3月3日、ひな祭りの夜。
いつものようにトレーニングを終えた千堂武士は、の家を訪ねた。
「はいはい、いらっしゃい。まあ入りーや。」
「おう。お邪魔しまーす。」
千堂は、ドアを開けに玄関に出て来たにではなく、部屋の中に居るであろうの両親に向かって挨拶をしたつもりだった。
が、中から返事はなかった。
「あれ?おっちゃんとおばちゃんは?」
「今日から温泉旅行中。」
「えっ?ほな、今お前一人か?」
「そうやねん。」
今日は千堂の方から突然訪ねて来たのではなく、からのお呼ばれだった。
ひな祭りパーティーをするから来い、と。
しかし面子が2人しか居ないパーティーは果たしてパーティーというのだろうかと、千堂は少し疑問に思いながらも、取り敢えず土産のケーキを差し出した。
「ほれ、お前の言うてた店のケーキ。おっちゃんとおばちゃんの分も買うてきてしもてんけど。」
「おおー、有り難う!大丈夫大丈夫、2人で2つずつ食べたらええやん。」
「いやワイそんなケーキばっかり2つも3つも食われへんねんけど。」
「ほな私が3つ食べるやん。」
「うげ・・・・・」
「まあ、とにかく奥行ってや。」
聞いただけで胸焼けのしてきた千堂は、顔を顰めながらについてリビングに入った。
「見て見てー。おひな様出してん。」
「おー!いつ見ても豪勢やのう。」
宅のリビングには、豪華なひな人形が飾られていた。
見たのはこれが初めてではなく、それこそ毎日のように家を行き来して遊んでいた幼い頃には毎年見ていたのだが、ここ数年はご無沙汰状態だった。
「今年は気が向いたから出すわーって、オカンがな。」
「気ぃ向いたから、か。おばちゃんらしいなぁ。」
「そやろ。ほんで、久しぶりにパーティーでもしよかとまで言うてた癖にな。
激安温泉旅行を見つけたら、もうひな祭りの事なんか、スコーン!て頭抜けてっとんねん。酷い話やろ。」
「ははは!益々おばちゃんらしいなぁ!」
千堂はカラカラと笑いながら、の肩を励ますようにバシバシと叩いた。
しかしの膨れっ面は、まだ治らなかった。
「ちらし寿司は作って行ったるやんとか言うて、作って行ってはくれたんやけどな。これがまたイヤミのように大量やねん。
私一人しかおらんのに、あんなに食えるかっちゅーねん。」
「なるほどな。ほんでワイに食わそうってか。」
「別に今減量とか大丈夫なんやろ?」
「おう。」
「食べ切れへんでほかすのも勿体ないやん?つーかオトンもオカンも、『武ちゃんでも呼びーや』とか言うて出て行ったしな。」
「ほー・・・・・」
千堂は一瞬、の両親の真意を探ってみた。
公認の彼氏?
未来の旦那??
むしろ早く孫の顔見せろとか思ってる!?
