春も間近のある土曜の午後。
どんよりと空を覆う雲を蹴散らすかのような明るいメロディーが流れてくる。
「はい、よく出来ました。じゃあこの曲は今日で終りね。」
「やったー!!」
楽譜に可愛らしいキャラクターのシールを貼ってもらった小さな女の子は、嬉しそうに笑っている。
「じゃあ次は・・・・、この曲にしよっか。右手だけでいいから練習してきてね。」
「はーい。」
「それじゃあ今日のレッスンはここまで。次はいつも通り木曜日の夕方4時からね。」
「はーい。」
帰り支度の済んだ生徒を玄関まで送って、は雨が降っていることに気が付いた。
今日は朝から曇り空だったが、まさかこんなに激しい雨が降るとは思っていなかった。
どうやらそれは生徒も同じだったようで、困った顔で外を見ている。
「先生どうしよう〜、私傘持って来てないの・・・・。」
「ちょっと待ってて。確か置き傘が・・・・。」
は自分のロッカーを物色した。
すると記憶通り、空色の折り畳み傘が見つかった。
「あったあった。これ貸してあげる。」
はそれを広げて生徒に差し出た。
「ありがとー先生!!さようなら!」
「はい、さようなら。気を付けてね!」
「はーい!」
空色の傘を差した女の子は嬉しそうに礼を言うと、弾む足取りで帰って行った。
その後姿を見送って、は溜息をついた。
「さーてと、私はどうすればいいのかしら・・・。」
しばらく待ってみたが、雨足の弱まる気配はない。
いつ止むとも知れないのに、ずっとここで待ちぼうけをするのも無駄な気がする。
ここから家までは歩いて20分程。走るにしても、ここから自宅まで傘なしの状態はかなり厳しい。
「仕方ない、走ってコンビニまで行ってビニ傘買うしかないか。」
覚悟を決めたは、帰り支度をすると雨の中に飛び出した。
「いやーーー、何この雨!?」
大粒の激しい雨は、あっという間にの身体を濡らしていく。
髪も服もすぐに水分を含んで重くなり、は外に出て来たことを後悔した。
「今更遅いわ。とにかくコンビニまで全力で走らなきゃ。」
バッグを抱え直し走り出そうとしたその時、の背後から車のクラクションが聞こえた。
「何してやがんだ、早く乗れ!」
「了!?」
トラックの助手席側のドアを開けてに声を掛けたのは、田中運送の制服を着て帽子を被った間柴了であった。
「助かったわー、ありがとう!」
「これで拭け。」
間柴が突き出したタオルで濡れた髪と身体を拭き、はようやく落ち着いた。
「でもどうしたの?仕事中でしょ?」
「たまたま近くを通っただけだ。そしたらお前が傘も差さねぇで走ってやがるからよ。」
「生徒に傘貸したら私の分がなくなっちゃったの、だからコンビニで傘買おうと思って。」
「ったく、俺が通らなかったらコンビニに着くまでにずぶ濡れじゃねえか。」
「絶対そうなってたわね、ほんと助かったわ!」
にこにこと髪の水分を拭き取る。
ふいに間柴はその手を掴んだ。
「な、何?」
「冷てぇ手しやがって。それ飲め。」
「ありがと・・・。」
間柴が指差したものは、ドリンクホルダーに立ててある熱い缶コーヒー。
まだ殆ど口をつけていないらしく、缶は熱い温度を保っていた。
コーヒーはあまり得意ではないが、飲めない訳ではない。
特に今日は何故か、温かい湯気と独特の香りがやけに美味しそうに感じる。
「ふぅ・・・、おいし。」
はそれを両手で包み、冷えた指先を温めるようにして飲んだ。
間柴は幸せそうに微笑むの様子を一瞥すると、『行くぞ』と一声かけ、アクセルを踏んだ。
雨粒がフロントガラスに落ちては、流れていく。
メトロノームのように定期的な運動を繰り返すワイパーが、滲んだ視界をクリアにする。
「仕事中の了って初めて見た。制服似合うね。」
「嬉しくねえよ。」
楽しそうなに、間柴はミラー越しに苦い顔をして見せた。
「今日は会えないって思ってたから、びっくりしちゃった。」
「そうだな。」
「会えないはずの日に会えると、なんか嬉しいね。」
「・・・へっ。」
照れ隠しに鼻を鳴らす間柴。
本当は偶然などではなく、わざわざ少し寄り道して迎えに来たとは言えない。
まして、少しでも顔が見たかったなんて口が裂けても絶対に言えない。
の言う通り、今日はお互い仕事の都合で時間が合わず会えないはずだったのだが、急な雨がチャンスをくれた。
いつもはうざったいだけの雨でも、今日ばかりは有り難かった。
「急な雨なんて最悪だけど、こうして了に会えたからラッキーね。」
「けっ、呑気な奴だなお前は。」
「そう?でも了もそう思わない?」
「・・・・・うるせぇ」
口調はぶっきらぼうでも、眉間に寄った皺が間柴の感情を表している。
は間柴の横顔を見つめて、嬉しそうに微笑んだ。
くすんだ灰色の景色が、今日はやけに新鮮で。
ハンドルを握る間柴の真剣な横顔が、妙に目を惹いて。
予想外の嬉しい時間に、は心躍るのを抑えられなかった。
「着いたぞ。」
間柴の声で我に帰ってみれば、もう自宅の側に着いていた。
「ありがとね、ほんとに助かったわ。」
「おう。」
「お茶でも飲んで行って欲しいけど、仕事中じゃ無理・・・ね?」
「そうだな、まだ配達残ってるからな。」
出来ればもっとこうしていたい。
楽しければ楽しい程別れ際は切なくて、離れがたくなる。
さっきまで輝いていたはずの景色が、再び色を失いくすんでしまう。
「じゃあまたね。運転気をつけてね。」
「おう。」
「ほんとにありがと。仕事頑張って。」
「ああ。」
車を降りかけたは、間柴の腕に引き戻された。
振り返った唇に、温かい感触を感じる。
「風邪引くなよ。」
「・・・・うん。」
「俺が来た時に熱なんか出してたら承知しねえぞ。」
「え?」
「大分夜遅くなるけどよ。」
間柴の言う意味が分かり、の顔から笑みが零れる。
「うん!ご飯作って待ってる!!」
「・・・おう。」
「じゃあ後でね!!」
「おう。」
を降ろした間柴は、眉間に皺を寄せたまま走り去った。
それを見送ったは、弾む足取りで部屋へ入る。
まずはお風呂に入って身体を温めて。
部屋を片付けて。
それから料理に取り掛かろう。
雨に煙る灰色の景色は、今日はもう色褪せることはない。