氷狼の恋




氷の瞳をした狼が一頭、雪に埋もれかけている。
半ば雪景色と同化しかけていたその孤狼は、薄れゆく意識の中で己が死を覚悟し、透き通ったブルーの瞳を閉じた。
温かな手が触れる感触に気付く事もなく。





「う・・・・・」

魂までをも凍りつかせるような寒さではなく、じんわりと温かな空気が身体を包んでいる。
そんな心地良い感触に、リュウガは目を覚ました。
重い瞼をゆっくりと開けてみれば、そこは全く見知らぬ家の中であった。
そして、全く聞き覚えのない声までもが聞こえてきた。

「気が付きましたか?」

リュウガは、その慈愛に満ちた声の主を見た。
黒い法衣を身につけた修道女が一人、声に相応しい慈悲深そうな微笑を浮かべている。

「・・・・ここは・・・・・」
「ここは修道院です。もう大丈夫ですよ。ゆっくりお休みなさいな。」
「そんな暇は・・・、うっ・・・・!」
「ああ、いけません。熱が高いのですよ。今はとにかく休むのです。さあ・・・」

無理に身体を起こしたせいで、強い眩暈を覚えて倒れ込みそうになったリュウガを、修道女の手が優しく抱き止めそっとベッドに横たえる。
のんびり寝ている暇はないが、修道女の言う通り、身体は高熱に冒されているらしい。
指一本動かすのも億劫な程弱った身体は只々休息を求めて、リュウガを深い眠りの淵へと誘った。





それから数週間が経った。
酷く弱っていた身体は日毎に回復し、リュウガは既に床から出ていた。
修道女、名を聞けばと名乗ったが、そのが言うには、自分は馬諸共雪の吹き荒れる雪原で行き倒れていたらしい。
その原因は、厳しい寒さと栄養不足による病だろうとも言った。

確かにこの寒さの中、満足な食料もない状態での孤独な進軍は少々過酷であった。
だが、それでもリュウガはそれを成さなければならなかった。
拳王の為、いや、その拳王がこの乱世を統治出来る巨木となり得るか否かを確かめる下準備の為に。

しかしの聖母のような微笑みが、リュウガの足をこの修道院に留めていた。



窓の向こうにの姿が見え、リュウガは外へ出た。
は出てきたリュウガにも気付かず、リュウガの愛馬の隣で懸命に薪を割っている。
リュウガは、重そうな大鉈を苦心して振るうの背中に話しかけた。

「手元が覚束ぬな。そんな調子では今に己の手を切り落とすぞ。」
「リュウガ様・・・・。これはお恥ずかしい所をお見せして・・・」
「お前にその鉈は大きすぎる。もう少し手頃な物はないのか?」
「生憎とこれしか。でもずっと使っておりますから、大丈夫ですわ。」

気恥ずかしそうに笑うを、リュウガはその冷たい光を放つ瞳でじっと見つめた。

頭を覆っている為、女としての容貌全ては分からないが、きめ細かで張りのある肌の様子から年は若いと見える。
20歳をせいぜい2〜3歳程過ぎた程度の若い女が一人で暮らすには、この修道院は余りにも不便で寂しすぎるだろう。
それに、もっと気がかりな事もある。

「何にせよ、女が一人で暮らすのは何かと不自由であろう。誰一人訪れては来ない寂れた修道院に居座り続けず、何処か村にでも移住してはどうだ?何なら俺の知る幾つかの村を紹介しても・・・」
「お気遣い有難うございます。でも私は助けを必要としている者の為に、ここに居ようと思います。」
「馬鹿な。そのような者、幾らも現れるまい。」
「数の問題ではないのです。たった一人でも、傷つき飢えた人が来るかもしれない。貴方のように。」

の言う事は尤もだった。
がここに居てくれたお陰で、九死に一生を得たのだから。
だがリュウガは、来るか来ぬかも分からない見知らぬ同じような誰かの為に、をこの地に留めたくはなかった。

