本日も聖域は晴天なり。
但し、一部地域のみ雷警報発令中、であったのだが。
教皇の間へと続く階段の先にある男の姿を見て、はあからさまに嫌そうな顔をした。
その男は今、の『最も会いたくない奴』No.1の座に座っている男である。
従って、はそのまま声も掛けずに素通りしようとしたのだが。
「・・・・・・おい、この俺を無視する気か。」
「あ〜ら、どちら様でしたっけ?」
「テッメェ・・・・・・」
「私、テメェなんて名前じゃありません。気安く声掛けないで下さい。」
「ケッ、屁理屈こいてんじゃねえよ。なんだその膨れっ面、ホント可愛げねぇな。」
「悪かったわね、可愛げがなくて。」
『・・・・・・・・・・』
朝っぱらから一触即発な雰囲気を醸し出すこの二人の状況、これは所謂『犬も食わない』というやつである。
そう、何を隠そう、実はこの二人、れっきとした恋人である。
そうではあるのだが。
只今この通り、ドンパチの真っ最中である。
「私急いでるの。あんたなんかに構ってる暇ないのよね。そこ退いてよ。」
「ああそうかいそうかい。そりゃ有り難えこった。」
デスマスクはから数歩ばかり遠ざかり、は障害物の無くなった前をズンズン歩いていく。
それはそれは、威風堂々とした歩みで。
これでも数日前までは、仲良くやっていたのだ。
それが今ではこの通り、共に仏頂面を浮かべて目も合わせない。
偶に合わせたと思えば、どこのヤンキーかと思うようなガンの飛ばし合いである。
「さ〜てと!邪魔者も居なくなったところで、久しぶりに綺麗な姉ちゃんとでも遊ぶかな!」
デスマスクは突然、聞こえよがしに大声を張り上げた。
こんな状況には、勿論望んでなった訳ではなかったが、何故だろう。
今となっては自分でも不思議な程、意地を張ってしまう。
それはも同じらしく、デスマスクのこの大きな独り言に、全く耳を傾ける事なく階段を上っていく。
それが癇に障ったデスマスクは、更により一層大きな声を上げた。
「久しぶりに地元にでも戻るか!イイ女が多いからな、
どっかの誰かと違って!」
しかし、流石にこの言葉は聞き逃せなかったようだ。
は不意に足を止め、ゆっくりと振り返った。
「・・・・・・・デスの・・・・・・・」
「何だよ?」
「・・・・・・・デスの・・・・・・・」
握り締めたの拳が、わなわなと震える。
空気が張り詰め、不穏な澱みを生み、そして。
「デスの馬鹿ーーーッ!!!大っ嫌い!!!!」
清々しい晴天だというのに、特大の雷が落ちてしまった。
それから数日後、6月24日の夜。
もう間もなく25日になるという時間になって、デスマスクはようやく自宮へと戻って来ていた。
彼の故郷・イタリアからの帰りである。
「これっぽっちじゃ足りねえな。今度はもっと長い休暇をぶん取ってやるぜ。」
退屈そうに呟きながら吸っていた煙草を落として踏み消し、デスマスクは巨蟹宮に入っていった。
「ん・・・・・?そこに居るのは誰だ?」
真っ暗な宮の通路、居住スペースへと続く扉の前に、誰かがしゃがみ込んでいる。
デスマスクは、闇にぼんやりと浮かぶ幻のような人影に向かって歩み寄った。
「おい、誰だ・・・・・って、・・・・・・?」
そこに居たのは、紛れも無くであった。
ただ、呼びかけても返事がない。
何事かと思い、デスマスクは慌てて顔を覗き込んでから・・・・・・
「・・・・・寝てやがる。」
と、呟いた。
冷たい石の床に腰を下ろしたまま、はぐっすりと眠りこけていたのである。
まさか帰りを待っていたとは思わず、驚いたやら嬉しいやら。
いや、嬉しいというのはきっと錯覚だ、一時の気の迷いだ。
別に全然嬉しくなんかない。断じて嬉しくなんかない。
しつこい位己にそう言い聞かせながら、デスマスクは呆れ顔での肩を揺すった。