などと一瞬思ってみたが。
― いや、多分ちゃうな・・・・。
千堂はそれを即座に否定した。
との付き合いは、そのままの両親との付き合いでもあるのだ。
長年の付き合いから、の両親の人となりは千堂とてある程度分かっているつもりだった。
「このひな人形かて、『あんたが嫁に行くまでは飾っとかなな』とか言うてる割に、何年も出してなかったしな。
ホンッマお気楽で気分屋な人らやで、うちの親も。」
が呆れたようにぼやいているのを聞きながら、千堂は静かに頷いたのだった。
「ま、ええわ。取り敢えず食べよっか。」
は気を取り直したようにニコニコと笑うと、料理や食器などを運んで来た。
寿司桶に入った彩りの綺麗なちらし寿司や湯気の立つ吸い物などを見ていると、千堂の顔が明るく綻んだ。
「おおー!美味そうやなぁ!」
「そやろ?食べようや、座って座って!」
「おう!」
千堂が食卓に着くと、がいそいそと白酒などを持って来た。
「今日はおひなさまやからな。ビールやのうて白酒で。偶にはええやろ?」
「おう。何やそれっぽいな〜。」
「そやろそやろ。はい、お猪口。」
「おう。」
は千堂の向かい側に座ると、白酒の瓶を差し出した。
「ほな、まずは一杯。」
「お、おう・・・・・・」
千堂のお猪口に、トクトク、と静かに酒が注がれる。
その様子を、いや、酌をするの様子を、千堂は内心で少し動揺しながら見ていた。
今日のは、何だか妙にしとやかで女らしく見えるのだ。
その手つきも、その微笑みも。
の手は、こんなに白かっただろうか。
の指は、こんなに細かっただろうか。
の微笑みは、こんなに艶っぽかっただろうか。
何だかまるで別人のようだ。
「私にも注いでくれる?」
「お、おう・・・・・・!」
に言われて我に返った千堂は、慌てて酒瓶を受け取り、に酌をした。
意識して動揺している事を悟られてしまっただろうかと気になっての様子を伺ったが、
は何も気付いていないようで、相変わらずニコニコとしたまま、お猪口を軽く掲げて見せた。
「ほな、おひなさまに乾杯。」
「か、かんぱい・・・・・」
軽くお猪口を触れ合わせてからしずしずと白酒を飲むの姿を、千堂は思わず食い入るように見てしまった。
上品に少しすぼめた唇が、むやみに艶めかしくて女っぽい。
― こ、こいつホンマにか・・・・!?
つい思わずそんな事を思ってしまう程、今日のは一味違っていた。
「お寿司よそうわな。」
「お、おう・・・・・」
「あ、そや。これも食べてみて。この唐揚げと菜の花のおひたしは私が作ってんで。」
「ほ、ほー・・・・・・」
勧められるまま、千堂はぎくしゃくと料理に箸をつけ始めた。
「・・・・・美味い!」
一口食べて、千堂は目を丸くした。
の料理は何度も食べているが、そしてそれは基本的にいつもそれなりに美味かったのだが、どういう訳か今日の味は格別だった。
「ホンマ?良かった。」
千堂の反応を見たは、またもやにっこりと微笑んだ。
またしてもやみくもに女っぽい表情で。
「減量大丈夫やねんやったら、一杯食べてな〜。」
「お、おう・・・・・・」
千堂は出されるままに料理を食べながらも、の事ばかりを考えていた。
何故今日はこんななのだろう。
一体何があったのだろう。
気になって気になって仕方がない。
「・・・・・あ、あの・・・・」
「何?」
「何や今日・・・・・、えらい女らしい感じやけど、どないしたん?」
気になった挙句、千堂は率直に尋ねてしまった。
普段のなら、『今日は、って何やねん』とか、『私はいつでも女らしいわい』とか、
オッサンのようなドスの利いた声と迫力満点の睨みで返して来る。
千堂はハッとして、『しまった!』と思ったのだが、は別段気を悪くした様子もなく、普通に答えた。
「別に。ただ、今日はおひなさまやから、ちょっと女の子っぽくしとこうかなと思って。」
「そ・・・・、そうか・・・・・・」
その答えを聞いた千堂は安心した。
の反応にも、答えの内容にも。
今日は女の子のお祭りの日なのだから、女らしくしようと心掛ける。
なるほど、納得のいく理由である。
納得がいくと同時に、千堂は次第に嬉しくなってきた。
とてやはり女、こういうしおらしい一面があったのだなと。
尤も、それを口にすると、今度こそ睨まれてどやされる恐れがあるので、口には出さなかったが。
「そ、そやな!今日は女の子のお祭りやもんな!」
「そやで〜。ホンマはついでに着物でも着たろかなと思ったけど、一人じゃ着付け出来へんから、それはやめといてん。」
「いやいや!その服で十分やて!十分女らしいわ!うん、よう似合とる!」
嬉しくなった千堂は、ついぞ言ったためしのないような事まで口走った。
「そう?有り難う〜。これ、こないだ買ったばっかりのおニューのワンピやねん。」
「おう!な、なかなかええ買いもんしたやんけ!」
「そやろ。」
嬉しそうに微笑むにデレデレとしながら、千堂は大いに食べ、そして飲んだ。
そうして差し向かいで楽しい時間を過ごして、どれ程経っただろうか。
酔いも回ってイイ感じになるにつれて、千堂は益々の事が気になって気になってどうしようもなくなってきた。
― あかん、ヤバイ・・・・・!
