第一話「物事はいつも突然に、ってか?」



[登場人物紹介]

相崎祐人(あいざき ゆうと)・・・本作の主人公。めんどうくさがりで鈍感。

相崎佳奈(あいざき かな)・・・・祐人の義理の妹。少々強気で負けず嫌い。

月村綾香(つきむら あやか)・・・祐人の幼なじみ。ストレートで明るい性格。

月村菜々香(つきむら ななか)・・祐人の幼なじみ。綾香の妹。お兄ちゃん子。

矢吹俊也(やぶき としや)・・・・祐人の悪友(本人曰く心の友)。一風変わったやつ。

如月千火使(きさらぎ ちかし) ・・同級生となる。一人称は僕。

怪盗¢(セント)ルージュ・・・・・多少名の知れた怪盗。世紀を渡ってあらわれた。

栗丘春樹(くりおか はるき)・・・祐人の友人。怪盗¢ルージュ一筋。

相崎哲平(あいざき てっぺい)・・祐人・佳奈の父。自由奔放なお人。

相崎雪菜(あいざき ゆきな)・・・祐人・佳奈の母。理解力を持った思慮深いお人。

大山(おおやま)・・・・・・・・・如月家執事。彼の占いは高確率で当たる。


栗丘警部(くりおかけいぶ)・・・・春樹の父親。外見以上になかなかキレのある人物。



[目次]





あとがき



[本文]

   1

 その日は上々に晴れた天気であった。清らかに澄みきった青空に、太陽がここぞといわんばかりに異彩を放っているようだ。

 少し前までの寒々とした空気は、もはやその役目を忘れ、打って変わって春の息吹が兆している。

 そんな初春のある日。ここでもやはり入学式が行われようとしていた。

「――えー、ではこれより第七十三回の県立聖城高等学校の入学式を始めたいと思います。――一同、起立!」

 ここは九智奈市というところにある県立聖城高校。73年の伝統に倣い、本日も校内にある体育館において、式をとり行おうとしていた。

「礼! ……着席してください。では、まず初めに本校の校長である飯尾匡(いいお ただし)先生の第七十三期新入生にむけての入学のお言葉です」

 教頭であると思われる司会の者の言葉に反応し、校長がスタスタと歩き出した。一歩一歩、着実に体育館の舞台へと向けて足を進めていく。校長は割と恰幅のいい体格をしており、穏やかな表情をしていた。

 体育館の中は静寂に包まれていた。ただ一点、校長の足音を除いては。

 新入生の様子を見るにつけても、これから高校生活に胸をときめかしていそうな者。今一つ高校生という新たなランクに立ったのを実感できていない者。何やらやる気なしにと眠たそうな顔をしている者。それぞれにそれぞれの思いが宿っているようである。

 そんな中、一様で特に目立ってはいないが、大きな欠伸を噛み殺そうとしている少年がいた。

「ふああっ……っ・・・っ……」

 だるい。それが今の第一心情である。体育館の舞台の上では校長が呼吸を整え、話し始めた所であった。しかし、無念にも今の彼はまったく耳を傾けていないようだ。彼は他者と何ら変わりない様子で立っているようにも見えたが、どこか上の空である。

 すると、隣で立っている少女が―彼女は校長の話をまじめに聴いていたのだが―少年の肩を静かに叩いた。

「ちょっと、兄さん。ぼけっとしてないで、ちゃんと話聴きなさいよ」

 周りに聞こえないように静かに話す。

「……ん。あ、ああ」

 少年はそう小さくつぶやいた。しかし、まだその顔は何も納得していないようなそれだった。

「……()

 殺気に近いものを感じて振り返ると、そこには先ほどの少女がいた。どうもこちらを睨んでいるようだ。それもそのはずで、彼女の忠告を全く実行していなかったからだ。

「……(すまん。わかった、わかったから)

 何とか彼女にわかるように、身振り手振りジェスチャーする。その様子は、もしかしたら台上からは丸見えであったかもしれない。

「……()

 少女は納得したようにかわいらしい笑みを浮かべた。その顔を見て少年も安心したかのような顔をした。

 だが、彼の内心では混沌としたやるせなさが漂っていたのだった。

(……はぁ〜、そもそもの元凶はいったい何だったんだ? ……やっぱりあの時だったんだろうなぁ)

 彼はあの時のこととやらを思い出していくのであった。

 それは今から半月以上もさかのぼる、新たな物語の幕があがった日のこと。

   

   

「……だりぃ。最近生活が慌ただしすぎねぇか?」

 夜。月の光が明るく地を照らす中、ある一軒家のベランダにその少年は立っていた。ベランダの縁にもたれながら、誰にともなく言い放った。

 その家の表札には「相崎」という字が刻まれていた。

「明日は合格発表だってのによー、なんかもうどうでもよくなってきたぜ……」

 少年はいっそううなだれた。

 この少年、相崎祐人(あいざき ゆうと)は実に憂鬱であった。先日行われた県立聖城高校の合格発表がいよいよ明日に迫ってきていた。しかし、彼の憂鬱の種はそれもあるかもしれないが、それだけではない。

「物事はいつも突然に、ってか?」

…………

 祐人は気づいていないようであるが、いつからか彼の背後には一人の少女が立っていた。

「はぁ〜、マジでだりぃ〜」

「さっきから何を一人でブツブツいってるの、兄さん?」

「!? ――か、佳奈。驚かすなよ、ったく」

 心底驚いたようであったが、振り向いた彼の顔はそうそうひどい様子ではないようだった。

「わたしは普通にはいってきたよ。兄さんがなんか一人で物思いにふけっているから気づかなかったんだよ」

 今はまだ春が少し遠い冬の夜。夜にもなればいっそう寒さは厳しさを増し、下手をすれば風邪を引いてしまいそうなものである。

「兄さん、なかなか下におりてこないから」

 気づかないうちにかなりの時間が過ぎていたようだ。

 佳奈は少し心配そうな顔で祐人をみていた。

 彼女、相崎佳奈(かな)は祐人の妹である。妹であるといっても、血は繋がっていない。

 

 

 相崎祐人は幼少の頃母をなくしている。彼もそのことは淡い記憶でしか残っていない。

 しかし、鮮明に残っている記憶もある。

 佳奈との出会いである。祐人の父、相崎哲平(てっぺい)は妻が亡くなった後、一年がたつかたたないかという時期に再婚することになった。周囲からは隠し妻かと少々罵られもしたものだった。

 再婚相手、つまり祐人の新しい母親が家にやってくるわけであるが、その初めての出会いの時、幼い彼が目にし、今でも記憶に焼きついているのは、その人に手を引かれていたまだ幼い少女であった。その少女の不安でいっぱいの目はあまりにも印象的であったのだ。

 佳奈が同じ年であると知ったのは、その出会いの少し後であった。誕生月がわずかばかり早いことによって、自分は兄となり、妹ができたのであった。

 そうして新しい家族と生活するようになり、いつしか佳奈は祐人のことを「兄さん」と呼ぶようになっていた。

 そして、それが普遍的なものになっていくのであった。

 

 

「オレがおまえの『兄さん』でよかったかもな」

 唐突に祐人は言った。

「……? いきなりどうしたの兄さん?」

 佳奈は頭の上に?マークを浮かびあがらせていた。

「いや……なんでもない。ただ、本当に物事は突然に起こるもんだと思ってな」

 その顔にはやるせなさが漂っていた。

「そうだね……わたしもそう思うよ。いきなりこんなことになるなんて夢にも思ってなかったよ。……でも、こんな毎日も、当たりまえの毎日になる日がきっと来ると思うよ」

 佳奈は静かに微笑んだ。かすかに風が吹き、肩まで伸びた彼女の髪を揺さぶった。

「……ああ、そうかもな」

 その笑顔への照れ隠しとばかりに、祐人は空を見上げた。雪が降っていてもおかしくない気温であり空である。

 そんな見上げた空には星が数多く輝いていた。

 祐人はふと佳奈に目をやると、わずかにその肩が震えているのがわかった。

「そろそろ中に入るぞ。いつまでもこんな所にいたんじゃ、いくら馬鹿でも風邪引くぞ」

「馬鹿って誰のことよ!」

 怒り気味の佳奈をよそに、祐人は歩き出し、ごくごく自然に佳奈の肩に手をおいた。

 その顔は月明かりに照らされてかどうかやや赤く見えた。

「え……兄さん」

 佳奈も少し赤面して小さくうなずいた。これは、兄弟のやりとりにしては少々ぎこちないように思えた。

 祐人のまわりの生活環境が変わりだしたのは、何もそんな昔の話ではない。つい一週間ほど前の話なのである。

 それが佳奈の言う「いきなりのこんなこと」であった。祐人にはその日もいつもと変わらない日常であるはずだった。だが、それも父、哲平のある一言から事態は急変していく。

 

 

