外伝(一)「刻(とき)の雫は涙を残して……」


[目次]

あらすじ
登場人物紹介
1 時を越えた怪盗
2 悪友あらわる〜いざ、聖涙島へ〜
3 刻の雫を守りぬけ
4 刻の雫は涙を残して
あとがき


[本文]

[あらすじ]

 世紀を渡ってあらわれた正体不明の名怪盗、「怪盗¢ルージュ」。キレ者警部の息子である少年、「栗丘春樹」。二人はある事件をきっかけに出会うことになる。それは悠久である刻が悠久であるがゆえに零した、涙であるかのように……。「それでも最後はハッピーエンドで!?」の外伝的ストーリーが今ここに幕を開ける。


[登場人物紹介]

栗丘 春樹(くりおか はるき)
……中学三年生の少年。勉強はできるが、あまり体力には自信がない。しかし、やる気だけは一人前の熱血漢である。

怪盗¢ルージュ(かいとうせんとるーじゅ)
……世紀を渡って現れた正体不明の怪盗。いまだにその素顔さえも謎に包まれたままである。

栗丘 舞香(くりおか まいか)
……春樹の二歳年下の妹。面倒見がよい性格である反面、春樹を連れまわして尻に敷くこともある。

栗丘 恭三(くりおか きょうぞう)
……春樹・舞香の父親。職種は警察官であり、階級は警部。ぼんやりとした見た目からは想像がつかないほど、なかなかにキレのある人物である。

矢吹 俊也(やぶき としや)
……春樹のクラスメイトであり、友人でもある少年。いわゆる「悪友」の関係である。勉強もスポーツもでき、なかなかの二枚目であるが、少々変わった性格をしている。「おもしろい場所には、矢吹あり」と豪語し、神出鬼没である。

AKI(あき)
……怪盗¢ルージュが信頼する情報屋。「いかに困難な事であっても、情報を得たものが勝利する」とは口癖の一つである。

相崎 祐人(あいざき ゆうと)
……春樹のクラスメイトであり友人である少年。矢吹とは「悪友」の関係であり本人は嘆くが、矢吹が曰「心の友とかいて心友、真の友である」であるそうだ。なお、本編には名前のみの登場となる。


1 時を越えた怪盗


 無限の刻を進む空から、一滴の雫がこぼれ落ちた
 それは、空の悲しみ 悠久の悲しみ
 一滴、また一滴と、刻の涙は大地へとこぼれ落ちる
 この刻の涙を、ぼくたちはいつまでも受けとめていこう
 悲しみとともに……


「――ちょっと、お兄ちゃん! いつまで休んでいるのよ!」
 麦わら帽子をかぶった少女が、その傍らでブルーのシートを下にして寝転がり、読書にふけっていた少年のその読み物を奪い取った。
本を読みながらも、その本を日除け代わりに使う。まさに一石二鳥であったのだが、それが奪われてしまった今、夏の直射日光が少年を襲った。
「何するんだ? さぁ、早く返すんだ」
少年は手を少女に向けてさしだす。一刻も早く陽の光から逃れたい……のではなく、早く本の続きが読みたいのである。
「いや。はぁ、だいたいお兄ちゃん? ここがどこだかわかってるの?」
 少年の要求をあっさり拒否した少女は、一度辺りを見回して溜め息をついた。
「ここがどこだとしても、俺は本を読みたいんだよ。たとえ海だとしてもな。だから、早く返せ」
「うーん、返してあげてもいいけど、一つ条件があります」
 少年には、少女が何を言い出すか予想できてはいたが、あえて沈黙を保つ。
「わたしと一緒に海で遊ぶこと! じゃないとこの本を片手に海に泳ぎに行くからね」
 言うやいなや、少女は海に向けて駆け出そうとした。もちろん、その手には少年の本があった。紙の性質上、水に浸かってしまうと一溜まりもない。
 蔡倫の名にかけて、少年はその本を守らねばならなかった。
「わかった、わかったから待て、舞香。俺がその本の身代わりだ」
 少年、栗丘春樹は渋々ながらも立ち上がった。春樹の読書タイムはこころざし半ばで幕を下ろすことになった。
「ふぅ、やっとその気になったか。お兄ちゃん、わたしと一緒に遊びたいんだったら、ちゃんとはじめからそう言ってよね」
あきれた表情のまま、その少女、栗丘舞香は春樹へと本を返した。
「……どつきまわしたろか思いましたわ」
「何か言った、お兄ちゃん?」
 舞香には聞こえないぐらいの声で愚痴をこぼしたはずなのだが、彼女の地獄耳のまえではそれも通用しないようである。
「光栄であると……」
 蛇に睨まれた蛙となっては、もはや萎縮するしかあるまい。
「よろしい。……それにしても――」
 どうやら舞香の視線は、その本に向いているようであった。
「意味深なタイトルだね、『刻の涙』って。どんな話なの?」
「まだ全部読んでいない……」
 本を受け取った春樹は不満気に答えた。
「そぅ、まだ読んでいないんだ〜、ふーん」
 舞香は残念そうであり、そして冷ややかな視線を春樹へとぶつけた。
「……おまえが邪魔したせいで……おまえが邪魔したせいで……」
「何か言いましたか、お兄ちゃん?」
「合点承知之助であると……」
 これ以上は赤信号であると、感覚的に春樹は見極めた。舞香を怒らせて、海の藻屑と化すことだけは避けねばならなかった。
「はい、話はこれでおしまい。――さぁ、早く行こうよお兄ちゃん」
 舞香は春樹の手を取ると、波寄せる砂浜へと歩き出した。
「おいおい、慌てなくても海は逃げないぞ」
 少し崩れかかった体勢を立て直した春樹ではあるが、内心では動揺していた。彼にはある一つの懸念があったのだ……。


 それは後回しにするとして――
 季節は夏。夏といえば海。海といえばレッツ・ゴー・ゼアー! 
 これは春樹・舞香の父である栗丘恭三の言葉である。
 夏休みのある日、栗丘一家四人は自宅から割合と近場にある海水浴場にきていた。到着するとまもなく、両親が仲良く散歩に行ったので、兄妹二人が残されることになった。
 まぁ、春樹にしてみれば良い息抜きである。今年、中学三年である春樹はとにかく受験勉強に忙しい。何より春樹自身努力家で、気合を込めて勉学に勤しんでいた。
 それだけの努力の成果は十分にあり、学年で五本の指に入るぐらいの成績を誇っていた。
 ただ、反対にあまり体力には自信がない。なので、春樹が海で泳ごうともせず、ずっと寝転がって本を読みふけっていたのにも納得できたりする。


「よし、俺はここまでだ。さぁ、後はどこへなりとも好きにいくがよい」
 もう一歩踏み出せば足が水に浸かるという手前、春樹はピタッと立ち止まった。
「もぅ、何いってるのよ、お兄ちゃん! 往生際が悪いわよ」
 頬を膨らませながら、舞香は春樹の腕をとってしがみついてきた。
「おい、そんなにひっつくなって。ただでさえ暑いのが余計に暑苦しくなる」
 春樹は舞香から離れようとするが、なかなかどうして舞香がそれを許さない。
「それはそうと、舞香。おまえ、その水着……」
「えっ? そ、それがどうしたの……」
 春樹はいうかいわないか迷っていたところのことを口にした。
「おまえにビキニは似合わないぞ。せいぜいスクール――」
「お、お兄ちゃん……(激怒)」
「ぐらびああいどるもかおまけの、ないすばでぃであると……」
「お兄ちゃんのバカ! 棒読み!」
 力一杯足蹴にされた春樹は、勢いよく夏の海へとダイブした。
「……ぶへっ、ごほっ! い、いてぇな、何も思いきり蹴ることはないだろ」
 まともに海水を飲んでしまった春樹は苦しげにせきこんだ。
「ふん、自業自得よ……」
 いまだ少々怒り気味の舞香は、浮き輪を片手に海へと入った。
 ちなみに、舞香の年は春樹の二歳下、つまり中学一年である。
「沖のほうにあるブイまで泳ぐわよ。お兄ちゃんも強制参加」
 舞香にいわれて、春樹は沖のほうを眺める。すると、遠くのほうにちっちゃい何かが浮かんでいるのが見えた。
 おそらくあれがブイだろう。
「待て待て。これはかなり骨が折れるぞ?」
 確かにあそこのブイまで泳いだとしたら、かなり骨は折れるだろうが、実のところ春樹が危惧するのは別のところにあった。
「だ〜め、問答無用だからね。ううっ、お兄ちゃんが口ごたえするから、さっきお兄ちゃんに傷つけられた乙女の心が……」
 怒っていたかと思えば、今度は一転して泣き始める。嘘泣きであるとは十二分にわかってはいたが、これ以上逆らっても事態は好転することがないように思われた。
「わかった。いくよ、いけばいいんだろう?」
「……よろしい。ふぅ、お兄ちゃんも、もう少し素直になったほうがいいよ」
 また、舞香が憎まれ口をたたいていたが、春樹はそれに答えることはなかった。いや、答えることができなかったのである。
 そして……悲劇は起きることになる。事件は二人が海に入って後、ちょうど足が届かなくなってまもなく発生した。
「……えっ? ち、ちょっと、お兄ちゃん?」
 舞香がふと振り返ってみたところ、そこにはすでに春樹の姿が見当たらなかった。いや、わずかながらではあるが、春樹の手であろうと思われるものが、水面に沈み込むのが見えた。
「う、嘘〜〜〜!」
 いやはや、まったくもってこれは非常事態である。
「お兄ちゃん? ちょっと、お兄ちゃんってば〜!」
 春樹を助けたいという思いはどれだけ強くても、それを成し遂げる力が伴っていなければ、その思いが成就することはない。
 ありていに言うと、舞香自身、水泳がそれほど得意ではなかったのである。
「だ、誰か、お兄ちゃんを助けて〜!」
 涙目になって舞香が叫ぶ。そこには、自分には兄を助ける力がないという悔しさもにじみでていた。


――他方、春樹はというと……
(――バカだな、俺は……。下手なことに見栄をはるんじゃなかった……)
 今や全身海の中、泳ぐことさえままならぬ、いや、泳ぐことができない春樹は、いよいよ酸素欠乏状態へと入った。
(ふっ、これで俺も日本海溝の底か……深すぎるぜ……せめて、還暦は迎えたかった……)
 春樹の願いもむなしく、彼の意識は今まさに闇と同化しようとした。
 ――しかしながら、闇がすべてを覆いつくすことはなかった。それよりもむしろ、広がる闇さえも吸い込んでしまいそうな光が、春樹の目の前に広がったのだ。
(……光の天使っていうのは、実際に存在したんだなぁ……)
 この瞬間、春樹の意識は完全に失われた。
 後にこの出来事は、女神救世主伝説として、春樹の記憶の奥底に眠ることになる。
 耐え難い恥辱と運命的な出会いとともに……。



