それはいつもの帰り道の事であった。
「あれ・・・・・?」
急に歩みを止めたは、その場で手の平を上に向けた。
そこに感じる冷たい感覚は、紛れも無く雨粒だ。
「どうした?」
「雨だわ。」
「そうか?俺には分かんねえぞ。」
「でもほら、あ、また・・・・・」
「お、本当だ。」
今度は間柴にもはっきりと分かった。
頭上にぽつりと冷たい水滴が落ちたからだ。
ところがそれは次第に量を増し、段々『ぽつり』どころの騒ぎではなくなってきた。
「くそっ、本格的に降ってきやがった!」
「やだー!どうしよう了!?」
「来い!!」
間柴はの手を引っ張って走り出した。
家がすぐ近くで良かったと思いながら。
間柴のアパートに駆け込んだ頃には、外はもうすっかり土砂降りになっていた。
多少降られはしたが、本式に濡れる前に辿り着けただけ良しとするべきであろう。
「入れ。」
鍵を開けて一足先に入った間柴は、玄関先の電気をつけてからを通した。
「お邪魔しま〜す。」
初めて見る間柴の家は、思ったよりもこざっぱりと片付いていた。
といっても妹と二人暮しで女手があるのだから、当然といえば当然かもしれない。
「妹さんは?」
「久美は夜勤だ。」
だからこそ、躊躇い無く連れて来れたというものである。
久美にはの存在こそバレているものの、名前も顔も何も教えていないのだ。
興味津々の詮索だけでも十分手を焼かされているというのに、会わせたりなんかした日にはとんでもない事になる。
「ほら、タオル。」
「ありがとう。」
「座ってろ。今茶でも淹れてやる。」
「うん。」
投げ渡されたタオルは、自分の家とは違う洗剤の匂いがした。
もう互いを深く知る仲の間柴が、今日は自分を客人扱いする。
そんな些細な事がとても新鮮で、はにこにこと微笑みながら台所に立つ間柴の背中を見つめた。
と、その時。
不意にドアの開く音がして、誰かが入ってきた。
「お兄ちゃ〜ん、帰って・・・・あれ?」
「あ・・・・・」
女同士、目が合う。
― もしかしてこの人が・・・・、例の彼女?
― もしかしてこの人が・・・・、例の妹さん?
互いの素性を何となく悟りながらも、余りにも突然の対面ゆえ微動だに出来ない久美と。
そんな硬直した二人の後ろから必死の形相で迫ってきたのは、他ならぬ間柴であった。
「くくく久美!お前今日夜勤だって言ってたじゃねえか!!」
「何言ってんのよ!夜勤は明日よ!」
「なっ・・・・!」
一人で騒いでくれる間柴のお陰で、女二人は口を利く余裕が出来た。
「あの、夜分に御免なさい!お邪魔してます。」
「あっ・・・、いえ!いいんですいいんです!!あのっ、兄がいつもお世話になってます!」
「いえ、こちらこそ!」
初対面特有のぎこちない笑みを浮かべながら、と久美は何度も頭を下げあった。
「ほらお兄ちゃん、何ぼんやりしてるのよ!!お茶お茶!!」
「今淹れてんだよ!!」
「あんもう、トロいんだから・・・・!」
久美の非難を背中に受けながら、間柴は再び台所へ戻った。
出来る事ならこのまま外へ飛び出して行きたいと、そんな事を考えながら。
湯気の立つ緑茶も入ったところで、3人はちゃぶ台を囲んで座っていた。
「で?お兄ちゃん。紹介してくれないの?」
「うっ・・・・・、いやその・・・、なんだ・・・」
気まずそうに口籠る間柴。
そんな彼の様子を見て、と久美は小さく吹き出した。
このまま待っていても仕方なさそうだ。
そう思ったは、自分で名乗る事にした。
「初めまして。です。よろしくお願いします。」
「私、間柴の妹の久美です。こちらこそよろしくお願いします。」
「・・・・・・」
もうすっかり落ち着き払っている女達に閉口する間柴。
彼一人がまだそわそわと落ち着かないのである。
「さん・・・、って呼んでもいいですか?」
「ええ。」
「さんは、兄とお付き合いしてくれてるんですよね?」
「ブホッ!!」
久美のストレートな質問に、間柴は飲みかけていた茶を思いっきり噴き出した。
「あーあもう、何やってんのよーー!!」
「うるせぇ!!お前が妙な事訊くからだろうが!!」
「何よー!当たり前の質問でしょ!?ねぇ、さん!」
「え、ええ・・・・。」
「それで、どうなんですか?」
「・・・・・ええ、まあ・・・・」
は間柴の様子を伺いながら、肯定の返事をした。
そんな微妙に気まずい二人とは対照的に、久美は一人で嬉しそうに笑っている。
「やっぱり〜!有難うございます〜!!こんな兄ですけど、どうか末永くよろしくお願いします!!」
「い、いえ、こちらこそ。」
「さんは何歳なんですか?」
「私?22歳です。」
「兄より1つ下なんですか?」
「学年では同い年なんです。私が早生まれだから。」
「そうなんですか!私も早生まれなんですよ!偶然ですね!あ、ちなみに私は20歳なんです。」
「久美、お前何勝手な事をベラベラと・・・!」
「お兄ちゃんも水臭いわよ!こんな素敵な人だなんて一言も言ってくれなかったじゃない!!」
「人の話を聞けってんだ!!」
「うるさいわねー!お兄ちゃんはちょっと黙ってて!!」
久美に一喝された間柴は、そのままふて腐れて黙りこくった。
― 勝手にしやがれ・・・・!
