― 50年後。
日が傾きかけた頃、一人の老婆が水桶を持って歩いていく。
彼女の名は。
かつてこの辺りを支配していた『KING』に仕えていた。
だが、それを知る者は誰もいない。
また、彼女の名を呼ぶ者も、出入りの商人を除いては誰もいない。
が住む場所は、今は只の廃墟と化している。
かつては栄えた大きな町だったらしいが、今は以外誰も住んでいない。
は機を織り、それを買い付けにくる商人に売って生計を立てている。
それに僅かばかりの作物を育て、ほぼ自給自足の生活を送っているは、すぐ近くの町にも滅多に出掛けない。
だがそれにも関わらず、はちょっとした有名人であった。
偏屈な墓守婆さん。
家族もなく、親しい者もなく、活気と文明を取り戻していく世界に自ら背を向けて、隠者のようにひっそりと暮らすを、近隣の人々は物珍しげにそう呼んだ。
だが、は彼らの他愛もない噂など、全く気にしたことはなかった。
人々の言う通り、は墓守をしていた。
朝晩欠かさず水を撒き、花を供え、墓の周りを綺麗に掃除する。
そして長い時間、そこで祈りを捧げる。
それがの日課であり、一番大事な仕事であった。
「KING様、今日はお暑うございましたね。今お水を差し上げましょう。」
50年の月日は歴史を変え、人を変えた。
あの頃の事を知る者は、もう殆ど誰もいないだろう。
若さに溢れ、まばゆいばかりに輝いていたこの身体も、今は見る影もなく衰え、老いさらばえている。
だが、この心は変わらない。
そしてこの土の下で眠る彼も、の中では未だ凛々しく雄雄しい若者の姿をしている。
目を閉じれば、今でも昨日の事のようにはっきりと思い出せる。
あの瞳を、あの身体を。
今は皺だらけで痩せこけたこの身体、かつては彼に何度も抱かれた。
本当にあったことかどうかも分からなくなるぐらい遠い昔の出来事なのに、彼の吐息や感触はまだこの身に染み付いている。
あれ以降、の心は誰に傾くこともなかった。
言い寄ってくる男達の誰にも、魅力を感じることが出来なかった。
興味すら湧かなかった。
結婚や出産はおろか、この生涯において彼以外の男に身を任せたことはない。
だが、それを後悔した事は一度もない。
「KING様。私はきっと、あなた様に一生分の恋をしたのでしょうね。」
死んだ男に生涯を捧げようとする若い女を窘めた者もあった。
そんな馬鹿げた事はやめて、幸せな未来を掴め、と。
だが、若さが擦り切れ、髪に白いものが混じり、いつしか老婆と呼ばれるようになった今では、そんな世話を焼く者ももはやいない。
もっとも、いたところで首を縦に振るつもりはないが。
この身も心も、全て彼のものなのだから。
あの頃からそうだったように、今もなお。
「KING様、私は今もあなた様を愛しています・・・・」
しわがれた老婆の声が、愛の言葉を紡いだ。
無機質な墓石ではなく、まるで目の前にいる誰かに囁くように。
「さん?あれ、留守かな?珍しい。」
定期的にやって来る商人は、家にいる筈のがいないことに首を傾げた。
畑かと思いそっちにも行ってみたが、やはり見つけることは出来なかった。
「まだ夕方には時間があるしな。墓にいる訳もない筈だが・・・・」
商人はブツブツ言いながらも、が毎日世話をしている墓に向かって歩いて行った。
の生活パターンは大体把握しているが、墓についての事は何も知らない。
以前尋ねた事があったが、は曖昧に笑って答えてはくれなかった。
「本当に変わった婆さんだよ、あの人は。機織りの腕は良いんだが・・・ん?う、うわぁっ!!」
墓に着いた商人は、目の前の光景に目を見開いた。
そしてすぐさま墓に向かって駆け寄った。
そこには、墓石にもたれ掛かるようにして絶命しているの姿があった。
穏やかで、まるで眠っているような顔をしている。
商人はひどく驚き、慌てて近くの町に駆け込んで人を呼んだ。
ひっそりと葬儀を済ませた人々が頭を抱えた事は、彼女を何処に埋葬するかであった。
誰も血縁者がいない為、亡骸を引き取る者がいないのだ。
悩んだ末、人々は彼女が長年守っていた墓の隣に彼女を埋葬する事に決めた。
「誰の墓かは知らんが、婆さんがずっと大事に守ってきた墓なんだ。余程大切な人の墓なんだろう。」
「そうだな。隣に埋めてやればきっと婆さんも喜ぶさ。」
そうして、古い墓の隣に小さく新しい墓が作られた。
ただ一度の激しい愛に生きた女は、今、愛する男の側でその生涯を閉じた。
だが、が愛に殉じた事を知る者は誰もいなかった。
不憫な無縁仏を哀れに思った人々が時折墓参りに訪れたが、それもやがて途絶えてしまった。
誰もいなくなった廃墟の片隅で、苔むした墓が二つ、寄り添うように立っている。
墓石はすっかり脆くなっており、所々崩れている。
手入れをする者も祈りを捧げる者もないその二つの墓は、まるで時の流れから切り離されたように寂しくひっそりと佇み、ただ土に還る時を待っているかのように見える。
だが、墓標すら読めない程朽ち果てても、人々から完全に忘れ去られても、己が愛を貫いた男女の、その崇高な魂までが滅びる事はないだろう。
たとえ誰に知られ、語り継がれる事はなくても。