「そろそろ帰ろう。」
「ええ。」
愛しい者の笑顔に、レイは微笑を浮かべた。
そしてその者・の手にある瓶を受け取った。
瓶の中身は海水。
レイとは、塩の原料となる海水を汲みに海辺へとやって来ていた。
死の海と呼ばれる荒んだ海でも、波の音は優しく響く。
「ありがとう、レイがついて来てくれたから助かったわ!」
「何を言う。このぐらいお安い御用だ。」
「あなたが戻って来る前は結構大変な作業だったのよ。途中で野盗に襲われた人も沢山いたし。」
「そうか、しかしもうそんな心配はいらんぞ。この俺が村を守ってみせる。お前の事もな。」
「レイ・・・」
恥ずかしそうに頬を赤らめるに微笑を浮かべ、レイはその肩を抱き寄せた。
長きに渡る厳しい修行に耐え、見事南斗水鳥拳伝承者となって故郷に戻ってきたレイを誰よりも喜んで迎えたのが、このであった。
年端もいかぬ少年少女だった頃の淡い恋心は、再会を機に今やすっかり成熟したものとなっていた。
「さあ、そろそろ夕方だ。急いで帰らねば夜になってしまう。」
「そうね。あ・・・!」
「何だ?」
「忘れ物しちゃった!お弁当箱!!」
「全く、そそっかしいところは子供の頃から変わらんな。」
「むぅ・・・、悪かったわね。とにかく取ってくるわ。」
「俺が行こうか?」
「平気よ、すぐに戻ってくるから待ってて!」
昼食を摂った場所の方向に小走りで駆けていくを見送って、レイは苦笑を零した。
しかし、その様子を見守っていたのはレイだけではなかった。
「フッフフフ、お誂え向きだな。」
端整な横顔に狂気じみた笑みを浮かべた一人の男が、ゆっくりとの方向に歩いていった。
「ええと、どこに置いたかな・・・、あぁ、あったあった。」
探し物を見つけたは、それを手に取ってレイの元へ戻るべく振り返った。
その瞬間、の表情に怯えの色が浮かんだ。
「だ、誰!?」
「女、一緒に来てもらおうか。」
「いやっ、離して・・・!レイ!助けて、レイーーー!!」
抵抗するをものともせず、男はその腕を掴んで乱暴に身体を引き寄せた。
そして一枚の紙を手近な木にナイフで留めると、嫌がるを連れて何処かへと去って行った。
すぐそこに忘れ物を取りに行ったにしては遅すぎる事に、レイは悪い予感を覚えていた。
やはり自分が行けば良かったという後悔の念が胸の内を支配する。
とにかく見に行ってみなければ何も分からない。
レイはの後を追って行った。
「、どこだ!?」
名前を呼びながら辺りを探してみるが、の返事はない。
それどころか、人の気配も感じられない。
悪い予感は益々高まってくる。
その時、レイは視界の隅に一本の木を留めた。
枝が突出しているのかと思ったら、それはナイフで留められた一枚の紙切れであった。
それを読むレイの表情がみるみるうちに強張る。
そして突如、レイは全速力で一方向に駆けて行った。
風ではためくその紙には、こう書かれてあった。
『女は預かった。返して欲しくばここからすぐ北にある岸壁まで来い。』
署名代わりの黒鳥の紋章が、風に揺れてまるで羽ばたいているかのようにいつまでも揺れていた。
指定された岸壁までやって来たレイを待ち受けていた者は、十数人の男達とその連中に囚われているであった。
今のところに危害は加えられていないらしく、無傷である。
その様子に少し安堵したものの、レイは厳しく冷たい視線でその中の一人だけをまっすぐに射抜いた。
「来たか、レイ。」
「あの黒鳥の印、シモン、やはり貴様だったか・・・。を返してもらおう。」
レイは目の前の男・シモンを睨み据えた。
しかしシモンは全く動じず、逆に余裕の笑みを浮かべた。
「ふっ、そう簡単に返すと思うか?」
「何が望みだ?」
「南斗水鳥拳伝承者の座を退いてもらおう。」
「何ぃ!?」
「レイ駄目!」
シモンの要求に決して応じないように、は動揺するレイを叱咤する。
「黙れ、女。」
「あうっ・・・!」
「!!」
余計な真似をするなと言わんばかりに、シモンがの首を絞める。
苦しそうなの表情を見て、レイの顔に焦りの色が濃く浮き出る。
そんなレイをさも愉快そうに見つめ、シモンはの身を盾に脅迫にかかった。
「動くなよ?一歩でも動けばお前の愛しい女の命はない。」
「くっ・・!」
「レイよ、南斗水鳥拳の伝承者はこの俺だ。お前などでは力不足というものだ。」
「戯言をほざくな!!伝承者の座は正当な審議のもとに俺が勝ち取ったものだ!!」
「それがおかしいと言うのだ!俺は先代南斗水鳥拳伝承者の実子!正当な審議というなら伝承者はこの俺のはずだ!!」
「分からないか、貴様のその驕りこそが伝承者から外された理由なのだ!先代の実子という立場を傘に着てばかりだった貴様に伝承者など務まるはずがない!!」
「黙れ!!きいた風な口を利くな!!貴様に俺の気持ちなど分かってたまるか!!」
激昂したシモンは更にの喉元を締め上げた。
「うぅっ・・!!」
「!!」
「お喋りはこれまでだ。さあどうする?女の命か、伝承者の座か。二つに一つだ。」