 その日もよく晴れた天気であった。

 この日は珍しく相崎祐人は早起きした。そうはいってもすでに九時過ぎではあるが。

 祐人はカーテンを開け、勢いよく伸びをすると早々に部屋を後にした。

「あ、おはよう兄さん」

 部屋を出ると目の前には佳奈が立っていた。

「ああ、おはよう」

「兄さん、休みの日なのに今日は早いね」

 佳奈は少し驚いた顔をしていた。

「たまには早起きするときだってある」

「ふふっ、そうだね。そうそう、お父さんが起きたら兄さんに話さないといけないことがあるっていってたよー」

「話? いったいなんだろうな?」

「さぁ? でもなにか大事な話だっていってたよ」

 大事な話というところが、祐人には少し気がかりであった。

 父、相崎哲平は一言でいうと気楽なお人である。つまりは自分のやりたいように、自由奔放に生きるのをモットーにしているようなお人である。だから、たいてい大事な話などと言ったときには、大事を通りこすぐらい重大なこともあった。あえて例はあげるまい。

「じゃあ、ちょっと話してくる」

とりあえず佳奈との話を終え、祐人は階段を下りていった。

 なぜか嫌な予感がした。こういう時は、たいてい予感が的中するのである。

 自分には何か能力があるのかと思えるぐらいに、である。

 リビングには祐人の母、相崎雪菜(ゆきな)が台所で洗い物をしているところであった。

 母、雪菜は哲平とは対照的に自分のことよりも他人のことといった考えを持つお人である。今では祐人のよき理解者である。実の父である哲平よりもだ。

「おはよう、母さん。何か父さんが話すことがあるらしいけど、今出かけてるの?」

 一瞬、雪菜の顔が曇ったようにも見えたが、

「お父さんは今、月村さんとこにいってるわよ」

「そうなんだ……。じゃあちょっと待ってるか……」

 祐人は椅子に腰をかけた。そこにタイミングよく雪菜がコーヒーを持ってきた。

「もうすぐ帰ってくるころだと思うわ。先に祐人が起きてきたら話すっていってたけど、お父さん言いだして10分もしないうちに、もう待ちきれん、って出て行ったのよ」

 父さんらしいと、祐人は心の中でつぶやいていた。

 哲平が向かった月村家というのは隣の家である。家が隣というよしみもあり相崎家と月村家は少なくとも十年来のつきあいがある。一種の二世帯家族のようなものにまでなっていた。

 ガチャ――、バタン――

 玄関のドアが開く音がした。

「たっだいま〜!」

 実に朝から元気が良い。これが祐人の父哲平であった。

『おじゃましまーす』

 哲平とは別に、あと二人分の声が聞こえた。祐人にとっては二つとも耳にタコができるくらい聞き慣れた声であった。

 そうもするうちに哲平がリビングに入ってきた。

「おお、起きたか祐人!」

 見るが一番なんと爽快なこと。

「おはよう、父さん。で、話って何?」

 単刀直入に哲平に尋ねた。あまりまわりくどいのは好まない性格だ。

「うむ……」

 一変して哲平の表情が変わり真剣な面持ちになった。と、そこに、

「おはようございます、あれ、なんだ。祐人起きてたんだ」

「起きてたら悪いか、綾香」

「別にどちらでも」

 少女は手をヒラヒラさせながら答えた。そこにもう一人、

「おはよう……あっ! お兄ちゃん起きてる!」

 後から入ってきた少し小柄な少女は祐人へと指をさした。

「おう、菜々香。でもしかし、みんな同じこというよな〜」

 この時、少しは自分の生活習慣に疑問を抱く祐人であった。

 今入ってきたのが、月村綾香(つきむら あやか)と月村菜々香(ななか)。月村家は彼女らを含め、相崎家と同様四人で生活していた。

 綾香のほうは祐人や佳奈と同じ年。菜々香のほうは彼らの一つ下である。

 哲平は真剣な顔をしたまま綾香と菜々香にも席に着くよう促した。そんな時、階段を下りる音がしたかと思うと、佳奈もタイミングよくリビングに入ってきた。

「佳奈、おまえもとりあえずここに座りなさい」

 なにやら神妙な雰囲気に佳奈は少々首をかしげたものの、哲平に促されるまま席に着いた。

 とりあえずのメンバーがそろったところで、哲平は一つ大きく息をついた。

「えー、今日はおまえたちに話しておかなければならないことがある」

 その真剣な顔に一同の注目がいく。

「綾香ちゃんと菜々香ちゃんにはさっき話したが、とても大事な話だ」

 綾香と菜々香が首を縦に振った。

「実はだな……」

 するとみるみるうちに哲平の顔がにやけていって――、

「旅に出ることになった!」

 哲平はきっぱりとそう言いきった。

『…………』

 祐人と佳奈は開いた口がふさがらないようであった。その反応に月村姉妹は小さく笑っていた。

 彼女らも聞かされたときにはさぞ驚いたことであろう。

「あ、あの……お父さん?」

 はじめに佳奈が口を開けた。

「旅に出るって、どういうことですか?」

 その言葉に祐人もうなずく。

「実はな、日本を離れることになったんだ。一ついっておくが仕事でだぞ! 決して父さんが旅したさに口実にしてるわけじゃないぞ」

「それはわかったとして、オレたちはどうしたらいいんだ?」

 ぶっきらぼうに祐人は言った。その声には怒気も感じられた。

「それに関してはだな、父さんいい考えを思いついたんだ。実は月村さんとこも偶然にも旅立たれることになったんだ。いやぁ、本当にこんな偶然ってあるもんだなぁ」

 すでに敗色が濃いのを悟ったのか、祐人の顔はやるせなさで埋めつくされていた。

「それでだな、綾香ちゃんと菜々香ちゃんを二人で生活させるのは、やはり今の時代危険だからな。今日から一緒に相崎家で暮らすことになった。もちろん、月村さんとこの了承は得ているぞ。やっぱり男手は必要になるだろうからなぁ」

「ちょっと待て、今日からってどういうことだ?」

 ますます訳がわからなくなっていく。

「そりゃあ祐人、父さんたち今日出発するからなぁ」

『はぁ!』

 この言葉には祐人と佳奈の二人ともが大きく声をあげた。

「なんでそんな大事なこと当日になるまで話さないんだよ!」

「お父さん……あんまりです」

 二人が躍起になって反発する。まぁ当然の反応といえば、まさにその通りである。

「ふふっ、おまえたちを驚かせてやろうと思ってな。今年から高校生だろ。新しい門出に、新しい生活。なかなかいいシチュじゃないか、なぁ?」

 もはやリビングはこの男の独壇場と化していた。祐人も佳奈もいきなりの宣言に、もう言葉を失ったままへこたれるしかなかった。

「ちなみに母さんは悪くないぞ。父さんが黙っておくように頼んだからな」

 そばで立っていた雪菜は申し訳なさそうな表情をしていた。

「ではそろそろ父さんと母さん行ってくるからな。みんなで仲良くするんだぞ! でもな祐人、いくら仲が良くても一緒に風呂に入ったりはするなよー、はっはっは!」

「入るか! 余計なことはもう言わなくていいからさっさと行ってくれ」

 少し照れながらそう言うと、祐人はドアに向かって指さした。もはや、やけくそである。

 采は投げられた。これほどまでにぴったり当てはまるのも、専ら迷惑な話であった。

「本当にごめんなさいね。お父さんはああいう人だから。四人で仲良く暮らしなさいよ」

 雪菜はやはり申し訳なさそうな表情をしているが、雪菜はいっさい悪くないということは、自明の理である。例のように、哲平の独壇場であったわけだ。

 ――そして一時間後、彼らはごくごく自然に、まるで買い物に出かけるかのように、旅立っていくのであった。

 

 

 

「あ〜、やっと下りてきた。いったいなにしてたのよ、祐人」

 ベランダで物思いにふけること三十分。様子を見にきた佳奈とともに祐人もリビングへ入っていった。

「ちょっと涼みにな……」

「はぁ? 部屋の中にいても寒いってのに何考えてんのよ」

 あきれた顔をして綾香が言った。

「それがね、兄さんベランダでうなだれてたんだよ。明日は合格発表があるのに」

 佳奈は少し心配そうな顔をしていた。

「ねぇ、お兄ちゃん?」

 テーブルの横のソファに座ってテレビを見ていた菜々香が口を開いた。

「お兄ちゃん、自信の程はどうなの?」

 祐人、佳奈、綾香が受験した県立聖城高校はかなりレベルの高い学校である。平行三校と呼ばれる上位校の一つであった。

「合格確率50%といったところかな」

「そうなんだ。お兄ちゃん、もしダメだったら高校浪人になるんじゃないの?」

 グサリと心臓を貫かれるような一言であった。その通り、祐人は私立高校を二校受験したが、あえなく撃沈している。それには理由がありはするのだが、それはまた別の話である。

「それはいわないお約束だぞ、菜々香」

 まだ落ちたわけではないのだから希望は残っている。

「わたしは受かってると思うな」

 佳奈が自身ありげに言った。

「わたしも。佳奈ほど点数は良くないと思うけど」

 綾香も特に心配している様子はない。

 実のところ、相崎佳奈は非常に成績優秀である。中学の時は確実にトップクラスであった。それに容姿端麗ときている。中学の三年間を通してみても、男子からの人気は圧倒的なものであった。

 祐人も我が妹ながらそれは認めている。付き合っている人はいないようだが。

 以前、そのことについて聞いてみたところ、「兄さんのバカ!」と怒ってつきかえされた。今でも祐人にはその理由が腑におちないでいる。

 しかし、佳奈に与えられたのは知と美だけではない。

 幼少の頃、祐人は一時期空手を習っていた。祐人の場合は5年たつかたたないかでやめてしまったが、佳奈はつい最近まで空手を習い続けてきた。もちろん運動神経のよさはいうまでもない。

