そう思わざるを得ない要因は二つあった。
まず一つめ。
それはロードワークの道すがらでの事。
「ハッ、ハッ、ハッ・・・・、ん?」
見慣れた顔を見かけた千堂は足を止めた。
通りの向こうを歩いているその人は、に間違いない。
「声でも掛けたろか。おーー・・・・んん!?」
呼びかけた声は、そのまま不審そうな唸り声に変わった。
は千堂に気付く事なく、ある店に入っていったからだ。
それがブティックやら何やらなら、決して驚かない。
ところがその店は・・・・
「なんや!?何であんな所見てんねん、あいつ!?」
そう、その店はベビー服を扱っている店だったのだ。
ショーウインドウに飾られているのは、パステルカラーの小さな服や靴ばかり。
こんな所に一体何の用があるというのだろう。
気になった千堂は、大急ぎで通りを渡り越えた。
そして中にいるに気付かれないように、こっそりと様子を伺い始めた。
「おい・・・・、なんやねん・・・・・」
は店員と何やら話しながら、純白のベビードレスを取り上げて見ている。
その小さな小さな衣服は、今のには決して用のない代物である筈なのだ。
二つめ。
件のベビー服屋での目撃事件から数日後の事。
ジムからの帰りで、もうすっかり暗くなった道を歩いていた時、またに遭遇した。
その時のは道を歩いていたのではなく、目線の先にある建物から出てきたのである。
「うぉいっ!!」
が出てきた建物の看板を見た千堂は、驚愕のあまり思わず一人突っ込みをしてしまった。
その看板がコンビニやら何やらなら、決して驚かない。
ところがその看板は・・・・
「産婦人科ぁ〜〜!!??」
うっかり漏らしてしまった声に、周囲の何人かが怪訝そうな顔をして振り返る。
恥ずかしいが、には聞こえていなかっただけ不幸中の幸いだ。
千堂はそそくさと足を早めながら、との距離を絶妙な間隔にまで詰めていった。
「おい・・・・、なんやねん・・・・」
電柱の陰からこっそり様子を伺ってみれば、は何やら浮かない顔をしている。
そう、切ないとさえ言える程に。
固唾を呑んで見守っていると、は小さな溜息を一つ零して歩き去って行った。
「おい・・・・、なんやねんな・・・・・」
後に残された千堂は、青い顔をしてその場に立ち竦んでいた。
気になって食事も喉を通らない。
早々に部屋へ引き上げた千堂は、布団に寝転んで呆然としていた。
ベビー服を見ていた。
産婦人科から出てきた。
それらが導き出す答えはただ一つ。
「あいつ・・・・、ガキ出来たんか・・・・・」
認めたくないが、そうとしか思えない。
「くっそ・・・、相手誰やねん・・・・・・」
はまだ独身だ。
妊娠しても当たり前の環境にいる訳ではない。
ついでに今付き合っている男がいるのかどうかも分からないので、相手が誰なのか千堂には全く心当たりがない。
只一つ断言出来るのは、自分ではないという事だけだ。
何しろ、とそんな関係になどなっていないのだから。
「どないする気やねん、あいつ・・・・」
病院から出てきた時、は一人だった。
もし自分が相手だったなら、決して一人で行かせはしない。
もしかすると、相手の男はこの事実を知らないか、最悪・・・・・
「もしかしたら・・・・、最低な奴なんやろか・・・・・」
一瞬ちらりと浮かんだ不吉な予感は、瞬く間に大きく膨れ上がっていく。
あの時、は翳りのある表情をしていた。
その事実が嬉しいなら、そして喜んでくれるような相手だったなら、あんな顔はしない筈だ。
あんな夜に診察を受けていたのも、人目を避けたかったからだろうか。
相手に言えない、若しくは言ったところで受け止めてくれるような相手ではないから、一人ひっそりと診察を受けた。
決して喜ばしい出来事ではないから。