何故ならこの辺り一帯は、近々拳王軍の侵攻を受ける事になっているからだ。
には話していないが、リュウガがこの地に来た目的は、正にその侵攻の為の視察であった。
思わぬアクシデントで足止めを喰ってしまったが、ラオウの下に戻り次第、この地に攻撃を仕掛けねばならない。

リュウガは、そうなる前に何とかをこの地から出したかった。
そう、この数週間共に暮らすうちに、リュウガはいつしかを愛し始めていたのだ。

「・・・確かに、お前がここに居たから俺は助かった。今後もそういう事があるかもしれぬ。だがそれは、違う土地に移っても同じ事が言えるのではないか?」
「それは・・・・・」
「お前の言う『人助け』とは、ただここで誰かが来るのをじっと待つだけの事なのか?救いを待っている者は世にごまんと居るぞ?」
「・・・・・そう、ですね・・・・」

は困ったような微笑を浮かべて、曖昧な返事をした。
頭から否定してはいないが、かといってリュウガの提案、いや懇願を、素直に受諾してもいない。
穏やかな表情とは裏腹に、恐らく複雑であろうその胸中を察したリュウガは、ひとまず押し黙るより他になかった。


暫く沈黙を続けていると、今度はが口を開いた。

「・・・・リュウガ様は?まだ旅を続けられるのですか?」
「俺は・・・・」

旅とは、この地に来た訳を訊かれた時に咄嗟についた嘘だった。
本当なら身体が癒えた今、早々にここを発つべきなのだろうが、日毎に増すへの思慕の情に後ろ髪を引かれてなかなか去れずにいる。
だがそれを素直に告げられず、黙りこくるリュウガに、は小さな声で呟いた。

「貴方は私にこの地を去れと仰いましたが・・・、貴方は旅をお止めになるつもりはないのですか?」
「俺は・・・・・・」
「もし貴方さえ宜しければ・・・・、ずっとここに居ませんか?」
「何・・・・?」
「何もない所ですが、糧と寝床は何とかなります。当ても無く流離うより、ここに居る方が遥かに安らぎと平穏に満ちた生活が・・・」

人助けのつもりで言ってくれているのであろうか。
それとも、自分と同じく密やか想いを寄せてくれているのであろうか。

判断に迷い、依然口を閉じたままのリュウガに、は照れ隠しのような笑いを零した。
その表情は多少傷ついたようにも見える。

「ごめんなさい、私ったらつい勝手な事を・・・・・。気を悪くなされたのなら、どうぞ忘れて下さい。」
「・・・・・代わろう。」
「リュウガ様、でも・・・」
「良いからそこを退け。中に戻っていろ。」

リュウガは返事をする代わりにの身体を軽く押しのけ、鉈を取り上げた。
そのまま一言も発せず黙々と薪を割り始めたリュウガに頭を下げ、は室内に戻って行った。





それから更に数日が過ぎた。
もう流石にいつまでもこうしてはいられない。
リュウガは明日にでも、この修道院を発つ事を決心した。

だが、気掛かりなのはの事。
相も変わらずここを出る素振りは見せない。
しかし、このまま見捨てて行けば、まず間違いなく拳王軍によって襲われるであろう。
辱められる恐れも、死ぬ恐れも十二分にある。

― 最早悠長な事は言っておれんな・・・・

明かりのない暗い部屋で、冷たいブルーの目だけが冴え冴えと光る。
その光は、獲物を狙う狼の目そのものであった。




リュウガは今まで一度たりとも入った事のない、の私室を訪ねていた。
軽いノックと短い返事の後、出てきたの表情は少しばかり驚いた様子をしていた。

「リュウガ様。こんな夜更けにどうかなさいましたか?」
「話がある。」
「そうですか。どうぞ中へ。」

招かれて入ってみれば、その部屋は他のどの部屋よりも質素であった。
何種類かの板切れをどうにか寄せて作ったらしいベッドと机がある他は何もない。
リュウガはそのベッドに腰を下ろして、明日発つつもりである事を告げた。

