ルームシェア

 

大学のために上京してきて三ヶ月。なんとかこちらの生活にも慣れ始めたころ、僕には悩みがあった。

 玄関から音がした。

「おかえり」

 読んでいた雑誌から視線を上げ、僕は言った。

 帰ってきたのは、黒い艶やかな毛が美しい女性である。彼女は僕と一緒にこの部屋を借りている、ルームシェア相手だ。そして、僕の悩みの原因でもある。

 彼女は僕に一瞥もくれず、さっさとキッチンに入っていった。自分専用の水を、マイカップで飲み、一息つく。

 彼女はゆったりとした足取りでソファに座った。彼女専用のソファは、お気に入りの場所だった。

「今日はどうだった?」

 そんな僕の問いにも、彼女は気だるげにソファに横になったまま答えない。

 贔屓目に見ても、彼女は美人である。切れ長の瞳に、つんと上向いた鼻筋。しなやかな四肢で颯爽と歩く姿はカッコイイと素直に思う。モデルも顔負けだろう。どこか冷たい態度で、結構自分勝手なところはあるが、実際はかなり気性が荒い。それでも僕は彼女との生活にそれなりに満足していた。

 そんな美人な女性と生活していて、よく恋に落ちないなと、最近できた友人に言われた。確かに彼女は美人で魅力的だが、僕にはいささか荷が重い。実は、最初はこの部屋にもう一人住んでいたのである。それが彼女の男である。けれど、男は新しい女ができ、しかも妊娠したらしい。その女と結婚することになったが、彼女にはその事実を言えないままだった。

ある晴れた日、男は彼女が部屋にいない隙に出て行った。彼女と、彼女のお気に入りであるソファを残して。

 

「あいつ、俺がいないとなんにもできないやつなんだ。食事も作れないし。あいつを捨てる俺が言えた義理じゃないが、どうか、頼む」

 最後に男は自嘲気味に嗤って、出て行った。

 なぜ僕がと思ったものの、男の気持ちもわかるので僕は了承した。

 彼女が部屋に帰ってくるまで、僕は不安と恐れが入り混じった気持ちで待っていた。この事実を、どう告げるかが問題だった。以前彼女が、男と例の女との密会現場をこの部屋で見たときの荒れぶりは凄まじかった。部屋は滅茶苦茶に荒らされ、しばらく食事も受けつけなかったのを思い出す。

 彼女が帰ってきた。すぐに異変を察知し、部屋を見渡す。なにが起こったか理解できていないのだろう。その表情は、不安に揺れていた。

 僕は激しく胸が痛んだ。やはり彼女にはあの男が必要なのだ。出て行く男を、縛ってでも行かせなければ良かった。今更ながらにそう思う。それでも、もうあの男はいない。僕は意を決して彼女に真実を告げた。

「出て行ったよ」

 その言葉に、彼女はうつろな瞳で僕を見た。僕はいたたまれない気持ちになって、彼女からの視線から逃れた。

「前、部屋に来た女性が妊娠して、結婚するそうだ」

 彼女は黙って僕の言葉を聞いていた。その沈黙が怖い。

 僕は男から託された言葉を、彼女に伝えた。

「メッセージを預かっている。『ありがとう』……そう言っていたよ」

 彼女は僕になにも言わなかった。ただ、なにかを諦めたように男が残したソファに寄り添った。

 僕はその場からそっと逃げ出した。彼女が激昂して暴れることも不安だったが、それ以上に、気弱な彼女を見ていたくなかった。

 その夜、彼女はずっとないていた。彼女はあの男を想い、あの男を愛していたゆえに。

 

 あの日以来、彼女は一度もないていない。表面上はいつもと変わらない様子だが、それが逆に怖い。彼女は今、どう思っているのだろうか。なにを考え、なにを想い、なにを考えているのか。訊くこともできずに、ただ時間は過ぎていく。

「夕飯、まだだろ。君の分も作っておいたんだ。君、家事できないもんね」

 あえて明るく言い、僕はキッチンに向かった。冷蔵庫からマグロのカルパッチョを取り出す。彼女の大好物だ。

 たまに思う。こうして彼女の世話を焼くのは、あの日の贖罪なのではないかと。僕に対して恨み言一つ言わない彼女に対しての。

 不意に、なにかがもたれてきた。振り返ると、彼女だった。

 怪訝に思う僕に、彼女は一言

「にゃあ」

 とないた。 

 それはあの夜以来のの彼女の声だった。

 僕は彼女に微笑みかけた。

「ご飯にしよう」

 

 こうして、僕と彼女の新しい生活が始まった。

 

 

 

あとがき。

 オチが読めやすかったですね。もっと短い話にしようと思ってたのに、意外に長くなってしまった。日々精進しなければ。もっと文章うまくなりたいです。

 

 ちなみに「彼女」のモデルは、バイト先に出没する黒猫です。野良なので懐いてくれません。こんなに愛してるのに(笑)


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