静まり返った宮の中を女が一人、息を切らせて逃げ惑う。
カツン、カツン、カツ。
その後ろから、女の様子を愉しむような余裕のある足音が三つ。
壁際に追い詰められた女に向かって、着実に進んでいった。
「きゃーーーッ!!」
「という訳なんだよ。頼むぜ。」
「やだ!!全くもう、いきなり追いかけてくるから何かと思ったら!!」
猫撫で声を出したデスマスクに、はきっぱりと拒絶の態度を表した。
「お前、そりゃ冷てぇんじゃねえか!?サガが心配じゃねえのかよ?」
「それは心配だけどさ〜!でもだからって、何で私がそんな事やらなきゃいけないの!?」
「バッカお前!当然だろ!?ここにはお前しか女居ねぇじゃねえかよ!」
「協力してやってくれないか、。あの男は、きっと私達には話さないだろうから。」
「だが、お前になら話す気になるかもしれんのだ。この聖域を救うと思って、頼む。」
アフロディーテとシュラにも頼み込まれ、は困り果てた顔を浮かべた。
事の発端は数日前。
実は数日前から、サガの様子がおかしいらしいのである。
沙織から配給された携帯電話を手に、何やら一人で憂鬱そうに沈む事が多いらしい。
誰にも何も言わず、一人で何かを抱え込んでいるサガを、どうにかしてやらねばと思ったのである。
それより何より怖いのは、このまま捨て置けばまたいつ人格がスイッチするとも限らない、という点だ。
そうなれば、厳戒態勢を敷かねばならぬ程の非常事態になる。
従って、嫌な兆候が現れない内にと、三人は早急に準備を始めたのである。
「大体ねぇ、広間を勝手にこんなにしちゃって・・・・!それこそサガの機嫌を損ねるわよ!?」
は広間を見渡して、呆れたように言った。
そこはもはや、日頃の面影はない。
部屋の中央にある大きなテーブルセットは隅にやられ、代わりに『VIP』と張り紙のされたボックス席がどんと設置されている。
それだけならまだしも、壁面には何処から運び込んできたのやら、酒瓶がびっしりと詰まった棚、何処から仕入れたのかカラオケセットとくるくる回せるネオンライト、シャンデリアの電球は所々抜かれて薄暗い照明になっている。
「その予感もあるにはあるが、そこは君がうまく立ち回ってくれれば万事OKだろう。」
「ええーっ、私が!?ちょっとアフロ、そんなプレッシャー掛けないでよ!」
「まあ、そう案ずるな。お前は何も心配しないで、ただサガを迎えてやってくれれば良いのだ。」
「シュラまで・・・・・!ちょ、ちょっと待ってよ!!心配なのは分かったけど、どうしてそれが女関係だと思うの!?違う事かもしれないじゃないのよ!」
「甘いぜ。野郎が携帯片手に凹んでる時はな、大抵が女に振られた時だ。電話が鳴らねえメールが来ねえ、大方フェイドアウトに持ち込まれたか、或いはきっぱりはっきり絶縁を言い渡されたか・・・・・。ま、そんなこった。」
デスマスクは己の推理に確固たる自信をもって、そう言った。
女に振られて落ち込んでいる男は、女によってしか癒されない。
凹んでいるサガを、がどうにか元気付けてやって欲しいと、彼らの頼み事とはつまりこういう事だったのだ。
「でもそんな・・・・・・、なんでクラブ仕立てにする必要があるの!?」
「何となくノリだよ、ノリ。それに、酒でも入った方が変な緊張感が解けて良いだろ?」
「だからって何で私がホステスしなきゃいけないのよ!」
「だから、ここに女はお前しか居ねえって言っただろ?頼むぜ?」
「う゛・・・・・・・・」
全く寝耳に水な話ではあるが、彼らの言動は幾分無茶苦茶であるが。
それでも、全てサガを心配しての事であるのは良く分かる。
サガの慎み深い性格と『お触り禁止』というルールを信用したは、渋々頷いた。
「はぁ・・・・・・」
朝日を見ても夕日を見ても、出るのは溜息ばかりだ。
暮れゆく空を仰ぎながら、本日の執務を終えたサガは自宮へ戻ろうとした。
だが。
「ちょいとそこのお兄さん。」
「ん?・・・・・デスマスク?何事だ、その格好は一体?」
物陰に潜んで声を掛けてきたデスマスクを見て、サガは呆気に取られた。
何を思ってデスマスクは、タキシードなど着込んでいるのだろう。
「この暑さで頭が沸いたか?」
「んだとコラ・・・・っとと。喧嘩しに来たんじゃねえんだよ。ちょっとこっち来いよ。」
「何だ?」
「良いから来いってばよ!」
