思えば確かに、今日はおかしかった。
「こっちの分終わりました〜。」
今はもう終業時刻を越えた、所謂残業タイム。
他の連中は皆帰ってしまって、執務室にはとサガの二人だけである。
処理を終えた書類の束を持って、はサガのデスクに歩み寄った。
「ああ、ご苦労・・・・」
「他には何かある?」
「いや・・・・、今日はもう・・・・・」
「どうしたの?何か変よ、サガ。」
やけに口数の少ないサガを訝しんだは、彼の顔を覗き込んだ。
「具合でも悪いの?」
「いや、大丈夫だ。心配には及ばん・・・」
「疲れてるんじゃない?あっ、そうだ!お茶飲む?ちょっと休憩すれば?」
「いやいや、大丈夫だ。ありがとう。」
の申し出を、サガは丁重に断った。
だがその笑顔は、何処となく曇っている。
「私の事は良いから、今日はもう上がりなさい。」
「本当に大丈夫?」
「勿論だ。また明日よろしく頼む。」
「ん・・・・、じゃあ帰るね。サガもあんまり無理しないで。」
心配には違いないが、大丈夫と言い張るサガに根負けして、は帰り支度を始めた。
しかしこの時のには、その直後に起こる出来事を予想出来る筈もなかった。
「・・・・・待て。」
「え?」
「ククク・・・・、誰が帰すものか・・・・」
背後から聞こえた声は、確かにサガのものだ。
なのに何故だろう。別人に聞こえる。
状況を飲み込めないは、後ろを振り返って目で確認しようとした。
するとそこには。
「え・・・・・?」
「どうした、何を驚いている。」
「サ・・・・ガ・・・・、なの?」
「他の誰に見える?そうとも、私はサガだ。」
確かにサガだ。
だけど違う。
髪の色も口調も、ついさっきまでのサガとは似ても似つかない。
おまけに表情も違う。
サガの微笑みはもっと柔らかいものであって、こんな不敵な形相ではなかった筈だ。
「え?えぇ!?誰!?サガ!?」
「だからそうだと言っておろうが。フン、やはりシャバの空気は美味い。久しぶりに良い気分だ。」
「あの・・・・、どしたの!?」
この状況に混乱したは、憚る事なく驚いて素っ頓狂な質問を浴びせた。
サガはそれを鼻で笑い、おもむろに片腕でを引き寄せた。
「訳の分からん事を訊くな。別にどうもしない。俺だって時には開放的な気分にもなるというものだ。」
「『俺』って。っていうか開放的って。そんな問題なの!?」
そうなのだ。
一人称の変化はともかく、気分の問題で髪の色が変わるというのか。
そんな事は有り得ない。
「どんな問題でも良かろう。そんな下らん話をする為に出てきた訳ではない。」
「あ、あの・・・、何か目的がお有りで??」
サガの冷ややかな視線に竦み上がったは、妙に敬語口調になりながら恐る恐る尋ねた。
ついでに、そろりそろりとサガの腕から逃れようとする。
「ゴソゴソするな。」
「う・・・・」
が、それは失敗に終わった。
サガの拘束はますます固く、強くなる。
腕の力を強めたサガは、『よくぞ訊いてくれた』とばかりに口角を吊り上げた。
「目的か?いい質問だ。」
「な・・・・何なのでしょうか・・・?」
「あれは駄目だ。馬車馬のように働く事しか知らん。そんな生活ばかり送っていては息も詰まるというもの。そうは思わんか、?」
「は、はぁ・・・・」
『あれって誰だろう?』、そんな疑問が頭をよぎったが、取り敢えずは頷いておいた。
「あれの状態が悪くなると、こっちにまで被害が及ぶのだ。イライラして仕方が無い。」
「はぁ・・・・」
「つまりだ。俺は今、非常にストレスが溜まっている。それを発散させる為に出てきたのだ。」
「あの・・・・、出てきたって、何処から?」