「おい、起きろ。こんな所で寝てんじゃねえ。おい。」
「ん・・・・・・・・・」
「おいってばよ。」
「んぁ・・・・・・・・、あれ?誰?」
「起きた早々ご挨拶じゃねえか。」
「いたっ!」
デスマスクの指が、の額をピシッと弾く。
「こんな時間に人の宮で何やってんだ、お前。」
「・・・・・そっちこそ、今の今まで何処に行ってたのよ。」
「地元だよ。言っただろう。」
素っ気無いデスマスクの言葉を聞いた途端、心臓が嫌な跳ね方をした。
デスマスクは確かに、『地元にでも行くか』と言っていた。
『地元にはイイ女が多い』と。
そして、『久しぶりに綺麗な姉ちゃんとでも遊ぶか』とも。
まさか本当に行っていたなんて。
はみるみる内に表情を消して、いっそ冷静ともいえる口調で言った。
「・・・・・・・あっそう。楽しかった?」
「あ?ああ、まあな。」
「そう、良かったわね。じゃあね、お邪魔さま。」
「・・・・・・おいっ!」
行ってしまおうとするの腕を、デスマスクは咄嗟に掴んだ。
「こんな時間にわざわざ待っていた癖に、もう帰る気か?」
「帰るわよ。」
「何か用があったんじゃねえのか?」
「・・・・・・・・もう良いわよ。どうだって。」
「どうだってって・・・・・・、何だその言い方は!?」
「デスなんて・・・・・・・・・、大嫌い・・・・・・・・」
が乱暴に腕を振り解いて去っていく瞬間、デスマスクは気付いた。
反対側の腕に、白い小さな箱が大事そうに抱えられているのを。
「おい。それ何だよ?」
「何よ?」
「その箱。何だ?」
「なっ、何でもないわよ!」
慌てて隠そうとするを制して、デスマスクはその箱を取り上げた。
「何だ、これ?」
「返してよ!!触らないで!」
に取り返されないように高く抱え上げて、デスマスクはその箱を開いた。
箱が傾いていたせいだろう。
開けた瞬間、中から何かがザアッと滑り落ちてきた。
咄嗟に慌てて受け止め、それが何かを目で確認したデスマスクが最初に思ったのは、
『ああ、危ない所だった』であった。
少々の物なら床に落としても何という事はないが、流石にこればかりは違う。
「お前、これ・・・・・・・」
そう、それは直径15センチ弱の小さなケーキであった。
但し、正確に言うと完全な円形ではない。
何処で買って来たのか知らないが、そのケーキには何本もの脚と大きな鋏のついた蟹の形をしていた。
更に言うと、色までもが茹でた蟹の如く綺麗な紅色をしており、甲羅のゴツゴツ感を演出しているつもりなのか、ところどころ白いホイップクリームで点描されている。
おまけに、ご丁寧にもつぶらな目玉までついているのだから、これはもう明らかに蟹を意識して作られたとしか思えない。
何にしろ、もしあのまま床に落としていたら、台無しになっていた事には違いない。
デスマスクは俯いて黙り込んでいるを見つめた。
「・・・・・・・なんだよ、この愉快なケーキは。」
「何って・・・・・・、ケーキはケーキよ。」
「何で赤いんだよ?」
「ストロベリーレアチーズだからよ。」
「このでっけぇ目玉は?」
「見て分かんない?チョコチップよ。」
「・・・・・・・・・とりあえず、一言感想。」
「何よ?」
「すっげぇ趣味悪い。」
デスマスクは容赦なくそう言い切った。
「・・・・・・なによ・・・・・」
「何処で売ってんだよ、こんなケーキ。初めて見たぜ。」
「・・・・・・うるっさいわね・・・・・・!」
「買う方も買う方だが、作る方も作る方だな。」
「うっさい!!悪かったわね、趣味悪いケーキ作って!!」
は顔を真っ赤に染めると、怒りと屈辱に歪んだ口元から罵りの言葉を吐き出した。
「わざとよ、わざと!!あてつけに作ったんだからこれで良いのよ!!