このままをじっと見ていたら、押し倒してしまう恐れがある。
それはそれで良しというか、この勢いに任せてみたいという欲望もあるのだが、どうも今はそんな雰囲気ではないのだ。
ゆったりと穏やかに流れる時間と、いつになくしとやかな。
今のこの空気を台無しにするのは何だか勿体ない気がして、千堂は自分の気を逸らす為に立ち上がった。
「そ、そろそろケーキでも食うか?」
「うん。」
「ワイ出して来たるわ!」
「お願い〜。」
千堂は足早にキッチンに入ると、冷蔵庫を開ける振りをしてに背を向け、深々と溜息を吐いた。
どうも今日は何かが違う。
こんな雰囲気になった事が、今までにあっただろうか。
いや、ない。
これは多分神様からの、いや、家のおひな様からの贈り物なのだろう。
気が強くてはねっ返りでどうしようもないうちの娘を貰ろたってくれ、というメッセージなのだろう。
セッティングはあんじょうしたるよって、後はお前が気ィ入れていけよ、と。
「・・・・そうか、そういう事か・・・・・・」
千堂は冷蔵庫を相手に、ブツブツと呟いた。
そうだ、きっとそうに違いない。
ここのおひな様だって長年働いてきて、もういい加減リタイアしたいのだろう。
いつまでもいつまでも働かせるのは気の毒というものだ。
耳を澄ませばほら、何となく聞こえてくる気がするではないか。
『さっさと嫁に行って貰わんとかなんわぁ!』
『もうトシで体もえらいのに!』
という、お内裏様とおひな様のギブアップの声が。
「ワイも男や、やったろやないか・・・・・・」
とは、長い長い年月を過ごして来た。
交り合いそうで交わらない、そんな関係で過ごして来た。
だが、それも今日までだ。
長い間、互いにそれぞれの道を歩んで来たが、今、2人は1本の道の前に立っている。
自分の人生の伴侶はかも知れない、そんな幼い頃からの予感が今、現実のものになろうとしている。
男、千堂武士。
ここが一番の勝負どころだ!!
「よっしゃ・・・・・・!」
千堂は気合を入れて己を奮い立たせると、ケーキの箱を手に振り返った。
「し、しかし何やな〜。お前、料理の腕上がったんとちゃうか?」
千堂はキッチンでいそいそとインスタントコーヒーなどを淹れながら、の背中に向かっていつも通りに話し掛けた。
土壇場で怖気づいたのではない。
これは千堂の作戦だった。
ごく普通の会話から、ごく自然な流れでプロポーズする事にしたのだ。
ドラマチックな演出をしたり、取ってつけたような大袈裟な言葉で求愛するよりは、そっちの方がよほど自分達らしい。
これまでの2人の関係のように、結ばれる時もごく自然に。
そう考えた上での前フリだった。
「そうかなぁ〜?」
「おう!かなり美味かったぞ!上出来上出来!」
「そう?ふふっ、有り難う〜。」
「こんだけ美味いモン作れたら、まあいつでも安心して嫁に行けるなぁ!」
考えた上での前フリなので、声が若干上擦り、わざとらしく聞こえないではない。
だが、それは緊張のせいだ。
千堂は静かに深呼吸して自分を落ち着かせると、ケーキとコーヒーを持って動き出した。
「まあそやけど、行くあてがまだないか!彼氏出来たとは聞いてへんしな!」
リビングに戻りながら、千堂は話を続けた。
するとは、やや憮然とした口調で言い返してきた。
「うっさいな〜。別に良いやろ〜?」
予想通りの反応だ。
は怒ってはいない。
千堂は安心すると、もう一度密かに気合を入れ直した。
男、千堂武士。
今こそ勝負をかける!!
と。
「ま、心配せんでも、お前が行き遅れる前にワイが貰ろたるから、安心しとけ!」
遂に言った。
遂に言うたった!
