「だから何度も言ってるじゃない!それは私の物なの!」
「俺も何度も言っている。俺が拾ったのだから俺の物だ。お前の物だという証拠が何処にある?」
「呆れた・・・・・!何て人なの!そんなに人の言う事が信用出来ない!?」
「ああ、出来んな。分かったらとっとと出て行け。昼寝の邪魔だ。」
「・・・・・・良いわ、でも覚えてなさいよ。貴方が返してくれるまで、何度だって来てやるから!」
は、小屋の戸を乱暴に閉め、通りに向かって大きな歩幅で歩き出した。
元から朽ちかけていたそれは、乱暴に閉めたせいで更に破損し、木屑がぱらぱらと地面に降ったが、そんな事は知らない。
いっそ小屋ごと倒壊してしまえば良いのだ。
小屋の中に居る男の、人を食ったような笑みを思い出して、はそんな事さえ思った。
事の起こりは、今朝この町に着いてすぐだった。
この町へは、物々交換の為に月一回位のペースで来ている。
今日の目的も、勿論それだった。
いつものバーに行き、店主と食料品などのやり取りをして、日の暮れない内に帰る。
今日もそうなる筈だったのに、その予定をある一件が狂わせてしまったのだ。
「ああもう・・・・・、時計なんて見るんじゃなかった!」
賑やかな往来を、は独り言ちながら歩いた。
大事な時計を失くしたのは、そのバーだった。
時間を確認しようと懐から取り出し、ちらりと見てから隣の椅子の上に置いた。
そして、そのままの状態でバーを出てしまったのである。
大事な時計をうっかり忘れてしまう程注意力が散漫になっていた原因は、今日から三日間この町で行われる市だ。
現に時計を忘れた事に気付いたのは、呑気に露店を覗いている最中だったのだから。
とにかく、急いで再びバーへ戻ってみれば、もう時計は無かった。
店主に訊くと、自分の後に来た客が、時計を置いてあった席に腰掛けていたらしかった。
たった今出て行ったばかりだというその客の風貌を教えて貰い、慌てて追いかけ、その人物から幸運にも『時計なら拾った』という言葉を聞けたまでは良かったのだが。
『ああ、良かった!それ、私のなんです!』
『ほう。』
『ほう、って・・・・・・、あの、返して下さ・・・』
『お前の物だという証拠はあるのか?』
『は!?』
という展開になってしまったのだ。
確かに今の荒みきった世で、信じられる人間などそう居はしない。
誰もが生きる為に、したたかさと狡猾さを身につけているのだ。
男も女も老人も、まだ年端もいかぬ子供でさえ。
「だからって、あんなの許せないわ!あの時計は正真正銘、私の物なのよ!?」
構わず行ってしまおうとする男に食い下がり、追いかけて辿り着いたのが、町の外れのあの掘っ立て小屋だった。
長く無人らしいあの小屋を使っている所を見ると、身一つの旅人か何かなのだろう。
とにかく、そこで押し問答を繰り返した挙句、今に至る。
「冗談じゃないわ!絶対取り返してやるんだから!」
勇み足で歩いていたは、目の前にあった宿屋に踏み込んでいった。
あの男から時計を取り戻す為なら、長期戦も辞さない覚悟を決めたからである。
頭上には、丸い月が明るく輝いている。
市も閉まってひっそりと静まり返った通りを一人歩いて来たは、大きな音を立てて小屋のドアを開けた。
「誰だ、騒々しい。」
「私よ!」
「またお前か。さっきの今だぞ。」
「だから何なの?貴方さえさっさと時計を返してくれたら、こんな所に何度も来やしないわ!」
寝ていたのか、粗末な敷物の上に身を投げ出していた男は、のふて腐れた顔を見て口元を吊り上げた。
「だからと言って、わざわざ男の寝込みを襲いに来なくても良いんじゃないか?」
「なっ・・・・、何言ってるの!?寝込みなんて襲わないわよ!良いから早く時計を返して頂戴!」
「しつこいぞ、何度も言わせるな。あれは俺が拾ったのだから、俺の物だ。返せというなら、元がお前の持ち物だという証拠を見せろ。」
「そっ、それは・・・・・・・!」