 ましてや、佳奈とやりあおうものならば、今ではこちらが返り討ちにされてもおかしくないぐらいの腕前であった。

 佳奈はわりと華奢なほうなので、その外見に騙され、すこし強引に口説きにきた男子たちはあえなく空手道の犠牲者になったりした。なかなか佳奈は強気な性格である。

 いうならば、佳奈は文武両道の美少女であった。男子からはよくうらやましがられたものである。

 それに対して綾香はというと、こちらも佳奈に負けじ劣らじであった。

 成績のほうはほとんどトップクラスであった。運動能力のほうも、中学時代は剣道部のエースであったこともあり文句のつけようがない。それに、男子からの人気も佳奈ほどではなかったが、それでも相当なものであった。

 祐人も実際、綾香の笑顔にたまに見惚れることもあった。その度に、綾香にはよくつっこまれたりする。

 このように、佳奈や綾香が合格をほぼ確信しているのももっともなのだ。

「はぁ〜、それに比べてオレはといったら……」

 祐人は嘆息しながらイスに腰をおろした。

「大丈夫、兄さんなら受かってるって」

「そうそう。あんたってそういう要所ではうまくやるもんね」

 綾香の言うように、相崎祐人は意外にしぶとかった。彼も仮にもトップクラスの聖城高校を受験するだけのことはあり、学力は上位クラスではある。

 ただ、そういう性分なのかここ一番という勝負所にはめっぽう強いものの、どうやら通常の勝負運はあまりよくないようであった。

 運動能力のほうは空手をやっていたこともあり、申し分ない。なので、女子からの人気はまぁまぁのものだった。自分でも顔はわりとかっこいい部類に入ると思っていたりもする。

 そんなこともあり、女子から告白されたときがあった。しかし、思い出したくない記憶でもあるのだ。なんせ女の子から告白されるのなんてはじめてだったので、祐人はどう返事をすればよいのか迷った。

 興味ある反面、「だりぃ」という感情もあった。そんな時、祐人が女子に告白されたことが、どういうことか佳奈に知られてしまったのだ。その時の佳奈の顔といったらかつてないほど恐ろしいものであった。

 放課後体育館裏に呼び出されたと思いきや、「兄さん……次はないと思ってね♪」と、穏やかな顔で突如みぞおちに正拳突きをくらわされたことは忘れようにも忘れられない。悶絶して小一時間ほど呻き声をあげていたのが誰にも知られなかったのは、不幸中の幸いであった。

 この後、結局その告白を祐人が断るということで丸く収まった。命が惜しいことはもちろんのことながら、それほど祐人自身本気であったわけではなかった。

 そういえば、佳奈はさることながら綾香にも知られてしまい、「バカ……」と、平手打ちをくらったこともはっきり覚えている。

 それ以来、特に付き合いたいとは思わなくなったので、その方面においてかなりネガティブになるのであった。

(異性からの人気なら、おまえらのほうが断然高いのによ……)

 こんなことを考えながらふてくされていた時もあった。

「まぁ、なんとかなるさ」

 祐人は三人にむかって言った。

「なんとかなるってことは、良い方向にも悪い方向にも、とりあえず結果が出るということだけどね」

 綾香がそう切りかえしてきた。

「でも兄さんなら受かってるよ。あ、それにこの前矢吹(やぶき)君と話したと時に、『心配するな、相崎妹。相崎の合格確率はオレがみたところ95%だ』って自信満々に話してたから」

「んげっ」

 突然祐人の表情が変わった。

「佳奈……おまえいつあいつと話したんだ?」

「入学試験が終わったあと偶然会ったんだよ。そのときに」

「あまりあいつの話題を出すことは世界の平和を乱すことになるぞ」

 忠告するように祐人は佳奈に言った。

「もう、そんなこといって。中学のとき一番矢吹君と仲が良かったじゃない」

 仲が良かったと佳奈は言ったが、祐人にとってそれは大いなる誤りである。

 矢吹俊也(としや)という人物は祐人にしてみれば、いわゆる悪友である。心の内ではあまり関わらないようにしているのだが、気づけば奴はいつもそばにいるのだ。

 なんだかんだで中学三年間共に過ごしてきたことになる。不本意ではあるが。

 なので、佳奈に「一番の仲良し」と言われたことは、一面的にはなにもまちがってはいないのだ。

「矢吹がいったことならある意味あてにしてもいいかもね」

 神妙な顔つきで綾香は言った。

 矢吹俊也は一言でいえば謎な人間である。基本的には陽気な性格ではあるが、どうにもつかみどころがない。つまりは変なやつなのである。

 時にやることなすことがすさまじく常軌を逸していることがある。

 確か中学二年の時にも一度、奴の企画が種となって悲惨な目にあった。

 矢吹は理路整然とした口調で、「よぅ、相崎。少し話しに付き合え。実はな、いい企画を思いついたのだ。我がクラスが誇る2大アイドル、相崎妹と月村綾香のどちらがこの夏にかけて支持者を集めるかというすばらしい企画だ」と、とんでもない企画に参入させられたことがあった。

 さらには、「そこでだな、相崎。おまえは都合のいいことに2大アイドルの兄と幼なじみだからな。少し情報収集に励んでくれないか? たとえば3サイズ――んがっ」と、いいかげん我慢の限界に到達し、矢吹に裏拳を打ちつけた。

 しかしながら、矢吹の陰謀により、この企画における矢吹と並ぶ主犯格に仕立てあげられた。後は事態が祐人に悪い方向に進む。

 誰かの密通により佳奈と綾香に伝えられるのである。後は想像に難くない。思い出すもおぞましい処罰を与えられるのであった。

 そんな悪の根源である矢吹なのだが、そのくせ成績は学年トップというひどいギャップがあり、なおかつかなりの二枚目なので、もし神が存在するのなら、どれだけ不公平であるかを訴えてやりたいものである。だが、その性格ゆえに女子からの人気は一部分のみであった。また、あまりその真意は定かではないが身体能力もかなりのものだという。

 とにかく、奴に関わったらろくな目にあわないということだけは声を大にしてでも言えた。

「まぁ、奴は確実に合格するだろうから、高校に入ってからはあまり奴に関わるなよ。ていうか、無視していいからな」

 それだけ言い残して、祐人はリビングをあとにするのだった。

 

 

夜もかなり更けてきて、時計の針が十一時を指そうとしていた。

 相崎祐人は自室のベッドに寝転がっていたが、明日が合格発表なこともあり早々に床に就くことを決めた。

先ほどまで階下で3人の話し声が聞こえていたが、今はもう聞こえてこないところをみると、自室に戻ったのだろう。

 相崎家は平凡な一軒家ではあったが、それぞれに個室を割り当てることはできた。

「さて……そろそろ寝るか」

 祐人がそうぼやいて目をつむった矢先、

「あの……お兄ちゃん?」

 声のしたほうを向くと、ドアの隙間から菜々香が顔をのぞかせていた。

「どうした菜々香?」

 彼女が何を言うかわかりきってはいたのだが、一応祐人は尋ねた。

「――一緒に寝よっ!」

 ドアを片手で勢いよく開け、もう片手に枕を持って部屋に侵入してきた。

「ばか、一緒に寝れるわけないだろ。ほらほら早く部屋にもどる」

 少なくともここ数日は毎晩就寝時に菜々香が部屋に来て一緒に寝ようと言ってきている。

 ちなみに菜々香は祐人のほんの一歳下である。つまりは今年中学三年になる。菜々香は小柄な体格ではあったが、成長するところはそれなりに育っているので、どうにも祐人にとって一緒に寝るということは具合が悪かった。

「ねぇ、お兄ちゃん。どうしてダメなの? わたしなら全然気にしないから。それにただ一緒のベッドで寝るだけなんだし。……でも……お兄ちゃんが望むなら……わたしはどちらでもいいけど……」

 顔を真っ赤にして菜々香は小さくつぶやいた。

「……でもな、さすがに一緒に寝るのはまずいだろ……」

 祐人まで赤面して返答に困っていると、

『こぉぉらぁぁっっ――!』

 バンッ、とドアが勢いよく開いたかと思うと、佳奈と綾香がズカズカと祐人の部屋へと入りこんできた。その顔は鬼のように思えた。

「兄〜さんっ、これはどういうことですか!」

 ひときわ大きく佳奈が叫んだ。

「祐人〜! 菜々香に手を出したりしたら、どうなるかわかってるんでしょうね!」

 綾香も佳奈に負けじと祐人を罵った。

 このパターンからいくとこの後自分がどういう目にあうのか分かりきっているようであった。

「あ……ま、まぁとりあえずおちつけ、佳奈、綾香。ここ毎日こういう状況なんだからよ、いいかげん――」

『問答無用!』

「ふがぁっ」

 佳奈と綾香が同時に繰り出したストレートをあえなく左右両側から直撃を受けた祐人は無念にもベッドに沈んだ。これで明日の朝まで目を覚ますことはあるまい。

「ねぇ、お姉ちゃん、佳奈ちゃん。どうしてお兄ちゃんをぶっとばしちゃうの? あっ、もしかして2人ともお兄ちゃんと一緒に寝たい――」

『そんなことあるはずない!』

 菜々香が言い終わらないうちに2人は異口同音に叫んだ。

「わたしは兄さんの妹なんだから……。そ、そうよ、兄さんをちゃんとしつけないといけないと思ったから。だから……一緒に寝たいなんて……そんな……」

「わたしは菜々香、あんたのことを心配したからで、祐人が変なことしたらいけないと思ったからよ。なんでわたしが・・・祐人と一緒に寝なくちゃいけないのよ・・・・・・」

 2人ともまるっきり否定するものの、どこか態度がよそよそしいのが傍からみていると滑稽に思える。

 「まぁそういうことにしておいてあげるね♪」

 まるですべてを察しているかのような顔で菜々香はにっこり微笑んだ。

   