そんな間柴の心の呟きが聞こえたかのように、と久美は本当に勝手にくっ喋り始めた。
「へぇ〜、ピアノの先生なんですか!」
「そうなんですよ、一応。」
「やだー!一応だなんて!素敵じゃないですか!でも良いなー、ピアノが弾けるなんて羨ましい!私も習っちゃおうかな〜!」
「良かったら是非!無料レッスンなんかもあるし。」
「本当ですか!?うわ〜、嬉しい!!」
「でも久美さんのお仕事だって素敵だわ!看護婦さんてとても尊い職業だし!」
「やだ〜、そんな凄いものじゃないですよ!私なんかまだまだ!」
妙齢の女性二人の話は留まるところを知らない。
早くも1時間が経過しているが、話は終わるどころか弾みに弾んでいる。
キャピキャピと響く笑い声は、いつもの間柴家では考えられない事であった。
「・・・テメェら、よくもまぁそんだけ喋れるな・・・・」
「あ、お兄ちゃんが拗ねちゃった。」
「あらら、拗ねちゃったの?」
「・・・・・ちっくしょう・・・・、二人してガキ扱いすんじゃねえよ・・・!」
さしもの死神王者も、恋人と妹のタッグには太刀打ちできない。
二人の気が合うのは結構だが、ここまでだと少々怖い。
自分の与り知らぬ所で結託されそうだからだ。
「あ、お茶が無くなっちゃった。お兄ちゃん、お茶のお代わり〜♪」
「・・・・・お前、いつか覚えてろよ・・・・。」
憎まれ口を叩きつつも、間柴は空っぽの急須を持って台所へ向かった。
「で、どうですか?うちの兄、さんの家に居る時はちゃんと動きます?」
「ええ。頼めばちゃんとやってくれるわ。」
「良かったー!ぐうたらしてたら恥かくところだったわ!うちの兄、少し前までは何もしてくれない人だったんですよ!」
「本当に?」
「ええ!最近うるさく言うようになってから、やっと少しやってくれるようになったけど。だからさんも、遠慮しないでバンバンこき使ってやって下さいね!」
「ふふっ、でもいいのかしら?」
「いいんですよー!」
― 丸聞こえなんだよ、お前ら。
台所で湯を沸かしながら、間柴はこめかみをピクピクと痙攣させていた。
「ところで話は変わるけど、久美さんは彼氏いないの?」
「え!?」
思わず茶筒を握り潰しそうになる。
そのまま怒鳴り込んでやろうかと思ったが、ここはひとまず抑えて聞き耳を立てる間柴。
「いえそんな・・・・、まだ彼氏とかじゃなくて・・・、でもあの・・・」
「『まだ』って事は、結構良い感じの人なんですね?」
「そんな、恥ずかしいわ!!」
「またそんな嘘ばっかり!顔が笑ってるわ!良かったら聞かせて?」
「やだーー!・・・・、兄には絶対に内緒ですよ・・・・」
『兄には〜』の台詞にドスを利かせた後、久美の声が聞こえなくなった。
ついでにの声も。
さっきまでは誰憚る事なく大声で喋っていたくせに、こんな話だけコソコソと耳打ちし合っているようだ。
― チッ、久美の奴・・・・!
抜け目のない我が妹に舌打ちしながら、間柴の怒りも湯と同様に沸騰寸前であった。
女達の果て無きお喋りはその後も続き、その間の間柴のお茶汲み回数は実に5回にも渡った。
そしてすっかり雨が上がる頃には、間柴の方が先にダウンしていた、らしい。