入門したての練習生にも日本王者にも必要不可欠なトレーニング、それはロードワーク。
今日もいつものコースを流して来た間柴は、首に巻いたタオルで汗を拭いつつ、ジムのドアを勢い良く開けた。
「じゃあ、そういう訳で宜しく頼むね。」
『は、はい・・・・』
すると、いつものむさくるしいジム内に、何故か女の声が混じっているではないか。
ロードに出る前には無かったその声を聞いた瞬間、間柴は忌々しそうに眉間に皺を寄せた。
ジム内には、女が来ると大喜びする輩も居るが、間柴はその逆だった。
女がキャピキャピと黄色い声で喋る度、汗臭い男共が鼻の下を伸ばしてニヤつく、そのだらけた空気が嫌なのである。
多分、取材に来た雑誌社の記者か何かだろうが、睨みつけて追い払ってやろうと、間柴は声のする方を見た。
そして、そこに居た女達を見て驚愕した。
「くくく久美!?!?」
「あっ、お兄ちゃん・・・・!」
「了・・・・・!」
その女達とは、間柴の妹の久美と、恋人のであった。
間柴は、気まずそうな顔をしている二人にズカズカ近付くと、厳しい口調で詰め寄った。
「お前ら、ここで一体何してる!?」
「あの、これはね・・・・!」
「あのね・・・・・!」
「間柴、そう怒らないでやってくれ!俺が久美ちゃんに頼んだんだよ!」
二人に代わって答えたのは、間柴のトレーナーだった。
「何だと?どういう事だよ!?」
「うちのジムも、細々と入門生を募っているだけじゃ経営が厳しいし、ここは一つ、流行のボクササイズのコースを新しく開設してみようかと、会長が仰ったんだよ。」
「ボクササイズだぁ?」
「知らんか?シェイプアップ目的のトレーニングだ。ダイエットに効果絶大で、尚且つ護身術にもなる。それを始めるに当たって、モニター役になってくれる女の子が欲しかったんだ。トレーニングを体験して貰ってから色々意見を聞いて、それを基に実際のトレーニングプログラムを組んでいこうと思ってな。それで、さっき偶々お前の忘れ物を届けに来た久美ちゃんに、無理言ってお願いしたんだよ。勿論、モニターだから金は一切取らないぞ?そこは安心してくれ。」
「そ、そういう事なの。でも、私一人じゃ心細くて、それでつい、さんも呼んじゃって・・・・」
「私も丁度暇してたし、最近運動不足が気になっていたし・・・・・、で、来ちゃったの・・・・・」
「しかし驚いたよ!久美ちゃんから、彼女がお前の恋人だって紹介された時には!いや〜、お前も隅に置けないなぁ!いつの間にこんな美人を捕まえたんだ、ははは!」
トレーナーや久美やが代わる代わる話すのを、間柴は一通り黙って聞いた。
なるほど、そういう事情で二人揃ってこんな所に居る訳だ。
久美はどちらかというと内気な娘だから、強引に頼み込まれると断りきれない性質だ。
もそう。『心細いから一緒にやって下さい』と久美に頼まれて、断れる訳がない。
ただ、一つ解せない事がある。
「・・・・で?何でテメェまで居るんだ、幕之内ィァァァ・・・・・・」
間柴は、真っ青になってガタガタと震えている一歩を、殺気を込めた目で射竦めた。
「ヒッ、ヒィィィッ!ごめんなさい、ごめんなさーーいッッ!」
「やめて、お兄ちゃん!幕之内さんも私が呼んだの!心細くてつい・・・!」
「そんなに心細いなら、断固として断れば良かっただろう!」
「で、でも・・・・!」
「それじゃうちが困るんだよ!良いじゃないか、間柴!フェザー級の日本王者が来てくれれば、うちの連中の気も引き締まるし!」
「ちっとも良くねぇ!フン、何がボクササイズだ、下らねぇ!」
思いきり不機嫌になった間柴は、そう吐き捨てた。
あの死神王者が怒れば、大抵の者は恐れをなして、どうにか彼の機嫌を取ろうとするだろう。
だが、今は少しばかり勝手が違う。生憎と相手が悪いのだ。
「・・・・・・下らなくても金になるんだ。」
トレーナーは間柴に接近して、小さいながらもドスの利いた声で言った。
「ボクシングをやりたい男より、スマートになりたい女の方が、圧倒的に数が多いんだ。しかも女は、痩せる為には金に糸目をつけない。これはうちの死活が懸かってる企画なんだからな、幾らお前でも邪魔する事は許さんぞ。」