だとすれば、これは悲しい結末を辿る事になるかもしれない。
「なんでやねん、・・・・・」
全てが嫌だ。
が知らない男の、いや、自分以外の男の子供を身篭った事実も。
勿論、が悲しむ事も傷付く事も。
全てが許せない。耐えられない。
その夜、千堂は一睡も出来なかった。
翌日。
千堂は意を決して公園に居た。
を呼び出したのである。
一晩悩んだ結果、千堂はある一つの結論に達していた。
まず、事実を確認する。
そして事情の如何によっては、自分がお腹の子供の父親になる。
たとえ自分の実の子でなくても、の子供である事には違いない。
一人に辛く悲しい思いをさせるより、一緒に慈しんで育てていきたい。
それが千堂の出した結論だった。
「武士ー!お待たせ!」
「お、おう・・・・」
「なんやの話って?」
「お、おう・・・。まあ、取り敢えずここ座れや。」
そう言って、千堂は自分の腰掛けていたベンチの隣を指差した。
「うん。なあ、ほんで何?」
「・・・・あんな、お前・・・・」
「なんやのん?」
「お前・・・・、なんぞ悩んでへんか?」
「はぁ!?何急に!?」
千堂の重苦しい口調とは裏腹に、は素っ頓狂な程不審そうな声を上げた。
「正直に言うてくれ!ワイ力になるつもりやさかい!」
「??訳分からんねんけど。ホンマどないしたん?あんたの方がよっぽど悩んでそ・・・」
「誤魔化すなや!!」
いつになく真剣な千堂の怒鳴り声に、は思わず口を噤んだ。
驚いた顔をするを見て、千堂は顔を曇らせた。
「・・・・済まん。怒鳴るつもりはなかったんやけど・・・・」
「いや、ええけど・・・・。何そんなピリピリしてんの?」
「ワイ・・・、見てん。お前がその・・・・、赤ん坊の服見たりしてたんとか、その・・・・、さ、産婦人科から出てきた所とか・・・」
「え!?見てたん!?」
今度はが大声を張り上げた。
そして。
「あっはっはーー!なんや、もしかしてあんた、それで悩んでたん!?」
「『あっはっは』ってなんやねん!!それに悩んでんのはお前ちゃうんけ!?」
「いや悩んだよ。白にしよか水色にしよかって。」
「ほれ見てみぃ!やっぱりお前悩んで・・・・、は?」
悩み事のレベルが低すぎる事に気付いた千堂は、呆然と目を見開いた。
「白か・・・・水色・・・・?」
「そうやねん。男の子らしいからや〜、どっちにしよか悩んでんけど、やっぱり白にしてん。真っ白の方が生まれたての赤ちゃんっぽいかなと思て。」
「はぁ!?」
「『はぁ!?』て何?私のセンスがおかしいって言いたいんか!?」
「い、いやいやいや!ちゃうがな!それ以前や!ほんだらあの服は・・・・」
「友達の出産祝いや。」
平然と答えるに、千堂はあんぐりと口を開けた。
「友・・・達・・・・?」
「そうや。学生時代の仲良かった子が出産したからな、何かお祝いしよ思て。」
「ちょ、ちょー待て!!ほんだらアレはなんやねん!病院!」
「ああ、あれ?最近生理不順やったから診て貰ろただけや。」
「は・・・・・?」
千堂の目が点になる。
「な・・・・んや、それ・・・・・」
「なんやって何やねん。別に何もあらへんがな。」
「ほ、ほな何であんな時間にコソコソ行ってん!?」
「コソコソて。別にコソコソしてへんがな。それにあんな時間言うけど、仕事帰りやねんからしゃーないやんか。」
「ほ、ほんだら何であんな辛そうな顔しとってん!?」
「顔まで見てたんかいな!?ホンマ吃驚やわ〜!いやな、あん時一時間も待たされてんやん。待ち疲れてぐったりしてただけやで。」
「な・・・・・」
「なんやねんな?」
「なんじゃそりゃーー!!??」
まるで今までの心労が声に現れたかのような千堂の絶叫が、夜の公園に轟いた。