目に見えるような証拠など、当然だが何も無い。
昼間と同じように言い包められ、悔しそうに歯を食い縛るを愉快そうに見ていた男は、身体を起こしてその場に胡坐をかいた。
「お前、名は?」
「・・・・・よ。そういう貴方は?」
「レイだ。まあ座れ。見ている方が落ち着かん。」
レイに促されたは、渋々床に腰を下ろした。
「たかが時計一つによくもここまで粘れるものだ。その根性を認めて酒でも振舞ってやろう。丁度一人で退屈していたところだ。」
「結構。貴方の寝酒に付き合う義理はないわ。それに、その時計は『たかが』じゃない。私にとっては大事な物なの。」
憮然とした口調で言ったは、レイの胸元に下がっている金の懐中時計を指差した。
それこそがの時計なのであるが、こうして見ると、まるで元からレイの持ち物だったように見えるから癪に障る。
一方レイは、金の鎖を長い指で弄びながら、値踏みをするように時計を見た。
「確かに、なかなかの値打ち物だ。売れば暫く食い繋げるだろうな。」
「ちょっと、やめてよ!!」
レイのとんでもない言葉にかっとなったは、力ずくで取り返そうとレイの胸元に掴みかかった。
だが、その手はいともあっさりとレイの手に捕われ、は身体ごとレイの胸に飛び込む形になってしまった。
「きゃっ!」
「おっと、随分積極的だな。やはり寝込みを襲いに来たのか?」
「なっ・・・・・・・!」
ふと見上げれば、レイの顔がすぐ近くにある。
もう少しで、唇が触れそうになる程近くに。
一瞬の静寂の後、狭い小屋にバシッと乾いた音が鳴った。
「し、信じられない!!貴方みたいな最低な人、初めて見たわ!!と、とにかく、絶対に時計は返して貰いますからね!」
「お帰りか。夜道には気を付けろ。ククッ。」
「余計なお世話!」
盛大に閉まった小屋の戸は、またもや木屑を散らせる。
打たれた左の頬を撫でながら、レイは怒りと羞恥が混ざっていたの顔を思い出して、小さく笑った。
「信じられない!何なの、あの男!?」
大きな声で独り言を言いながら、は宿屋へ戻る道を急いでいた。
両手で押さえた頬は、きっと赤く染まっている。
だが、これは断じてあの男に魅了されたからではない。只の生理現象だ。
確かにあのレイという男、一瞬ハッとする程の美丈夫ではあるが。
何故かくっきりと目に焼きついて離れない、長い睫毛に縁取られた切れ長の瞳を早く忘れてしまおうと、は大きく頭を振った。
「レイ!!やっと帰って来た!」
「・・・・・なんだ、またお前か。懲りずによく来たな。」
「おっ、お生憎さま!返して貰うまで、何度だって来るって言ったわよ!」
翌日の晩も、はレイの居る小屋を訪ねた。
正確に言えば、昼間に訪れてから、ずっとここでレイの帰りを待っていた。
実は、もしかしたら彼はもうここを発った後ではと気が気でなかったのだが、レイの物らしき荷物が少し置いてあったので、恐らく戻って来るであろうと踏んで辛抱強く待っていたのである。
それに費やした時間が報われて安堵する余り、つい満面の笑顔でレイを出迎えてしまったは、慌ててうんざりした表情を作った。
「貴方ねえ、こんな時間まで一体何処ほっつき歩いてたの?」
「ふっ・・・・・、クッククク。」
「何が可笑しいのよ?」
「いやなに、まるで女房のような台詞だと思ってな。」
「冗談じゃないわ、ふざけないで。」
そっぽを向くに笑いかけて、レイは涼しげに言った。
「それにしても、無断で人の寝床に忍び込むとは、なかなか礼儀正しい女だな。」
「皮肉なら止して頂戴。貴方だって無断で住み着いているんでしょう?そんな事より時計を・・・」
「それより腹が減った。何か持ってないか?」
「なっ、何言ってんの!?何で私が貴方に食べさせてあげないといけない訳!?」
「何もなければ、今すぐこれを売って食い物に替えて来ねばならんのだがな。」
レイは胸元から時計を取り出して、の眼前にぶら下げてみせた。
