アテネの夜空に、丸い月が昇っている。
バスは無くなり、店も次々と閉まり出したこの微妙な時刻、カミュとは、ラストオーダーの掛かったカフェで過ごしていた。
「すっかり遅くなっちゃったね。」
「そうだな。ここももうそろそろ出ねば。」
カップの底に残ったコーヒーを飲み干して、カミュは店の様子をちらりと伺った。
残った客は自分達二人を含めて、二組、三組、そんな程度だ。
この店はアテネでも一番遅くまで開いている店だが、しかしあと三十分もすれば店じまいになる。
「どう・・・・しようか?」
の様子を伺うような表情に、カミュは一瞬口籠った。
迷う必要がないなら、すぐさま席を立って金を払い、聖域に帰れば良い。
しかし、簡単にそう決断出来ない理由は二つあった。
一つは、バスもないこの時刻、聖域に帰る手段がタクシーしかないという事。
がテレポーテーションを好まない以上それしかないのだが、まさか聖域の真ん前まで乗り付けて貰う訳にもいかないのに、高い金を払ってわざわざ遠回りな帰路を辿るのは合理的でない。
もう一つは。
「・・・・・・さて、どうしたものかな。」
出来ればこのまま帰りたくない、そう思っている事。
つまり帰る手段が云々というのは建前で、本音はこれである。
微妙な時刻というのは、意思決定をせねばならないリミットだったのだ。
いっそこのまま適当な相槌を打ち続けて時間を稼ぎ、すっかり帰れなくなってしまえば。
「は・・・・・、どうしたい?」
「どう・・・・って・・・・・」
夜も遅くなった頃に、このアテネに出て来た目的――即ち仕事だが、それがようやく片付き、
ともかくコーヒーの一杯位は飲んで休憩して帰ろうとどちらからともなく言い出して、ひとまずこのカフェに入った。
それは良かったのだが、入った時には閉店間際の事など何も考えていなかった。
ただもう少し、二人で居られる事が嬉しくて。
しかし、今は。
「カミュは・・・・・・、どうしたいの?」
今夜の報告は勿論サガの耳にも入れねばならないのだが、それは何も今夜中でなくとも良い。
明日の朝で十分間に合う。
急いで帰る尤もな理由がない以上、どちらかが『早く帰ろう』などと言い出せば、二人の間を結ぶ頼りない細い糸が、プツンと音を立てて切れてしまいそうで。
「さて、どうしたものかな・・・・・・」
そしてそれっきり、二度と結べなくなりそうで。
とうとうカフェも閉店してしまった。
店員に追い出されるようにして店を出た二人は、あてもなく夜道をうろうろと歩いていた。
「・・・・・・すっかり帰りそびれちゃったね。」
「ああ。」
「高くついちゃうけど、やっぱりタクシー・・・・・拾う?」
「そうだな・・・・・・・」
などと言う割に、足はどちらからともなく大通りから遠ざかり、タクシーの姿が見えない細い道を辿っている。
夜中の散歩も偶には良いが、こんな無意味な問答を繰り返しつつ、実は密かに相手の反応を細大漏らさず見逃すまいと神経を研ぎ澄ませながらでは、次第に楽しむ余裕もなくなってきていた。
どちらかが一歩踏み出さねばならないのなら、それは。
「・・・・・・今夜は・・・・・」
「え?」
「今夜は・・・・・、何処かで泊らないか?」
それはやはり男である自分の役目なのだろうと、カミュはようやく決心した。
シャワーを浴び、ホテルに備え付けの簡素なローブを纏ったカミュは、閉ざされた浴室の扉を見つめた。
この向こうには、先にシャワーを済ませたが居る。
揃いのローブを纏い、恐らく所在無げにソファに座って。
タクシー代より遥かに高くつくような一流ホテルならばともかく、ここは主に寝泊りだけの質素なシティーホテルだ。
夜更けに訪れた男女二人の客を見て、ホテルマンは初めから二人は同室するものだと決めてかかっていたし、またカミュも、ここまで来ておいてそれを否定し、敢えて二部屋取る気にはなれなかった。
きっかけは何であれ、遂に来るべき時が来たというのに、それに逆らうような事をすれば。
きっともう二度と、来るべき時は来なくなる。