怪しい笑顔でこっちこっちと手招きするデスマスクに眉を顰めながらも、サガはひとまずその誘いに従った。
「何だ?用なら手短に・・・」
「いや〜兄さん、あんたツイてるよ。今日は良い娘が入ったんだ。どうだ、ちょっと遊んでかねえか?」
「・・・・・・やはり沸いているのか。待っていろ。今カミュの所で氷を・・・・」
「良いから四の五の言わずについて来やがれってんだ!!」
「なっ、何をする!?」
今なら間違いなく聖闘士最強だという程の力を出して、デスマスクは強引にサガを連行していった。
「は〜い、一名様ごあんな〜い!!」
「いらっしゃいませ。クラブ聖域へようこそ。」
「ようこそではないわ!!」
デスマスクと揃いのタキシードを着てにこやかに出迎えたアフロディーテに、サガは容赦なく怒鳴りつけた。
「何が『クラブ聖域へようこそ』だ!!ここはいつの間にそんな如何わしい場所になった!?二人揃って一体何のつもりだ!?というか・・・・・、この部屋の有様は何事だ!!!」
「まあまあそう怖い顔をせずに。」
「ほらほら、奥へずいっと!ずずずいっと!!」
二人がかりでサガを引き摺って行ったデスマスクとアフロディーテは、例のVIP席にサガを座らせた。
「貴様ら!これは一体何の・・・」
「まあまあまあ!!そう怒鳴るなよ。お〜いシュラ!うちのNO.1をお連れしろ!」
「シュラ!?シュラも居るのか!?というか、NO.1とは誰だ!?」
到着してからというもの、色々突っ込むのに忙しかったサガは、軽い頭痛さえ覚えてうんざりと額を押さえた。
「こんな時にこんな馬鹿共の遊びに付き合っている余裕など私には・・・・・」
「何か言ったか?」
「・・・・・・いいや別に。」
「おっ、来たぜ!」
デスマスクが示す方向を見れば、そこにはまたしても揃いのタキシードに身を包んだシュラが、純白のシュミーズドレスとゴージャスな羽根のストールを身に着けたをエスコートして現れたところだった。
「!?お前まで何だその格好は!?」
「よ、ようこそクラブ聖域へ。え〜〜と・・・・・、です、よろしく。」
「いや、今更自己紹介などされなくてもな;ともかく、これは一体何の真似なんだ!?シュラ!お前まで一体どうしたというのだ!?」
「・・・・・俺には訊かんでくれ。自分でも微妙にワケが分からんのだ。」
「何であろうと、悪意がない事だけは確かだよ、サガ。」
「そうそう、俺達は只お前の心配をしてだな。こうして場を作ってやった訳だ。おう、頼んだぜ。」
「は、はぁい・・・・・・」
クラブ聖域のNO.1ホステス・嬢は、乾いた薄笑いを浮かべてサガの隣に腰掛けた。
上等なグラスに並々と注がれたビールが、細かな泡を立てている。
グラスを掲げ、軽く触れ合わせて一口飲み、サガはしみじみと呟いた。
「クラブという割に、出す物はまるで居酒屋だな。」
ビールのつまみとして枝豆・柿の種・冷奴などの並ぶテーブルを見れば、確かに誰もがそう思うだろう。
「夏だから、ビールが一番美味ぇと思ってな。気に入らねぇか?」
「いや・・・・・、もう別に良い。」
「『もう』という言葉が諦め入ってるようで若干納得出来ないが、言ってくれれば何でも用意するよ。」
「ワイン、ウイスキー、ブランデーもある。カクテルも作ってやれるぞ。」
「いや、良いんだ。これを飲んだら失礼するつもりだから。」
サガのノリは至って悪い。
これをどうにかするのがの仕事なのだ。
「そっ、そんな事言わないで!折角来たんだから、ゆっくりしていってよ、ね!?ね!?」
「いや、その・・・・・・・」
「はい、飲んで飲んで!冷奴も食べてよ!あっ、枝豆剥いてあげようか、ねっ!食べやすいでしょ?こっちのお皿に剥いたやつ置いていくから!」
「いや、それではまるで子供・・・・というか、猿か私は。」
皿に盛られた豆をひょいひょいと口に運ぶだけの仕草に猿を重ねたサガは、の申し出を断り、自分の手で殻を始末して渋々食べた。
ひとまず、食べ物は口に入るようだ。
酒の飲み方も荒れてはいない。
一安心したは、サガに優しく微笑みかけた。
「・・・・何があったのか知らないけど、元気出して。」
「・・・・・・・」
「私達で良かったら、相談にも乗るし。一人で悩まないで、ね?」
「・・・・・・・・ありがとう。」
ようやく薄らと笑ったサガは、の手を取って一瞬強く握ると、すぐにその手を離した。