何よ、アンタなんか蟹の癖に!!この馬鹿蟹!エロ蟹!!
最低最悪の超外道蟹!!」
「・・・・・・・お前な、そこまで言うか?」
「言うわよ!!アンタだって『そこまで言うか』って程言ったじゃない!!お返しよ!!このケーキ作るのに、何時間掛かったと思ってるの!?それを見るなり憎まれ口ばっかり・・・・・・・!」
みるみる内に、の瞳から透明な雫が盛り上がる。
最初の一粒がぽろりと零れるや否や、それは堰を切ったように次々と溢れ始めた。
「何よ・・・・・・・、大っ嫌い、デスなんて・・・・・・!」
「おい・・・・」
「・・・・・・・返してよ、それ!」
「何でだよ?返してどうすんだ?」
「私が食べるに決まってるでしょ!」
「一人でか?」
「そうよ、悪い!?言っときますけどね、味は美味しいんだからね!でもアンタなんかには一口だってやらないんだか・・・ってちょっと!何してるのよ!?」
慌てるの目の前で、デスマスクは豪快にも蟹の脚を一本毟り取り、大きく開いた口の中に放り込んだ。
次いで胴体の部分も無造作に千切り取り、同じく口に入れる。
更に、指についたケーキの名残も舐め取ってから、にこりともせずに言った。
「もう食っちまった。」
「っ・・・・・・、馬鹿ーーッ!!何て事してくれんのよ!?返してよ、私の・・・」
「ああ、返してやるよ。」
言うが早いか、デスマスクは強引とも言える仕草でを引き寄せると、その唇に深い口付
けを落とした。
ああ、返すってこういう意味?
そう思ったのも束の間、食べてもいないケーキの味が、の口の中に広がる。
クリームチーズに引き立てられた苺の甘酸っぱい風味と、
棘々とささくれ立っていた心を鎮めるような、デスマスクの煙草の薫りが。
「・・・・・・・何して・・・・・くれてんのよ。まだ仲直りしてないんだからね。」
「そうだっけか?」
「そうよ・・・・・・・」
まだ怒ったような、それでいて勢いは無い複雑なの表情に、デスマスクは苦笑いした。
「これ・・・・・、俺のバースデーケーキのつもりか?」
「・・・・・・・一応。」
「お前が作ったんだっけ?」
「・・・・・・・一応。」
「ふ〜ん・・・・・・・・。仲直りする気満々じゃねえか。」
「だっ、誰がッ!!違うわよ、これはねえ!」
「これは?」
「これは・・・・・!デスがちゃんと謝ったら・・・・・・・、あげない事もない事もない、みたいな・・・・・」
『じゃあ結局くれる気無いんじゃねえか』というツッコミは、喉の奥にそのまま飲み込んだ。
俯きつつ気まずそうに口籠っている上にこのややこしい言い回しでは、うっかり言い間違える事だって十分に有り得る。
それに何より、の顔に書いてあるではないか。
『プレゼントする気で持って来た』と。
デスマスクはケーキを元通り箱に収めながら、呆れたように笑って言った。
「ヘッ・・・・・、ったくよぉ、いつまで強情張ってんだ、お前は。」
「それはこっちの台詞よ。良いからさっさと謝りなさいよ。ごめんねって言って。」
『ごめんね』
その言葉、は一体何に対して言って欲しいのだろう。
そもそもの発端となった出来事に対してか、それともケーキを馬鹿にした事にか。
それとも・・・・・・、いや、何だって良い。
間抜けなケーキと、それと同じ赤い色をしたの目を見ていると、もうこれ以上意地を張るのが馬鹿馬鹿しくなってきた。
「・・・・・・悪かった。」
こうして喧嘩をすれば小憎らしいが、それでも嫌いになれないのだから仕方がない。