手を伸ばして無理にでも取り返す気には、もうなれない。
したところで、どうせ昨夜の二の舞を踏むだけだ。
は苦い顔をして、懐を探った。
「・・・・・・これで良いでしょう。」
はぞんざいな仕草で、レイにビスケットの包みを投げて寄越した。
それを受け取ったレイは、中身を何枚か一気に食べると、を一瞥した。
「お前は食わんのか?」
「いいえ結構。だから時計を返して。」
「フッ、諦めの悪い女だな。普通ならとうに諦めているぞ?」
「普通じゃなくて結構よ。良いから早く返し・・・」
「まあそう煩く言うな。これでも食って少し大人しくしろ。」
レイは包みから取り出したビスケットを、の口に無理矢理押し込んだ。
そのしなやかな長い指ごと。
レイの指先が舌に触れる感触に驚いたは、目を丸く見開いた。
「んっ・・・・・・・!」
「ほら、しっかり食え。吐き出すな、勿体無い。」
咄嗟に噴き出しそうになったビスケットは、まだレイの指にしっかりと捉われている。
そのままぐいと口内に押し込まれ、は諦めてそれを噛み締めた。
「っ・・・・・・・・・・、貴方ねえ・・・・・・!」
「美味いか?」
「味なんかどうでも良いのよ!一体何のつもり!?」
「別に何のつもりもない。独り占めは流石に済まないと思っただけだ。」
「何言ってるの!?じゃあ最初から・・・」
「腹が膨れたら帰れ。俺は寝る。」
「寝るって・・・・・・!ちょっと!起きなさいよ!!」
言うが早いか、敷物の上に横になったレイを、は渾身の力で揺さぶった。
だが、レイは愉快そうに薄笑いを浮かべたまま、一向に動こうとしない。
「ねえってば!ちょっと!!」
「言っただろう。俺の名はレイだ。『ちょっと』ではない。」
「そんな事どうでも良いでしょう!?貴方、私をからかって遊んでるつもり!?こっちは真剣なのよ!」
「そんなにここに居たければ居て構わんが・・・・・・、襲われても文句を言うなよ?」
「なっ・・・・・・・・!?」
は突如手首を強い力で掴まれ、そのままレイの胸の上に引き倒された。
硬く厚い胸板から、規則正しい心臓の鼓動が伝わってくる。
ややあって。
「ふっ・・・・、ふざけないで!良いわね、必ず返して貰いますからね!」
昨夜と反対側の頬を張ったは、その隙に緩んだレイの拘束から慌てて逃げると、戸口で叫んだ。
そして、今正に戸を閉めようと腕を引いた瞬間。
「待て、!」
レイの声が飛んで来た。
「なっ、何よ!?」
「ビスケット、美味かったぞ。」
「な・・・・・・・・」
本当に、何という男だろう。
こちらはこんなに腹を立てているというのに、たかった食料の礼を言うとは。
しかも、涼しげな微笑を浮かべて。
「・・・・・・・・それはどうも!」
今度こそ盛大な音を立てて戸を閉め、は逃げるように走り去って行った。
「やれやれ・・・・・、この分じゃ明日には戸が壊れてるな。」
またしてもバラバラと木屑が散らばる様を見て、レイは呆れたように笑った。
昨日一昨日と、見事なまでにしてやられている。
だがは、今日もレイに会いに来ずにはいられなかった。
これが恋しい男に会う為ならロマンチックなものだが、生憎と違う。
違う、筈だった。
そう、少し珍しいだけだ。
誠実で純朴な隣人達ばかりが住む、平和な自分の村には、あんな不躾な男は居ない。
あんなに不躾で、背筋がゾクリとするような魅力をもつ男は。
一瞬フラッシュバックしたレイの鋭い笑みを、は慌ててかき消した。
とにかく、何としても時計を取り戻すのだ。
だからこそ、貴重な物資を手放してまで、この町に滞在しているのだから。
あの時計は、何にも替え難いものなのだから。
こっそりと伺った小屋の中は暗かった。
だが、レイは居るようだ。暗闇に紛れて、人が横たわっている姿らしき小山が見えた。
多分、寝ているのだろう。
それはにとっても、おあつらえ向きだった。
「見てらっしゃい、言って駄目なら実力行使よ。」
小さく呟くと、はそっと小屋の戸を開けた。