「上等だよ、だったらこのジム辞めてやっても・・・」
トレーナーに啖呵を切りかけたその時。
「ねーねー彼女達、新しい入門生なんでしょ?」
「そんな格好じゃトレーニング出来ないよ?良かったら、俺のウェア貸そうか?」
「俺がスパーの相手してあげるよ!」
デレデレとした男共の声が、間柴の耳に飛び込んで来た。
久美とはといえば、いきなりジムの連中に取り囲まれて、すっかり困惑してしまっている。
ちなみに一歩は、リングの外では全く存在感がないせいか、そこに居る事すら気付かれてもいない。
全くもって不甲斐無い男だ。
久美もこんな男のどこが良いのか。
「・・・・・テメェら、随分地獄耳だなぁ。アァ?」
『まっ、ままま間柴さん!?!?』
頼りない一歩に代わって、間柴はその輪の中に割って入った。
いや、仮に一歩が猛々しく助けに入っていたとしても、彼を押し退けてそうしたのだが。
「コイツらは入門生じゃねぇぞ、只のモニターだ。勘違いすんな。」
「も、モニター・・・・・?」
「盛りのついたテメェらのウェアなんか着て、孕んじまったらどうしてくれるんだ、アァ?」
「ヒッ、そ、そんな事言われても・・・・!」
「どいつもこいつも、テメェの練習はどうした?女相手にヘラヘラスパーしてたって、試合には勝てねぇぞ。俺がスパーの相手してやるから、全 員 纏 め て リ ン グ に 上 が れ や 。」
「そっ、そんなぁ!スパーじゃなくて死刑執行じゃないッスかそれ!それだけは勘弁して下さいよー!」
「四の五の言わずにとっとと上がれ!」
「じゃあ二人共、そろそろ始めようか。」
『は、はぁい・・・・・。』
取り巻き連中の尻を蹴飛ばしている隙に、久美とはトレーナーに言われるまま、ボクササイズなるものに挑戦しようとしているではないか。
間柴は、慌てて二人をキッと睨んだのだが。
「じゃあ二人共、そろそろ着替えて来てくれるかな?ウェアは間柴のを借りておいで。ロッカールームはあっちだから。」
「はい。お兄ちゃん、ウェア借りるね?」
「わ、私も借りて良い?」
「っ・・・・・・、勝手にしろ!!!」
残念ながら、二人を止める事は叶わず、
「幕之内ィィィ・・・・・」
「はっ、はひぃぃぃっっ!?」
「アイツら畳んだら、次 は テ メ ェ の 番 だ か ら な ぁ 。ウォームアップ済ませて待っとけよ?」
「・・・・・・・・・・((((;゚Д゚)))」
腹いせに、一歩に八つ当たってからリングに上がった。
「ゲフッ!」
カーン!
「がはっ・・・・!」
カーン!
「ゼー・・・、ゼー・・・・・、もう・・・・、駄目・・・・だぁ・・・・!」
バターン!
カーン!
強制的にリングに上げた練習生を、一人ずつボコボコにしながら、間柴は久美との様子を横目で伺った。
「じゅう〜・・・・・くっ・・・・・!」
「に〜・・・・・じゅうっ!」
間柴のウェアをだぶつかせて着ている二人は、ジムの隅でプルプルと震えながら、必死に腹筋をしていた。
「っあーーッ、もう駄目ぇ・・・・!」
「ハァッ、ハァッ、ハァッ・・・・・!も・・・・、死んじゃいそう・・・・・!」
たった20回で音を上げているとは、運動不足も甚だしい。
それにつけても腹が立つのは。
「ははは、お疲れさん!じゃあ次。背筋を20回ずつね。」
「え〜っ!?」
「そんなぁ!」
頬を紅潮させて喘ぐ二人をチラチラといやらしい目で見ている、トレーナー以外の男共だ。
力尽きたように仰向けに倒れているや久美の、胸の膨らみや白くて細い首筋などに、奴等の視線が集中している。
いや、久美も久美だ、もだ。
こんな男臭い場所で、荒い吐息を吐いたり、しどけなく横たわったり。女としての危機感が無い。
「チッ、どいつもこいつも・・・・・!オラ次ぃ、さっさと掛かって来い!全員ぶちのめしてやるぜ!!」
一人で苛々している間柴は、いつになく大きな声を張り上げて、次々と犠牲者をリングに引き摺り込んでいった。
「ゲボッ!」
カーン!
