練習が終わり、間柴はいつもの如くのピアノ教室へ足を運んだ。
ところが到着してみると、はまだまだ帰る気配がない。
「まだ帰らねえ?何でだよ?」
「近々合同発表会でね、練習しなきゃいけないの。」
「発表会ってガキ共のだろ?何でお前が練習するんだ?」
「最後に各教室の先生がそれぞれ一曲ずつ披露する事になってるの。」
「それでお前もって訳か。」
間柴は納得したように呟いた。
それと同時に、教師とは何かと面倒なものだとしみじみ思った。
発表会の主役である生徒達の面倒を見て、かつ自分の演奏も披露する。
これを敢えてボクシングに当てはめれば、前座の試合に出る後輩のセコンドについて、その後自分の試合があるといった所か。
「・・・・面倒くせえったらねえな。」
「え、何?」
「いや何でもねえ。」
「とにかく、私はもう少し練習していくから、了は先に帰ってて。待たせるのも悪いし。」
「・・・別に。待っててやるから練習しろよ。」
「でも・・・・」
「いいからとっとと練習しろ。」
つっけんどんな口調の間柴に、は苦笑を浮かべて折れた。
こうなるとてこでも動かないのは良く承知しているからだ。
に淹れて貰ったコーヒーを手に、間柴は椅子に腰掛けた。
「で?お前は何を弾くんだ?」
「シューベルトの『アヴェ・マリア』。知ってる?」
「知らねえ。」
シューベルトにもアヴェ・マリアにも聞き覚えのない間柴は、の質問に即答した。
あまりの早さにが吹き出す。
「チッ、笑うんじゃねえ。」
「アハハ、ごめん!あんまり早かったものだからつい。」
「いいから早く弾けよ。」
「はいはい。」
些か憮然とした間柴に促され、は鍵盤に指を乗せた。
間もなく、厳かなメロディーが流れ始める。
― これか。TVか何かで聴いた事あるぜ。
間柴は、の演奏を邪魔しないように心の中で呟いた。
室内を流れるメロディーは、確かにちょくちょく耳にする曲である。
もっとも、作曲者や作品名はたった今知ったばかりだが。
コーヒーを二口三口飲みながら、間柴はの姿を見ていた。
鍵盤の上を滑らかに動く指、楽譜を見ずともスムーズに紡ぎ出されるメロディー。
全く心得のない間柴にしてみれば、何でそう出来るのかが不思議で仕方ない。
勿論長年ピアノをやっていて、かつそれで生計を立てているのだから当然なのだろうが、それにしても原理が分からない。
「・・・何をどう練習すりゃ出来るようになるんだよ?」
純粋な疑問がうっかり口をついて出てしまったが、幸いの耳には届いていなかったらしい。
間柴はもう一口コーヒーを飲むと、再び演奏に聴き入った。
以前は全く興味のなかった音楽鑑賞だが、今は満更でもない。
いや、正確に言えばの弾くピアノに関してのみだろう。
こうして多少なりとも自主的に耳を傾けるのは、のピアノだけだからだ。
が紡ぐ音を聴くと心が安らぐ。
にも告げた事はないが、これは間柴の密やかな癒しの一時であった。
幾重にも重なった和音の余韻が消え、室内を静寂が満たす。
演奏を終えたは、顔を上げて間柴の方を振り返った。
その表情には苦笑が浮かんでいる。
「駄目ね。この曲弾くの久しぶりだからイマイチだったわ。」
は首を傾げながら、何フレーズかを無造作に弾き直している。
間柴には素晴らしく聴こえた演奏でも、には納得がいかないのだろう。
間柴は椅子から立ち上がると、の横に歩み寄った。
「そうか?俺にはそう聴こえなかったがな。」
「そう?」
「ああ。」
そう言って、間柴はの手に己の手を重ねた。
細い割には関節の目立つ指。
間柴はの指が好きだった。
この指には、自分の拳と同じぐらいの重みが宿っている。
「どうしたの、了?」
「・・・・お前は凄ぇよ。こんな細ぇ指してやがるくせによ。」
「何、急に?」
間柴の突然の褒め言葉に、は驚きつつも照れ笑いを浮かべた。
普段素っ気無い分、たまにくれるこんな言葉がの心を切なく締め付ける事を、間柴は知っているのだろうか。
その度に、彼への愛情がより強くなる事を。
「・・・・もう一回弾けよ。」
「うん・・・」
清らかなピアノの調べと共に、二人だけの贅沢な時間は再び流れ始めた。