サラッとした軽い口調とは対照的な必死の形相で、千堂はの反応を伺った。
今には振り返るだろう。
どんな顔をしているだろうか。
驚き?笑顔?
その顔で何を言うだろうか。
YES?まさかNO!?
千堂はドキドキしながら、が振り返るのを待った。
しかし、振り返ったは。
「ほぇ?」
酔いが回って幾らか赤くなった顔をだらしなく緩ませて、素っ頓狂な声を出しただけだった。
千堂は言うまでもなく、愕然とした。
「ほ・・・・、ほぇ?って何やねん!?」
「え?そっちこそ今何か言わへんかった?」
「おっおっ、おまっ・・・・・!今のワイの話聞いてへんかったんか・・・・・!?」
「うん。」
は素で頷くと、愕然と立ち尽くす千堂を余所に、また白酒の瓶を傾けていた。
酒器がいつの間にかお猪口でなく、吸い物のお椀になっている。
はお椀に手酌でなみなみ酒を注ぐと、景気の良い飲みっぷりでグイッといった。
「灯りをつけましょ爆弾に〜♪ドカンと一発ハゲ頭〜♪っとくらぁ!」
挙句にムードもへったくれもない、小学生レベルの替え歌まで歌い出す始末である。
酔っているのだ、完全に。
これは一体どういう事なのだ。
おひな様のメッセージではなかったのか。
まさか本当に只の酒盛りだったなどというオチではあるまいな。
千堂は愕然としながらひな人形に目を向けたが、おひな様は何も答えてはくれなかった。
「アンタも飲みーや!まだ飲み足らんやろ?」
「っ・・・・・、お、お前・・・・・・・」
「何?」
「なっ・・・、何が『っとくらぁ!』じゃアホォ!!どこのオッサンやお前!?」
このやるせなさを発散させるかのように、千堂は大声を張り上げた。
玉砕どころか、不発弾になった気分だ。
「なっ、何やねん!?何いきなり怒ってんのん!?」
「お前なぁ!ワイが今どんな思いで言うたと思とんじゃーっ!!」
「だから何が!?」
「何がかって!?・・・・って・・・・・・」
何がと改めて訊かれても、心が挫けてもう二度と口に出来ない。
少なくとも、今のこの雰囲気では無理な話だ。
千堂は顔を真っ赤にして、益々声を張り上げた。
「ちゅ、ちゅーかお前、何でお椀で酒飲んどんねん!?」
「え?チマチマお猪口で飲むのめんどくさなったから。めんどくさいやろ?一口分ずつ注ぐのも。」
「ほなせめてグラス取りに行けや!」
「それもめんどくさいやん!」
「何やそれ!?ちゅーかお前、今日は女らしゅうしとくんとちゃうんか!?」
「あ〜、それ何かもう疲れてきたわ〜。あんまり慣れへん事はするもんとちゃうなぁ。」
は相変わらず手酌で飲みながら、面倒臭そうにそう答えた。
まあ、これがいつものだ。
このノリもいつもの事だ。
何もかも、今に始まった事ではない。
だが、今ばかりは腹立たしいやら虚しいやらガッカリするやらで、千堂のやるせなさは頂点に達した。
「おっ、お前なんか、お前なんかなぁ!一生行き遅れじゃアホンダラーッ!!」
千堂は声の限りに叫んだ。
だが。
「アンタなに涙目になってんの?大丈夫?大分酔うてんちゃう?」
「酔うとんのはお前じゃー!!」
「あーはいはい。絡み出したなー、めんどくさいわー。
もうアンタ酒おしまい。ほれ、コーヒー飲んで酔い覚まし。」
「ちょっ・・・、それはワイが淹れてきたやつやろ!お前が淹れてきたみたいな言い方すんな!!」
「あーもー何でもええやろが!めんどくさいなーホンマ!ええ加減にしーやアンタ!!」
その悲痛な心の叫びさえ、はまともに受け取らず終いなのであった。
2人の道が1つに繋がる日は、果たしていつの事か。
それは家のひな人形のみぞ知る・・・・・?