だから帰って来たのだ。
他の誰に祝って貰う誕生日など、嬉しくもめでたくもないのだから。
「俺が悪かった。」
「デス・・・・・・・」
「お前の・・・・・・・・・」
だから、『悪かった』という一言でまたが笑ってくれるのなら、幾らでも言ってやる。
むしろ、どうして今までこんな簡単な事が出来なかったのだろう。
もっと早くにしていれば、今日はもっと良い日になっていたかもしれないのに。
自分でも不思議な位素直な気持ちになりながら、デスマスクは静かに言葉を続けた。
「お前の大事なドラマビデオの上に、サッカーの試合録画して悪かった。空テープ探すのが面倒でつい。お前があんなに怒るとは思わなかったんだよ。それから、ケーキも馬鹿にして悪かった。あんまり愉快な形してたもんだからつい。別に悪気はねぇんだ。」
改めて言葉にしてみると、随分チンケな喧嘩理由だ。
そんな事でお互いよくぞここまで意地を張り通せたと、いっそ感心さえする。
そして、それと同時に。
そんなチンケな理由で良かった、と思った。
「それから・・・・・・・・」
「・・・・・・・それから?」
「寂しい思いさせて悪かった。地元・・・・・・、帰ったけど、何もしてねえからな。酒飲んで寝てただけだ。だから疑うなよ。もうこれ以上ドンパチは御免だぜ?気力がもたねえ。」
何をしていても退屈で、気が晴れなかった原因が分かった。
居るべき人間が、が、側に居なかったからだ。
休暇の長さなどは、何の関係もなかった。
デスマスクはの顎を軽く持ち上げると、小さく笑ってまた口付けた。
「うん・・・・・・・。」
「・・・・・よし。」
「後で自分でチェックするから。」
「するんかよ。」
肩を落としつつも、デスマスクは笑っての腰を抱いた。
「ま、良いや。俺の身体、隅々まで納得いくように調べてくれや。」
「厭らしい言い方しないでよ馬鹿!・・・・・・冗談よ、信じてるから。」
「・・・・・」
「ごめんね。それと・・・・・・、お誕生日おめでとう。」
もう涙の引いたの瞳が、いつものように柔らかく綻ぶ。
デスマスクは照れ隠しの薄い笑みを浮かべて、ケーキの箱を少し持ち上げてみせた。
「祝ってくれるんだろ?こいつでよ。」
「うん。」
「でも、アレが足りねえな。メッセージプレート、っていうのか?ほら、『ハッピーバースデー』とか書いてあるやつ。」
「ああ、あれ。あれの代わりにね、甲羅の模様がそのメッセージになってたんだけど。」
「なにっ!?」
慌てて再びケーキの箱を開いて中を確認してみれば、ああなるほど、確かにホイップクリームの点が文字を成している。
ちょこちょこと並んだその白い点を解読してみれば。
「『ハッピーバースデー デスマス』・・・・・・。デスマスって誰だよ!?」
「私のせいじゃないわよ!?デスが『ク』の部分食べちゃったんでしょ!」
「おまけに脚も一本無えじゃねえかよ!!なんだこのヤバい蟹は!?バースデーケーキの癖に何か縁起悪いぞ!!」
「知らないわよ!!それもデスが行儀悪くつまみ食いするからじゃない!!」
「か〜〜ッ、てめぇ・・・・・、ほんっと趣味悪!!なんだこのケーキ!?」
「まっ・・・・・った文句言った!!じゃあもう食べなくて良いわよ!!」
「そんな事言ってねえだろ!?」
二人の間にまた雷鳴が轟いたが、雨の心配はもう要らないようだ。
何故なら。
巨蟹宮の居住区に二人の姿が消えた途端、それは嘘のように鳴り止んだのだから。