   3

 同時刻。街はたくさんの灯で活気づいているようであった。街の灯の一つ一つが、人が一人一人生きているのだということを証明しているように思えた。

 そんな街にたくさんの星が光り輝く中、他の家屋とは一つ格が違う和風の豪邸が建ってはいたのだが、どうもその存在を感じさせないことには、その邸宅にはまったく灯りがついていなかったのだ。まるで闇の巣窟のように。

 その邸宅の大門には「如月」と大きく銘打たれていた。

 

 

 闇。いっさいを無に返そうとする暗がりが、この空間を覆いつくしていた。

 人の気配などまったく感じさせない。ただ、部屋のほぼ中心にはなにやら人魂のようなものが多数漂っており、それがわずかに部屋を照らすのであった。

 するとその人魂のようなものは変則的に浮遊しはじめた。静寂な部屋の中で、人知れずそれが運動しているように思えた。

 しかしながら、実際はそうではなかった。それらは部屋の中心にある大きな影に集中していくようであった。そしてその大きな影が人影だということは人魂が徐々にその中心に集まる中で明らかになってきた。

「…………」

 はっきりとはわからないが、お経を読むかのように呪文を唱えているようであった。

 その声と同時に人魂もそれに反応して動きを変える。

 この儀式と呼ぶにふさわしいことがしばらく続いた。

 その間、次第に人魂の運動が激しくなり、熱く輝きだしてきていた。先ほどまではわずかに部屋の中心が見えるかどうかであったのに、今では部屋の中央部は確実にその光に照らされる中にあった。

 その中心の人影の正体は一人の少年であった。肩近くまで髪は伸びていたが、180cm近いその体格と呪文を発するその声が男であることを物語っていた。

 そんな時、いよいよ儀式は佳境にはいったようで、多数の人魂が彼を中心に高速に円を描きはじめた。

 長きにわたり詠唱してきた彼は、最後に右手を真上にあげ、手を大きく広げて叫んだ。

「すべてを明滅せしめん邪炎神ヴィエカルティアよ、その炎我が手に宿れっ!」

 瞬間、人魂がいっせいに彼の手の中へ飛び込んだかと思うと、部屋中に、いや明らかに外まで届くくらいの大きい閃光が放たれた。

 その閃光の中で少年はまるであっさり勝利したかのようないやらしくも不敵な笑みを浮かべるのであった。

 数分後、その儀式の終了を告げるかのように部屋に灯りがつけられた。

 こうして灯りがつけられてからあらためてその部屋を見渡すと、部屋というよりは少し大きめの広間であった。

 と、戸が開いたかと思うと初老の男性が中に入ってきた。

「無事に終わりましたでしょうか、千火使様」

 今も部屋の中央に棒立ちしている少年へと、この男は声をかけた。

「ああ! ふふっ、ついに成功したぞ、大山」

 千火使と呼ばれたその少年は、大山という初老の男性に先ほどと同じ笑みを浮かべた。

 察するに、どうやらこの二人の関係は邸主の子息と執事という関係のようであった。

「それはそれは、まことにおめでたいことでございます。まさかわたくしめはこれほどまでに早く、わずか半年あまりでこの如月家に代々伝わるヴィエカルティアの儀を成功させるとは思ってもいませんでした」

 大山という男はこれ以上ないほど驚愕していた。

 果たしてヴィエカルティアの儀とは成功させるのが非常に困難な儀式であった。そもそも如月家の歴史から話さなくてはなるまい。

 如月家は気が遠くなるぐらい昔(とはいっても千年、二千年だが……。それでも十分にすごい歴史なのだが……)から代々続く伝統的な家系である。昔は如月家と同様のことを専門とする家系がそれはたくさんあったのだが、それも時が流れるにつれて、科学が発達するにしたがってどんどん衰退していくことになる。

 そして、時は二十一世紀。現在では如月家と類を同じくする家系はもはや数えるほどのものになってしまっていた。しかも、そういう家系であっても表向きはごく普通なので、今やどこに同じ能力を持った家系があるかわからなくなってきていた。

 如月家も表向きでは多少名の知れた資産家ではあったが、裏では先ほどの千火使のヴィエカルティアの儀のように、古からの伝統を引き続けているのである。

「千火使様、今日はもうそろそろお休みになられたほうがいいと思います。明日は合格発表がありますので」

「ふっ、そうだな……。いよいよ明日か……」

 千火使は噛み殺したような声をあげた。

「はい、そうでございます。ですが千火使様のお力なら聖城高校に合格することぐらい容易いはずです」

「当たりまえだ。ほぼ間違いなく主席だろうな。だが、もしあの野郎みたいな変人がいたらなかなかおもしろいことになりそうだな」

「あの野郎」と言うところには怒気を越えた恨みを込めたような声をあげはしたが千火使自身「おもしろいこと」を望んでいるかのような不敵な笑みを浮かべた。

「では、僕は部屋にもどる」

 千火使は振り返り部屋を出ようとした。

「あ、お待ちください千火使様」

 何かを思い出したように執事大山は千火使を呼び止めた。

「一つ言い忘れていたことがございました。千火使様、実はわたくしの占いによりますと、明日は千火使様には……」

 なぜかそこで大山は言いよどんだ。

「どうした大山、言ってみろ」

「はい……。明日、千火使様にはかつてないすばらしい出会いがあるようです」

 その言葉に反応し、千火使は少々ほくそ笑んだ。

「ほぅ! おまえの占いはかなり的中するからな。少し楽しみだ。しかし、すばらしい出会いというと、相手は女だということか?」

「はい……おそらくは」

「そうか……。まぁ、僕にとってみればすばらしくもなんともない出会いになるだろうがな。大山、今回のおまえの占いは相手がすばらしい出会いと勝手に思い込むだけになりそうだぞ」

 そう言って、千火使は勝ち誇ったかのような笑みを浮かべた。

 如月千火使という人物も、これまたとびぬけていた。中学時代は常に学年トップ。スポーツも万能。生徒会長を務めたこともあった。当然のように女子からの人気はすごいものであり、彼自身やさしく接しはするが、さして興味はないようであった。

 これまでの彼の人生においてはだが……。

「まぁ、一応期待はしておこう。それよりも明日はあの野郎と接触できるかもしれないからな」

 千火使は右の手のひらを大きく開いた。

「いでよ、炎よ!」

 彼の言葉とほぼ同時に彼の右手が輝いたかと思うと、右手には炎がかざしていた。

「ふふっ、これでようやく奴と同等に張りあえることができる。以前に受けた恥辱をはらす日はもうすぐかもしれん」

 最後にもう一度不敵な笑みを浮かべ、彼はその部屋をあとにするのであった。

 一人取り残された執事大山は千火使の気配が完全になくなった後、一人不思議そうな顔をしながら誰にも聞こえないくらいの小さな声で――、

「はて、おかしいですな。わたくしめの占いは早々はずれることはないはずなのですが……。ですが、千火使様は女性の方にはあまり興味をしめしませんからなぁ。わたくしめの占いと千火使様のお気持ち、どちらにせよ明日は千火使様にとって興味深い一日になりそうですな」

 部屋の灯りを消した後、執事大山も部屋をあとにするのだった。

 

 

 

 今も街の中心地を見渡せば、たくさんの灯りがともっていた。

 まだまだ長い夜が続きそうである。

 時刻はもうすぐ午前0時になろうとしていた。一日の終わりが来る。

 そんな時、夜空にひときわ風が強く吹いたように思えた。見るとその風は家の屋根あたりの高さで、次々に家の屋根を飛び越えていくかのようであった。

 だから、風のように思えたのかもしれない。

 その風が突如上昇したかと思うと4,5階建てのマンションに相当する如月家の屋根のてっぺんにまで吹き上がって、いきりよくその風がはじけとんだ。

 そこには驚くべきことに、一人の少女の姿があった。

月明かりに照らされたおかげでその姿がわずかながらに見えた。

優しい風に包まれているその少女の服装はまるでステージ衣装みたいな格好であった。上は振袖のような薄くて白いマントを着ているが、上着は夜に目立たないような黒一色。下のほうはというと、こちらは短めのスカートをはいており、裾はフリル状をしていた。あたかもステージ衣装のようで少々露出度も高いように思えた。

もしこの少女がステージに立ち、今からマジックショーをはじめようものでも、幾分も不思議に思いそうもない。

顔はわずかに月明かりだけなのでよくは見えなかったが、風に包まれた中で少女は微笑み何かをつぶやくように口を開いた。

「さぁ……、ゲームスタートよ」

 瞬間、風が大きく小女を取り巻いたかと思うと、すぐさまその風は新たな場所に向かい吹きすさぶのだった。

 