やはりレイは眠っていた。
静かな寝息が規則正しく聞こえている。
の作戦は、その胸に下がっている時計をこっそりと奪う事であった。
そっと近付き、その胸に手を伸ばす。
だが、もう少しで時計に手が届くというその時、は不意に手首を掴まれた。
「また寝込みを襲いに来たのか?」
「きゃっ・・・・・・・・・・・!」
はっと気付いた時には、レイの澄んだ瞳に見下ろされていた。
「はっ、放して!!」
「なら、こんな夜更けにノコノコ男の寝床にやって来るな。こうされても文句は言えんと、昨日言った筈だ・・・・・・」
「んぅっ・・・・・・!」
両手首を床に押し付けられたまま、はその唇までもレイに塞がれてしまった。
どんなにもがいても、レイの手からも舌からも、逃れる事は出来ない。
はなす術もなく、レイに唇を貪られた。
「っはぁッ・・・・・・・・!な、何するの!?」
「それはこちらの台詞だ。何をするつもりで来た?」
「何って・・・・・・・・、貴方が大人しく時計を返さないから・・・・!」
「力ずくで取り返そうとした訳か。」
喉の奥で笑ってみせると、レイはを解放した。
「良いだろう。こう毎晩毎晩押しかけて来られるのも困る。そこまで粘るなら、返してやらん事もない。」
「本当!?」
「但し・・・・・・・・」
「但し?」
意味深に言い淀んだレイは、首を傾げるに向かって不敵な笑みを浮かべた。
「それでね、隣のマーサって女なんかさ・・・・・・・」
「ほう、そうか。」
延々と猛烈な勢いで繰り広げられるの話を、レイは半分以上聞き流していた。
ここに至ったのには、勿論経緯がある。
時計を返す交換条件として、レイはの身体を求めたのだ。
そしては、何故それ程時計一つに固執するのか分からないが、その無茶苦茶な条件を呑んだのである。
だが、素面では出来ないというに酒を飲ませてやったのが悪かった。
最初は黙したまま、二人して交互に飲んでいただけだったが、いつ頃からか、は饒舌に喋り出したのである。
緊張の裏返しといったところだろうか。
話の内容は他愛のない世間話だったが、何分退屈極まりない。
自身の退屈を打ち破る為に、また、いい加減に酔っているの状態をこれ以上酷くさせない為に、レイは話を遮った。
「分かった分かった、マーサの話はもう良い。」
「分かった分かったって、貴方何も分かってないわ!人の話を聞いてないし!」
「そんな事はない。」
ふて腐れるの髪を撫でて、レイは薄らと微笑んだ。
その微笑は、いつものあの人を食ったようなものではなく、些か驚いたは、一瞬口を閉ざしてレイの顔から目を背けた。
「・・・・・・貴方、何の為に旅をしているの?」
「人捜しだ。さっきも訊いただろう。」
「あら、そうだっけ?」
「そうだ。全く・・・・・、人の話を聞いていないのはお前の方だろう。飲みすぎだ。もう止めておけ。」
「ああん、もう・・・・・」
呆れたように言ったレイは、の手から酒瓶を取り上げ、その肩を軽く押した。
は小声で抗議しながらも、その瞬間力尽きたように床の上に仰向けに倒れる。
レイはその上に覆い被さるように横たわりながら、口元を吊り上げた。
「お喋りはもう終わりだ。そろそろ『取引』に入ろう。」
の瞳を上からまっすぐ見下ろしたレイは、その片頬を大きな掌で撫でた。
頬を滑り下りた手は、首筋を、肩を、胸を撫で、脇腹から腰にかけての滑らかなカーブを辿っていく。
熱い手の感触に微かに息を呑みながらも、はぽつりと呟いた。
「・・・・・・・・貴方は良いわよね。」
「・・・・・・まだ喋る気か?もう終わりだと・・・」
「貴方は良いわよ。捜せる人が居るんだもの。」
その瞬間、の服を脱がせかけていたレイの手が止まる。
は、レイの胸元から垂れて目の前に下がっている金時計を掌に取り、独り言のように呟いた。
「捜して見つかる所に居るのなら、私だってこんな物に執着しやしないわ・・・・・。」
「・・・・・どういう事だ?」
