真夏の日差しが、揺れる水面に照らされてキラキラ光る。
青いプールの底が、いっぱいに張られた透明な水を透過して、まるで空のように見えた。
そんな中を一人泳ぐ彼女は、悠然と空を泳ぐ鳥のようだった。
そしてそんな彼女が好きだった。
青い空を泳ぐ
「関谷くん」
名前を呼ばれて振り向けば、金網の向こうから逆光を浴びた水島冴子が立っていた。濃紺の競泳用水着姿の彼女は、水に濡れた黒髪を拭いている。
「おう、水島。なんか用?」
「部活、今日も休むの?」
「ああ。うちのじいちゃん、昨日から神経性老年腰痛症候群になっちまってさ。早く帰らなきゃいかんのだよ」
早い話がぎっくり腰。嘘じゃないけど俺が早く帰らないといけない理由にはならない。単なる言い訳。部活に出たくない本当の理由は言えないから。
そんなこと水島にはお見通しみたいだった。「ふぅん」と大して興味もなさそうに頷く。
俺は水島と同じ水泳部に所属している。といっても、ここ一月ほど部活に真面目に参加してはいない。その理由は主に二つ。一つは、ちょうど一月前に足を怪我したからだ。別に部活で怪我したわけじゃない。ダチと自転車に二人乗りして、土手から転げ落ちたときに全治三週間ほどの捻挫をしたためだ。
「足の具合、どうなの?」
「え、ああ。……大分良くはなってるけど、まだ本調子じゃないから」
一瞬間の空いた俺に怪訝そうな表情を浮かべる水島。俺はそんな視線から逃れるようにうつむいた。言えるはずもない。彼女に見とれていたなんて。
水の滴る黒髪のショートカット。黒目がちの瞳は、どこか眠たげ。水泳で引き締まった体は、競泳用水着を通してくっきりと浮かび上がっている。真夏の光を全身で浴びて立つ姿は、逆光のせいもあってか、いつもより魅力的に見えた。
これが俺が部活に出ないもう一つの理由。俺が水島を好きだからだ。告白すれば簡単に解決することかもしれない。けど、この告白は絶対に失敗することが分かっている。俺が水島のことを好きでも、彼女は俺のことを好きじゃない。少なくとも、俺の欲しい好きじゃない。
水島が、俺を見ている。それだけで胸が苦しくなる。少し手を伸ばせば届く距離にいるのに、俺は手を伸ばせない。言い表せない感情が湧き上がる。好きだ、でも言えない。繰り返されるジレンマ。
「そう。でも、早く治してよね。もうすぐ地区大会もあるし。それに、関谷くんの泳ぐ姿、好きだから」
うつむいていた俺は弾かれたように顔を上げた。驚いた水島が俺を見ている。
「マジで?」
「う、ん」
俺は「俺も」と言い出しそうになる言葉を必死に堪えた。
水島は知らない。俺が彼女の一言一言にどれだけ感情を浮き沈みさせているかなんて。今、俺が踊りだすくらい嬉しいなんてことも。
「水島。お前、そんなところで何やってるんだ?」
俺たちの間に、聞きなれた、そして一番聞きたくない人の声がした。
水島が振り返る。それを俺は祈る気持ちで見つめていた。振り返らないで欲しい、と。
「早瀬部長」
水島の声がほんの少し優しい響きを持っていることに俺は気付き、同時にイラついた。浮かれていた気持ちが急激に萎んでいく。
水島の奥に立っていたのは、水泳部の早瀬部長。爽やかな好青年を絵に描いたような見た目と中身。後輩にも慕われている良き先輩。だけど、俺にとってはこの世で一番嫌いな人。なぜなら、部長は一月前から水島と付き合っているからだ。
ぼんやりとした視界で、水島が部長に駆け寄っていくのを見ていた。今まですぐそばにあった彼女の気配が消えていく。手を伸ばせば届く距離が、永遠みたいに遠くなった。
水島は知らない。部長と話す時のあの嬉しそうな顔を。そんな笑顔を見せ付けられて、打ちひしがれている俺がいるということも。
俺は気付かれないようにそっとその場から立ち去った。校舎の影に完全に隠れたところで、走り出す。胸を覆う靄のせいで、息が苦しい。俺は校舎の中に舞い戻り、埃臭い階段を駆け上る。扉を勢いよく開けた先は、屋上だった。
乱れた息のまま、俺は仰向けに寝転がる。視界には真っ青な空。その色は、あのプールの色に良く似ていた。
「はは……ははは」
乾いた笑いを浮かべて、俺は自分の愚かさを呪う。
振り向いてくれるはずなどないのに。一瞬でも期待した自分に嫌気が差す。
俺はズボンのポケットからぐしゃぐしゃになった紙を取り出す。退部届け。俺なりのけじめ。勝ち目の無い喧嘩はしない。けれど本当は、ただ意気地が無いだけだ。進む勇気も変える勇気も無い俺は、勝負を放棄して逃げる。負け犬なんだ。
もしも、この空を泳げたら、何か変わっていたのだろうか。くだらない。明日、出しに行こう。そう決めて、俺は空を仰いだ。雲ひとつ無い青空に白い鳥が一羽、悠然と飛んでいた。水島の泳ぎに良く似ていた。
「綺麗だな……」
水島によく似て。
「カッコイイな……」
水島によく似て。
「好きなんだ……」
水島のことが本当に。
俺は空を泳げない。けれど、諦めることもできない。戻ることも進むこともできない。それでも、明日は何か変わるかもしれない。
俺はポケットに退部届けを突っ込んで、笑った。
明日晴れたら、この青い空のようなあのプールへ行くことを決めて。
あとがき
久々に小説書いた。書き方忘れて、試行錯誤しながら出来上がりました。
なんだろ、微妙な作品。こういう人もいるんだってことを書きたかったんですが……伝わってない気がする(汗)
伝えることも忘れることも出来ない不器用な人。
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