 

 

 時刻はちょうど午前0時を指そうとしていた。

 この時間にもなるとさすがに街の中心地を除いてはだいたいの民家の灯りはすでになく、このまま真夜中にさしかかろうとしていた。

 この日は月が夜空にぽっかりと浮かんでおり、少なからず夜の闇を照らしていた。

 それに比して空をゆく風がどうにも不穏な胎動をみせているように思えた。

 そんな中、街の中心地から少し離れてはいるのだが、他とは異なることには、そこからいっそう強い光が放たれていたのだ。

 まるでなにかを警戒しているかのように。

 なので、異常にその場所だけ目立って見えたのだった。

 その場所はなかなかに大きい豪邸であった。

 大きな門、広い庭、そして家は西洋のお城に似たものであった。

 驚くべきことには、門前や邸内にはたくさんの警備員がいた。これは明らかに一つの邸宅にはありえない警備員の数であった。

 その多数の警備員の中には他と違う服装をしているものがいた。どうやら刑事かなにかのようだ。

 そこに一人の警備員がその男のもとにかけていった。

「栗丘警部! もうそろそろ予告の時間になります」

 栗丘警部と呼ばれたその男はタバコの煙を一度大きくはいた後、少し締まった顔をした。

「ああ、わかってる。しっかりと警備を頼むぞ。夜中だからって眠気を感じたりしてたら、到底奴は捕まえられんぞ!」

 そう言って栗丘警部はまたタバコの煙を大きくはきだした。

 警備員は一度ビシッと敬礼をすると自分の持ち場へともどっていった。

 栗丘警部は一人になったところでポケットの中を手で探り、一枚の紙切れをとりだした。

「まったくよぉ、毎度毎度かわいい予告状をだすとは、やってくれるぜ、怪盗¢(セント) ルージュ」

 なんとも複雑な顔で栗丘警部は苦笑した。

 ――その一枚の紙切れにはこう書かれていた。

「――予告状

       本日24時に一条家にて

       『聖なる湖』をいただきにまいります

                         怪盗¢ルージュ――」

 この豪邸、一条家にはたくさんの美術品がコレクトされていたが、その中でも特に価値が高いといわれるのが『聖なる湖』という絵画である。

 この絵画は話によると、最近一条家の主である一条孝太郎がどこかの美術商と取り引きをして手に入れたらしいが、詳細はおろか本当かどうかさえ怪しいところであった。

 栗丘警部が怪盗¢ルージュの予告状とにらめっこをしていると、そこに一人の少年が彼のもとに堂々と歩いてきた。

「おっ? なんだ息子、今日もわざわざやってきたのか?」

 栗丘警部はあきれたような顔を少年のほうに向けた。

「なにいってんだよ親父! 怪盗¢ルージュは俺が絶対に捕まえてやるからな」

「へっ、勝手にしやがれ。でもな息子、足は引っぱるなよ!」

「当たりまえだ!」

 そう叫ぶやいなや、少年は一条邸の玄関口あたりに走っていった。

 走りながらもそこいらの警備員に「警備は万全か」だの、「怪盗¢ルージュの予想侵入経路は――」だの、なにかと指示を与えていた。

 よっぽどこの部分を見ると栗丘警部以上に指揮をとっていた。そして、警備員は警備員で「了解しました、栗丘Jr」と上司でもないはずの少年になぜか敬礼していた。

「あの野郎、また勝手なことしやがって」

 半ばあきらめたように栗丘警部はタバコをふかしながらつぶやいた。

「そういえば、息子は明日合格発表があったんじゃねぇか? 確か聖城高校だったか。……まったく、怪盗¢ルージュに御熱心なこった」

 皮肉入りの口調で栗丘警部は言うのだった。

 そうこうしているうちに、まもなく時刻は午前0時になろうとしていた。

 怪盗¢ルージュの予告した時間である。

 少年、栗丘春樹は両手を打ち合わせて気合を入れなおした。

「そろそろ時間だ!怪盗¢ルージュがあらわれるぞ。各自いっそう注意して警備にあたってくれ」

 春樹の一声に各々敬礼とともに声を張りあげた。

 そんな時、いよいよ時計の針は午前0時を指した。

 先ほどまでは穏やかであった風が、少しずつ荒れはじめてきた。

「来るぞ! 怪盗¢ルージュがっ!」

 春樹は大きく叫んだ。幾度となく怪盗¢ルージュと対戦したことのある春樹にとって、この風が怪盗¢ルージュのあらわれる前触れであることはすでに承知の上であった。

 信じられない話ではあるのだが、どうも怪盗¢ルージュは風を自在に操れるようであった。それは種も仕掛けもないマジックであったのだった。

「か、怪盗¢ルージュがあらわれたぞぉっっ! えっ……う、うわぁぁっっっ!!」

 ちょうど裏庭のあたりから声が聞こえてきた。悲鳴をあげたところからすると、早くしないと邸内に侵入されてしまうという危険性があった。

「裏庭に急げっ! 怪盗¢ルージュがあらわれたぞ!!」

 言うが一番春樹は裏庭へと全速力でかけていった。

 栗丘春樹はどちらかというと体力派ではない。中学時代は秀才と呼ばれるくらい成績がよかった。しかしながら、彼の前には友人でもある矢吹俊也という人物が立ちはだかった。その他にも相崎祐人という友人がいるのだが、彼の義理の妹である相崎佳奈も春樹に匹敵するぐらいであった。

 ともあれ、春樹はあまり体力には自信があるわけではない。身長は170cm前後といったところだ。とにかくまじめで多少熱血感が入った人物であり、打倒怪盗¢ルージュと闘志を燃やしているのであった。

 栗丘春樹は数人の警備員を引き連れて裏庭に姿をあらわした。

 裏庭では警備していたであろう警備員が数人地に伏せていた。

 どうやら気絶しているようである。

「くそっ、どこだ! 怪盗¢ルージュ。姿をあらわせ!」

 辺りを見渡しながら春樹は叫んだ。すると――、

「こんばんは♪」

 透きとおるような声。その声が聞こえた方向、ちょうど3階の屋根が外側に大きくでているところその上に、その声の主はいた。

 先ほどまで強い明かりがあったのだが、それも所々壊されているために、わずかに少し短めのスカート、それと羽織のように着飾っている白いマントが見えただけであった。

 しかしながら、それだけでも春樹にはその者が誰か知るには十分すぎる手がかりであった。

「あらわれたな、怪盗¢ルージュ。今日こそ俺が捕まえてやるからな。おい、照明をあてろ!」

 春樹の命令でそばにいた警備員は怪盗¢ルージュへと光をあてようとした。

「ふふっ、やれるものならやってみなさい」

 警備員は懸命に照明をあてようとするのだが、怪盗¢ルージュの動きが桁外れに速い。

「栗丘Jr! 無理です、奴の動きが速すぎてついていけません〜」

 すでに横では警備員の一人が泣き言をあげていた。

「いくらやっても無駄よ。じゃあ、早速家の中に入らせてもらうわね♪」

 2階の少し大きめのベランダに怪盗¢ルージュは降りたつと、颯爽と一条家邸内へと侵入していった。

「くそぅ、卑怯だぞぉ! 怪盗¢ルージュ、降りてきて俺と勝負しろっ!」

 春樹は邸内へと侵入する怪盗¢ルージュの背中めがけて大きく叫んだ。

 しかしながら、その顔は少々ほくそ笑んでいた。

「おい息子! 簡単に奴に侵入されてるじゃねぇか」

 振り返るとそこには栗丘警部が立っていた。

 それに対して春樹はというと、むしろ逆に勝算があると思わせるような余裕の顔をしていた。

「これでいいんだよ、親父。まずは¢ルージュを邸内に侵入させるのがねらいだったんだ。これでこっちの作戦通りだ。怪盗¢ルージュ、今日こそおまえの正体を、その顔を見せてもらうからなっ!」

 春樹は気合十分に拳を強く握りしめると、一条家の中へと入っていった。

「本当に怪盗¢ルージュ一筋だなぁ、あいつ。あんまりしつこいと嫌われるってこと知らねぇのか?」

 栗丘警部はやるせない表情を浮かべながらまた一本タバコに火をつけた。

「ていうか、俺の仕事をとるんじゃねぇよ……」

 誰にともなく栗丘警部は本音をつぶやくのだった。

 

 

栗丘春樹はいつからか打倒怪盗¢ルージュ! その使命に燃えるようになっていた。

 けれど実際のところ、春樹は¢ルージュを捕まえるというより¢ルージュの正体を、つまりその顔を見たいという思いが勝っていた。

 とは言っても決して捕まえたくないわけではないのだが。

 かつて一度だけ、怪盗¢ルージュと対戦したときに、¢ルージュと接触したことがあった。¢ルージュが逃走の際に考えられないことに足を滑らしたのである。

 結果的に¢ルージュが春樹に覆いかぶさる形となった。わずか数秒の間ではあったが。 

 あまりの出来事に呆然としてしまった春樹はあっさり¢ルージュに逃げられてしまったのだ。

 しかしながら、春樹に覆いかぶさった怪盗¢ルージュの重みは、まだ彼の全身の感覚が覚えていた。怪盗¢ルージュは思っていたよりもずっと軽かった。そして、わずかに¢ルージュの顔を春樹の視覚は捉えた。