「そう・・・ですか。随分急ですね・・・・」
「遅すぎるぐらいだ。少々長居をしすぎた。」
「・・・・寂しくなりますね。どうかお気をつけて。旅のご無事をお祈りして・・・」

の微笑む顔が、今にも涙ぐみそうに見える。
そんな顔で別れを受け入れようとするの姿に、リュウガの心は決まった。

悪と罵られようが、神から罰を下されようが構わない。
もうこれしか方法はないのだから。

リュウガは立ち尽くすの細い手首を掴み、自分の方に引き寄せた。

「あの・・・・、リュウガ様・・・・?」

リュウガは行為の意図が掴めず戸惑うを胸に抱き入れ、その頭部を覆う黒い布を取り払った。



「リュウガ様、何を・・・・」
「・・・・・美しい。」


戒めのような布が隠していたのは、艶やかな亜麻色の長い髪であった。
そして、その眩い髪を露にしたは、正しく今が盛りの花のようであった。

「リュウガ様・・・・、一体どうなされたと・・・」
。今宵お前を俺のものにする。そうして、俺の旅に連れて行く。」
「なっ・・・・!?」

リュウガの行為の意味が分かり狼狽し始めたを、リュウガはベッドに組み敷いた。

「リュウガ様!?お戯れは・・・・」
「戯れではない。俺はお前に惚れた。何が何でも俺のものにし、共に連れていく。」
「リュウガ様、私は神に仕える身!神に嫁いだ身なのです!貴方のお気持ちを受け入れる事は・・・」
「神がどうした。お前の気持ちはどうなのだ?姿形のない幻に、お前はこの先ずっと支配されていくつもりか?」

心の底までをも見透かすような視線に射抜かれて、は抵抗を止めた。
冷たい、狼のような目だ。
だがその奥で時折揺れる優しい人の心に、もまた仄かな想いを寄せていた。
その想いに支配されぬよう己を律してきたのは、偏に仕える神の為。

しかし、リュウガはそれを幻だと言い切った。
修道女としてはそれを否定し、断固としてリュウガを拒むべきなのであろう。

なのに身体は動かない。
リュウガに言われて初めて気付いたのだ。
自分の気持ちを、リュウガへの秘めた恋を自覚したいと願っていた、本心を。
それに気付いた瞬間、今まで感じた事のない甘い疼きが身体を支配し、リュウガを強く拒む事が出来なくなった。

「私は・・・・・、リュウガ様、私はやはり・・・・・。どうか後生ですから・・・」

それでも同時に得体の知れない不安が走る。
それはリュウガへの嫌悪ではなく、修道女の誓いを破る事への畏怖の念だ。
その誓いに戒められ、は弱々しい拒絶の言葉を口にした。
それがリュウガを駆り立てる決定的なきっかけになるとも知らずに。

「・・・・言っても分からんか。ならば力ずくで神から奪い取るまで。男に抱かれ、堕落した花嫁ならば、神の方から見放すだろうて。」
「そんな・・・・!」
「お前を救うのは、何の役にも立たぬ『神』などではない。このリュウガだ。」
「リュウガ様・・・・、いけません!」
「敢えて詫びはせぬぞ、・・・・・!」
「リュ・・・、あぁっ・・・・・!」



リュウガはその夜、一晩中を抱き続けた。
が初めて受け入れる生身の男をその身に刻み込み、忘れられなくなるまで。
神などという偶像よりも、その身体を深く貫く我が身を求めるようになるまで。




空の向こうが僅かに白んで来た頃、リュウガはようやくの身体を開放した。

「間もなく夜が明ける。日が昇ったら出発だ。」

抱かれるがまま傍らで身を横たえているは、返事をしない。
眠ってしまったのかと、リュウガはその顔を覗き込んだ。
しかし、の瞳はちゃんと開いていた。

「・・・・聞いているのか?」
「はい。」

ようやく短い返事をしたに、リュウガは小さな溜息をついた。
にとって、昨夜の行為の何もかもが初めての経験であった事は分かっている。
ましてやそれが半ば犯されるような形であったのだから、の胸中はさぞや複雑である事だろう。
だがリュウガは、後悔や自責の念など全く感じていなかった。