気遣ってくれるのは嬉しい。
だが、まだ何か道はあるかもしれない。
真に万策尽きたと言える状態になるまでは、余計な心配を掛けたくなかった。
「だが・・・・・、私は平気だ。」
サガは優しげな微笑を、に向けた。
「おい、ちょっとこっち来い。」
「え?何?」
「いいから来い!」
「はいはい・・・・・・」
ドスの利いた小声でデスマスクに呼ばれ、は席を立った。
「あ、サガ。ごめんね、ちょっと待ってて。」
「?ああ。」
「悪いねお客さん。ちゃんが戻るまで、代わりにアフロが相手しやすよ。」
「私か!?」
「どうでも良いがデスマスク・・・・、いい加減にその小芝居やめたらどうだ?」
まだ続くサガのツッコミを無視して、デスマスクとシュラ、そしては店、もとい、広間の奥へと引っ込んだ。
「おい、もっとしっかり気張れや。」
「なっ、何よーー!?精一杯やってるでしょーー!?」
「危険だぞ、あれはいよいよ危ない兆候だ。ああやって自ら逃げ場を閉ざして、そして・・・・・」
「黒に変わるんだよ、アイツは。」
二人の説明に、はごくりと息を呑んだ。
「良いか、意地でも悩みを訊き出せ。そして、少しでも気を晴らせ。さもなくば・・・・・、
俺 達 は 死 ぬ。」
「そ、そんな大袈裟な・・・・・;」
「いや、絶対大丈夫とは言い切れん。サガは普段人の何倍も優しい分、黒になるとその反動のように悪の塊となる。その上・・・・・・、サガはそれを全て、なす術もなく見ていなければならないのだ。死にたくなる程の罪悪感に苛まれながらな。」
「そんな・・・・・・・・」
シュラの語る事は、昔この聖域で起こった事を暗に指しているようだ。
女に振られる事など、当時と比べれば実にチンケな悩みと思うが、受け止め方は人それぞれだ。
「・・・・・分かった。頑張る。」
「よーし、その意気だ。頼んだぜ。」
「俺達は少し離れて様子を見ている。その方がサガも話しやすいかもしれんからな。」
「うん、任せて!」
はやる気を漲らせると、サガの元へと戻っていった。
「お待たせ〜!」
「おや、が来たようだ。では私はこれで。」
「ああ。」
アフロディーテが席を離れた後、は努めて明るい口調で尋ねた。
「アフロと何話してたの?」
「いや別に何も。明日の天気の事などを少し・・・・」
「あははは!そんな話題無し無し!!今日はね、パーッと騒ごう!ね?」
「あ、ああ・・・・・。」
「あっ、そうだ!ねえ、カラオケでもやっちゃう?」
はカラオケセットを指差した。
それをすかさず目に留めて、デスマスクが歌本を差し出し、シュラは機械の前でスタンバイする。
渡された本をざっと見ながら、はサガにも見えるように差し出した。
「あ、何でも入ってるみたいよ〜。ロックにポップスにジャズ、アニメソングにシャンソンにカンツォーネに、演歌と軍歌まであるわ!ほらほら、『同期の桜』とか!」
「何が悲しくてお前の前で『同期の桜』を熱唱せねばならんのだ;勘弁してくれ、私は歌は苦手なんだ。」
「え〜〜!?サガの歌、聴きたいのに〜!」
「済まん。気持ちだけ有り難く頂く。」
「・・・・・・苦手じゃしょうがないか。ごめん、無理言って・・・・。」
「いや、良いんだ。私こそ済まない。」
「じゃ、気を取り直して飲もう!」
めげずに笑顔を浮かべたは、サガのグラスにビールを注いだ。
それからどれ程の時が過ぎただろうか。
多少ほろ酔いになったサガと、既に十分酔いが回って眠そうなは、いつの間にか自然と寄り添ってグラスを傾けあっていた。
「なんか・・・・・・、イイ感じじゃねえ、あいつら?」
「サガとか・・・・・・。フッ、なかなかいいカップルになるやもしれんな。」
「ケッ、それはそれで面白くねえな。」
「ふふっ。男心は複雑、か?デスマスク。」
「ちげぇよ馬鹿アフロ。振られた直後に別の女といい感じになってりゃ、世話ねえぜって事だよ。」
「それこそお前に言われる筋合いはないだろう?俺達の中で一番女遊びの激しいのは誰だ?」
「チッ・・・・、それを言うなや、シュラ。」
三人は小声で談笑しながら、サガとを見守っていた。
「ねえ、サガ。」
「ん?」
「何があったのか・・・・・、訊いても良い?」
無言になったサガは、それでもさっきのように無理をして笑いはしなかった。
酒が気持ちを正直にさせたのだろうか。