 それは驚くべきことに春樹とそんなに年が変わらないぐらいの少女の顔のように思えたのだった。

 今もこのことは記憶に鮮明である。なのでいっそう、春樹を怪盗¢ルージュ一筋に闘志を燃えあがらせる原動力となっていたのだった。

 

 

 外の警備体制に比べて、一条家邸内は想像以上に閑静としていた。

 様子を見たところ、邸内の警備は思ったほど厳重ではないようである。

「今日も捕まえにきたんだ、栗丘Jr」

 怪盗¢ルージュは裏庭で春樹と警備員数人をまいた後、すんなりと2階のベランダから一条家邸内への侵入に成功した。

「なんだか今日は張り合いがないなぁ。こんなにも簡単に侵入できちゃうんだもん」

 怪盗¢ルージュは気配を殺しながらちょうど1階へ下りていこうとしていた。さすがに豪邸というだけある一条家は邸内もかなりの広さであった。

「まぁそんなことはどうでもいいわ。えーと、情報によると確か……地下に保管しているはず。はぁ、明日は大事な合格発表があるんだから、さっさとお仕事終わらしちゃおうっと」

 怪しいぐらいに閑静とした廊下を、何か策があるのかと警戒しながら怪盗¢ルージュは地下へと向かって進んでいくのであった。

 

 

「本当に大丈夫なのかね、栗丘Jr?」

 一条家の地下の一室で小太りの中年の男性は栗丘春樹に心配そうに話しかけた。

 この男が一条家の主、一条孝太郎である。

「安心してください、一条さん。怪盗¢ルージュは必ずこの俺が捕まえてみせます!」

 春樹は胸を張って言い切った。

 この地下の一室には、春樹と一条孝太郎、そして数人の警備員がいた。

 部屋の扉から一番遠い位置にあたる壁には、神々しいまでに『聖なる湖』が光り輝くように異彩を放っていた。

 少なくとも普通の人間の目にはそう見えた。

「それにしても一条さん、あなたはかなり美術品集めに凝っていると伺いましたが、なぜこの部屋にはあの『聖なる湖』しか飾ってないんですか?」

 春樹の言葉に一瞬ドキッと驚いたような様子をした。

「え! そ、それは……ははっ、たいした意味はないんですよ。他の美術品は美術品できちんと別の部屋に保管していますよ。ただこの『聖なる湖』が群を抜いてすばらしいもので、だから別に飾っているんですよ。それに同じところに飾っていて、もし怪盗¢ルージュに別の絵まで盗まれたらたまりませんからな」

「一条さん、彼女は予告したもの以外を盗んでいくような奴じゃないですよ」

 どうしてか少しむきになって春樹は一条に反論した。

「ほぅ、ですが悪盗のすることですから何を盗まれるかわかったものじゃありません」

 一条は怪盗¢ルージュを卑下するような表情を浮かべていた。

「彼女は確かに怪盗ですが、悪盗ではありません。俺は今まで幾度と戦ってきて彼女がそんな卑怯な真似はしないということはわかります!」

「ほぅ。ですが怪盗なんて所詮人間のクズみたいな奴らですからな、信じるに至りませんよ。まぁどちらにせよしっかりと『聖なる湖』を守りきってくださいよ」

 先ほどと同じ表情を浮かべながら、一条はなにやら早歩きで部屋の外へ出ていった。

「くそっ、好き勝手なこと言いやがって。あいつは絶対にそんな奴じゃないはずだ」

 春樹は自分に言い聞かせるようにそう言った。

「みんな、準備はいいか! そろそろ怪盗¢ルージュがあらわれるぞ、各自持ち場につけ!」

 この地下の一室は思った以上に広い部屋だった。しかも守る側に都合のいいことに所々室内に人が隠れることができるスペースをもった構造をしていた。

 春樹の声に応じて警備員は各々身を隠した。そして、春樹もまたある場所へと身を隠すのであった。

 

 

 思いのほか、一条家地下は警備員が見当たらなかった。それに灯りが小さく妙に薄暗いのが、いっそう怪しい雰囲気を漂わせていた。

 そんな中、怪盗¢ルージュは颯爽と、それでいて慎重に『聖なる湖』が飾られている地下の一室に向かっていた。

 ちょうどその部屋は廊下の突き当たりにあった。

「この怪しいほど閑静とした廊下……。これはなにか罠があるわね。待ち伏せして捕まえるつもりでしょうけど、そうはいかないわよ」

 地下に『聖なる湖』があるのに、その部屋へと続く廊下に警備員をまったく配置していなければ、たとえ怪盗¢ルージュでなくとも、罠があると思うことであろう。

 栗丘春樹は誠実すぎる反面、こういうところに詰めの甘さがあるようだ。

 それともこれが彼の余裕の裏返しであるかもしれないが。

「ここが『聖なる湖』が飾られている部屋ね。……かすかに人の気配がするわね。……でも、こんなところで立ち止まってなんかいられない」

 怪盗¢ルージュは小さくつぶやくと、慎重に扉を開け中の様子をうかがった。

 室内は見た目には誰もいないように思えた。しかし、身を完全に隠すことができても、気配まで完全に隠しきることは容易ではない。一警備員がなしえる芸当ではないのである。

(……ふぅん、十人程度かな。これはちょっと能力に頼るしかないかな? かよわい女の子が一人でどうにかできる数じゃないからね)

 怪盗¢ルージュは心の中でそうつぶやくと、一歩一歩『聖なる湖』へと近づいていった。

 彼女には神々しいと人は言う『聖なる湖』が陰の力、闇のオーラを放っているのが感じとれた。

 彼女がちょうど部屋の中央ぐらいにきた時――、

『うわぁぁぁっっ、やってやる、やってやるぞぉぉぉっっ!』

 大きな掛け声があがったかと思いきや、四方八方から警備員が各々ものすごい形相で突進してきた。その形相はというと、一少女に対してもはや犯罪級のそれであった。

 さすがに四方八方からの突進であるので、いくら怪盗¢ルージュのスピードといえど逃げ場所はない。もし捕まってしまうものならば、集団で食べられそうな勢いである。

 しかしながら、怪盗¢ルージュの表情はこの状況においても余裕のそれであった。

 彼女はわずかに微笑んだかと思うと、両手を大きく天にかざした。

「精風神ウィンダミアが起こせし……以下省略! スパイラルヴァンフォール!」

 呪文と同時に怪盗¢ルージュを中心として、凄まじい強風が警備員たちに叩きつけられる。

『うわっ、うわぁぁぁっっ!』

 強風をまともに正面から受けた警備員たちは皆四散して、壁に叩きつけられてピクリとも動かなくなるのであった。

「……なんだか掛け声倒れだったみたいね。まぁ、まともに受けたんだから仕方ないか」

 怪盗¢ルージュは再び歩き出して『聖なる湖』を前にして立ち止まった。

 こうして間近で注視してみると、やはりどこか陰気な雰囲気が漂ってみえる。

 怪盗¢ルージュは右手を正面にかざして、うっすらと両目を閉じた。

「悪しき心を持つ者、その己が私物もまた自らの魂を悪しき様へと変貌す。わたしは呪除の儀をおこす者。清き心を持つ者の私物となりし日の在りし魂よ、ここに再起せよ!」

 怪盗¢ルージュの右手から光が発せられたかと思うと、その光は『聖なる湖』に吸い込まれるように進んでいった。

 しばし後、『聖なる湖』はひときわ閃光を放った。

「よし、これで完了っと」

 先ほどとはまったく違い『聖なる湖』はその本来の「清」の魂を取り戻したかのような輝きを放っているように思えた。

 そんな『聖なる湖』を見て怪盗¢ルージュはわずかに笑みをこぼした。

 『聖なる湖』の輝きに照らされたその笑顔はひとりの怪盗ではなく、一人の少女であった。

「さてと、呪除の仕事も終わったことだし、やっかいなことにならない内にこの絵を持ってさっさとここから――」

 そう言って怪盗¢ルージュが『聖なる湖』へと触れた瞬間―――、

 バタン――!

(うそ……)

 『聖なる湖』が飾られていた壁が突如として回転したかと思うと、その突然の事に反応しきれずに、怪盗¢ルージュはその回転の勢いに巻き込まれて壁の裏側へと突き出されてしまった。

「きゃっ。痛たた……、まずったわね――」

「ここまでだ、怪盗¢ルージュ!」

 閉ざされた壁の裏側の中に別の男の声があがった。

 闇の中なのでその姿は確認できないが、彼女、怪盗¢ルージュにはその声だけでそれが誰かわかっていた。

 打倒怪盗¢ルージュで、彼女一筋の人物。

 栗丘春樹という少年である。

(しまった……油断した! まさかこんな罠があるなんて……。このままじゃ栗丘Jrに……と、とにかく逃げなきゃ!)

 体勢を立て直してこの壁の裏側から脱出しようとするが、どうも足どりがおぼつかない。

「逃がすかぁ!」

 栗丘春樹は怪盗¢ルージュに後ろからつかみかかった。

 都合よく¢ルージュはまだ完全に体勢を整えていなかったので、見事後ろから彼女の体を捕らえることに成功した。

「とうとう捕まえたぞ、怪盗¢ルージュ!」

(ダメ……正体がバレちゃう! な、なんとかしないと……)

 怪盗¢ルージュは必死に春樹の手から逃れようともがくが、やはり男の力だけあって、さすがに力勝負では分が悪い。

(くうっ、栗丘Jrの力が強くて逃げられない……あんっ!?)

