み始める。
そして俺も。
俺はここに残る。
これから聖闘士になるべき者を育成する為に、また俺達の中で唯一現役の黄金聖闘士として、この聖域に残る。
おかしな話だが、俺はここに来て初めて、自分の夢をはっきりと語れるようになった。
俺の今の夢。
それは。
次世代を安心して任せられる、心身共に強き聖闘士を育て上げる事。
この命が続く限り、女神の聖闘士として女神に尽くし、この世界に全てを捧げる事。
そう。
君がこれから奴と生きていく、この世界を護る為に。
「・・・・・大丈夫。ちょっとウルッと来ただけ。」
濡れた睫毛を瞬かせた君に、俺は確かに恋をしていた。
しかし、君は知らなくても良い。
これは俺の夢、俺の終わった夢だ。
「・・・・・もう行くね。お別れが辛くなっちゃうから、ここで。」
俺の手から鞄を受け取った君が、『じゃあね』と手を振る。
その手でこれからも掴め。
自分の夢を、奴と二人で描く夢を、そして素晴らしい未来を。
幾つでも、幾つでも。
それが俺の、今の夢だから。
だから。
だからそのまま行くんだ。
振り返らずに、まっすぐに。
「アイオリア!!!」
去りかけて、君は微かに震える声でもう一度俺を呼んだ。
今度こそ溢れてしまった涙を拭う事もせずに。
「私・・・・・・・、アイオリアと会えて良かった!」
ああ。俺も。
君に逢えて良かった。
「私・・・・・・、離れてもずっと忘れないからね!」
涙混じりに笑顔を浮かべる君を抱きしめるのは、残念だが俺の役目ではない。
だからその代わりに。
「・・・・・・行って来い、!!」
君の背中を笑って押し出そう。君を新しい舞台へと送り出そう。
きっと生涯忘れる事はないだろう君のその笑顔を、しっかりと心に焼き付けて。
固く固く握り締めた拳を、明るい空へと旅立つ君に見られないように隠して。
「うん・・・・・!!」
君の未来がこれからも明るく拓けて。
幾つもの夢と出逢えて。
君と君の選んだ人が、ずっとずっと幸せに寄り添っていけるなら。
この痛みはきっといつか、痛みの分だけ大きな実を結び、俺の希望となってくれるだろう。
君と君の愛する人が、この先ずっと寄り添って、幾つもの幸せを掴んでいけるなら。
それはきっと俺にとって、何よりの幸福になるだろう。