「駄目よ・・・、レイ・・!!言うことをきいては駄目・・・!!」
「どうした、早く答えねば女が切り刻まれるぞ?」
の喉元を掴むシモンの指先が僅かにその肌に食い込むのを見て、レイの平常心はとうとう崩れ落ちた。
「くっ・・・!分かった!伝承者の座はお前に譲る!!だからを離せ!!」
「フッフフフ、良かろう。」
シモンは満足そうに笑うと、の喉を掴んでいた手をゆっくりと離した。
そして肩を抱き寄せていた腕も緩め、の身体を解放する素振りを見せた。
しかし。
「さあ、愛しい女の命、その手で掴み取るが良いわ!!」
「あっ!!」
「ーーー!!!!」
一瞬の出来事だった。
シモンはを解放するように見せかけて、その身体を岸壁の下に突き落としたのだ。
は空しく宙を掴みながら死の海へとまっ逆さまに落ちていった。
「シモン、貴様・・・!!」
「どうした?早く行かんと女が溺れ死ぬぞ?」
「ちっ!!」
今にも飛び掛りそうな勢いのレイを、シモンは余裕の笑みでもって挑発する。
しかしシモンの言う通り、今はを助ける方が先決だと思ったレイは、凄まじい殺気を込めた目でシモンを睨みつけると、を追って死の海へ飛び込んだ。
「馬鹿め。誰が口約束などで納得するものか。レイよ、女共々始末してくれる。行くぞ!!」
二人が消えた海を見下ろして、シモンは愉しそうに呟いた。
そして手下達数人を伴って自らも岸壁を下っていった。
「!しっかりしろ!!」
飛び込んだレイは、水中に沈むを見つけてその身体を水面上へと引き上げた。
落下の途中で気を失ったのか、の意識はない。
しかし引き上げたのが早かったせいか、呼吸だけは辛うじて確認できた。
レイはとにかく早く岸まで辿り着こうと全速力で泳ぎ出そうとした。
だが、後ろから聞こえるエンジン音がそれを許さなかった。
「シモン!!」
「ハハハハハ!!レイ、この俺が貴様を生かしておくと思ったか!」
数人の手下と共に小型のボートに乗ったシモンは、鋭利な槍を手にレイのあとを追って来た。
「見下げ果てた奴め!!これが仮にも南斗水鳥拳を学んだ男のやり方か!?恥を知れ!!」
「相も変わらず愚直な男よ!そうだからこそだ!!俺は南斗水鳥拳の全てを知っている、そしてその弱点もまた然り!!」
「・・・卑劣な!!」
「フハハハ、何とでも言うがいいわ!死ね、レイ!!」
シモンは海中のレイ目掛けて槍を突き出した。
を抱え、かつ水に自由を奪われたレイはその一撃を避けきれず、肩を負傷する。
「くっ!!」
「南斗水鳥拳の極意は華麗な動きにある!いかに貴様に才があろうとも、水面下に沈んでしまっては手も足も出まい!このままじわじわ嬲り殺してくれるわ!!」
「ぐわぁっ!!」
シモンの手下共も手に槍や銛を持って攻撃を仕掛けてくる。
レイはにその矛先が及ばないように庇うのが精一杯で、なす術もなく矢面に立たされるのみ。
刃の掠った頬や肩・腕など、至る所から鮮血が吹き出しては海水を赤く染めていく。
そしてとうとう、シモンの放った一撃がレイの肩を貫いた。
「ぐうぅっ!!」
激痛に顔を歪めるレイ。
その様子に勝利を確信したシモンは、レイの身体から槍を引き抜くと満足そうに口の端を吊り上げた。
そしてとどめをさすべく槍を構え直した。
「これで最期だ。せめて女と共に葬ってやろう!」
自らの胸を目掛けて放たれる一撃が、レイを絶体絶命の危機に陥れる。
レイは何とかその刃を避けようと身体を捻ったが、僅かに避けきれずに胸の脇を抉られてしまった。
その凄まじい痛みを堪えきれず、レイはと共に海中に沈んでいった。
「ふっ、フフフッ、フハハハハ!!これで俺が南斗水鳥拳の伝承者だ!!」
血に染まる水面を見つめて、シモンは勝利の高笑いを上げた。
しかし次の瞬間、足元に違和感を覚えて口を閉ざす。
「シ、シモン様!?船が・・・!」
「何っ!?」
「うわぁぁっ!!」
一瞬の後、シモンのボートが船底から真っ二つに割れた。
そしてあっという間に手下と共に海中に投げ出される。
「ぐわぁっ!シモン様、た、助けて・・!!」
「ええい五月蝿い!!」
「ぎゃぁっ!!」
パニックに陥ってしがみ付いてくる手下達の首を切り捨て、シモンは海中にレイの姿を探した。
しかし濁った海水のせいで、水面下の様子は確認出来ない。
シモンは神経を集中させて、レイの気配を探ろうとした。
小癪な真似を。
きっと近くにいるはずだ。
「!」
その時、ふいに足を引っ張られ、シモンは海中深くに引き摺り込まれた。
シモンを海中に引き込んだ瞬間、レイはその腹を目掛けて一撃を加えた。
水中にいるせいで技の切れが悪く、切り裂く事は出来なかったが、それでも横に伸びた4本の傷はぱっくりと口を開き、鮮血を溢れさせる。
シモンは苦痛に顔を歪めながら、レイに反撃を仕掛ける。
いかに劣等といえども、シモンとて南斗水鳥拳の心得を持つ男。
繰り出された指先が、レイの頬を確実に切り裂く。
― 時間がない、早くケリをつけねば!!
