檻の犬と籠の鳥と川の猫




1988年冬、蒼天堀を去ったのはある日突然だった。
何月何日だったか、自分でもはっきりと覚えていない位だから、正に『人知れず消えた』と言うのが相応しい去り方だった。
『キャバレー グランド』の従業員達にも『キャバクラ サンシャイン』の皆にも、随分心配と迷惑をかけてしまった事だろう。
だから、忙しく立ち働く彼らのうちの誰かとバッタリ、なんて事になると、どの面を下げて会えば良いのか分からないので、真島はあれ以来、夜にこの界隈を歩く事は避けるようにしていた。

かつては毎夜のようにこの辺りに出現していたが、今は用事があれば昼に来るという感じになっていた。
今日も例外ではなく、昼飯時より僅かに早い時間帯に『竜虎飯店』へ行ってシノギの商談をした後、本日の日替わりランチを食べて出てきたところだった。


「あー、美味しかったー!お腹いっぱーい!」

今日はを伴っていた。
竜虎飯店の店主夫妻が、を紹介しろとうるさかったのだ。
自分の女を誰かに紹介する為に連れ歩くというのはどうにも気恥ずかしくて気が進まないのだが、あの夫妻に関しては気心が知れているので、催促されるままに応じたのだった。


「あそこ美味しいなぁ。もっと早くに知っとけば良かったわぁ。」
「何や、お前あの店行った事なかったんか?」
「うん。そこのキャバレーに勤めとった時は毎日通り掛かっとったけど、入る機会が無かってん。行きは無理やし、帰りはもうお店閉まってるしで。」
「あぁ、そらそうやなぁ。」

真昼間の蒼天堀は、真島がよく知っている景色とはまた違っていた。
この時間帯なら、夜の店の者達は誰もいない。そう思うと、ふと近くへ行ってみたくなった。


「なぁ、腹ごなしにちょっとその辺歩こか?」
「うん、ええよ。」

足は自然と『キャバレー グランド』の方に向いた。
も特にそれを嫌がらなかったので、真島は足の向くままにそのまま歩いて行った。
全ての灯りを消してひっそりと静かに眠っているグランドを通り過ぎ、毘沙門橋を渡っていると、雑草が生い茂る蒼天堀のほとりに、チラリと黒い塊が見えた。


「ん?」

それは猫だった。
夜の闇のような漆黒の毛皮を纏い、左目を壮絶な傷痕で塞いでいるそいつには、よく見覚えがあった。


「あっ!あいつ・・・!」
「えっ!?何、どしたん!?」

真島は思わず橋を下りて行った。
くさむらの中に蹲って日光を浴びていた黒猫は、すぐ真島に気付き、その隻眼を牽制するかのように真島に向けてから、フイと歩き去って行った。
黒猫が逃げ込んで行ったのは、真島がかつて住んでいたアパート『エスポワール中之島』だった。


「グランドにおった頃、俺ここに住んどったんや。」
「えぇ!?そうなん!?」
「2階のあの部屋や。」

真島はよくよく覚えのある窓を指さした。
そこには男物の服や靴下が干されてあった。


「・・・もう次の奴が入っとんねんな・・・・・」

その窓から外を眺めていた頃を思い出していると、が真島の腕を軽く揺すった。


「なぁ、ちょっと行ってみぃひん?」
「えぇ?」
「さっきのニャンコちゃんの後、ついて行ってみようや!」

言うが早いか、は黒猫の後を追ってアパートに入って行った。


















逃げて行った黒猫はアパートの2階へと続く階段の前に蹲っていて、追って来た人間2人を、何の用やと言わんばかりに片目で見据えていた。


「・・・やっぱりお前か。」

が知っている限り、真島がこんな風に動物に興味を示した事は今までに無かった。


「久しぶりやのう、同志。元気にしとったか?」
「同志?それ、この子の名前?」
「名前っちゅうか、俺が勝手にそう呼んどっただけや。」

真島は優しい眼差しで黒猫を見つめながら、その場にしゃがみ込んで手を伸ばした。


「ほれ、来い。・・・って、やっぱあかんか。相変わらずやのう、ひひっ。」
「この猫の事、よう知ってんの?飼ってたとか?」
「飼うてへん。こいつはこの辺りをウロウロしとる野良猫や。」