「……まったく、とんだ不肖の息子だ」
 なかなか渋い感じの中年の男性、栗丘恭三は一つ息を大きくついて、横になっている我が息子、栗丘春樹へと目をやった。
「お兄ちゃん……」
 いまだ目を覚ますことなく、横になっている春樹を舞香は心配そうに眺めた。
 まさか、こんなことになるとは思ってもいなかった。いや、それよりもむしろ、まさか春樹が……。
「……う……うん……」
 恭三と舞香が見つめる中、春樹はうっすらと目を開いた。
「こ、ここは……あ、あれ……親父? 舞香?」
 どうやら、春樹の意識は完全に戻りつつあるようだった。
「息子〜、おまえは実に情けない男だ」
「お兄ちゃん! よかった……、心配したんだよ、すっごく……」
 突然の恭三の言葉に、春樹はカチンときたが、舞香には心配かけたと思った。
「ま、舞香……心配かけて悪かったな」
「うん……。……で、でも、まさかお兄ちゃんがかなづち――」
「それ以上は言うなぁっ〜」
 舞香がすべてを言い終える前に、春樹は一際大きな声でそれを制止した。
「あぁ、情けない、情けない……」
「そこもうるさい!」
 やれやれといった感じであきれる恭三を、春樹はどなりつける。
 どうやら、春樹の気力は完全に復活したようであった。
「舞香よ、これだけ息子が元気ならば、もう心配はいらんだろう」
 恭三は舞香の頭に手をポンッと置いた。
 実のところ、憎まれ口をたたきはすれども、二人とも心配してくれていたというのは春樹にはわかっていた。
 この夏こそ、かなづちを克服せんと誓う春樹であった。
「それはそうと、お兄ちゃんを救出するのすごく大変だったんだから」
 舞香がジェスチャーも交えて大げさに話す。
「おい、舞香……俺を助けてくれたのは、いったい誰なんだ?」
 これは、春樹がとても知りたかったことだ。意識を失う寸前、誰かが手をさしだしてくれたような気がするのだが、それはとても曖昧な記憶だった。
 しかし、春樹がそのとき、冷たい海の中にもかかわらず、その誰かの気配――まるで優しい風に包まれたような暖かさを感じとっていたのだ。だからこそ――、
(光の天使だと、思ったんだよな……)
 春樹がしばし黙考していたが、舞香はかまわずに口を開いた。
「実はね、お兄ちゃんと同じくらいの年のお姉ちゃんがね、助けてくれたんだよ」
「俺と同じくらいの年の……女の子か……」
 どうやら、光の天使の正体は、その少女であるようだった。いやはや、今からでもその少女に、一言お礼をいいたい思いである。
 なにせ、自分の命の恩人であるのだから……。
「お兄ちゃん、ちゃんとお姉ちゃんたちに感謝しないだめだよ!」
 舞香が春樹に諭すようにいう。それはどうでもいいことなのだが、春樹には舞香の言葉が少しひっかかった。
「お姉ちゃんたち、ってことは一人じゃなかったってことか?」
「んー、そうだよ。運動神経がよさそうなお姉ちゃんと、頭のよさそうなお姉ちゃんが助けてくれたんだよ」
 つまりは、その二人の少女が春樹を死の淵から助け出したようである。
「その救出劇は、それはもうすごかったんだから! わたしなんて、傍からみているだけで精一杯だったよー」
「……おい、それってつまり、おまえは何もしてねえってことなんじゃ……?」
「お兄ちゃん……(激怒)」
「舞香様が奇跡を起こしたもうたと……」
 春樹は、とりあえずこの場は下手にでるべきであると判断した。舞香を怒らしてもろくなことにはならないのだ。
「息子ー、とりあえず、そのお嬢さん方と舞香には感謝しておけ」
 二人の話を聞いていた恭三は、口にくわえたタバコに火をつけた。
「……ふぅ、そろそろか……」
 恭三が一つ大きく煙を吐き出しては、言葉を漏らした。
「親父? そろそろって何かあるのか?」
 春樹が恭三に尋ねかける一方で、舞香が何かに気づいたようで声をあげた。
「ねぇ、男の人がこっちに向かって歩いてくるよ?」
 舞香がその方向に指をさす。春樹もそちらを向いてみたところ、たちの悪そうなキザったらしい若者が、こちらに向かって歩いてきていた。
 その若者は、春樹と舞香を一瞥した後、恭三の前へと歩み出た。
「よぅ、兄ちゃん、俺になんか用か? 今は家族サービスタイムだ」
 まだ半分ぐらいしか吸っていないタバコを、携帯灰皿に始末した恭三は、含み笑いをもってその若者に話しかけた。
「……冗談はよしてください、警部」
 その若者は恭三に一礼した後、やるせない表情でいった。
「おい、親父……いったいどういうことだ?」
 警部と呼ばれたことからもわかるように、栗丘恭三は警察官である。警察関係者の中では、恭三はなかなかのキレ者で通っているらしかった。
「息子、そう慌てるなー。後で話す。――では保原、報告を聞こうか」
どうやら恭三の部下であるらしい保原と呼ばれた若者は、懐からなにかの資料を取りだした。
「それでは、簡単に説明させていただきます。調査によりますと、やはりあの小島で何かが起こっているようです。向こうと連絡を取り合って、警備隊の配置の承諾は取得済みです」
 恭三と保原の会話に、春樹は耳を傾けたが、まったく理解することができなかった。
「ふむー、だいたいのことは分かった。保原、引き続き調査のほう頼んだぞー」
「警部、実は……よくない知らせが一つあります」
 保原はメッセージカードのようなものを恭三に手渡した。
「……ほぅ! これは確かによくない知らせだ」
 恭三はそのメッセージカードを見て苦笑した。
「どうなさるおつもりですか、警部?」
 不安げな表情で保原が尋ねる。どうやら事態は深刻であるようだ。
「こちらの件は俺にまかせろ。もともと俺が担当だ。まぁ、なるようになるさ」
 恭三はあっさり言い返すと、タバコを一本口にくわえて火をつけた。
「了解です。それでは、私はこれで失礼します」
「あー、保原。ちょっと待て……」
 歩き去ろうとする保原を呼び止めた恭三は、一度タバコの煙を大きく吐き出した。
「保原ー、おまえは仮にも警察官だぞ。ナウなファッションがいいのは分かるが、少しは慎めー」
 保原は一瞬固まったかと思えば、少々顔を赤らめて俯いた。
「茶化さないでください、警部。ただの変装です……」
 うつむいてもじもじとした仕草をするその若者は、どうも男らしくなかった。
 それもまぁ、当然といえば当然である。
その若者――保原優子の性別は「女」であるのだから……。


「――で、どういうことなのか話してもらおうか、親父?」
 恭三の部下である保原優子が去った後、改めて春樹は恭三に話しかけた。
「しゃあねぇな、話してやるよ」
 恭三はやれやれと溜め息をつくと、またタバコを一本口にくわえた。
「今日は家族で海に遊びにきたわけだが、実はある一件の調査も兼ねていたんだよ」
「へぇ、親父も仕事熱心だな」
「……茶化すな。それはそうと、息子、おまえは最近話題になっている盗人を知っているか?」
 先ほど、部下の保原から受けとった一枚のメッセージカードを指でいじりながら、恭三は話した。
「盗人? 俺は知らないが……」
「はい! わたし知ってるよ〜」
 横で話を聞いていた舞香が、自信満々に手をあげた。
「それって、怪盗¢ルージュのことだよね?」
 怪盗¢ルージュ……春樹には聞いたことのない名前だった。
「正解だ、舞香。――でだ、その怪盗¢ルージュさんとやらが、この一件に絡んできやがったと、こういうわけだ」
 恭三は舞香の頭を撫でる一方で、持っていたメッセージカードを春樹へと渡した。
 春樹はそれをまじまじと眺める。そこには、次のように書かれていた。
 ――予告状  犬が鳴き始める「刻」
      聖なる涙のカケラをいただきにまいります
怪盗¢ルージュ――
「怪盗¢ルージュ……世紀を渡ってあらわれた、伝説の大怪盗。いまだにその正体さえも、いっさい謎に包まれたままだ。俺も、連戦連敗と情けない有り様だ。……時を越えた怪盗は、伊達じゃない……」
「怪盗¢ルージュ……時を超えた怪盗……」
 春樹はもう一度、怪盗¢ルージュの予告状に目を下ろした。
 暗号のような文章は、明らかに何かを象徴しているように思われた。
「息子ー、おまえにはこの予告状の意味がわかるか?」
 挑発的な笑みを浮かべて、恭三は春樹へと問いかけた。
 この一枚の予告状が事件の発端であり、春樹にしてみれば、運命の片道切符にも相当するものであった……。




2 悪友あらわる〜いざ、聖涙島へ〜

 時は少し戻り、ちょうど春樹が救出された後のこと。
 見事に春樹を救出した二人の少女は、周囲から拍手喝采を受けて、少し照れながらもその場をあとにした。
「……まったく、男のくせして溺死寸前までいってるなんて、情けないわね」
 ビキニの水着を着た、眼鏡をかけた知的な感じの少女が、あきれた表情でいった。
「まぁまぁ、そんなに悪くいわなくてもいいじゃない」
 もう一人の少女、こちらはワンピースの水着を着ており、ポニーテールにまとめた艶のある黒髪が印象的である。
「わかったわよ……。でも、わたしたちがいなかったら、彼はいったいどうなっていたことか……」
「そうだけど……助かったんだから、よかったじゃない」
 黒髪のポニーテールの少女は、苦笑しながらいった。
「はいはい、この話はこれで終わり。――ところで、どうするつもりなの、今日の行動は?」
 眼鏡をかけたセミロングの少女が、興味津々に尋ねる。
「うん、今日で決着をつけようと思うわ。……大丈夫かな?」
「――どんなに困難な状況であろうと、情報を得たものが勝利する」
 セミロングの少女はきっぱりと断言した。自信に満ちたその態度からは、余裕さえも感じとれた。
「はぁ、いったいその自信はどこからくるのよ〜?」
「どこでもいいでしょ、そんなの。ただ、わたしたちはすべての情報を手に入れた。負ける要素なんてあるわけないのよ」
「はぁ〜、戦うのはわたしなんだけどなぁ〜」
 ポニーテールの少女はがっくりとうなだれた。
「自分に自信を持つこと! それが不可能を可能にする魔法の薬なんだからね」
 セミロングの少女は、優しくも力強くポニーテールの少女の手を握った。
「――わかった。海で遊びたいのはやまやまなんだけど、仕方ないわ!」
「その意気よ! ――見せてやりなさい……怪盗¢ルージュは無敵なんだってね♪」
 セミロングの少女の言葉に、ポニーテールの少女は力強くうなずいた。