「あっはっは!あんたもホンマ早合点するやっちゃなー!」
「しゃーないやんけ!そない思たもんは!!」
事情を全て聞いたは、大いに笑った。
一方千堂の方は、全てが杞憂に終わった安堵感と先走った考えへの羞恥で頬を染めている。
「大体あんた、産婦人科行く人皆が皆妊婦とちゃうで〜!」
「そんなんワイ知らんがな!紛らわしいやっちゃな!!」
「あんたが勝手に早とちりしたんやろが。」
益々可笑しいといった風に笑う。
それに比例して、千堂の狼狽ぶりもヒートアップしている。
「なんや、しょーもない!ワイはまたてっきり、お前がえらい事になっとんちゃうか思てやな〜〜!!」
「あーはいはい、分かった分かった。そんな大きい声出しなや。」
「大きい声も出るわい!ワイがどんだけ悩んだ思てんねん!もし何やったらワイが父親にならなとか思てやな〜〜!!」
「嘘やん!?そこまで考えてたん!?」
「おう!考えたわい!何か可笑しいか!?」
真っ赤な顔で怒鳴り散らす千堂。
しかしは、そんな千堂を笑いはしなかった。
「いやいや、可笑しないよ。・・・・・ちょっと嬉しかったわ。」
「へ・・・・?」
「そんな心配してくれたんや。ありがとうな。」
「いや・・・・、まあ・・・・、ええねんけど・・・・」
茶化さないに呆気に取られた千堂は、まだ赤い顔を思わず俯けてしまった。
心底照れているようだ。
はそんな千堂に小さく笑いかけた。
「せやけどな。心配せんでもええで。」
「・・・・何がやねん?」
「前あんた言うてたやろ?あんたの眼鏡にかなう男ちゃうかったら許さへんって。」
「・・・・おう。」
確かにいつか言った覚えがある。
はそれを忠実に守っているのだろうか。
更に都合の良い風に解釈してしまえば、はいつかそうなる相手を自分だと思ってくれているのだろうか。
「・・・・そもそもやな、私は・・・・」
「・・・・なんやねん?」
来た。
『私はあんたが好きやねんで』とか言ってくれるのだろうか。
それとも、『そんな相手はあんたしか考えられへん』とかだろうか。
千堂は内心そわそわと続きを待った。
のだが。
「自分の身がいっちゃん可愛いねん。そんな危険な真似はそもそもせぇへんわ。」
「・・・・・・なん〜じゃそら。」
綺麗に期待を裏切られた千堂は、がっくりと肩を落とした。
しっかりしているというかちゃっかりしているというか、やはりはであった。
「・・・・まあええわ。そんぐらい思といてええ加減や。せいぜい気ぃつけとけや。」
「それはアンタちゃうのん?アンタこそあんま派手に遊び倒しとったら、そのうち店の前に子供置いて行かれんで、あっはっは!」
「やかましわ!!ワイかてそんな危ない事してへんわい!!」
三倍返しの軽口を叩かれた千堂は、またもや声を張り上げた。
― ホンマこいつだけはいっつもいっつも・・・・!
呆れはするが、とにかくこの笑顔が曇らなくて良かった。
先程までの決意は決して嘘ではないが、やはり何事も無いに越した事はない。
それにしても。
― さっきの、なんかええ感じやったな・・・・
自分の気持ちを『嬉しい』といったを思い出して、千堂はにんまりと笑った。
道は果てしなく長そうだが、脈は無い事も無さそうだ。
「話はこんで終わりやろ?何か食べに行こうや!私むっちゃ腹減ってんねん!」
「おう!ええで!お前奢れ!」
「なんでやねん!!」
「アホ!ワイを散々心配させた迷惑料じゃ!!」
「何がやねん!アンタが勝手に思い込んだだけやろが!!」
ギャーギャーと騒ぎながら、二人は夜の公園を後にした。
今回は全くの誤解であったが、この騒ぎはもしかしたらいつか、掛け値なしの幸せな出来事として、自分達二人の間に起こるかもしれない。
そう思わずにはいられない千堂であった。