そんな気がして。
そして多分、もそう思ったのだろう。
これがようやく来た、そして今を逃せばもう二度と来ない機会だ、と。
「。」
「あ・・・・・」
浴室を出て声を掛けると、は立ち上がり、何処かぎこちない笑みを向けてきた。
「ふふっ・・・・・、何だか変に構えちゃうね。」
「やはり・・・・・やめておくか?」
「・・・・・・・・それなら最初から帰ってる。・・・・でしょう?」
それを見たカミュもまた薄らと苦笑を浮かべ、の肩をそっと抱いた。
今更最後通告など、全くもって無粋な真似だったと、些か後悔しながら。
「・・・・・・違いない。」
互いに苦笑の形のまま初めて重ね合わせた唇は、長く付かず離れずだった二人の微妙な絆を、今静かに断ち切った。
「あ・・・・・・」
紐を解けばいとも簡単に肌蹴るローブを互いに取り払ってベッドの上に静かに倒れ込み、カミュはの首筋に顔を埋めた。
部屋に備え付けの安いソープの匂いはとうに消えていて、其処からふわりと漂ってくる仄かな香りは、紛れもなくのそれだった。
「ぁ・・・・ん・・・・・・・・・」
温かく脈打つ首筋に吸い付き、そのまま鎖骨まで舌を這わせると、は震えながらも腕を回してしがみ付いてくる。
こうなる事を望んでみたり、やはりと思い直してみたり、気持ちの一進一退を繰り返しながら長く続けてきたプラトニックな関係は、脱する気になればこうもすぐに実現出来るものなのかと、カミュは不思議に思っていた。
「あぁ・・・んん・・・・!」
舌を絡ませた乳房の先端の感触も、滑らかな曲線を成している腰のカーブも、今が初めて味わうものだというのにとてもそう思えないのは、多分。
もう何度も、想像の中でを抱いていたからだろうか。
「あっ、はぁッ・・・・・!」
蕩けるような甘い声も、柔らかな茂みを掻き分けて進ませた指に絡みつく熱い蜜も、全て。
もう何度も、夢の中で求めたものだからだろうか。
「あ・・・・あ・・・・っ・・・・!」
「ッ・・・・!」
一つに溶け合って、初めて分かった。
「カ・・・ミュ・・・・・・」
「・・・何だ?」
「私達、・・・・もう友達じゃ・・・・・なくなっちゃった?」
まっすぐに見上げてくるの瞳が、薄らと潤んでいる。
交わった身体の中心から広がる熱に浮かされたようにも見えるし、泣いているようにも見える。
そんなを見て、今初めて分かった事があった。
「・・・・・・そんな事はない。私達は良い友人だ。今までも、そしてこれからも・・・。」
「ん・・・・・・」
「だがそれ以上に、これからは・・・・・」
カミュはの髪を撫で、その唇にゆっくりと口付けた後、静かな声で言った。
「これからは・・・・・・・・、恋人だ。」
そう、自分で思っていた以上に、を愛していた。
こんな睦言が、自然と口をついて出る程に。
それが今分かった。
今までが楽しかった余り、この一線を越える事を躊躇った事もあった。
しかし、その気になってみれば越える事は容易かった。
いや、もう既に心は一線を越えていたのだろう。
「・・・・・・嫌か?」
「・・・・・嫌だったら・・・・・、最初から抱かれたりしてない・・・・でしょう?」
そして、もまた。
今までの楽しかった思い出は、いつまでも残る。
二人の間の絆が友情から愛情に変わっても、決して色褪せずに。
そしてこれからも、それは増え続けるだろう。
こうして触れ合って肌を重ね、交し合う互いの温もりに包まれて。
「・・・・・・違いない。」
擽ったそうに微笑むを、カミュは強く強く抱き締めた。
交わっては果て、果てては交じり、夜は次第に明けていく。
この群青色の空が薄く澄み渡り、明るい陽光が昇ったなら。
― 聖域に帰ろう、・・・・・・
愛情という名の強い糸で新たに結び直された手を取り合って。
昨日までとは違う二人で。
そうすれば、いつも見慣れた風景でも、きっと昨日出て来た時とはまるで違って見える筈。
腕の中で眠るをそっと抱き直して、カミュもまた残り僅かな夜に漂うように、静かに瞳を閉じた。