ある朝




頭が痛い。
喉が渇いた。
そんな不快感の方が次第に勝り始めてきて、真島は仕方なしに目を覚ました。


「・・・・あぁ・・・・」

起きた途端から、体調は最悪だった。
頭はガンガン痛むし、関節や皮膚の表面もピリピリピリピリと地味に痛む。
測るのは面倒くさいが、熱もまだある。
だがそれでも、最悪なりに峠を越して回復してきた感じがしていた。
少なくとも、具合の悪さよりも水を飲みたいという欲求の方が勝って、起き上がろうと思える程度には。
部屋の中はもう暗くはなく、薄ぼんやりとだが明るくなり始めていた。朝と呼ぶにもまだ微妙に早いような時間帯である事は、それで簡単に想像がついた。
何の物音も聞こえないという事は、多分あの女もまだ寝ているのだろう。
真島はベッドを抜け出すと、部屋の引き戸を静かに開けた。
そして、本当にすぐ目の前で寝ている女に驚いて、思わずビクリとした。


― 近すぎやろコレ。むっちゃ出にくいやんけ・・・・。

女は引き戸に足を向け、布団に包まりぐっすりと眠っていた。
部屋の面積と家具の配置上、ここにしか布団が敷けないのは分かるが、本当に引き戸の際まできているので、部屋を出るには気を付けないと、女の足を踏んでしまいそうだった。
数日前の日中、佐川に雇われたと言って突然やって来たこの女は、一度帰りはしたものの、その夜遅くにまたやって来て、以来この部屋にずっと泊まり込んでいる。
だが、寝姿を見たのはこれが初めてだった。
真島はその場から首を伸ばして、女の寝顔を恐る恐る覗き見た。


― よう寝とんなぁ・・・・

女の寝顔を観察しながら、真島はこの女と初めて会った数日前の事を思い出していた。
あの時、女はキャバレーのホステスをしていると言っていた。
しかし、このあどけない寝顔を見ている限り、とてもそうは思えなかった。
真島の知っている夜の世界の女達は、皆もっと色っぽい、大人の女だったからだ。
この女も、夜になると化けるのだろうか?
それともこのまんま、このチンチクリンな感じのまま店に出るのだろうか?
首を捻りながら尚も観察を続けていると、女は何やらモグモグと口を動かし始めた。


― な、何や?何食うとんねん?

別に本当に何か食べている訳ではない。何か食べる夢でも見ているのだろう。
気持ち良さそうに眠りながら何か食べているこの女を見ていると、何というか、とてつもなく羨ましい気持ちになった。


― お前はええのう・・・・

思わず溜息が零れた。
この女が何者なのかも、どんな暮らしをしているのかも、ついでに名前も知らないが、1年前のあの事件、あの直前ぐらいから安眠というものとは縁遠くなっていた真島にとっては、こんな風にぐっすり眠れるだけでも羨ましかった。
しかし、考えてみれば当然の事だった。
幾ら金で雇われたとはいえ、こんな得体の知れないヤクザ者を、何日も泊まり込んでまで手厚く看病するような女なのだから、その心根が邪である筈がない。眠れる幸せも、食べる喜びも、与えられていて然るべきだった。
たった一人の兄弟を裏切り、首の皮一枚繋がったような状態で無様に生かされている自分とは、違っていて当然だった。
だが今は、不思議な事に、熱と共に絶望感も少し峠を越してきているようだった。
嶋野に見捨てられ、佐川という男に東京から遠く離れたこの大阪へと連れて来られ、右も左も分からぬままに問答無用でこの部屋にぶち込まれた時には、暗闇のような絶望のどん底に深く沈み込み、もう別に死んだって構わないと思っていた。
しかし今は、そこにほんの少しだけだが、微かな光が射し始めていた。
酷い熱とあちこちの痛みのせいもあって、熟睡出来ないのは変わらないが、飯を食う楽しみが次第に戻ってきているのだ。
それは取るに足りない、小さな小さな楽しみだった。けれども、カーテンから滲んでくる淡い早朝の光のように、優しくて温かい光だった。
佐川組の連中が野良犬に餌を投げ与えるが如く置いていくパンや弁当は、全く食べる気がしなかったのだが、この女が作る物は不思議と喉を通る。
それどころか、こうして寝顔を見ていると、鼻でも摘まんで起こしてやって、朝飯まだかと催促してやりたくなる。勿論、チラッと思うだけで、本当に実行する気はないが。
水を飲んでからもうひと眠りする位が、丁度良い感じだろう。
真島は女の足を踏まないように気を付けながら、そっと一歩を踏み出した。

ところが。


「うぅ〜ん・・・・・」
「ぅわっ・・・・!!」

真島が一歩を踏み出したその瞬間、女が寝返りを打った。
女の足元がモゾモゾと動いたせいで、踏み出した足の着地点を失ってしまった真島は、バランスを崩して女の上に倒れ込んだ。


「〜〜〜〜〜っっっ・・・・!!!」

危うくこの女に手加減なしのボディープレスをかましてしまうところだったが、しかし真島は寸でのところでそれを回避した。
横向きになった女の左右に咄嗟に両手を着き、足も踏ん張って、何とか女を押し潰さないよう堪えたのである。


― あっぶないなぁお前!急に寝返んなや!