なかなか勝敗のつかない攻防に、レイは焦っていた。
呼吸にも限度があるし、何より先程沈められた際に見失ったを早く見つけ出さなければならない。
― これで決着をつけてやる!
レイは敢えて一旦攻撃の手を止めた。
― なんのつもりだ、レイ?
シモンは急に攻撃の手を止めたレイを訝しんだ。
いよいよ息が苦しくなってきたのか、それともおびただしい出血に意識が薄らいできたのか。
いずれにしろ、観念したように隙を晒すレイを見逃すつもりは毛頭ない。
よかろう、ならばこの俺の拳で止めを刺してやる!!
これで俺が伝承者だ・・・・・!!
シモンはとどめの一撃をレイに目掛けて放った。
― バカな・・・、何、故・・・・
シモンの指先は確かにレイの顔面目掛けて放たれた。
しかしその指が切り裂いたものは、海水とレイの髪一房であった。
濁った海水に鮮やかな水色の髪が流れていくのが、まるでスローモーションのように見える。
そして次の刹那、その目に映る光景が上下にずれた。
そして気付いたのだ。
止めを刺されたのは自分の方であることに。
攻撃体制を一旦止め、シモンの攻撃を避けることに全神経を集中させた。
気が逸っているのと水中で身動きしにくい状態の為、案の定シモンは大きなモーションで攻撃を放ってきた。
レイはその時を待っていたのだ。
繰り出された攻撃を顔を捩って避け、次の瞬間自らの指先をシモンの頭から腹まで一閃させた。
そして、勝負はその瞬間ついたのであった。
シモンの残骸が海中に沈んでいくのを、レイはしばしやりきれない思いで見つめていた。
しかしその向こうにらしき人影を見つけ、すぐに我に返る。
急いで近付き、それがであることを確認すると、しっかりと腕に抱いて海上へ上がって行った。
「ブハッ!!ハァッ、ハァッ・・・!!しっかりしろ!!」
水面上に顔を出したレイは、の様子を伺った。
しかしは依然意識を失ったままで、返事をしない。
ともかく急いで岸に上がらなければ!
レイは残る力を振り絞って、全力で浜辺へと泳いだ。
そして陸に上がって、を砂浜の上に横たえた。
「、!!」
軽く頬を叩いて呼びかけてみるが、は何の反応も返さない。
不審に思ったレイは、の口元に耳を寄せてみた。
「息をしていない・・!」
レイの顔が青ざめる。
「!死ぬな!!」
レイは色を失ったの唇に、己の唇を押し当てて息を吹き込んだ。
『息をしてくれ』と念じながらそれを何度か繰り返した時、の顔が僅かに顰められた。
そしてみるみるうちに苦しそうな表情になる。
その様子を見たレイは、の唇を解放して顔を横に向けてやった。
「・・・っ、ゴホッ!ゴホッ!!・・・・ハッ、ハァッ、ハァッ・・・!」
「!」
海水を吐いてむせ返るの背を擦り、レイはの名を呼んだ。
するとようやく落ち着いてきたのか、が息を切らせながら身体を起こした。
「レイ・・・」
「!大丈夫か!?」
「ええ・・・、大丈夫・・・・」
「良かった!」
幾分青白いものの、徐々に赤みが戻ってきたの顔色を見て、レイは安堵に胸を撫で下ろした。
そして無事をその身で確認するかのように、の身体をしっかりと抱き締める。
「済まなかった、俺のせいでお前を危険な目に遭わせてしまって・・・!」
「レイのせいじゃないわ!私が足手まといにならなければ、こんな怪我をしなくて済んだのに・・・。」
はレイの傷にそっと触れた。
いずれも決して軽くはない。
その全てが、自分を守る為に負ったものなのだ。
そう思うと申し訳なくて、でも不謹慎にも少し嬉しくて、泣きたくなる。
「せめてその傷の手当ては私にさせて、レイ・・・」
涙を浮かべながら心からの労りをくれるに、レイは胸の奥が熱くなるのを感じた。
自分にはこれからも数多の闘いが降りかかってくることだろう。
その度に、今回のように愛する者を巻き込んでしまうかもしれない。
しかし、守ってみせる。
南斗水鳥拳伝承者の名にかけて。
この血の一滴までも、お前の為に。