「どうだ、息子? おまえにはこの予告状の意味がわかるか?」
 怪盗¢ルージュの予告状に目を落としたまま黙考する春樹に、恭三はもう一度問いかけた。
「――ふっ、この程度で暗号というのは言い過ぎだな」
 春樹のこの余裕からすると、どうやら予告状の意味を易々と理解することができたようである。
 春樹は体力にはあまり自信がない一方で、こういった頭を使うことは得意であるのだ。
「ほう! ――では、探偵君。早速、話してもらおうか」
「お兄ちゃん、がんば!」
 恭三と舞香が見つめる中、春樹はゆっくりと口を開いた。
「予告状の内容そのものは単純なことなんだ。まず、最初にある犬の鳴き始める『刻』だが、これは何も難しく考えることはない」
「お兄ちゃん、それはつまり、怪盗¢ルージュが愛犬を連れてくるということなんだね?」
 春樹の話に、舞香がおずおずと口を挟む。
「舞香……いったいどう考えたらそうなるんだよ……」
 春樹が半ばあきれながら答える。恭三も意表をつかれたようで、驚いて目を見開いていた。
「なんだ〜、はずれか〜」
 悔しそうに舞香は舌打ちをした。
「はずれもはずれ、大はずれだぜ。――それでは、気を取り直して話を続けるぞ」
 舞香が不満の声をあげていたが、春樹は気にせずに続きを話すことにした。
「犬が鳴き始める『刻』、これを解く鍵は十二支にあるんだ。昔は時刻をすべて十二支であらわしていた。そして、戌の『刻』というのは、今でいうところの、およそ午後七時から午後九時のことなんだ。つまり、犬が鳴き始めるというのは、戌の『刻』のはじめ、すなわち午後七時に怪盗¢ルージュがあらわれるということだ」
 春樹はまるで探偵であるかのように淡々と語り、恭三の様子を窺った。
「ふむー、なかなかやるじゃないか、探偵君」
 恭三は涼しげな顔でパチパチと拍手を送る。
「わたしはよくわからないけど、一応お兄ちゃんはすごいってことなんだね」
 舞香も何食わぬ顔で拍手を送る。
「では探偵君、次のステップだ。残りの予告状の部分の見解は?」
 残りの部分とは「聖なる涙のカケラ」のことである。
「これに関しては、俺に与えられた情報が少ないから、なんともいえない。ただ、さっき親父が話してた、どこかの小島で起きている事件と関係があるということと、『聖なる涙のカケラ』に類似した意味合いの宝石あたりがターゲットなんだろう?」
「うむー、まぁ、こんなものだろう」
 春樹の話しに、恭三は納得のいった顔で手をたたいた。
「――それなら、今度は親父が話す番だな。例の一件のことをもう少し詳しく話してもらうぞ」
 恭三は面倒くさそうに頭を掻いた。
「どうしてそんなに知りたがるんだ、息子?」
 恭三の問に、春樹は意表をつかれたようで、呆然とした表情をしていた。
「どうしたの、お兄ちゃん? ぼうっとして」
「――んっ、いや、別になんでもない」
 舞香に肩をたたかれて、春樹は我に返った。
 春樹は、どうして自分が例の一件を知りたがったのかを少し考えてみたのだが、なぜか理由は思い浮かばなかった。
 あえていうならば、衝動的な知的欲求というべきであろうか。――いや、率直にいうならば、怪盗¢ルージュという人物について興味を持ったということであろう。
「しゃあない、超特別出血大サービスだ」
「……そんなにたいそうなもんかよ……」
 春樹は皮肉をいうが、恭三は特に気にすることもなく、タバコを一本取りだしては口にくわえた。
「――舞香、おまえは母さんと一緒に遊んどいてくれ。もう少しすれば、ここに戻ってくるだろう」
「え〜! なんで〜!」
 舞香が声を大にして反論する。自分一人が仲間外れにされるのが納得いかないのだろう。
「そう怒るな、舞香。――ふむ、後で何かおまえの欲しいものを買って――」
「――それじゃあ、舞香はお母さんと一緒にいるから♪」
 怒った顔からコロッと一変して、爽やかな笑顔を春樹と恭三へ向けた。
「はぁ〜、なんつー調子のいいやつだ……」
「――なにか文句あるのかな、お兄ちゃん♪」
 顔は微笑んではいたが、舞香のその目は明らかにマジだった。
「……賢明な判断であります」
 額に脂汗を浮かべた春樹は、うやうやしくも舞香へと敬礼するのだった……。



「うーい、出発するわなー」
 間延びのした声。七十歳は過ぎていると思われるじいさんの合図と共に、その舟は動きだした。
 その舟は使い古された感があったが、いそいそと景気よく進みだした。
「……途中で沈んだりしないだろうな」
 額から冷や汗を流しながら少年が言う。この少年、栗丘春樹は頼みこんで舟に乗せてもらっている身でありながら、愚痴をこぼしているのだ。
 夏の日は長い。夕日が着々と水平線に向かって沈んでいく。
 それと同様に、自分の乗る舟まで沈んでしまうのは勘弁して欲しいことだ。
「おーい、じいさん。安全運転でよろしくたのむぞ〜」
 春樹の隣に立つ中年の男性、栗丘恭三は、苦笑しながらも舵をとるじいさんへと話しかけた。
「う〜い!」
陽気に答えるそのじいさんの自信と余裕が、かえって春樹と恭三を不安にさせていた。
すると、その様子を見かけた、じいさんの隣に付き添うばあさんが、やわらかな微笑みを浮かべて二人のもとへ近づいてきた。
「まぁ、安心しいや二人とも……。今のじいさんはもう萌やしやが、昔はそらぁ凄かったさ」
 ばあさんが誇らしげにじいさんのことを語る。聞くところによると、このじいさんはなかなか腕が立つとのことで、春樹と恭三はひとまず胸を撫で下ろした。
「ところで……あんたたちは、何であの小島に行きたいんよ?」
 じいさんのことを話し終えたばあさんは、何気なく春樹たちに尋ねた。
 春樹たちは今、ちょうど舟を出そうとしていたこの老夫婦に頼みこんで、舟に乗せてもらっている。それもこれも、恭三の超特別出血大サービスのためなのである。
 今日の午後七時に、あの小島――聖涙島(せいるいとう)に怪盗¢ルージュがあらわれる。春樹は恭三に同行することを許されたのである。
 春樹にとって、これは願ってもないことであった。
「ちょっと知人と会う約束があってね……」
 恭三が当たり障りのない返事をする。知人とはもちろん、怪盗¢ルージュのことである。
 春樹は、恭三からあの一件のことについて簡単に説明を受けた。あまり詳しいことは秘密にされてしまったが、それでも概要くらいは理解できた。
 話によると、聖涙島と呼ばれる小島には、刻聖院(こくせいいん)という一家が住む大邸宅があるという。怪盗¢ルージュのいっていた「聖なる涙のカケラ」とうのは、おそらく刻聖院家に代々伝わる家宝である白璧「刻の雫」のことであるらしい。
 また、別に恭三が調査していた一件というのは、刻聖院家の様子を探ることである。それには何か理由があるようであったが、恭三が詳細を語ることはなかった。
「そういえば、おまえさんたち……あの聖涙島にまつわる伝説を知っておるか?」
 ばあさんが、ふと思い出したように口を開いた。その目からは、懐古の念が感じとれた。
「知らんな……ばあさんは、なんか訳ありのようだが……?」
 恭三は、ばあさんの昔を懐かしく思う様を見てとり、尋ねかえした。
「――いんや、訳なんぞなんもありゃせんよ……」
 ばあさんはやわらかく笑ってみせた。このような笑みを見せられてしまっては、春樹も恭三も、これ以上深くつっこむのを避けざるをえなかった。
「それじゃあ、少し老いぼれのつまらん話に付き合ってもらうかのー」
 ばあさんは一つ息をついてから、ゆっくりと話しだした。
「まぁ、伝説とはいっても、昔話のようなものじゃ。――かつて、この世には空しか存在しておらんかった……。じゃがな、それはたいそう悲しいことだったのじゃ。――そしてあるとき、悠久の空が、憂愁であるがために、一滴の雫を大地へとこぼしたのじゃよ……」
(……この話……どこかで聞いたことがあるような……)
 春樹は自らの記憶を探ってみるのだが、どうもうまく手繰りよせることができなかった。
「――それから空は、ポタポタと雫をこぼしつづけおった。……その雫が水となり……ついには海となったのじゃよ。この世界は……悲しい空がこぼした、一滴の涙から創られたのじゃ。――そして、その空がこぼした最初の雫がこぼれおちたのが、おまえさんたちがこれから行く、あの聖涙島なのじゃよ……ふぅ……」
 一気に話し続けたので疲れたのか、ばあさんは一度大きく溜め息をついた。
「……わしからの話はこれで終わりじゃ――ほっほっほ」
 ばあさんは手をポンポンとたたいて陽気に笑う。
 これで話は終わりだといったが、春樹にはもう一つ気になることがあった。
「なぁ、ばあちゃん、あと一つ刻の雫のことも、なにか知ってたら教えてくれないかな?」
 ――と、春樹がばあさんに話しかけたちょうどそのとき、こちらに誰かが近づいてくる足音が聞こえた。
「――フッ、あまりばあさんを質問攻めにしてやるな。よかろう、この質問には俺が答えてやる」
 少し声高気味の少年の声。見ると、春樹と同じくらいの年の少年が、さわやかな笑顔を浮かべて立っていた。
「――な! な、なんでおまえがこんなところにいるんだ?」
 突如としてあらわれた少年は、春樹の知る人物であった。
 この少年、矢吹俊也は、春樹のクラスメイトであり友人である。
 春樹の勉強の成績は、学年でも常に五本の指に入るのだが、この矢吹という少年は驚くべきことに、常に学年トップの成績を維持している。
 なかなかの二枚目で、勉強もスポーツもよくできるのだが、欠点としては、性格が世間一般に比べて少しずれていた。
 ありていにいうと、「変なヤツ」なのである。
 何の前触れもなく、突然この場にあらわれたことが、この少年、矢吹俊也の性格を物語っているといえよう。
「――フッ、栗丘〜、おもしろい場所には、矢吹あり……だ」
 そういって、矢吹はにやけた笑みを浮かべる。
「いや、俺はつっこまん、あえて何もつっこまんぞ……!」
 春樹があきれた表情でうなだれたが、矢吹は特に気に留めることなく話し続けた。
「刻の雫についてだが、俺から少し情報を提供してやろう」
 刻の雫という矢吹の言葉に、春樹はハッと顔を上げた。
「矢吹、頼む……話してくれ。――なんでおまえがそんなことを知っているのかということは、あえて触れないから……」
 矢吹の特徴としては、かなりの情報通であるということが挙げられる。平凡な日常生活を送っていては、決して耳にすることはないというような情報でさえも、あるいはどんなにささいでちっぽけな情報も、矢吹の手中にあるのである。
 春樹の友人であり、矢吹の友人でもある、クラスメイトの相崎祐人が曰「矢吹は非公式裏情報闇流通会に属すもの也」だそうだ。極めて関わりたくない怪しげなものである。
「それでいい、機密事項だからな。栗丘、他言無用だぞ」
 矢吹は春樹とともに、恭三やばあさんから少し距離を置くと、いかにも秘密話といった様子でこそこそと話しだした。
「栗丘、これはおまえも知っていることだと思うが、刻の雫というのは、さっきばあさんの話にもあったように、空の刻を悲しむが故の涙……その最初の一雫だといわれているが、実際のところはこの話は伝説だからな。その真偽は定かではない。あくまで刻の雫というのは白璧――それはもう値がつけられないような宝玉であると認識すればよい」
「――そんなに大切なものなら、そう易々と盗まれるわけにはいかないな!」
 自らの拳を強く握り、春樹は力強くいう。
 春樹は、「悪は許すべからず、我は正義なり」といった、あらゆる悪において排他的である正義感溢れ過ぎの少年ではないが、目の前で行われようとしている悪事をみすみす見逃すようなことは絶対にしない性格である。
「まぁ、そんなに慌てるな、栗丘。――フッ、ここからがお待ちかねの情報タイムだ。まず一つ、刻の雫は大変貴重な白璧ではあるが、それと同時に危険な宝物でもある」
「――それは、いったいどういうことなんだ?」
「つまりだ、刻の雫は呪われたアイテムだということだ。よくゲームであるだろうに、呪いがどうこういうやつは」
 春樹はだいたいの想像はできたのだが、それが実際に存在するというのが信じ難かった。
「それともう一つ……怪盗¢ルージュには気をつけろ」
「――な! おい、矢吹。おまえは怪盗¢ルージュについてなにか知っているのか?」
 春樹の言葉に、矢吹は何食わぬ顔で意味深な含み笑いを一つ浮かべた。
「少しは……な。まぁ、俺は神ではないのでね、すべてを知っているというわけでない。――しかし、一つだけいっておいてやろう」
「……なんだ?」
 突然、矢吹はにやけた顔から真剣な表情へと変わった。
「怪盗¢ルージュはな……風の使者だ」
「風の使者……どういうことだ?」
 春樹は、矢吹の言葉の意味がイマイチわからなかった。
「栗丘〜、そう深く考えるな。そのうちわかることになる。――ところで、栗丘。おまえは、怪盗は悪人だと思うか?」
 矢吹はまたにやけた表情にもどり、話題をコロッと変えた。
 春樹も、矢吹をこれ以上問いつめたところで、口を割ることはないとわかっていたので、矢吹に話を合わせることにした。
「立派な犯罪だ! 俺は許せないな」
「そうか……。――フッ、まぁ、おまえならそういうと思ったさ」
 矢吹が納得したように頭を上下させる。
「それなら、おまえはどうなんだ、矢吹? 人に質問したんだ、自分も答えてもらうぞ」
 矢吹は少し顎に手をあてて考える仕草をみせたが、まもなくいつものにやけた顔で口を開いた。
「――おもしろければ良し! それがビューティフルであればなお良し……だ」
「……矢吹、おまえはやっぱり変だ」
 春樹は変なモノを見るかのような目で、矢吹を眺めた。
「ほぅ、そんなことを俺にいう資格があるのかね、かなづちの栗丘君」
「――お、おまえ! どうしてそれを……」
 春樹が不意をつかれたように、萎縮する。
「栗丘〜、何度もいっているだろう、おもしろい場所には、矢吹あり……だ」
 矢吹が不敵な笑みを浮かべる。
 春樹は想像してみた。自分が海に沈み、妹である舞香が半狂乱に助けを求め、それを聞き駆けつけてくれた二人の少女が懸命に春樹を救助する。――その様子をにやけた笑みで眺める矢吹……。
「……嫌だ……嫌すぎる……」
 春樹は頭を抱えてしゃがみこみ、苦痛の声をあげた。
 そんな春樹の声を聞き流すかのように、矢吹はふと前方に視線を送る。
 島が見えた。そう大きくない小島だ。
 春樹たちを乗せた舟は、沈むことなく、まもなく聖涙島に到着しようとしていた。
「――怪盗¢ルージュと刻の雫か……これはおもしろいことになりそうだ」
 春樹に聞こえない程度の矢吹のささやきは、うす暗さが広がる中、そうはさせまいとうごめく不気味な赤に、吸い込まれていくかのようだった……。