「ゴファッ・・・・!」
カーン!
「し、死ぬ・・・・・・、殺される・・・・・!」
バターン!
カーン!
目につく連中を、手当たり次第死刑にしながら、間柴は再び久美との様子を伺った。
すると。
「もっとワキを締めてっ、はいっ、ワン・ツー!」
「えいっ、えいっ!」
「そうそう、上手上手!」
「それっ、やぁっ!」
あろう事か、二人はジムの連中を相手に、ミット打ちなどをしていたのだ。
トレーナーは何処だと辺りを見回してみれば、彼は二人から離れて、来月タイトルマッチを控えた選手に稽古をつけている。
トレーナーとして、タイトルマッチという檜舞台に立つ選手と、只のモニター役の女二人、どちらについていなければいけないかは、考えるまでもないのだが。
「あんの野郎、そこらの奴に久美との相手させやがって・・・・!」
大事な妹と恋人を、あわよくばお近付きになろうという下心が見え見えの三流ボクサーに預けておく訳にはいかない。
間柴はグローブを毟り取ると、足早にリングを下りて行った。
「そうそうっ、上手だよ!はいっ、次は左っ!」
「オイ」
間柴はまず、浮かれた声で久美に指示を出している男のミットを嵌めた手を掴んだ。
「ハッ!?まっ、間柴さん!?」
「テメェ、いつからトレーナーの真似事が出来る程、ボクシングが巧くなった?ランカーにすらなれてねぇ癖によ。」
「ぐっ・・・・、そっ、それは・・・・!」
「ヘボの癖に、人の妹に手ェ出してんじゃねぇぞコラ?」
「ちょっと、お兄ちゃん!?変な言い方しないでよ!」
「お前は黙ってろ、久美。・・・・・オイ、人の世話焼く暇があるんなら、俺のフリッカーの実験台になるか、アァ?」
「すっ、済みません済みません・・・・!お、俺、ロード行って来まっっす・・・・!」
久美のトレーナー役をやっていた男は、間柴に凄まれた瞬間、ミットを放り出して脱兎の如く逃げて行った。
ランク入りすら果たせていない、うだつの上がらない三流ボクサーだが、この逃げ足を巧くフットワークに活かせば、なかなか良いアウトボクサーになれるかも知れない。
「それから、テメェもだ。」
次に間柴は、の相手をしていた男を睨み付けた。
「ヒッ・・・・、おっ、俺ッスか!?」
睨まれた男は、怯みこそしたが、久美の相手をしていた男とは違い、果敢にも間柴に反論を試みた。
「でも、お言葉ですけどね、俺はこの間、フライ級の10位に入りましたよ!?」
「・・・・・ケッ、たかが10位で威張ってんじゃねぇよ。しかも日本ランクの。この三下が。」
「うぅっ・・・・・!」
間柴は、男のささやかなプライドを容赦なく打ち砕いただけでは飽き足らず、男の胸倉を掴んで呟いた。
「たとえテメェが世界王者でも、コイツにグローブ嵌めさせる理由にはならねぇんだよ。コイツの手は、分野は違うが、俺達と同じプロの手だ。どうでも良い事に軽々しく使わせるんじゃねぇ。」
「・・・・・す・・・・・、済みませんッした・・・・・」
間柴の目が本気だったのが分かったのか、男はそそくさとその場を離れて行った。
何だか良く分からないが、触らぬ神に祟りなし、とばかりに。
「・・・・・。お前も迂闊にグローブなんざ嵌めるんじゃねぇ。」
「で、でも・・・・・、ミット打ちするからって言われたから・・・・」
「何でも言いなりになってんじゃねぇよ。ど素人が無闇にボクシングの真似事なんかして、大事な指を傷めちまったらどうするんだ?ピアノが弾けなくなったらどうすんだ?」
「・・・・・・ごめんなさい。」
間柴に叱られたは、俯きがちに謝った。
たったそれだけの事なのに、傍で見ている者が何となく気恥ずかしくなってしまうのは何故だろう。
多分、いや、確実に、間柴とだけを包むように、さり気ないLOVEオーラが発生しているからだ。
― 私と幕之内さんも・・・・・、こんな空気が出せているのかしら?