それともの心配が、無理に取り繕って貼り付けていた仮面を溶かしたのだろうか。
「・・・・・・・・」
「ねえサガ。私じゃ役に立てないかな?」
「・・・・・・・・そんな事はない。ただ・・・・」
「ただ?」
「ただお前達に言う前に、私がどうにか出来はしないかと思って・・・・・」
サガの決まり悪そうな口調に、は小さく笑った。
「ふふっ、そんな事だろうと思った。なんでそんな水臭い事言うのよ!」
「・・・・・・」
「私だけじゃない、ううん、デスやシュラやアフロは、私以上に心配してるのよ。私達の心配事を解決させると思って、言ってみてよ。ね?」
に促されたサガは、やがて噛み締めていた唇を開いた。
「実は・・・・・・・・」
「実は?」
「実はな、・・・・・・・」
デスマスク・シュラ・アフロディーテも、サガの話にこっそり聞き耳を立てている。
そんな中、サガはようやく己の悩みを告白した。
「実はお前達の今月の給料・・・・・・・、払えんのだ。」
「え・・・・・?」
『・・・・・えぇぇぇぇ!!??』
衝撃の告白を受けて、デスマスク達三人はそれまでの余裕を完全に失くし、はそれまでの酔いと眠気が完膚なきまでに吹き飛んだのであった。
「おいサガ!?そりゃどういうこった!?」
「何でも、財団の経理部の手違いらしい。我々に今月支払われる筈の給料は、全員分来月まで据え置きだ。」
「手違いって、どう手違ったらそうなるんだ!?」
「私に訊くな!」
詰め寄ってきたデスマスクとシュラに答えたサガは、達四人に向かって頭を下げた。
「来月には必ず、今月分と先月分を合わせて払って下さるそうだ。一月の間、辛抱してくれ!」
「今月中にはもう送金出来ないというのか!?」
「何せあれ程の大企業だ。全経費の支払日は全て決まっている。諦めろ、アフロディーテ。」
「じゃ、じゃあ電話は!?携帯片手に憂鬱そうにしてたんでしょ!?まさか悩みってこれ!?」
の質問に首を傾げながらも、サガはきっぱりと頷いた。
「そうだ。女神から電話でそれを知らされてな。何せ問題が問題故、あまりしつこく問い質すのも躊躇われるし、私も悩んだのだ。」
「あ・・・・・そ・・・・・・・」
「では、女に振られた訳では・・・・・?」
「女?何を言っているのだシュラ。」
「つまり、完全な勘違いだった訳だね・・・・・・・」
、シュラ、アフロディーテの強烈な視線が、デスマスクへと突き刺さった。
だが。
「ふざけんなよ・・・・・・、ナメてんのかコラァ!!」
デスマスクの怒りは、それ以上だった。
「こちとらボランティアで聖闘士やってんじゃねえんだよ!生活っちゅーもんがあるんだよ生活っちゅーもんが!!どうしてくれんだ、えぇオイ!?」
「ちょっとデス!落ち着いてよ!サガに怒鳴ったって仕方ないでしょー!?」
「うっせぇ、お前は黙ってろ!!おいおいサガさんよ〜、これは聖域教皇としての責任を、アンタに取って貰わなきゃなあ!」
「だから私もそれを考えていたのだ!!というか貴様、忠誠心はどうした忠誠心は!シュラもアフロディーテも、ですら納得してくれたというのに、貴様だけゴネるつもりか!?」
「いや別に納得した訳では・・・・」
「ないのだけどね・・・・・」
「ねぇ・・・・・・」
「忠誠心がなんぼのモンだよ!?腹の足しになんのか、アァ!?
っか〜〜ッ、やってらんねえぜ!!俺ぁ帰る!!」
「あ、ちょっとデス!!」
が止める暇もなく、デスマスクは蝶ネクタイを毟り取ってその辺に放り出すと、広間を出て行ってしまった。
「あ〜あ・・・・・、完全に怒っちゃったわね。」
「今度はアイツの機嫌を直す計画を立てねばならんのか・・・・・」
「ああなってはそう簡単にいかないだろう。やれやれ・・・・」
とシュラ、そしてアフロディーテが顔を見合わせて疲れたように溜息をつくのを、サガは一人、申し訳なさそうな顔で見ていた。
「済まない、お前達。私が不甲斐無いばかりに・・・・」
「そんな・・・・、別にサガのせいじゃないわよ!」
「の言う通りだ。気にするな。」
「取り敢えず・・・・・、飲むか?」
アフロディーテの誘いに、一同は誰からともなく頷いた。
そこにはもう、客も従業員も居はしない。
居るのは只の連れ同士、これから苦難の日々を共に生き抜く運命共同体だけであった。
これにてクラブ聖域、閉店也。
またのお越しをお待ちしております―――――――