3 刻の雫を守りぬけ

 時刻は現在、午後六時三十分。怪盗¢ルージュが予告した時間の三十分前となった。
 つい少し前までは、陽の光が強かったものの、今ではもうその強さはみられず、広がりはじめた薄闇と暗雲が空一面を覆いつくそうとしている。
 遮られた陽の光は、その中でわずかにうごめく赤として、とりわけ異彩を放っていた。
 海ではもはや誰も泳いではおらず、時折砂浜を散歩する人が二人の少女の横を過ぎていく。
 その二人の少女――艶のある黒髪をポニーテールにまとめた少女と、さらさらとしたセミロングの眼鏡をかけた少女は、砂浜に立ち尽くしたままその視線を前方に向けていた。
 その視線の先には、海の向こう側に見える小さな島があった。聖涙島と呼ばれる小島である。
「さぁ、そろそろ時間よ。今ごろは、向こうでも警戒態勢に入っているでしょうね」
 セミロングの少女は、余裕を持っているだけではなく、どことなく楽しそうな感じで話す。
「――はぁ、なんでそんなに楽しそうなの?」
 セミロングの少女とは対照的に、ポニーテールの少女は落胆している様子である。
 二人とも海をあがって更衣をしたようで、魅力的な水着姿ではないが、薄着をした涼しげな格好は、それはそれで印象的である。
「別に楽しいわけじゃないわよ。ただ、怪盗¢ルージュの勇姿が見れるのが嬉しいだけよ」
「……もう、こっちだって好きでこんなことやってるんじゃないんだからね」
「はいはい、そんなことは言うまでもなくわかってるわよ。いったい私を誰だと思っているのよ?」
 やれやれといった感じで、セミロングの少女は首を横に振る。
「えーと、怪盗¢ルージュのおっかけの、情報屋のAKIさんだよね?」
「…………」
 ポニーテールの少女の言葉に、セミロングの少女は明らかにショックを受けているようであった。黙ってはいても、目に見えてその落胆ぶりはわかった。
「なにしょぼくれてるのよ、冗談よ、冗談」
 ポニーテールの少女は明るく笑っていうが、セミロングの少女は深刻な表情である。
「グサッと心にナイフを突き立てられたような痛み。まさか、大の親友にこんな言葉を浴びせられるなんて……ううっ」
 セミロングの少女は、胸のあたりに手をあてて大げさにすすり泣く。
「わかった、わかったからめそめそ泣かないでよ。周りから変に思われるじゃない」
 周囲を気にして、ポニーテールの少女は辺りを見回すと、浜辺を散歩している人がちらほらとこちらに視線を向けていた。
「……はぁ、しょうがないわね、一つだけだからね」
 あきらめたようにポニーテールの少女がいう。
 親友であるセミロングの少女とは長い付き合いであるので、お互いの手の内はすでに把握していた。
 こうなった以上は、セミロングの少女の希望を一つ聞かないことには、事態が収拾しないことが、ポニーテールの少女にはわかっていたのだ。
 案の定、セミロングの少女はコロッと表情を変えた。
「じゃあね、私も一緒に聖涙島に連れていってもらおうかしら?」
「えっ? で、でも……」
 ポニーテールの少女が言葉を詰まらせる。
「私がついていくんだから、心配することないわよ」
「――わかった、わたしの負けですよ。もう予告時間も近づいてきたことだし、早速いきましょう」
「オッケー♪」
 セミロングの少女も首を縦に振る。
     *
「ほら、見てみなさい。ちょうど都合の良いことに、誰にも見つかることはなさそうよ」
 浜辺を海沿いに歩き岩場の近くまで来ると、さすがに人気がなくなっていた。こんなところにいるのは、人目を忍んで愛し合うカップルか、神出鬼没の変人くらいであろう。
「そのようね。こんなところ誰かに見られたりしたら、大変なことになっちゃうわ」
「安心しなさい。ふふっ、もし誰かに見られたとしても、そのときはそのときで、その人には消えてもらいましょう」
 何気ない顔で、セミロングの少女はとんでもないことを口にする。
「バカ、冗談でも口にして良いことと悪いことがあるわよ」
「冗談……まぁ、そういうことにしておこうかしらね」
 セミロングの少女には、まったく反省の素振りは見られなかった。
 ポニーテールの少女もどうやらあきらめたようで、一つ息を整えると、目を閉じて精神を集中させた。
「それじゃあ、いくわよ!」
 ポニーテールの少女は力強くそういうと、自分の手と手を胸の辺りで優しく握り合わせた。
「――精なる風の神、精風神ウィンダミア、その力をわたしに貸して」
 透き通るようなきれいな声に反応して、次の瞬間には、彼女を中心に光が発散する。そして、一陣の風が沸き起こる。
 その風はだんだんと強さを増して螺旋を描き、薄暗くなった岩場を覆いつくさんばかりの光が溢れだした。
 しばし後、その光と風の中から姿を現したのは、少し派手な舞台衣装を思わせる上着に、下はミニスカート。身につけた薄い白マントと、左右をツインテールにまとめた髪と、後ろに束ねて流しおろした髪が、収まりつつある微風になびいていた。
 これこそが、正体不明とまでいわれる怪盗¢ルージュの真の姿である。光と風に包みこまれたその姿は、神々しいまでの印象を持たせるほどであった。
「――ふぅ。さぁ、行こうか」
 怪盗¢ルージュは、セミロングの少女を振り返り、その手を彼女へと差しだした。
「オッケー。――それにしても、毎度毎度、タネのないマジックには驚かされるわ」
 セミロングの少女の言葉に、怪盗¢ルージュはやや顔を赤らめてうつむいた。
「……もぅ、からかわないでよ、AKI。こっちだって恥ずかしいんだからね」
「ごめん、ごめん。わかったから、今は目の前のことに集中しなさい」
 AKIと呼ばれたセミロングの少女は、冷静な表情で差しだされた手を強く握り返した。
「うん。しっかりと手を握っててね。――それじゃあ、行くわよ」
 怪盗¢ルージュは目を軽く閉じて、精神を集中させた
「……フェールプラネール」
 ささやいたような怪盗¢ルージュの声と同時に、一旦は収まった風が再び吹き荒れた。それはすぐに¢ルージュとAKIを包みこんだかと思うと、そのまま空へと上昇し、遥か前方に小さく見える小島、聖涙島へと吹きすさんだ。
「――さぁ、ゲームの始まりよ……」
 薄闇の広がる夏の空へと、怪盗¢ルージュの声が響き渡っていった……。