「観念しろ、怪盗¢ルージュ。いくら暴れたって絶対に離さないからな! ――あ、あれ、なんだこの感触は……? や、柔らかい……」

 暗闇の中であったので春樹は気がつかなかった。逃れようと暴れる怪盗¢ルージュを力ずくで取り押さえようとして、どさくさにまぎれて彼女の胸に触れてしまっていた。

「いやぁぁっ、バカ! スケベ! 変態! 離してよっ!」

「なっ……、違うぞ誤解だ! 俺は君を逃がさないことを考えていただけで、決してやましい気持ちがあったわけじゃ――」

 怪盗¢ルージュが悲鳴をあげたことが思いのほかのことだったので、ついつい動揺して腕の力を弱めてしまった。

 その行動がうかつであった。

 この時を待っていたかのように、その隙をねらって怪盗¢ルージュは春樹の腕から抜けでると大き

く一歩後ろに下がった。

「ふふっ、ごめんなさい。まだあなたに捕まえられるわけにはいかないの。それに今日はちょっと急いでいるから。……セフィドヴァンカルム!」

 ¢ルージュの声と同時に突如風が静かに彼女を取り巻いたかと思うと、その次の瞬間にはその場所には彼女の姿はすでになかった。

「待てっ! 怪盗¢ルージュ!」

 栗丘春樹はすかさず壁の外に出てはみたのだが、そこにもすでに¢ルージュの姿はなかった。

 数人の警備員が倒れていただけであった。

「じゃあ絵はいただいていくわね、栗丘Jr」

 春樹のもとにどこからともなく声が聞こえてきた。その声に反応して後ろの壁を見てみると、先ほどまでそこに飾られていたはずの『聖なる湖』が影も形もない有り様であった。

「ちくしょう! またやられた。今の声からしてまだ遠くにはいってないはずだ。待ってやがれ、怪盗¢ルージュ!」

 倒れたままの警備員などおかまいなしに春樹は外へと全力疾走した。

 

 

「栗丘警部! か、怪盗¢ルージュです!」

 玄関周辺の警備にあたっていた者が一人、唐突に声を張りあげた。

「何だと! 息子の奴、しくじりやがったな」

 玄関前には栗丘警部、そしてその隣にはなぜか一条孝太郎が立っていた。

「ああっ、私の絵がっ! 私の大切な『聖なる湖』がぁっ!」

 一条家の屋根の上に立つ怪盗¢ルージュに向けて、一条の手は虚空を彷徨っていた。

 案の定、怪盗¢ルージュの手には『聖なる湖』がつかまれていた。

 と、ちょうどそこに栗丘春樹が勢いよく駆けつけてきた。

「怪盗¢ルージュ、降りてきて俺と勝負しろぉっ!」

 春樹は先の裏庭の時と同じセリフを言いはしたが、先ほどとは違いその顔には余裕はいっさい感じられなかった。春樹は屋根の上に立つ怪盗¢ルージュを見上げた。

 すると、周りが暗かったので定かではなかったが、春樹には¢ルージュがわずかに微笑んだように思えた。

「それじゃあまた会いましょう、ちょっとスケベな探偵さん♪」

「なっ……、だ、だからアレは誤解だ。俺はただ純粋に君を捕まえようとしただけで……」

 顔を赤くして弁解する少年とそれをおもしろそうに話す怪盗の少女。

 傍目には栗丘警部と警備員数人が訳のわからない顔をしてその二人を眺めていた。

「……もしかしたら、今度はあなたと怪盗としてではなく会えるかもしれないから……」

 春樹に届くか届かないかというぐらいの小さな声で怪盗¢ルージュはつぶやいた。

 その顔もほどほどに赤く染まっているようであった。

「えっ? い、今なんて――」

「何でもない……。それじゃあさようなら」

 春樹が言い終わらないうちに怪盗¢ルージュは後ろを振り返ったかと思うと、すぐにその姿は風の中に包まれ、流れるようにその風は空へと去っていくのであった……。

 取り残された栗丘春樹は呆然とその風のゆくえを目で追いかけていた。

「なにまるで恋人に逃げられたかのような遠い目をしているんだ、スケベな探偵君?」

 そばによってきた栗丘警部はいかにもおかしそうな顔で言った。

「誰がスケベ探偵だ! そんなんじゃねぇよ。俺はただいつものように彼女を捕まえようと必死に追いかけて、そしてまたいつものように逃げられた・・・。ただそれだけだよ!」

 まるで自分に言い聞かせるかのようだった。

 本当にそうなのか……?

 そんな思いが浮かんだ直後、それを否定するのであった。

「まぁ、どうでもいいわ」

 栗丘警部は関心なさそうな顔でポケットからタバコを一本取りだして火をつけた。

「とりあえず事件は一段落したからな」

「どういうことだ、親父?」

 春樹は訳がわからなかった。『聖なる湖』が盗まれてしまったというのに事件が一段落したとはいったいどういうことなのか・・・。

 栗丘警部は無言のまま指をさしていた。

 その方向を見てみると、そこには警官に捕まえられている一条孝太郎の姿があった。

「親父、いったいどういうことなんだよ?」

 ますます訳がわからないといった顔で春樹は尋ねた。

「どうもこうも、一条氏を詐欺の容疑で署までお連れすることになった。それだけのことだ。ったく、何が『私の大切な絵を……』だ。人様の絵をだましとったってのにふざけるな」

 栗丘警部はタバコをくわえながら穏やかな顔をしてはいたが、明らかに憤慨しているようであった。

「そうだったのか……」

 ふと、栗丘春樹の頭の中には怪盗¢ルージュのことが思い浮かんだ。

 考えてみると、彼女の体に触れたのは今日で二回目だった。少々強引ではあったが……。

(怪盗¢ルージュ……以外に華奢な体だったな……それに彼女の胸・・・柔らかかったな……なっ! なに考えてるんだ俺は!)

 いかんいかんと、頭を左右に振りながらも、なお頭の中から¢ルージュのことが離れない。

「でも、彼女が悪盗ではないことははっきりしたかな。それと最後になにか言いかけてたみたいだったけどなんだったんだ? ……まぁ、どうでもいいか。次こそは必ず捕まえてやるからな、怪盗¢ルージュ!」

 今やすでに怪盗¢ルージュが消え去った闇の虚空へといきりよく拳を振りあげた。

 その声はまた闇の中に溶けていく。先ほどよりもいっそう闇が深まっていくようであった。

 こうして夜は更けていき、まるで何事もなかったかのように闇が晴れていく。

「息子の奴、あいつのストライクゾーンは怪盗¢ルージュただ一点か? それにあいつ、誰に似たか本当に直球勝負しかできんやつだなぁ。変化球があるということもよく考えんとな。とは言っても、なにか怪盗¢ルージュと訳わからん話をしていたな? ……まぁ、4打数1安打3三振といったところかね」

 栗丘警部もまた夜の闇の空を見上げて、タバコの煙を大きくはきだした。

 時刻はまだ午前一時をまわるかまわらないかといったところであった。

 しかしながら少しずつではあるが、闇の中から光が湧き出してくる兆しが見えはじめた気がした。

 それは、まだ見ぬ朝日の前兆であった。

   

   

 空はどこまでも青く澄みきっていた。

 見渡せば果てしなくこの青空は続いていく。

(ここは……どこだ?)

 緑に包まれた丘陵。すぐ傍には大きな砦が一つ建っている以外はなにもないところであった。

 そんな景色を見下ろしていた。

(空を飛んでる? ……オレは鳥か? ……いや、これは夢だ)

 すると、どこからともなく歌声が聞こえてきた。男の声だ。甘く惹きこまれるようなその歌声に、いつしかすぐその声の真上にまできていた。

(歌を奏でる少年……か。それにしてもあの服装はなんだ? まるで戦士だな……!?)

 無意識の中でその一羽の鳥は空を翔けた。

 その少年の歌声に踊らされるかのように。そして、その鳥は「光」となり彼のもとに舞い降りるのだった……。

「あなたのことを・・・ずっと探していました」

 いつからか一人の少女が傍に立っていた。

 君はいったい誰なんだ……?

「わたしは、災いと悲しみを招く者……」

 その少女の服装からすると、どこかの有力貴族の娘といったような感じだ。

 その美しい容姿は誰に負けるともいわず、災いと悲しみを招くのではなく、幸福の女神だといわれても納得してしまいそうである。

(誰かに……似てる。オレの知っている誰かに……)

「……わたしを連れてここから、この地から逃げてください」

 いったいどういうことなんだい? いきなりで訳がわからないよ。

「これには理由があります。それは――」

 えっ? どうしたんだ……急に視界が……

 その少年の視界が急におかしくなった。まさに世界がぐるぐる回る状態である。

 はじめは、少年のほうに問題が生じたのだと思われたのだが、実はそうではなかった。

 少年の前に立つ一人の少女、とびきり美しく、とある国のプリンセスだといっても過言ではない容姿をしたその少女の姿が、徐々に揺らぎはじめたのである。

 どうしたというんだ? ――少女の姿が……。

 ますますその少女は変貌し続ける。そしてついには――、

 お、男になった!?

