深夜の柳岡家。
「ただぁ〜いま〜〜。」
「あんた、今何時や思てんの。」
酔って帰宅した夫を、は冷ややかな目で一瞥した。
しかし、当の本人は全く反省の色がない。
「はいは〜い、すんまへんでした〜。」
「こんな時間になるまで、何で電話の一本も入れへんねん。」
「そやから済まん言うてるやんけ〜。それより水くれ、水。」
酔いどれ亭主に見切りをつけて、は無言で台所へ行った。
テーブルの上には、ささやかながらも奮発して作った沢山の料理。
先に子供達に食べさせてしまったが、自分と柳岡の分を取り分けて置いていた。
そして二人で結婚10周年のお祝いをする為に、深夜0時を過ぎてもこうして待っていたのだ。
ここ数年、結婚記念日など特に祝っていなかったのだが、今年は違う。
10年という一つの区切りがついた、特別な日だったのだ。
少なくともにとっては。
それなのに。
朝出掛けに早く帰るように言ったにも関わらず、この様である。
は苛立ち紛れに水道を勢いよく捻ると、嫌味のように大きなグラスになみなみと水を注いだ。
「はい、水!・・・って、あんたこんな所で寝なや!!」
「んん〜〜・・・・、もう飲めんて・・・・」
「布団行きぃや!!ほら!!・・・・、ホンマにもう・・・・」
がいくら揺すろうが叩こうが、柳岡は玄関先でひっくり返ったままびくともしない。
「最低やな・・・、今日何の日か分かっとんのか・・・・」
は水を置くと、深々と溜息をつきながら柳岡をずるずると引き摺って行った。
気もそぞろな柳岡に、千堂がミット打ちの手を止めて話しかけてきた。
「なんや柳岡はん、悩みでもあるんか?」
「あ?ああ、別に何もあらへん。ええから練習せえ。」
「練習て、柳岡はんがこんなんやったら練習ならんやんけ。どないしてん?」
「・・・・いや、まあ、ちょっとな。」
「嫁はんかいな?」
図星をさされた柳岡は、気まずそうに黙り込んだ。
その様子で大筋を理解した千堂は、柳岡を促してリングを下りた。
「ほんで?どないしてん?」
「・・・・いや、ちょっとな。最近嫁はんの機嫌が悪うてなぁ。」
「何かしたんちゃうん?」
「何もしてへんわい!もう3日もロクに口利かへんし、そこまでされるような事ワイ何もしとらんねんけどなぁ・・・」
いつになく塞いでいる柳岡に、千堂は思いつくまま推測を述べた。
「お姉ちゃんらがようさんおる店行ったとか?」
「行ってへん。」
「パチやら競馬やらで負けたとか?」
「負けてへんし、そもそもやっとらん。」
「酔っ払って面倒かけたとか?」
「・・・・いやそれは・・・・」
柳岡が口籠ったのを見て、千堂はポンと両手を叩いた。
「それやろ!」
「いやそやけどそんな毎度毎度ちゃうで!たま〜〜にや!それが何や今回に限ってはごっつい怒りよってなあ・・・。」
「ふーん、なんやろな?よう分からんけど、何かプレゼントでもして、早よ機嫌取っといた方がええんちゃう?」
「・・・・まあまあ、どないかするわ。ほれ、そんなんどうでもええから練習戻れ!」
我に返った柳岡は、千堂の背中を勢いよく張り飛ばした。
― プレゼント、なあ・・・・
ジムからの帰り道、柳岡はあてもなくミナミの街を彷徨っていた。
自分から見ればまだまだ半人前な千堂に解決策を貰うのは少々不本意だが、多分それが一番てっとり早いだろう。
そう考えて、早速プレゼントを調達する為に寄り道したのである。
しかし。
「何買えっちゅーねん。ワイ小遣い月3万やぞ?」
最初に口をついて出る独り言が予算の事であるあたり、我ながら哀しくなる。
だがこれは妻子持ちの宿命であろう。仕方がない。
良心的な価格で、かつ機嫌を取れそうなものとなると。
「・・・あかん、全然思い付かんわ・・・・」
何も思いつかないのも無理はない。
柳岡家では、プレゼントといえば子供達の誕生日やクリスマスぐらいのもの。
夫婦間でのプレゼントなど、もうここ何年もご無沙汰している。
自分もも日々の生活に追われている内に、いつの間にか愛し合う男女というより子供達の父母、空気のような存在になっていた。