も同じようにして、真島の隣にしゃがみ込んだ。


「ゴミ箱漁ったり、そこら辺の店の連中に何か貰ろたりして暮らしとった。
グランドにもよう来てたわ。勝手口の所で、ボーイが客の食い残しのツマミとかやりよんねんけど、佐川はんが猫嫌いでな。そんなんして勝手口に集まって来る猫共を見かけるたんびに、嫌っそ〜な顔して蹴散らしとった。」
「ああ・・・・、ふふふっ・・・・・。目に浮かぶようやわ。」

犬も猫も好きじゃねぇ、俺は鳥派なんだと言っていたあの人は、結局、小鳥の一羽を飼う事もなかった。
幼い頃に束の間世話をしたという文鳥が、彼の生涯唯一のペットとなったようだった。


「そやけど、この猫の事だけは何や面白がりよってな。俺によう似とる言うて、いちびりよったんや。似てるって、左目潰れてるって事だけやんけっちゅう話やねんけどな。」
「あぁ〜・・・、でもまぁ、あの人の言いそうな事やなぁ。」
「そやろ。ほんで機嫌のええ時限定やけど、残飯やのうてわざわざ冷蔵庫から出させてきた高い生ハムとかを、気まぐれにやってみたりしよんねん。
それを目の前でがっつく姿を見て、俺にそっくりやー言うて笑ろて、むっちゃけったくそ悪うてホンマこのオッサンぶち殺したろかて毎度思ったんけど、そのたんびに、こいつが俺の代わりに仕返ししてくれたんや。」
「え、どういう事?」
「こいつは放り投げられたもんは食うても、お愛想は一切せぇへんかった。
佐川はんが触ろうとすると、途端に毛ェ逆立ててフーッ言いよんねん。ほんだらあのオッサン怯んで興醒めしよるんや。まぁその後俺が八つ当たりされんねんけど、ええ気味やったで、ひひひっ。」
「あははっ!ホンマ何から何まで目に浮かぶようやわ、けったくそわる。」

が笑って相槌を打つと、真島も笑って、そやろ、と応えた。


「・・・背に腹は代えられへんが、プライドは捨てへん。俺はお前が嫌いや。佐川はんに対してそういう風にはっきり意思表示するこいつを見てる内に、何やだんだん仲間みたいに思えてきてな。ほれ、片目なんもお揃いやろ?そやから、自分だけで密かに『同志』って呼んどったんや。
この階段のとこに餌置いたったら、じぃっと俺の顔見てから食い始めよんねん。その様子がまるで、『ほな遠慮のう呼ばれるわ』とでも言うてるみたいで、何やちょっと心が通じ合っとるような気がしてなぁ。
まぁ尤も、こいつのプライドの高さは筋金入りでな、フーッこそ言わんものの、結局最後までお愛想はしてくれへんかったけどな。」
「そっかぁ・・・・・」

は、じっとこちらを見ている黒猫を、同じように見つめ返した。
真島が『同志』と呼ぶこの黒猫、実はにも見覚えがあった。
真島の話を聞いている内に、昔の事をふっと思い出したのだ。


「・・・なぁ、この辺の野良で、左目潰れてる黒猫って他にもおった?」
「あん?いや、俺が知ってた限りはこいつだけやで?」
「そうやんなぁ、やっぱり・・・。」
「あん?何やねん、お前もこいつの事知っとるんか?」

真島が怪訝そうにそう尋ねた。


「うん。私すぐそこの『VIP』って店に勤めとったやんか。そこの裏にもようさん猫が来とってな、女の子らがいっつもキャッキャ言うて餌やっとってん。そうやそうや、思い出した!ウインクや!」