「――着いたぞい。ここが聖涙島よ。おまえさんたちが行こうとしている刻聖院の大邸宅は、ここをまっすぐ進んだ先にある。ほれ見てみ、あそこに屋根が見えておる」
 少年、栗丘春樹は聖涙島についた直後に、舟に乗せてここまで連れてきてくれたじいさんが口にした言葉を思い出した。じいさんは淡々と聖涙島のこと、刻聖院の大邸宅がどこにあるのかを話してくれた……のだが、
「……本当にこっちの方角で大丈夫なんだろうな……?」
 なんとも不安げな表情で、春樹は一人愚痴をこぼした。
 春樹と父の恭三、そして春樹の友人の矢吹俊也は、現在深い森の中をさまよい歩いていた。
 怪盗¢ルージュが予告した時間が迫りつつある中、春樹たちはいまだに刻聖院家に辿り着いていなかったのだ。
「心配する必要はないぞ、栗丘。じきに到着する」
 その余裕はどこからくるのか、矢吹は終始にやけた表情である。
「まぁー、あのじいさんの言葉がまちがっていなかったらだけどなー」
 春樹と矢吹の少し後ろを歩いている恭三は、ぼそりと愚痴るとくわえていたタバコの煙を一度大きく吐き出した。見た目では、ぼうっとした様子の恭三ではあるが、内心では少々慌てていた。
 恭三は怪盗¢ルージュ対策本部の責任者であるので、一刻も早く現場に到着しなければならないのだ。今ごろは、部下の保原が首を長くして待っていることだろう。
「おじさんもそんなに慌てなくて大丈夫ですよ。ほら、ここを抜ければ刻聖院家はすぐそこです」
 矢吹が少し先を指で示す。どうして矢吹が道を知っているかは謎であるが、距離としては、刻聖院家はもうすぐのところであった。
 暗い林の中を三人は進み続けた。――と、実に矢吹のいったように、だんだんと林の終着が近づいてきていた。暗闇となりつつある空に、わずかに残った夕陽が放つ赤が、林の終着で三人を歓迎しているようであった。
「着いただろう。ここが刻聖院家だ」
 矢吹は得意げな様子で目の前に視線をやる。そこには、聞いたとおりの大邸宅がそそり立っていた。一見したところ、西洋の城を模倣しているような印象を受ける。
 春樹たちは早速、刻聖院家の大門の前に歩み寄った。この大邸宅の周りには、高い石垣が設けられているので、そう簡単には邸宅内には進入できないようになっていた。
「よぅ、警備のほうしっかりとやっとるか?」
 恭三は、大門の前に立っていた警官の一人に話しかけた。やはり、もうまもなく怪盗¢ルージュが現れるだけのことはあり、警備は厳重であるのだ。
「く、栗丘警部! 今までいったい何をなさっていたのですか?」
 話しかけられた警官の一人は、心底驚いた表情であった。
「すまん。所用により、少し遅れた」
 所用というのは、言うまでもなく家族サービスのことである。実のところ、恭三は今日の仕事はあまり乗り気ではなかったのである。
「そ、そうでありますか……保原警部補がなにやらストレスの溜まった表情で、邸宅内を徘徊なさっていたようであります」
「……貴重な報告ごくろう。しっかりと警備を頼むぞ」
 恭三の言葉に、警官は敬礼とともに意気のいい声をあげた。
     *
 刻聖院邸内は、春樹たちが想像していた以上に広かった。門をくぐった先には大きな庭があり、そこを横切るといよいよ玄関が見えてきた。玄関の門もまた、それはもう大きなものであった。
 ちょうどその玄関の門の前に、紺のスーツを華麗に着こなした女性が、頭を抱えるように立ち尽くしていた。その女性もどうやらこちらに気づいたようで、驚いていながらもあきれた表情を見せた。
「……警部、今まで何をしていたのですか!」
「――ふむ、少し所用があってな。まぁ保原、そう怒るな」
 恭三は苦笑しながらも部下の保原をなだめた。しかしながら、保原が怒るのももっともである。なんの連絡もなしに怪盗¢ルージュが予告した時刻の寸前になり、ひょっこりと顔を見せたのだから。
「……え? や、保原さんって……も、もしかしてさっきのきざな兄ちゃん!?」
 春樹は開いた口がふさがらないようで、保原の顔を見て驚愕していた。いや、春樹が驚くのも無理はない。先ほど、海水浴場に現れた保原優子は、どこをどう見ても完全に「男」であった。……少なくとも、外見においてであるが。
 ところが、今の保原の容姿はどうであるか。どこをどう見ても完全に魅力的な「女」である。整った目鼻立ちに、ほんのりと赤みのさす唇、肩よりも少し長く伸びた髪。また、本人の雰囲気も落ち着いた感じで、大人の女性という印象を強く受けた。さらに、見るからに若そうである。初見では、まず二十代半ばという予測がつけられそうだ。
「そんなに驚くこともないだろうに、息子。警察官にはな、任務という名の捜査がある。捜査の種類においては、変装もしなくてはならない。警察官に変装は、必要なステータスなのだよ」
「そうなのか……。ていうか、親父は変装なんかできるのか?」
 春樹は疑わしげな表情を恭三へと向けた。
「ま、まぁな……」
 恭三はなんとも歯切れが悪かった。瞬時に、恭三が変装をそんなに得意ではないということがわかった。
「息子ー、なんだ、その顔は? まぁ、変装のことは置いといてだ。――保原、現状の報告を頼む」
 保原はうなずくと、メモのようなものをポケットから取り出した。
「それでは、現状の報告をいたします。まもなく午後七時、予告状にあるように怪盗¢ルージュの出現時間になります。すでに警官隊の配置は終了しておりますので、後は、怪盗¢ルージュを迎え撃つのみです」
「――ふむ、そうかー。それでは、別件のほうはどうなっとるんだ?」
 珍しく真剣な表情で、恭三が尋ね返す。
「そちらの件は、おおむね問題はないと思われます。詳しいことは後ほど話しますが、まずあの男でまちがいないでしょう」
「そう……か」
 恭三はゆっくりとうなずくと、懐からタバコを一本取りだしては口にくわえた。
「……ふぅ、いよいよだな、怪盗¢ルージュのお出ましだ」
 玄関の門を入った春樹たちがまず目にしたのは、巨大なロビーの中でも一番に目立っていた大時計であった。その時計の時刻は午後七時を指そうとしていた……。