「これだけ言ってもまだ分からんか。飲み込みの悪い奴だ。」
「済みません・・・・」
呆れたような口調のサガに何となく謝ってしまったが、は別に全く理解出来ない訳ではない。
ただ信じ難いのだ。
一応はサガのようであるが、今目の前に居る男は、の知っているサガではないのだから。
「もう一度だけ言う。俺はサガだ。しかし『出て来た』というのは語弊があったかもしれんな。この身体は俺の物なのだから。」
今、決定的な事を訊いた。
間違いない。
これはかねて噂に聞いていた、『もう一人のサガ』だ。
「初めて見た・・・・」
「何がだ?」
「う、ううん、何でもないの。」
「フン、まあ良いだろう。」
自身の話に見切りをつけたサガは、を解放して立ち上がった。
何処へ行くのかと見守る。
だが、別に何処という事はなかったらしい。
室内を軽く物色したサガは、机の上にあった煙草とライターを手に取った。
どうやら昼間、デスマスクが忘れていった物のようである。
サガはそれに火を点けて、美味そうに燻らせ始めた。
「何だ?俺の顔に何か付いているか?」
「う、ううん、別に・・・・。サガが煙草吸うのなんか珍しいなぁと思って・・・」
「フッ、だろうな。」
薄く笑って煙を吐き出すと、サガは煙草を持っていない方の腕でまたを引き寄せた。
「さて、これからどうするかな。」
「・・・どうって?」
「お前にも付き合って貰うぞ。俺のストレス発散に。」
「・・・・良いけど・・・・、何するの?」
いつもと違う感じが少々怖くはあるが、その目的自体は妙に微笑ましい。
それに、別段危害を加えるという風にも見受けられない。
ついでにもっと言ってしまえば、今の状態のサガにも少し慣れてきたところだ。
いつもと違うサガを観察してみたい、そんな好奇心も沸き始めている。
という事で、は素直にサガの命令(?)を受け入れた。
「お酒でも飲む?」
「うむ、それも一興だ。」
「あっ、じゃあさ。他の皆も呼んで飲み会しようよ!そっちの方がきっと楽し・・・」
「却下だ。」
「何で?」
「何が哀しくてあいつらと飲み会なぞせねばならんのだ。そんな事では益々ストレスが溜まる。もっと気の利いた案を出せ。」
「むぅ・・・、悪かったわね。」
小馬鹿にされたような言い方に、は少々頬を膨らませた。
「だって他に思いつかないんだから仕方ないでしょ。」
「ククク、そう脹れるな。そんなに難しい事ではなかろう。よく考えてみろ。」
そう言って、サガは煙草を灰皿に押し付けた。
「何よ・・・・、ストレス発散って言ったら・・・・、食べる?」
「腹は減っていない。」
「飲む、のも大人数じゃ嫌なんでしょ?」
「うむ。」
「遊ぶ?でも何して?もうこんな遅くじゃ町にも行けないわよ。ここでトランプとか?」
「論外だ。さっきの飲み会以上に下らん。」
「じゃああと何があるのよ・・・・、そうだ!いっそさっさと寝ちゃえば?」
妙案だと思ったが、言ってすぐに後悔した。
『子供じゃあるまいし』と睨まれるかと思ったのだ。
しかし、意外にもサガの反応は良かった。
「良い案だ。俺の希望になかなか近くなってきたな。」
「あっ、そうなの?じゃあ話は早いじゃない!さっさと寝ちゃいなさいよ!」
「意外に飲み込みが早いな。見直したぞ。話の分かる女は嫌いじゃない。」
そう言って、サガは両腕でしっかりとを抱き締めた。
勿論、驚かない訳がない。
「ちょっ、何してるの!?寝るんじゃなかったの!?」
「寝るさ。」
獰猛な笑みを浮かべたサガは、おもむろにの唇を奪った。
煙草の香りと苦味が伝わってくる。
そこでやっと気付いたのだ。
『寝る』の意味が違う事に。