そのオーラに恋心をチクリと刺激された久美は、ある重大な事を思い出した。
「あっ、そういえば、幕之内さんは!?」
「・・・・あれっ?本当・・・・・、何処へ行っちゃったんだろう!?さっきまでそこに居たわよね?」
「何だと?」
そう言われてみれば、一歩の姿が見当たらない。
ジムを隈なく見渡してから、間柴は凶悪な笑みを浮かべて言った。
「・・・・さてはあの野郎、俺とやり合うのが怖くて逃げやがったな。おい久美、あんなチキン野郎、早いところ愛想尽かしちまえよ。」
「酷い言い方しないで!幕之内さんはチキンなんかじゃないわよ!」
「ま、まあまあ二人共!多分、トイレにでも行っているんじゃないかしら?」
「あっ、そうかも知れませんね!多分そうですよ、きっと!」
と、その時、ジムのドアが開く音が聞こえた。
「お、お待たせしました〜、ジュース買って来ました〜。」
『幕之内(さん)!?!?』
そして、両手にてんこ盛りの缶ジュースを抱えた一歩が、愛想笑いを浮かべて外から帰って来たのである。
帰って来るなり、ジムの皆に低姿勢で缶ジュースを配って歩く一歩を、
「・・・ほら見ろ、やっぱりチキン野郎じゃねぇか。ジムの連中に新入りと間違えられてパシられてんじゃねぇかよ。」
間柴は呆れ顔で、
「べっ、別に良いじゃない!それだけ優しいって事なのよ、幕之内さんは!ねぇ、さん!?」
久美は必死に弁護しながら、
「ふふっ、そうね。日本王者なのにそれを少しも鼻にかけていないし、凄く気さくで良い人よね。」
は苦笑を浮かべつつ、見つめて言った。
「オイ、幕之内。」
「はいっ!あ、間柴さん!お疲れ様です、これどうぞ!」
「お、おう・・・・」
間柴が呼び止めると、一歩は輝くような笑顔で、間柴にスポーツ飲料の缶を差し出した。
多分間違いなく、否応なしにパシられた筈なのだが、その割にイキイキとしているのが何とも不思議だ。
悔しいけれど、化け物じみた破壊力を持つ、恐ろしく強い王者なのに。
まだ未熟な新人時代だったとはいえ、唯一KO負けを許してしまった男なのに。
そんな男が、昨日今日入ったばかりの練習生などにも下っ端扱いされて、何故平気な顔をしていられるのだろうか。
この幕之内一歩という男、天性のいじめられっ子なのだろうか。
妹をたぶらかす忌むべき男なのだが、そう考えると、情けなくもあり、何故か少し同情もしてしまう。
「久美さんとさんも、お疲れ様でした!喉乾いたでしょう、どうぞ!」
「わぁ、有難うございます!」
「あぁ、済みません!」
・・・・・・が、やはり情けは無用だ。
久美とに礼を言われて小鼻を膨らませている一歩を見て、間柴は拳を握り締めた。
「おいコラ、幕之内ィィィ・・・・・・」
「はっ、はいぃぃぃっ!?」
「いつまでパシリやってんだ?次はお前の番だぜ、死 刑 執 行 。」
「ヒッ、ヒィィィッ・・・・・・!」
「とっととグローブつけてリングに上がれ。」
「ヒッ、ヒィィッ!え、遠慮します、遠慮します!僕、今日は見学ですからーッ!そっ、それに、僕と間柴さんは、今はもう階級が違いますし!」
「階級なんざ関係ねぇ。」
「ありますよーッ!しかも、間柴さんの方がメチャメチャ有利じゃないですか!上の階級なんだし!」
「四の五の抜かすな。テメェのデンプシー、破ってやるからさっさとかかって来いよ、オルァァァ・・・・・」
「すっ、すいません、すいません、勘弁して下さーーいッッ!!!」
「あっ、幕之内さん!?待って下さーいっ!」
久美が呼び止めるのも聞かず、一歩は転がるようにして逃げて行った。
「あ、あのう・・・・、間柴さん?」
「何だ?」
「さっきの奴・・・・・、幕之内って・・・・・、デンプシーって・・・・・」
「それがどうした?」
「まさか・・・・・、まさかあの幕之内さんッスか!?」
「日本フェザー級王者の!?」
「だったらどうした?」
後に残されたのは、呆れ顔の間柴と、慌てて帰り支度をしている久美、クスクスと苦笑している、
そして。
『えぇぇぇぇぇーーーー!?!?!?』
今更驚いている、東邦ジムの門下生であった。