などと心の中で文句を言ったまでは良かったが、次の瞬間、真島は息を呑んだ。
今の体勢が絶妙すぎて、これ以上微動だに出来ない事に気付いたのだ。


― ヤ、ヤバい・・・・!動かれへん、どないしよ・・・・!?

狼狽えている間にも、限界は刻々と迫っていた。
この姿勢は、もって精々あと数秒というところだろう。
唇が触れてしまいそうな程近くにある女の白い頬を戦々恐々と見下ろしながら、真島は必死で息を殺した。


― あかん、こらホンマにあかん・・・・!何とか退かな・・・!早よ・・・・!

今この瞬間に、ふと目でも開けられたら。
そう思うとこっちは気が気じゃないのに、女はあろう事かウフフと笑いながら、また何か食べている。


― さっきから何食うとんねんお前・・・・!こんな時に呑気やな、くっそ・・・・!

真島は歯を食い縛り、身体中の力を振り絞って、じわじわと身体を傾けていった。
片方の腕を床に着けていき、更にゆっくりと身体を傾けていって、やがて無事、女の横に音を立てずに転がる事が出来た。
無事を確認してから、真島は安堵の溜息を深々と吐いた。


― セ、セーフ・・・・!あっぶなかったぁ・・・・!

バクバクしている心臓が落ち着くのを待っていると、ふと真島の鼻腔を良い香りが擽った。
爽やかな甘さのこの香りは、多分この女の髪に付いているもの、シャンプーか何かの香りだった。
それは香水程強くはないが、紛れもなく、女の香りだった。


「っ・・・・・・!」

落ち着きかけていた心臓がまた一瞬、ドクンと高鳴った。
真島はそれを必死に否定し、打ち消した。
違う、そうじゃない、一瞬ちょっと反応しかけただけだ、と。
どうにか落ち着きを取り戻してから、真島は女を起こさないように注意深く身体を起こした。
すると、眩暈がして頭の中がグランと回った。


「うぅっ・・・・・」

さっき急激に身体に力を入れたせいだろう、頭痛が酷くなってきた。
思わず洩れた呻き声をどうにか抑えながら、真島は静かに立ち上がって抜き足差し足で女の横を通り過ぎて行き、コップに水道の水を静かに汲んで静かに飲んでから、また足音を忍ばせて寝室に戻った。
元の通りに引き戸を閉めるその前に、真島は今一度女を振り返った。
女はまだ目を覚ましそうな気配はなく、布団に包まってぐっすり眠っていた。
淡い光に包まれている幸せそうなその寝顔を見ていると、知らず知らずの内に微笑みが洩れた。


― ホンマに、何なんやこのチンチクリン女は。変なやっちゃで。

訳の分からない変な女だ。
幾ら金で雇われたバイトとはいえ、何を考えてこんな仕事をしているのか、さっぱり分からない。
けれども多分、一番変なのは、その変な女が早く目を覚まして朝飯を作ってくれるのをちょっと待ち望んでいる自分だと、真島はまた苦笑してそっと引き戸を閉めた。




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後書き

『檻の犬と籠の鳥』にお付き合い下さり、有り難うございます!
ここらで少し休憩を挟みまして、今回は番外編的な短編を書いてみました。
本編の方はもう最後まで書き上げておりますので、この二人を書いたのは久しぶりで楽しかったです。
本編に盛り込もうかどうしようか悩んだ挙句に入れなかったようなちっちゃ〜い小ネタなどが幾つかありますので、今後また形にしていけたらなと思っております。

この話、時期的には本編の第3話に当たります。
あの同居期間の話を殆ど書かなかったのは、互いにまだピンときていないのと、何より具合が悪くてそんな事考える余裕がないという観点からなのですが、これはその期間に該当する小ネタです。
まだ具合は悪いけど、ちょっとマシになってきて、ちょっとだけ気持ちに余裕が出来てきた、そんなある早朝の兄さんのお話でした。