事態はそんなどころではない。
無理にでも我が物にして連れ去らねば、の命の保証はないのだから。

「怒っているのか?」
「いいえ。」
「ならば絶望か?」
「いいえ。」
「ならば何だ?その浮かぬ顔の理由は?」

リュウガは訝しげに尋ねた。
昨夜、は確かに女として開花した。
最初こそ抵抗していたものの、終には甘い声で喘ぎ、この身体を求めたのだ。
それを今更何だというのか。

だがはそれに答えずのろのろと身体を起こし、法衣の下に着けていた薄い衣だけを身に纏った。

「何処へ行く?」
「朝の礼拝に。どうしてもこれだけは・・・・」
「・・・・好きにしろ。」

まだ半ば放心しつつも頑として言い張るに折れたリュウガは、渋々その背中を見送った。





それから小一時が過ぎた。
まだは戻って来ない。

「よもや・・・・、自害などしてはいまいな・・・・!?」

あまりの遅さに良からぬ想像を膨らませたリュウガは、脱ぎ散らかした衣服を慌しく身に付けると、勢い良くドアを開けようとした。
だが、そのドアは先に向こう側から開いた。

・・・・・!?」
「そんなに慌てて、どうかなさいましたか?」
「お前、その姿は・・・・」

の姿を見て、リュウガは目を見張った。
は豊かな髪もそのままに、往来を行く普通の女と変わらぬいでたちであったのだ。
何という事はないよく見かける服装ではあるが、法衣姿のしか見た事のないリュウガにとっては、十分に驚きを誘うものであった。

「これですか?私がここに来た時に来ていた服です。もう二度と着る事はないと思い、物置にしまっていたのですが、まさか再び着る事になるとは・・・」
「そうか・・・・、それならば良いのだ・・・・」
「え?」
「いや、何でもない。それより祈りは済ませたのか?」
「はい。」
「何を祈った?男に抱かれて堕落して、二度と神の御前に跪けぬ事を懺悔でもしていたか。」

皮肉めいた笑みを浮かべたリュウガに、は小さく笑って首を横に振った。

「いいえ。確かに私は、この身を再び俗世に投げ出しました。けれど、それを後悔してはいません。」
「ほう?」
「昨夜、貴方は詫びぬと、戯れではないと仰いました。ならば私は貴方を信じます。この心に芽生えていた恋心を・・・・信じます。」
・・・・・」
「それに、いつかの貴方の言葉、あれは仰る通りです。ただ私にその一歩を踏み出す勇気が、この荒れた世界に身を投じる勇気がなかっただけ。」

懺悔のようなの言葉を、リュウガは相槌すら打たず黙って聞いていた。


「貴方を受け入れた事は、その一歩へのきっかけになったのだと私は思います。ここにはもう居られませんが、代わりに私は歩き出す足を手に入れました。これからは陰ながら神の御意志に沿えるよう働きたいと思います。いつか貴方が仰った、助けを求める者達の為に・・・・、貴方と共に参ります。」
「・・・・・神にそう祈ったのか?」
「はい。」

頷いたの表情は、心惹かれ愛したあの微笑を形作っている。
リュウガは言葉もなくの身体を抱き締めた。



必ず、必ずこのだけは守ってみせる。
そして、一日も早くこの乱世が統治され、が平和に笑って暮らせる世を造る為に。
その為にならこのリュウガ、この身を血に染めた魔狼にもなろう。



「・・・・行くぞ、。」
「はい。」




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後書き

リクエストにより、初リュウガドリームをお送りいたしました。
おとなしめのヒロインをご希望との事でしたが、何故にシスター(笑)?
更に甘い話をご希望との事でしたが、何故に強○(笑)?
リクエスト下さったみゆき様、有難うございました!
色々勘違いした仕上がりになってしまって済みません(滝汗)!