今から思えば、恋人時代や新婚時代はまるでままごとのように感じる。
それこそやれ誕生日だのクリスマスだの記念日だの、イベント毎にプレゼントを贈りあっては喜んでいた。
「・・・・記念日?」
己の回想にはたと気付いた柳岡は、慌てて結婚指輪を指から引っこ抜いた。
仕事中は邪魔になるからいつも外しているのだが、一応それ以外は身に着けるようにしている。
今までは何となく嵌めていただけで、それ以上特に意識したり凝視した事など無かったのだが、柳岡は今初めてそれをした。
ある調べ物をする為に。
「・・・・あっ・・・・」
指輪の裏側に彫られている細い文字は、自分との名前、それからある日付。
それは先日酔って帰宅した日の、ちょうど10年前の日付であった。
「ただいま〜〜。」
玄関先で呼びかけたにも関わらず、相変わらず返事はない。
どうやら今日も怒りのストライキは決行中らしい。
柳岡は少々不安になりつつも、が居る筈のリビングに向かった。
「ただいま。」
「・・・おかえり。」
リビングで再び声を掛けると、TVを観ていたがちらりと柳岡を一瞥した。
そしてそのまま立ち上がり、無言で柳岡の夕飯の支度を始めた。
「なあて。」
「何?」
珍しく真後ろに立って呼びかけてきた柳岡に、は何事かと振り返った。
するとそこには見慣れない夫の照れた顔があった。
「これ。・・・・その、なんや。遅なったけど、結婚記念日のやな・・・」
「え・・・・・?」
気恥ずかしそうな柳岡だけでも十分珍しいのに、差し出された小さな包みがの怒りを一瞬にして驚きに変えた。
手渡されるままそれを受け取り、恐る恐る包みを解いてみると。
「いやっ、あんたこれ・・・!!」
中から出てきたのは、上品な光沢を放つプラチナのペンダント。
ヘッドには小さなダイヤモンドが付いている。
全く予想していなかった出来事に、はただただ驚くばかりであった。
「宝石屋の店員がな、結婚10周年にはこれや言うて『何たらダイヤモンド』ちゅー指輪出してきたんやけどな、15万もしよんねん。そやから代わりにこれやねんけど・・・」
「・・・これ、あんたの小遣いで買うてくれたん?」
「プレゼントやからな。店でいっちゃん安かったやつやから、ダイヤもメメクソみたいやけど、一応ちゃんと本物やで。」
はにかみながら添付の鑑定書を開く柳岡。
そこには確かに、プラチナとダイヤの品質を保証する旨が記載されてある。
だが、そんなものはにとって二の次三の次であった。
ペンダントの質よりも価格よりも、その心遣いが何にも勝る一番のプレゼントだったのだから。
「ワイが悪かったわ。きれいに記念日の事忘れとって済まんかった。」
「・・・・・・」
「そやから、な?っちゅーのもけったいやけど、とにかく機嫌直してくれや?な?」
ペンダントを手に俯いたままのの顔を、柳岡が覗き込む。
「な?頼むからもう怒らんといてくれや、・・・・。」
これが決定打になった。
ただでさえ不覚にも涙腺が緩みそうだったのに、新婚時代のように名前で呼ばれて、の瞳からとうとう涙が一滴零れ落ちた。
「・・・・ありがとう・・・・」
「・・・・何やねん、何も泣かいでもええやんけ・・・」
久しぶりにの涙を、それも感激の涙を見た柳岡は、ますます照れくさそうに口籠った。
そしてティッシュの箱を持ってきて、に差し出す。
はティッシュで涙を拭うと、心からの笑顔を柳岡に向けた。
「嬉しいわ。あんたがこないして思い出してくれたんがいっちゃん嬉しい。」
「そ、そうか。そら良かった。ほな許してくれるか?」
「うん。・・・・なあ、これ付けてくれる?」
「どれ、貸してみ。」
柳岡はから受け取ったペンダントを手に取ると、の首に留めた。
真新しい輝きがの胸元から放たれる。
「似おてる?」
「よう似おてる。」
「ありがとう。・・・・これからもよろしくな。」
「・・・・こっちこそな。」
はにかんだ笑顔を向け合う二人は、まるで初々しい恋人同士に戻ったようであった。