 その少年の目の前にいた、いとも美しい少女が、あろうことか一人の少年へと変わっていた。年の頃、17、8といったところか。180cmを越すぐらいの長身に、髪は半ばオールバックにしており、切れ長の眉とフレームレスの眼鏡からのぞくするどい眼光。

 そして、さらに驚くべきことには、

(せ、制服を着てる……)

 制服を着たその少年は眼鏡のブリッジを少し持ち上げて微笑んでみせた。そして、彼の右腕が振りあがったかと思うと、ビシッと少年に向かって指がさされた。

「ふふっ、ずっと探していたぞ! おまえのことを」

(何を言ってるんだ? それにこの制服は……)

「おまえが来るのを待っているからな。なぁに、心配することはない。これは必然の中にある偶然だからな」

 オレを待っている……? なにがなんだか……

 声にしようとするのだが、唇は動きはするがどうしても声は出ない。

「ではな、また会おう――」

 なっ!? おい、ちょっと待て。まだ話は――、

 そう叫ぶ間もなく、その少年の姿は突如あらわれた光の中に消えていく……。

「……て……さん」

 そのまま自分をもその光は包み込んでいく……。

「……きて兄さん」

(……また誰かが……呼んでいる?)

 自分を呼ぶ声が絶えず聞こえてきはしたが、そんなことはおかまいなしに今ある安らぎの中に身を投じる……。

「…… ()

 もうすこし、もうすこしだけこのままこうしていたいと、心から思えてくる。――が、

 ゴスッ――

「ぐはっ!」

 この腹にのしかかる重く冷たい感触は……。

 突然の激痛に少年は大きく目を見開いた。

 そこには、見渡しても果てなく続く青空はなく、ただいつもの見慣れた自分の部屋の光景。上を見上げてもそこには天井があるだけ。

「果てなく続く青空は? 緑に包まれた丘陵は?」

 少年、相崎祐人は不意に声に出してそうつぶやいていた。

「……まったく、なに寝ぼけているのよ、兄さん」

 見上げるとそこには制服の少女が立っていた。

 よく見知ったその人物は、手はグーにして握りしめ、頭には怒マーク。

 どこをどう見ても怒っているようであった。

「……佳奈、どうしたんだ?」

 少女の名を口にする。

「どうしたもこうしたもないでしょ。今日が何の日なのかわかってるでしょ!」

 その言葉に反応して、祐人はわざとらしく顎に手をあてて考える振りをした。

 思い当たる節が一つだけ思い浮かんだ。

「ああ、合格発表か」

祐人はポンッと両の手をたたいてみせた。

「兄さん、どうしてそうどうでもいいみたいに言うの? とにかく、もう玄関で綾香ちゃんもずっと待ってるんだからねっ! 早く用意しないと放っていっちゃうからね」

 佳奈は振り返るとそそくさと部屋を出ていった。

「それにしてもいつものことだとはいいながら……痛い」

 そう言って祐人は自分の腹を見下ろした。

 そこには健康器具として使うところの鉄アレイが自分の腹に重みをかけていた。それには3kgとかかれていた。

「とはいえ、オレもよくこんなのくらって平気でいられるよな。……慣れか? ――まぁ、どうでもいいか。そんなことより早く用意しないとまたどんな目に遭わされるかわかったもんじゃない」

 腹にのしかかる健康危具となりつつある鉄アレイをどけると、祐人は立ち上がりいそいそと着替えだすのであった。

 

 

 相崎祐人は急いで玄関のドアを開けると勢いよく外にとびだした。

 景気の良い朝の光は彼に好意があるようだが、玄関前に立ち尽くしている二人の制服の少女――相崎佳奈と月村綾香はなにやらダークな雰囲気を漂わせていた。

 どうにもたまらない様子で綾香が先に口を開いた。

「遅い! 遅すぎる! どれだけ待ったと思ってるのよ!」

 顔からして明らかに怒っている様子だ。

 触らぬ神にたたりなしとはよくいうものである。

「あの……実はだな……これは……」

 うろたえて言いよどんでいると、次に佳奈が口を開いた。

 こちらも怒っている様子である。

「兄さんはね、何だか夢の世界で楽しんでいたみたいなのよ」

 そう言ってそっぽを向く佳奈を見て、半ば落胆しそうになりはしたが――、

(いかんいかん! こんなところで折れてどうする。今日はオレの人生を左右する日なんだからな)

 パンッと気合を入れんばかりに顔を両の手で張る。これには少し佳奈と綾香も驚いた様子をしていた。

「とにかくごめん! オレが悪かった・・・。昨日の分も含めてな」

 なぜか少しの間、佳奈と綾香は沈黙していたのだが――、

「ねぇ、兄さん。わたしはもう全然怒ってなんかないよ、ふふっ」

 先ほどのダークな雰囲気を吹き飛ばしてなおかつおつりがくるようなぐらいの佳奈の笑顔にはこっちが照れてしまいそうな時がたまにある。

「わたしも、もう過ぎたことなんだし、そんなに怒ってるわけじゃないわよ」

 そう言う綾香の顔にもわずかに笑顔がみえる。綾香の笑顔も祐人はなかなかかわいいかもしれないと思っていたりする。言えば殴られるから言いはしないが。

「じゃあ、あらためて……いざ合格発表を拝みにいくとしよう」

「そうだね、兄さん♪」

 笑顔で答えた佳奈は祐人に近づくや、大胆にも彼の腕をとった。

「えっ!? か、佳奈?」

 そのいきなりの行動にあからさまに動揺する祐人ではあったが、彼よりも血相を変えた者がいた。

「なっ、ななな何やってんのよ、佳奈! あんたいきなりこんなこと――」

 と、綾香が言う間に佳奈は少し悪戯っぽく微笑んだ。

「あらっ、だったら綾香ちゃんも同じようにすれば? 兄さんの右腕があいてるよ?」

「なっ、だ、誰が好きで祐人となんか腕を組まなきゃいけないのよ!」

 大きな声で言う綾香の顔は少し赤みがかっていた。

「ならこのままで行きましょう♪」

「お、おい……佳奈」

 祐人の腕をつかんだまま佳奈は足を進めだした。

 それに合わせて祐人の足も動きだす……はずなのだが――、

 グイッ――        

横に目を向けると綾香が何ともいえない顔で祐人の右腕をつかんでいた。

(あ、綾香……?)

祐人が綾香を見て不思議そうな顔をしていると、佳奈がひとさし指をピンッと伸ばして首をかしげた。

「あれれ? 綾香ちゃん、さっき兄さんとは腕を組まないがどうのこうのって言ってなかったっけ?」

「なっ、そ、それは……確かにそう言ったけど……。あっ、じゃあそういう佳奈は何なのよ。やけに祐人に対して積極的なように見えるけど?」

「えっ……わ、わたしは……そんなことないよ……」

 今度は佳奈が頬を赤くして俯いた。

 相崎祐人はそんな二人の終わりのないように思えるやりとりをどことなく所在なさげに見ていた。

 ふと空を見上げてみると青空が一面に広がっていた……。

 不意に今朝の夢のことが脳裏をよぎる。

(いったい何だったんだ……あの夢は……。とりあえず、今は保留か……)

 左からは我が義妹である佳奈。そして右からは幼なじみである綾香。二人の言い合いを挟む形となった今、彼女たちの体からにじみ出るように見えた気がしたオーラに気圧され、祐人はほとんど上の空のまま、いつしか彼女たちに引っ張られていくようになっていった。

 

 

 

 一人、また一人、ここを過ぎていく人が徐々に増えてくる。

 ここは、ごくごく普通の正門。

 そこには「聖城高校」と大きく刻まれているのがよく目立っている。

 その門に寄りかかるように一人の少年は立っていた。

 その後ろには一人の少女。

「本当に来るんでしょうか?」

 少女の方が口を開いた。その言葉を受けて、少年は一度眼鏡のブリッジをくいっと持ち上げた。

 その顔は笑ってみえた。

「必ず来るさ……。そう、これは必然の中にある偶然であるからな――」

 そうして少年は辺りを見回した。いまだそれらしい気配はない。

 ただ、この正門のまわりにはいくつもの桜の木が並び立っていた。

ここに来るまでの桜並木の道は、案外有名でもある。

 今はまだつぼみをたくさんつけているだけの桜ではあるのだが――

 どうしてか、そこに桜の花びらが一枚舞い降りたのである……。

 

 

(第一話 「物事はいつも突然に、ってか?」 終)

 

[あとがき]

 長いだけとの節もあります第一話。世間では阪神タイガースがマジックを点灯させて、私が生まれた年以来となる18年ぶりの優勝がいよいよ現実になりそうだといわれております。

 さて、今回の第一話ですが、発想は今からもう3年ほど前。それを掘り起こして「改訂」する形で仕上げました。義妹だの幼なじみだの怪盗だのとちょっと複雑になってしまいました。

 とにかく、今回は仕上げたことに意味があると思っております。なぜならば、これでようやく私はSAKURA〜雪月華〜の世界に入っていけるのです。ちなみに私は小雪派です。それではもうハートが我慢の限界に達しようというところですので(おいおい)、今回はこれで筆をおかせていただきます。

 では、次回が存在したならば、祐人とともに道なき道を進んでいくことでしょう。

2003年 8月6日

 

著者 YUK