 刻聖院邸宅一階の最奥部には天上の間と呼ばれる大部屋がある。この部屋は主に祭祀や儀式を執り行うときに使用される。また、この場所は家宝である刻の雫を保管してあるのだ。
 その部屋の端に設けられている大きな祭壇に刻の雫は存在した。それには、見るものを引き寄せる力があった。それを見るものはたいていその力に負かされ、その輝きに瞳を奪われるのである。その怪しげな光に……。
「……もうすぐだ。もうすぐで、この光は私のものとなる……ふっふふふ」
 一人の男がその祭壇のそばに立っていた。どうも陰気臭い痩せ体型の中年の男性である。
「どうかしましたか、熊谷さん?」
 天上の間に配置されていた警備員の一人が、その男の様子を変に思い話しかけた。
 熊谷(くまがや)と呼ばれた男は、我に返ったように愛想笑いを取り繕った。
「何でもありませんよ、気にしないでください。――それはそうと、先ほどよりこの天上の間の警備の数が増えていますが、もうすぐ怪盗¢ルージュが現れるんですか?」
 熊谷はいかにも温厚に話してはいるが、その言葉からはどうも静かな怒りと暗い影が感じられた。
 ちょうどそのとき、天上の間の扉が開いたかと思えば、少し慌てた様子で少年が一人、中年の男性が一人、女性が一人室内へと入ってきた。
 栗丘春樹と栗丘恭三、そして恭三の部下の保原優子である。
「おやおや、そちらの方はいったい誰かね?」
 恭三が熊谷のことを不審に思い、保原へと話しかけた。
「この方は、刻聖院の親族である熊谷さんです。当主が不在な今、実質では刻聖院家の主に相当しているようです」
「ほぅ、そうか」
 恭三は意味深なうなずきとともに、感嘆の声をあげた。
 保原の言うように現在、前当主、刻聖院泰時の息子である刻聖院家の現当主である刻聖院泰臣(やすおみ)は不在である。詳しくいえば、行方不明ということになっている。保原の調査していた怪盗¢ルージュ以外の別件はどうやらこのあたりに事件の発端があるようだ。
「熊谷といいます。警部さん、どうかこの刻の雫を悪盗の手から守ってください」
「わかっています。警察の面子からいっても、そうそう簡単に怪盗¢ルージュには、やらせはしません」
 熊谷に軽く会釈するとともに、改めて怪盗¢ルージュとの対決の勝利を誓うかのように、力強く言い放った。
「――ところで、警部さん。その怪盗¢ルージュとかいう悪盗ですが、いまだに正体不明というのは事実なのですか?」
「……情けない話ですが、事実です」
 恭三の覇気のない言葉を受けて、熊谷は誰にも悟られぬくらいの、やや下卑た笑いを浮かべた。
「そうですか。ふふっ、でも、それはそれで興味深い話ですね。正体不明の怪盗¢ルージュの正体、私も実に知りたいものです」
「最大限の努力はするつもりです」
「期待していますよ、警部さん。ふふ、それでは私は邪魔にならないよう失礼します」
 どこか陰湿な笑いを残して、熊谷はそそくさと天上の間をあとにした。
「――なんか怪しいおっさんだな」
 熊谷が去った後、春樹はぼそりとつぶやいた。その言葉を聞いて、恭三は苦笑をしながらも懐からタバコを一本取りだしては口にくわえようとした。 ――が、
「……なにをする、保原?」
 無念にも、そのタバコは保原に没収されてしまった。恭三は少々不満気な目で保原を見据えた。
「警部……何を呑気に一服しようとしているのですか! いったい今は何時だと思っているのです?」
面倒くさそうな表情のまま、恭三は自らの腕時計へと目を下ろした。
「午後七時……だな」
 何食わぬ顔で恭三はつぶやいた。
「警部、それはつまり何を意味するのですか?」
「ふむ、俗に言うゴールデンタイムというやつだな。ちなみにゴールデンタイムというのは、またの名をプライムタイムといい、視聴率の高い午後七時から午後十時までの時間帯のことをいう……が、俺には関係のない話だな」
「警部……いったい誰と話をしているのですか……」
 保原はほとほと呆れた顔でがっくりとうなだれた。
「そういえば、最近は携帯電話でテレビも見れるようになったらしいな……俺はまったく知らないが」
「――警部……、そろそろわたしの頭の中の細い糸がプツンと切れそうなんですが……」
「……冗談だ、許せ」
 恭三は手と手を合わせて、保原に謝罪した。どうしてか、先ほどよりも周囲の雰囲気が若干和らいだように思われた。都合の良いことに、ピリピリとした緊張感の中での警備より、硬くならず幾分リラックスした状態で怪盗¢ルージュを迎え撃つほうが効果的である。
 そんな些細なことに気を配れる余裕が恭三にはあった。
「おい、息子―。分かってるとは思うが、足手まといにはなるなよ―」
「なっ……そんなこと言われなくてもわかってる!」
 春樹はやや興奮気味に言った。平常心でいるつもりではいても、やはりどこかに緊張感を隠し持ってしまう。もうすぐこの場に怪盗¢ルージュが現れるという事実が、春樹の心を落ち着かなくさせていた。
 ――――パチッ
 音がした。どこかで何かの音がした……そんな気がした。
「――なっ! なんだ―!」
 その直後、天上の間はいっさいの闇に包まれた。
     *
「ふぅ、これで天上の間は今ごろ大騒ぎね。――それにしても、わたしでさえこんな簡単に侵入できるなんて、どれだけ警備が手薄なのよ」
 刻聖院邸宅一階の電力管理室。一応、立派な名前はついているが、早い話が倉庫のような部屋である。ただ、普通の倉庫と異なることといえば、配電盤があるということだけである。
 怪盗¢ルージュはターゲットである刻の雫が保管されている天上の間へ向かう。そして、AKIはこの電力管理室に潜入し、天上の間の電気をオフにする。見事なコンビプレイである。しかしながら――、
「奇妙ね。どう考えてもおかしすぎる。何か罠があるとしか――っ!」
 突如として、AKIは背後に人の気配を感じた。それもかなり神経を集中させておかなければ気づかないような、わずかな気配だ。相手は中々の凄腕であることが想像できる。
「そこにいるのは誰? 姿を見せなさい!」
 多少驚きはしたが、ここで消極的になっては相手の思うツボである。AKIは強気にも、まだ見ぬ黒い影に言葉を投げつけた。
「――まぁ、そんなに怒鳴らなくてもいいだろう。ほぅ、少々気が強そうだがかわいらしいお嬢さんだ」
 いけ好かない言葉とともに暗がりの中から姿を現したのは、一人の少年だった。それも自分とそう年の変わらないぐらいの少年だ。
「あんた、いったい何者?」
 一瞬の隙もみせることなく、AKIは少年との間合いをとる。後ろに隠した手には、いざというときのために用意したオリジナルのスタンガンが握られていた。これを食らえば、余程のことがない限り、一撃で相手を気絶させることができるだろう。
「――安心しろ、って言っても簡単にはできないかもしれないが、少なくともキミの敵ではない。フッ、まぁ、味方でもないのだがね。いわゆる、中立というヤツだ」
 何がおかしいのか、少年は含み笑いを一つして、前髪を少しかきあげた。
「なら、あんたの目的はいったいなんなのよ?」
 AKIはその少年から目を逸らさずに話を続ける。
「目的? そうだな、ぶっちゃけて話すと……特にない」
「――は、はぁ?」
 思いもよらない返答に、AKIは目を丸くした。その少年はというと、にやけた表情のままで、どうも何を考えているのかわかりづらい。
「そうだな、とりあえず怪盗¢ルージュに会えればと思ってここへ来てみたはいいが、どうもこのオレが不審者扱いされてしまってな。ありえない話だ。そこで説得を試みているうちに、キミが先に事を成就したと、こういうわけだ」
 完全に信用できるとまではいかないが、どうもこの少年が嘘をついているようには思えなかった。
「そう……。でも、残念だったわね。怪盗¢ルージュはここにはいないわ」
「ほぅ、そうか。しかし、別にそれは残念がることではない。確かに、怪盗¢ルージュには会うことはできなかったが、彼女に肩を並べるくらいの麗しいお嬢さんに会うことができたのだからね。できればお名前を聞かせていただきたいのだが……?」
「あ、あんた、よくもまぁそんな臭い言葉をぬけぬけと……」
 目の前の少年は、それはもうぶっとんだ性格をしてはいたが、悔しいことに顔は二枚目だった。AKIの頬はやや赤く染まっていた。
「わたしのことは、AKIとでも呼んでくれればいいわ。どうせ一期一会でしょうけどね。――それであんたの名前はなんていうのよ?」
「――ふむ、そうだな、さしずめアローブローとでも名のっておこうか」
 何がおかしいのかニヤリとした顔で、アローブローこと少年、矢吹俊也はいった。
「アローブロー……ね。変なのはその性格だけにしておいて欲しいわ。――さてと、お話はこの辺でやめておいた方がいいようね」
「そのとおりだ。キミは早くこの場所から逃げるといい。じきに警官がやって来るだろう。後のことはオレが引き受けてやろう」
「……なんか微妙に癪に障るけど、お願いしとくわ」
 AKIは自らの小さな拳を強く握りしめながらも、扉へと振り返った。そして、背後にいる矢吹へとそのまま話しかけた。
「一つ言い忘れてたけど、さっきの言葉、訂正しておくわ。あんたがどれだけのことを知っているかは計り兼ねるけど、少なくともただ者じゃないということは事実だからね。――このままの刻が続くのならば、一期一会じゃなく、きっとまた出会うことになるでしょうね」
 言い終わるやいなや、AKIは扉の外へと駆け出した。矢吹の視界から消える瞬間、耳を澄ませば聞こえるかぐらいの一言を残して……。
「……ありがと」
     *
「……ふふっ、こんばんは♪」
 刻聖院邸宅一階の最奥部にある天上の間。まったくの闇に包まれたこの部屋に、透き通るかのように誰かの声が響き渡った。
「あ、現れたぞー! か、怪盗¢ルージュだー!」
「――な、何をやってるんだ、電力管理室の者たちは!」
「わーん、暗くて何も見えないよー(泣)」
 天上の間はまさにAKIの思うツボとなっていた。統率のとれなくなった警官隊は、それはもうひどい有り様であった。
「――ありゃ、これは一本とられたな」
 リーダーである恭三さえも、苦笑いをしながら脱帽した。この混乱を短時間で収めることは非常に困難であるようだった。せめて、電気が回復したら望みはあるが、まだ復旧には時間がかかると予想できた。
「出口の扉付近にいるものは、直ちに電力管理室に向かい状況の確認及び、電気の復旧をしてきなさい!」
 恭三が口を出す前に、一足先に部下の保原が指示を与えていた。
 そんな混乱の中、少年、栗丘春樹は実に冷静であった。先ほどまでの緊張感がまるで嘘のように感じられる。なんとも言葉に形容しがたい感覚、今までにないような新鮮な感覚に包まれていた。
「そう簡単には刻の雫は渡さないぞ、怪盗¢ルージュ!」
 気合を入れて叫ぶと、春樹は有無を言わせず刻の雫の祀られる祭壇へと駆け出した。暗闇の中にもかかわらず、刻の雫の置かれている祭壇がわかったのにも理由がある。
 天上の間に広がる闇の中に、唯一の光が存在していた。そして、その光を発しているのが、他ならぬ刻の雫であったのだ。
 しかしながら、無我夢中な春樹は気づいていなかったのだ。刻の雫が放つ不気味な怪しい光に……。
 祭壇へと駆け寄る春樹の視界の端に、急速にこちらに接近してくる暗い影が入った。だが、相手がどれだけのスピードを誇っていようと、すでに刻の雫は春樹の目と鼻の先にあった。
「怪盗¢ルージュ……おまえには奪わせない!」
 春樹は勢いよくその手を刻の雫へと伸ばした。祭壇に刻の雫を放置しておくより、自分の手の中にあったほうが奪われにくいと考えた春樹ではあったが――、
「――待って、それに触ってはダメ!」
「えっ?」
 それは、誰かからの警告。おそらく怪盗¢ルージュが発した言葉だとは思うのだが、今の春樹はそれどころではなかった。
「……さ、触ってしまった」
 警告、時すでに遅し。勢い余った春樹は、そのまま刻の雫へと触れてしまったのだ。直後、刻の雫が放つ光が伝染したかのように、春樹の体までもが光を帯び始めた。
「な……なんなんだ、いったい? 俺の体が光に……っ! うわっ――!」
 突然、放たれる光が強大になる。春樹の体を見えなくするほどの眩き光だった。
「――ま、間に合って!」
 輝く光の中へと、小さな影が飛び込んだかと思えば、次の瞬間、小程度の爆発音とともに、春樹を包み込んでいた光が天上の間一帯に拡散する。――それと同時に、再び電気が復旧した。
「いきなり暗くなったかと思えば、いきなり光り輝きだして、何が起こったってんだ?」
 目が眩んだのか、恭三は手で目をこすりながら地団太を踏んだ。
「警部、大変です! と、刻の雫がっ!」
 部下の保原が、前方の祭壇を指さして叫んだ。その驚き様から大方の事態は想像できたので、恭三はちらっと流し目でその方向に目を向けた。
 予想通り、その場所には在るべきはずの物が存在しなかった。刻の雫は消失してしまったのだ。
「――あちゃ〜、まんまと罠にかかってしまった、ってか?」
 恭三は面目のない表情で頭をかく。周囲を見回してみれば、皆が皆複雑な表情であった。――と、恭三は一つの異変に気づいた。
「……そういえば、息子のヤツ……いったいどこにいったんだ?」
 天上の間のどこを探しても、春樹の姿は見当たらなかった。怪盗¢ルージュの姿がなくなっているのは合点がいくとしても、なぜ春樹までいなくなったのか。
「……まぁ、なんだ。考えても分からんものは考えるだけ無駄だ」
 恭三は一息つくと、懐からタバコを一本取りだしては口にくわえた。
「俺は一服しながらエールでも送っとくよ……」
 なんともやる気のない、敏腕警部殿であった。