が思わず大きな声を出すと、黒猫は一瞬、ビクリと身を竦ませた。


「あん?ウインク?」
「そう!この子な、うちの店では『ウインク』って呼ばれとってん。この片目がウインクしてるみたいに見えるからって。
やっぱりウインクや〜!久しぶりやなぁ!おいでウインク!チッチッチ・・・」

舌を鳴らして呼んでみると、黒猫はすっくと立ち上がり、ウナ〜ンなどと甘えた声で鳴きながら、の足元にすり寄って来た。


「ああ〜!やっぱりそうやぁ〜!相変わらず愛想ええなぁ〜!」
「ウナ〜オ」

の足元を何度も行き来しては身体を擦り付け、ついには地べたにコロンと転がり、真っ黒な毛がモフモフしているお腹を見せつつゴロニャンゴロニャンと転げ回る黒猫を見て、真島は驚愕の表情になった。


「んなっ・・・・!こ、こらどういうこっちゃねん・・・・・!?」
「この子なぁ、賢いねん。ボーイよりホステスの女の子らの方が可愛がって美味しいもんくれるのを、よう知ってやんねん。
ボーイ君らは残りもんの残飯あげる位やけど、女の子連中は自腹切ってわざわざキャットフードとか買ってきてあげとったからなぁ。お客さんにおねだりしてローストビーフとか高いもん頼ませて、それをニャンコちゃんらにあげて楽しみつつ、お客さんに動物好きの優しくて可愛い女の子ってアピールする、ちゃっかりした娘もようさんおったし。ふふふっ!」
「な、何やてぇ・・・・!」

打ちのめされたような真島の顔が可笑しくて、はついつい吹き出した。


「そやから、まぁ言うたらこれは『営業中』って感じやな。ちょっとうちらと同業みたいな感じせぇへん?ふふふっ。」
「さ、佐川はんにはいっつもフーフー言うとったで・・・・?」
「それはきっとあの人のいけずな邪気を感じ取ってたんやろ。幾ら羽振りが良うても、こっちの事を下に見下して、施したるわみたいな態度取るお客さんはちょっとなぁ。」
「お、俺にもこんな事せぇへんかったで・・・・?俺なんか、食うてる間にちょっと背中撫でるんが精々やったのに・・・・・」
「餌って何あげとったん?」
「・・・ざ・・・、残飯・・・・・」
「あ〜、やっぱりなぁ。」
「お、お前は何やっとってん・・・?」
「私?私はかつお節とか煮干しやったなぁ。キャットフードの大袋買おうや言うて、何人かでお金出し合うた事もあったわ。」

フルフルと小刻みに震え出した真島は、やがてすっくと立ち上がり、悔しそうに歯噛みしながら黒猫に指をさした。


「何やねーん!貢ぎ物のランクであからさまに態度変えんなやー!お前はそれでもプロのキャバ嬢かー!」
「あはははっ!猫相手にそんなムキにならんでええやーん!」

大音量で発せられた真島の負け惜しみとの笑い声に驚いたのか、黒猫はまた立ち上がってスルリと歩いて行った。
とても追いかけられないような狭い所へ入り込んで行く寸前、チラリとこちらを振り返ったその隻眼は、『いやわしキャバ嬢ちゃうし』とでも言っているかのようだった。




back



後書き

2022年2月22日。
『2』が6つ並ぶ今日は、鎌倉時代以来800年ぶりのスーパー猫の日だそうで。
何じゃそりゃっちゅう感じで、最初はフーンと思っていたんですが、急に記念になる事をしたくなって、猫をモチーフにした短編を書こうと思い立ち、勢いのままに書きました!お楽しみ頂ければ幸いです。

佐川はんの文鳥ストーリー、妙に心に残りませんか?
佐川はんはその後、もう二度と何も飼わなかったんだろうなと、私は個人的に思っております。(※真島ちゃん除く)
ペットロスとかそういうのじゃなくて、自分には小さい生き物の命を最後まで守り通す事なんか出来ない、そこまでの保証なんかしてやれない、みたいな?
ある意味、とても慎重な性格なんじゃないかな、と。石橋を叩きまくってぶっ壊すレベルで(笑)。