「嫌ーーッ!ダメダメ何してんの!?離して!!」
「今更ごねるな。お前が寝ろと言ったのだぞ。」
の抵抗をものともせず、サガはデスクの上にを押し倒す。
サガがこんな事をするなんて信じられない。
デスマスクのセクハラには免疫があるが、相手がサガとなると話は別だ。全く免疫がない。
従って何も出来ないまま、いとも簡単に組み敷かれてしまう。
サガの事は誓って嫌いではないが、不覚にも震えてしまい、涙まで出そうになる。
「嘘、でしょ・・・・?」
「・・・・良い顔だ。そそられる。」
「サ、ガ・・・・、やめてよ・・・・」
「出来ん相談だな。だが、せめてもの礼に、天国よりもっと心地良い場所へ連れて行ってやる。」
凄まじい自信だが、それをからかう余裕は今のにはない。
竦んで動けないの首筋に顔を埋めたサガは、恍惚としたように呟いた。
「良い気分だ。羽根が生えたように身体が軽い。」
「やッ・・・・・」
「今夜の俺は熱い・・・・。お前を焼き尽くしてしまうかもしれんぞ・・・・」
「サ・・・ガ・・・・・」
サガの熱い手が、の胸を包む。
もはやこれまでと観念しかけたその時。
「・・・・・あれ?」
「・・・・・・」
「あれ!?」
突如サガがの上に崩れ落ちた。
確かに熱い。
尋常でない程に。
「サガ!?しっかり!!サガってばーー!!!」
「大丈夫、只の風邪ですよ。寝てれば直ります。」
「良かった〜!突然倒れたから吃驚したのよ!凄い熱あるし!」
「全く、この人も大概無茶をする人ですね。40度の熱に気付かないなんて信じられませんよ。」
双児宮のサガの部屋で、と治療の為に呼ばれたムウは喋くっていた。
「・・・・面目ない。」
「全くです。夜中に大騒動する位なら、大人しく執務を休んで下さい。こっちの方が却って迷惑です。」
「・・・・面目ない・・・」
ムウの歯に衣着せぬ言葉に、サガはバツの悪そうな顔をした。
もう既に、髪の色も口調も普段の彼に戻っている。
「しかし、久しぶりに黒が顔を出しましたね。」
「黒?あのサガの事?」
「ええ。星矢達の12宮襲撃〜聖戦を経て、白と黒は完全に融合してグレイになったと思っていたのですがね。」
「グレイって・・・・」
「体調を崩したせいで、一時的に分離したのでしょう。」
「分離って・・・・」
ムウの診断が妙におかしくて、は細かく突っ込まずにはいられなかった。
「さて、では私は帰って寝るとします。はどうしますか?」
「・・・・う〜ん、もうちょっとだけ様子見てるわ。カノンもまだ帰ってないし。」
「そうですか。では後は頼みましたよ。黒にはくれぐれも気を付けなさい。」
「うん。ありがとう。」
ムウを見送ったは、またサガの部屋に戻って来た。
「・・・・、その、私は君に・・・・何かしたか?」
「何も覚えてないの?」
「・・・・面目ない。」
無理もない。
40度の高熱で意識も朦朧としていた所で、別人格にスイッチしたのだ。
「良いのよ。具合が悪かったって事で許してあげる。」
「・・・・・済まない。この侘びは必ず・・・・」
「悩むとまたストレスが溜まって熱が上がるわよ。良いから早く寝て。カノンが帰って来るまで私がついてるから。」
「・・・・ありがとう。」
優しい微笑を浮かべるに、サガは表情を和らげた。
そしてゆっくりと瞼を閉じる。
― こんなに心地良い眠りは、初めてかもしれんな・・・・
眠りに落ちる刹那、サガは自分の深層心理を垣間見た気がした。
そう。
その心理こそが、実は先程の狼藉に繋がったのだが。
それを知るたった一人の者は、今はまたいつ醒めるとも知れぬ眠りに就いていたのであった。