 あらゆるものが存在することなく、ただ空白の世界のみが生きる。そんな場所に、いつしか男と女が迷い込んだ。そして、その迷い込んだ場所というのが――刻の迷宮である。
 これはすべて、刻の雫の呪われた力が生み出したものである。刻の雫が、少しでも不気味な光を放っているときに触れてしまうものならば、たちまちその者は刻の迷宮に迷い込むことになるだろう。
 以前に迷い込んだ男と女は、再び元の世界へと戻ってくることはできた。戻ることはできたのだが、刻の迷宮に忘れてきたモノがあった。
 それは――、
「――悲しみの輪廻……か」
 刻の迷宮という名の空白の世界に、一人の少女が立っていた。黒をベースにした少し派手な上着に、下はミニスカート。
 怪盗¢ルージュという一人の怪盗である。
 先ほどAKIに聞かされた話をもう一度思い返していた。刻の雫の持つ呪われた力について……。
「――それにしても、どうしてこうあっさりと最悪の事態が起こっちゃうのかな?」
 誰にともなく言ってはみるが、もちろんのことながら誰からの返答もない。
「とにもかくにも、こんな場所に長居する気なんかないんだから。早いとこ追いかけないと……力を貸して、ウィンダミア」
 自分よりも一足先にこの刻の迷宮へと入り込んだ、一人の少年を探し出すため、怪盗¢ルージュはその身を風でまとい、無の世界を進み続けた。
     *
――ちょうどその頃、
「……まさか、矢吹の話が事実だとは思わなかった……一生の不覚だ」
 少年、栗丘春樹は実に落胆していた。刻の迷宮に迷い込み、さまよい歩いてようやく、矢吹の忠告の意味を理解したのだ。
 おそらく、この今の状況が刻の雫の呪われた力に違いなかった。
「――でだ、いったいなにをどうすればここから脱出できるのか、俺はまったく知らないのだが……」
 一人で愚痴ってはみるが、もちろんのことながらむなしいだけであった。
 春樹はどうにも絶体絶命のピンチに陥っていた。ただ、闇雲に歩いていただけでは埒が明かないと判断したのか、ピタッとその歩みを止めた。
「――あなたは……誰……?」
 それと同時の出来事だった……。どこからともなく声が聞こえてきた。
「誰かいるのか?」
 周囲を見回してみるが、誰の姿もなかった。ただ一面に空白の世界が続くばかりである。
「――あなたが誰であろうと……別に構わない。――わたしはここにただ一人……だから、ずっと一緒にいよう……ずっとここにいようよ……」
 頭に響き渡る声。まるで何かの術にかかったかのように、春樹は思考することがままならなくなった……ちょうどそのとき――、
「刻の迷宮よ、その真の姿を見せなさい!」
 先ほどとは異なる声が、春樹の耳に入ってきた。前方に目を向けると、そこには一人の人の後姿があった。背中に流れるくらいの髪の長さからすると、どうやら女性のようであった。
 春樹は揺らぐ意識の中、その女性の一連の行動を目の当たりにした。
 その女性は両腕を前にかざしたかと思えば、そこには光が集中する。
「――あなたは、決して一人なんかじゃない! 思い出して、あなたを助けてくれた人を……あなたの心の光を!」
 両の手のひらに溜まった光が、その言葉と同時に、刻の迷宮全体を満たすかのように広がり続けた。それはまるで、冷えきった心を暖めなおすかのように。
「……き、君はいったい誰なんだ……?」
 春樹は残された力を振り絞って、目の前の女性へと語りかけた。視界が定まらず、いっそう意識がはっきりしなくなる中、春樹は確かにその女性がこちらを振り返るのを見た。
「――怪盗、¢ルージュよ……♪」
 春樹の意識はもはやないに等しかった。それでも、春樹は見た。こちらを振り返ったその女性、いや自分とそう年の変わらない少女の微笑む姿を……。そして、春樹は聞いた。その少女が怪盗¢ルージュと名のったのを……。
 それは本当か嘘かも分からない、そんな曖昧な世界での、曖昧な記憶だった……。
     *
 気がついたとき……少年、栗丘春樹は地面にただただ立ち尽くしていた。
「ここは……どこだ?」
 慌てた感じで、春樹は周囲を見渡す。その場所は見覚えがあった。
「……どうやら、刻聖院邸宅の庭のようだな」
 春樹は刻聖院邸宅内に設けられた広々とした庭の一角に立っていた。すぐ側には、小さめの池があった。その池は屋内に入るときにも一度目にしていた。
 そういえば、ちょうどそのときに友人の矢吹が、これもまたにやけた表情でこの池について話していた。
「栗丘〜、この池はな、その名前を涙の池というらしい。空から零れ落ちた涙の池ということだ」
 春樹は矢吹の言葉をもう一度思い返してみた。
「涙の池……か」
――と、自分の手にある程度の量感を感じた春樹は、視線を落とした。その手には、どうにも見覚えのある丸い物体が収められていた。
「……と、刻の雫?」
 春樹のその手に収められていたのは、紛れもなくつい先ほどまで天上の間の祭壇に置かれていた刻の雫であった。異なることといえば、刻の雫が解き放つ光ぐらいだろう。以前までの不気味な怪しい光はすでになく、刻の雫は柔らかく温かな光を小さく帯びていた。
「俺はいったい……今まで何をしていたんだ?」
 天上の間で、刻の雫に触れたことまでは記憶にはある。しかし、その後の記憶がどうも曖昧である。何かが起こったような気もするが、どうも春樹には思い出すことができなかった。
 ただ、それでも一つだけ分かりきっていることがあった。
「この刻の雫を、怪盗¢ルージュの手に渡すわけにはいかない!」
 春樹は今一度、気合いを入れ直した。
「――栗丘、刻の雫はな、手で持っているときは、気まぐれで爆発するという危険な代物だからな、扱いには気をつけろよ……」
「――っ! や、矢吹! おまえ、いつからそこにいたんだ!?」
 驚いて振り向いた先には、ニヤリとした表情で立ち尽くす矢吹の姿があった。
「フッ、『……どうやら、刻聖院邸宅の庭のようだな』の頃には、すでにおまえの後ろにいた」
 前髪をかきあげながら、矢吹は淡々と話す。
「あのなぁ、それならそれで声をかけろよ……」
 春樹はがっくりとうなだれた。ふらっと姿を消したかと思えば、気配を隠したまま後ろに立っているという、なんとも神出鬼没な矢吹にほとほとあきれはてていたのだ。
「ところで、栗丘。――刻の雫は何処に?」
 矢吹はにやけた表情に若干の脂汗を浮かべて、春樹に尋ねかけた。現在、春樹の手には何も所有しているものはなかったのである。
「……な、ない……と、刻の雫が…」
 春樹はその手を開いたり閉じたりしてはみるが、先ほどまでの量感が戻ってくることは当然なかった。
「い、池に落としちまった……」
 目の前には池。そして、自分の手の中には刻の雫がないとなると、そう考えざるをえないのである。
「ほぅ―、では俺は去るとしよう―」
 言う口の下から、矢吹は何食わぬ顔で刻聖院邸宅内へと戻っていった。
「おい! 元はといえばおまえが元凶だろうが……」
 春樹は矢吹の背中に言葉を浴びせるが、まったく気にすることもなく去っていった。
「さて、どうしたものか……」
 あごに手をあててしばし黙考するが、良いアイデアが浮かぶこともなく行き詰まってしまった。それに、気になることもある。怪盗¢ルージュのことだ。どうして、ヤツに盗まれることなく、刻の雫が自分の手に収まっていたのかが分からなかった。それともう一つ。なぜ気がついたときには、この場所に立ち尽くしていたのかだ。天上の間で刻の雫に触れた記憶を最後に、次に気づいたときはすでにこの場所にいた。このミッシング・リンクも分からない謎であった。
 そんなとき、春樹は周りの風が少し荒れ始めているのに気がついた。
「……まったく、大事な刻の雫を池に落としてどうするのよ」
 少しあきれた感じの、それでも透き通るかのような声。春樹はその声の主を探すべく、周りを見回す。誰の声かはわからないし、知らないのだが、どこか記憶の中にある聞き覚えのある声のように思えたのだ。
「――ここよ。あなたよりも、もっと空に近いところ」
 春樹は気がついた。その声が上から聞こえているということに。すかさず上を見上げる。ちょうど池の側にそびえ立っている高木の太い側枝の上に、人の影が見えた。
「だ、誰だ、おまえは?」
 春樹は力強く叫んだ。大方の予想はついていたが、本人の口からその答えが聞きたかったのだ。
「――怪盗、¢ルージュよ……♪」
 思ったとおりの答えが、春樹の耳へと響き渡った。それと同時に、以前にも怪盗¢ルージュに会ったかのような不思議な感覚にとらわれた。こういうのをデジャビュというのだろうか。――しかし、そんなことよりも今は重要なことがあった。
「……そうか、おまえが怪盗¢ルージュか……。へっ、けど残念だったな。刻の雫は、今頃はもう池の底だ」
 そうなのだ。春樹の失態(元凶は矢吹であるのだが……)で刻の雫は涙の池へと落ちてしまったのだった。見たところそんなに浅い池ではないし、なにしろこの暗さだ、探し出すのはあまりにも困難である。
 幸運にも、春樹の迂闊なミスが逆に有利に働いたのであった。
「そう……なら探さないといけないわね」
「――なっ、この状況でいったいどうやって?」
 怪盗¢ルージュは春樹の問に答えることはなく、そっと目を閉じると両手をゆっくりと広げていった……。
「精風神ウィンダミアよ……その力を我に与えよ……シェルシェ・ヴァン・サン!」
 今、春樹は目の前で起きていることを信じることができなかった。まさに、そんな状況だった。怪盗¢ルージュの手が光ったかと思えば、次の瞬間には池の水が渦を巻いたかのようになり、その中心部分から勢いよく怪盗¢ルージュの両の手のひらへと、風と水が上昇していった。その風の中に目的の物を包んで……。
「……そ、そんな……バカな……」
 春樹は茫然自失といっていい状態だった。瞬く間に、刻の雫が怪盗¢ルージュの手中に収まったのである。今はまず、その事実だけを受け止めなければならなかった。相手に盗まれてしまった以上は、どのようにして取り返すのか、これを考えなければならない。自分一人の力で何ができるというわけではないが、今は前進するしかなかった。――が、
「次はもう落としたりしないでよ。この刻の雫はあなたに預けるわ」
――このような覚悟を決めていた春樹に、なんとも予想に反した言葉がかけられた。
「何を呆気にとられた顔しているのよ。ちゃんと予告状に書いたはずよ……聖なる涙のカケラをいただきにまいります、って。――心のカケラ……大切な心のカケラはもう元通りになったから……今日の任務はおしまい」
「……怪盗¢ルージュ……君はいったい何を……?」
「あなたは、この刻の雫を本当に所有するべき人のもとに渡してあげて……」
 直後に、怪盗¢ルージュの手から踊り出た刻の雫は、微風に包まれてゆっくりと春樹のもとへと舞い降りてきた。
「――それじゃあ、そろそろお別れね……」
 再び、怪盗¢ルージュが手を広げると、今度はその身を風に包み込む。
「ま、待ってくれ……俺はまだ何も……!」
「……縁があれば、また会うこともあるかもね」
 ちょうど、一際強く吹いた風に春樹は手で顔を覆った。そして、次に目を見開いたときには、すでに怪盗¢ルージュの姿はなく、その残り香のような微風が鼻をくすぐるばかりであった。
「……風の使者、怪盗¢ルージュか……」
 今なら、先ほどの矢吹の言葉の意味が身に染みて分かった。手品でもまやかしでもない、怪盗¢ルージュの創りだす風は、紛れもない真実であったのだ。
 まだまだ思うところのことがたくさんあったが、とりあえずは屋内に戻ろうと振り返ったところ、ちょうどこちらに近づいてくる恭三の姿が見えた。
「――おい、息子。おまえはこんなところでいったい何をやっとるんだ?」
 相変わらず、恭三はぼやっとした表情をしていたが、やや額に汗をかいているところからすると、春樹のことを探しまわっていたようだ。
「俺にもわからないことだらけだ。――けど、詳しいことは後で話すよ」
 己のことよりも、春樹には気になることがあった。それはもちろん、刻の雫に関することである。
「なぁ、親父……怪盗¢ルージュが言ってたけど、刻の雫の本当の持ち主って誰なんだ?」
 恭三に刻の雫をみせつけて、春樹はいった。
「――ああ、なんだ、そのことか―」
 いかにも物知り顔で、恭三は一つうなずいた。
「その事件はな―、もう解決したぞ」
 春樹は、恭三から手短に説明を受けた。大まかな事の次第は次のとおりだ。刻聖院の親族を名のっていた男、熊谷がそもそもの元凶であった。突然、刻聖院の当主、刻聖院泰臣が行方不明になるという事態を不審に思い調査を続けた結果、熊谷に疑いが見られるようになっていった。
 恭三は決定的な証拠をつかんだようであり、迷わず逮捕連行に踏み切ったのである。熊谷の目的は、やはり刻の雫であった。しかし、そのもくろみも儚く散ったのであった。
「……そうか、刻の雫を本当の持ち主にって、こういうことか」
 春樹の脳裏にうごめく謎の一つが明らかになった。それでもまだまだ、分からないこと、納得のいかないことはあった。だから――、
「怪盗¢ルージュ……おまえとの縁は、俺が作る」
 衝動的な思いであるのかもしれない。もう少しよく考えるのならば、全然違ってくるのかもしれない。だとしても、今の自分の思い。それを春樹は貫徹したいと思った。少なくとも今は……。
「――それにしても、息子……。おまえはなんでずぶ濡れなんだ?」
 タバコを一本、口にくわえながら、恭三は春樹に話しかけた。見ると、春樹の体はひどいくらいにビショビショであった。
「――怪盗¢ルージュの洗礼だ」
 どこか嬉しそうに春樹は話した。先ほどの、池から水が勢いよく湧いて吹き出した際に、近くにいた春樹はそれに巻き込まれていたのだ。恭三に指摘されて、春樹は始めて濡れているという感覚に気づき始めた。
「――なぁ、親父?」
 春樹は、怪盗¢ルージュの去った、暗闇の空へと視線を投げかけた。雲に隠された月が、わずかにこちらに向けて光を放っていた。
「怪盗¢ルージュって……いったいなんなんだろうな?」
「……さぁな、どこにでもいるような、正体不明の怪盗だよ」
「熊谷とかいうおっさんが言ってたけど、怪盗¢ルージュは悪盗なのか?」
「……まぁ、少なくとも俺たち警察の立場からすれば、許されざる存在ではあるな」
 恭三は、一つタバコの煙を大きくはきだしながら、淡々と話した。
 確かに、盗みは立派な犯罪行為である。絶対に許されるべきではない。 けれど――、
「……今の俺は、何を真実とするのだろうか……」
 先の見えない深い葛藤の中、春樹はその答えを導き出せずにいた……。