「兄の形見なのよ。この時計。」
まだ十分に酔いの残った虚ろな瞳で、はそう呟いた。
兄の、形見だと。
レイ自身も少し酔ってはいたが、耳は確かなつもりだった。
「元は、兄が父から形見として譲り受けたものだったわ。けど、その兄も一年前に亡くなってしまった。」
「・・・・・・他に、家族は?」
「もう誰も居ないわ。」
言葉を失っているレイにようやく気付いたように目を向けると、は小さく笑って時計から手を離した。
「条件は呑むわ。貴方の好きに抱かれてあげる。でも、それは必ず返すと約束して。」
「・・・・・・・・分かった。約束しよう。」
「良かった・・・・・・・」
レイの重みがずしりと身体に響く。
それを感じながら、は安心したようににっこりと微笑み、ゆっくりと瞼を閉じた。
「う・・・・・・ん・・・・・・・、あいたた・・・・・・・」
夢が突如消えてなくなると同時に、頭を鈍い痛みが襲う。
その痛みで目覚めたは、額を押さえてゆっくりと身体を起こした。
「あ〜・・・・・・・、頭痛い・・・・・・、何で・・・・・・?」
寝起きで泥のような状態の頭を働かせて、は一つずつ思い返した。
起きた早々頭が痛いのは、きっと昨夜飲んだ酒のせいだ。
酒を飲む事になったのは、レイの出してきたとんでもない条件のせいだ。
そして、その条件を呑んだ自分は・・・・・・・
「っ・・・・・!?」
一瞬にして眠気の飛んだは、慌てて己の身体を見やった。
だが、衣服は脱がされているどころか、ボタン一つ外れてはいない。
「え?どういう事?昨夜確か私・・・・・・」
レイに抱かれた筈なのだ。
組み敷かれた事を、はっきりと覚えているのだから。
あんなに不躾な男が、そのまま何もせずにおいてくれる訳がない。
だが、そのまさかだった。
「あれ・・・・・?」
ふと見れば、埃だらけのテーブルの上に、何やら光る物が置いてある。
立ち上がって確認してみれば、それは紛れもなく自分の時計であった。
「これ・・・・・・・・」
テーブルの上には、その時計を重石にするようにして、一枚の紙切れも置いてあった。
その紙には、達者な字でこう書かれてあった。
『いつぞやのビスケットの礼だ。これに懲りたら、もう二度と不注意はせん事だな。
次はそう簡単には返さんぞ。』
人を食ったような、レイの皮肉めいた笑みが脳裏をよぎる。
あのしなやかな指に相応しいような流麗な文字を読んで、は小さく笑みを零した。
「ふふっ、次なんてないわよ、バ〜カ。」
紙切れを指先で軽く弾いて、は小屋の中を見渡した。
やけにガランとした空間は、レイがもうここには戻らない事を暗黙のうちに告げている。
こうして見ると、レイという男など、最初からここに居なかったようにさえ感じるから不思議だ。
この三日間の事も、まるで最初から無かった夢のように思える。
その上、そんな錯覚が少し寂しいと感じるのだから、尚更不思議だった。
「レイ、か・・・・・・・・・・」
結局レイが何者なのか訊く事もなかったが、何者だって構わない。
もう二度と大事な時計を失くすようなドジはしないが、あの小憎らしい笑みにはまた何処かで会いたいものだと、は思わずにはいられなかった。
「これでやっと村に帰れるわね。兄さん、ごめんね。大事な形見、粗末にしちゃって。」
時計を大事そうに撫でて、は小屋の戸を開けた。
「きゃあっ!やだっ、戸が外れちゃった!どうしよう〜〜!?」
「おやおや、お嬢さん、どうしたんだね?」
「あっ、すみません、戸が外れちゃって・・・・・!」
「あ〜あ〜あ〜!こんなになっちまって!ちょっと待ってな、そっち押さえてて!」
「はっ、はい!」
壊滅的に修復不能なまでに壊れた戸を抱えてあたふたするを、気の良さそうな数人の通行人が助けてくれる。
ああでもないこうでもないと大わらわする人々の足元に、ふわりと軽い木屑が音もなく散って零れた。
まるで、一時の夢が人知れず消えていくように。