4 刻の雫は涙を残して

 季節は夏。夏といえば海。海といえばレッツ・ゴー・ゼアー!
 なかなか渋い中年親父、栗丘恭三のこの言葉の発動は、その言葉がそのままに示すように、家族そろって海水浴場に遊びにいくことを意味している。
 そして今日もまた、近場の海水浴場に遊びにきていた。例のごとく、二人の子供である春樹と舞香を残して、夫婦水入らずで散歩に出かけてしまった。
 非常に良い天気で、気温も高く、絶好の海日和であるわけなのだが――、
「――親父のヤツ、夫婦水入らずとかいって、笑いをかみころしながら行きやがった」
 少年、栗丘春樹はどこか憂鬱であった。こちらも例のごとく、海に来てまで積極的に泳ぐこともなく、ただただ読書にふけっていた。ちょうど今、本を一冊読み終えたばかりである。海水パンツに、上はTシャツを一枚日焼け止めのために着ており、童顔が残ってはいるが割合に整った顔をサングラスで隠していた。
「……夫婦水入らずを、散歩に行くから水に入らない、っていうのとかけて喜んでるんだね、きっと……」
 隣で暇を持て余していた妹の舞香があきれた表情で言った。いやはや、基本的な親父ギャグというものだ。
「舞香、それは違うぞ。さんさんと輝く太陽の下、俺たちに少しでもひんやりしてもらおうというねらいがあったんだ……ということにしといてやれ」
「……そうか、そうだったんだ」
 舞香はすんなりと納得した。割と単純な性格である舞香は、特に細かいことを気にしたりはしないのである。先日ここに遊びに来たときに、春樹にけなされはしたものの、今日もこの夏に新しく買った海の水の色に似たビキニの水着を着ていた。
 実のところ、特に舞香の水着が似合っていないということはなかった。しかし、春樹にしてみれば、似合っているとは口が裂けても言えなかったのである。それを言えば、舞香が調子に乗るという理由も確かにありはしたが――、
「……どうしての、お兄ちゃん?」
 舞香は黙ったままの春樹のもとに近寄ってきた。あどけない顔でこちらを見下ろしてくる舞香。そして、ビキニの水着……。ずっと注視してはいれらなかった。
(……俺は、バカか……)
 春樹は己のなんとも馬鹿げた思考を悔やみつつ、かけていたサングラスをしまう。もしも、ワンテンポでもサングラスをとるが早かったならば、舞香に白い目で見られていたかもしれない。最悪は、その拳が飛んでくるわけであるのだが……。とりあえず、春樹は存在するのかさえ謎である神様に感謝した。
「――舞香、ちょっと遊ぶか?」
 舞香に対する償い(本人は気づいていないのだが)の意味も込めて、あろうことか春樹から舞香を誘い出た。
「――えっ? う、うん、いいよ。……それにしても、お兄ちゃんからわたしを誘ってくるとは珍しいね。ふふっ、ついにわたしの魅力に気がついたのかな?」
 春樹は半ば先ほどの発言を後悔した。しかし、ここで踏ん張るかどうかが重要なのである。
「……おまえじゃなくて、水着にな」
「むかっ、お兄ちゃん……(怒)」
 春樹のそっけない一言に、舞香の表情が変わる。
「舞香様の美しさは、すでに神の域であると……」
「――よろしい♪」
 すぐにまた、舞香はコロッと表情を変えた。
 いつものやりとりも終え、春樹は波打ち際へと歩み寄る。舞香も、肩まで伸びた髪を微風に揺らしながら、それに続いた。
     *
 少年、栗丘春樹がどこか憂鬱であったのにも、理由があった。
 前回この海水浴場に来たときに、ある事件が起こったのだ。いや、詳しくいうならば、起こった事件に積極的に関わったというべきか。
 その事件は、刻の雫という白璧を巡って起こった。事件の後に、友人である矢吹に刻の雫に関してさらに詳しく教えてもらった。
 刻の雫にはもともと、悠久の刻が生んだ危険な力が存在するということは事件の前に教えてもらっていた。しかし、それだけではなかったのだ。以前に刻聖院の一族である男と女が、刻の雫の力に触れて刻の迷宮に迷い込んだ。これは伝説ではなく、実際にあった過去の事実。そのときは、男が女を刻の迷宮から救い出したのだった……。
 また、その事件の夜、春樹は夢を見た。夢にしては珍しく、記憶に鮮明に残っている。それは、一人の怪盗との出会いであった……。
 何もない空白のみの世界。そんな場所に春樹ともう一人、怪盗¢ルージュはいた。ほんのわずかの間の会話。その間、怪盗¢ルージュの後姿を見続けてきた春樹だが、最後に一瞬怪盗¢ルージュが振り返ったときに、春樹はその素顔を見た……気がした。自分とそう年の変わらない、かわいらしい少女の微笑みを……。
 まぁ、所詮は夢であるので現実性にはかける。だが、夢は心を写す鏡のようなもの。ミッシング・リンクの失われた春樹の心の残滓が、その夢を見させたのかもしれない。
 とにかく、春樹にとってその夢は、空想の一シーンで片付けることができないものであったのだ……。
     *
「――うりゃ、隙あり!」
 ぼうっとした春樹の顔に、舞香の手のひらから放たれた海水が直撃した。
「ごほっ、ごほっ! おい、舞香。いきなり何するんだ」
 海水で目がしみるのをこらえつつ、舞香をとがめた。
「だって、お兄ちゃんが悪いんだよ。ぼうっとしてるから」
 確かに、舞香のいうことにも一理あった。考えごとをしていて、舞香をかまってやってなかったのである。
「わかった、わかった。俺が悪かった」
 舞香に謝った春樹は、比較的浅い場所にいたこともあり、一度海をあがった。見ると、舞香はもう少し泳いでいるようである。
「うーい!」
 ――そんなとき、聞き覚えのある間延びのした声が春樹のもとに届いた。
「……あっ! あのときのじいさんじゃないか」
 あのときというのは、刻聖院家のある聖涙島に行ったときのことである。偶然にも、聖涙島に舟を出すという老夫婦に頼み込んで、春樹たちはともに連れていってもらったのだ。
 そのときのじいさんが、そのときのままのテンションで目の前に立っていた。
「少年が刻の雫を守り抜いたとかうわさに聞いたが、それはおまえさんのことかの?」
「なっ、じ、じいさん……なんでそんなこと知ってるんだ?」
 まったりとしたじいさんの鋭い一言に、春樹は動揺していた。
「――さぁ、なんでかのぅ」
 じいさんは間延びのした声ですっとぼけた。
「実際に守ったわけじゃない。ただ、渡すように預けられただけだ」
 春樹も特に詳しく話したりすることはなかった。しかし、じいさんの表情は、まるですべてを知っているかのようであったのだ。
「うーい。なら、おまえさんと、刻の雫の聖なるカケラを取り戻してくれた誰かさんに感謝じゃのう」
「じいさん……あんたはいったい?」
 明らかに、このじいさんはただものではなかった。なぜ、こんなにも刻の雫のことに関して知識があるのか。
「……刻の雫はのぅ、心の弱さにつけこみおるのじゃ。刻の悲しみが生んだ刻の雫は、たいそう儚いものじゃ。それ故、弱い心を引き寄せる。その心は思念となり、刻の雫と同化するのじゃ。その悲しみの輪廻を救うのが……強い心じゃよ。じゃから、刻の雫を救ったその強い心の持ち主に感謝じゃ」
 それだけ言い残すと、じいさんはゆっくりと後ろを振り返り歩き始めた。
「――じ、じいさん。じいさんの名前、教えてくれ?」
 春樹は遠ざかるその小さな背中に尋ねかけた。
「わしの名前なんぞ聞いてもなんも良いことありゃせんのに。……刻聖院泰時という一人の老いぼれじゃよ」
 その背中は、最後に「うーい!」と元気のよい、これもまた間延びのした声をあげて遠ざかっていった。
 もしかしたらと思って尋ねてみると、まさにその答えが春樹のもとに帰ってきた。
「――へっ、これでまた一つ謎が明らかになった」
 春樹はどこか嬉しそうに、声にもらした。確かに、まだまだ分からない謎は残されたままである。けれどその謎も、己が求め続ける限りだんだんと明らかになっていくのだ。
 今回の事件が、それを春樹に教えてくれた。
 刻の雫は、その大切なきっかけ。
 それは、怪盗¢ルージュとの出会い。
 そして、始まり……。
「――怪盗¢ルージュ……次は必ずその正体をつかんでやるからな!」
 人目も構わず、春樹は空に向かって叫ぶ。どこまでも強く輝く夏の太陽は、まるで春樹の高揚する気持ちを象徴するようであった……。



 つい先ほどまで春樹たちがいた、栗丘一家の海水浴場での休憩スペースにはビーチパラソル、そしてビニールシートが引いてあり、貴重品を除く簡単な荷物が置かれていた。
 そして、今は誰もいない。一つ挙げるとすれば、そのビニールシートの上に、一冊の本が置かれたままであった。春樹が先ほどまで読んでいた本である。続きを読み忘れていたこともあり、今し方読破したのである。
 その本のタイトルは『刻の涙』。著者は刻聖院泰時と書かれていた。
 この『刻の涙』の最後の一節は、次のように記されていた。
     *
 無限の刻を進む空から、一滴の雫がこぼれ落ちた
 それは、空の悲しみ 悠久の悲しみ
 一滴、また一滴と、刻の涙は大地へとこぼれ落ちる
 この刻の涙を、ぼくたちはいつまでも受けとめていこう
 悲しみとともに……
 けれど、それは永遠じゃない
 ――いつか無限に進む刻は、その涙を光に変える
 悲しみを、喜びに変えるのだ……
 ――これでようやく、ぼくたちの心は救われる
 刻の雫という名の、涙を残して……
                                      (おしまい)



[あとがき]

 まず始めに、最後まで読んでくれた読者の方々に感謝と敬意の意を表したいと思います。筆者、筆を執るのは久々のこともあり、その稚拙さは言うに及ばず、きちんと仕上がるかが疑心暗鬼を生じていたわけですが、無事に1ヶ月ほどで完成したことは喜ばしいことです。誤算だったのは、文章量ですかね。当初、15000字を見込んでいましたが、終わってみれば30000字を超えるという結果になっていました。なおかつ、終盤の質の低さが特に目立っていると思います。こちらも終わらせることにヤケクソでありましたので。
 では、内容についてのコメントを少し。今回はテーマ小説、「刻」について書いたつもりではあるのですが、そんなにテーマ性を強調できなかったのは、筆者の腕前のなさにあるわけです。特に弁明はしないです。後は、ネタについてですね。今回の「刻の雫は涙を残して……」という作品は、筆者が以前に書いていた(今は半凍結中)「それでも最後はハッピーエンドで!?(通称、それハピ)」という作品の局所的外伝的ストーリーになります。なので、今回の作品それ自体はそれハピを知ってる人も知らない人も読める作品になっていることかと思います。ネタのきっかけは、栗丘春樹と怪盗¢ルージュの初めての出会いを書いてみたいという思いが正直なところです。それを、「刻」というテーマにもとづいて、描いていったわけです。
 さて、改めて読者の方々に感謝と敬意を表しますとともに、筆を置かせてもらいます。それでは。また会えることを楽しみに願いながらも、春樹君の門出を祝うばかりです。
                                  2004年8月10日
                                  著者  YUK