花森 安治さん


二十八年の日日を痛恨する歌

 花森 安治

暮らしの手帖 300号記念特別号より抜粋
1973年8月初出

 

また あの日が やってくる
あの日
大日本帝国が ほろびた日
もっと正確にいうと
大日本帝国が ほろびたはずの日
いまから 二十八年まえの
昭和二十年八月十五日

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 あの敗戦の日 二十だった人も もうすぐ五十に手がとどく
あの敗戦の日 大人だったもの
いま 五十をすぎたひと
六十から上のひと
七十をこえたひと
ぼくらみんなが こんな世の中にしてしまったのだ
ぼくらは こんな世の中にしてしまうために あの日から 二十八年も生きのびてきたのではなかった

あのとき 何百万という人間が死んだ
死にたくて死んだ人間など 一人もいなかった
何百万という人間が 国のために殺されたのだ
あのとき ぼくらは もうおのれの欲のために ひとの幸せをふみにじるまいとおもった
あのとき ぼくらは これからさきの人生は附録だとおもった
それなのに その附録の人生で ぼくらはなにをしてしまったのだろう

 ぼくらは わずかな米のねだんや 雀の涙ほどの年金や ちいさな橋や ちいさな学校と引きかえに 大企業を支持する政党へ 一票を入れた
ぼくらは その政党に反対する政党が じっさいには 大きな声で反対するだけで なにもできはしない裏の裏を承知で その反対党へ一票を入れた ぼくらは それだけで なんにもしなかった

ぼくらは 西ドイツの繁栄ぶりがうらやましかった
ぼくらは 大企業が じぶんの町や村に工場を作ってくれたらいい とおもった ぼくらは 目のまえの 2DKや クルマやカラーテレビがほしくて 大企業のために身を粉にして働いた
ぼくらは よその大企業にまけまいと必死になってフラスコをふり けんび鏡をのぞいた

そして
ぼくらは みんな じぶんのこどものことを忘れていた
こんなひどい世の中に これからもっとひどくなる世の中に 生きていかねばならない ぼくらのこどものことを そのまたこどものことを ぼくらは どうしたらよいのか
そのひどい世の中を 大企業と その後押しをする政府が作ってしまったのだ
それを ぼくらが だまって作らせてしまったのだ

ぼくら あの日 大人だったもの
ぼくら いま 五十をすぎたもの
ぼくら 大企業を動かしているもの
大企業に動かされているもの
大企業の後押しをしてきたもの
大企業の後押しをさせたもの
それを ぶつくさいうだけで つまりは大企業のいうままにさせてしまったもの
ぼくら みんな

ぼくらが どんなに忘れたいとおもっても忘れられない あの日が またやってくる
ぼくらだけは やっぱり あの日を忘れてはいけなかったのだ
今年も また あのしらじらしい <全国戦没者追悼式> が 挙行されることだろう
しかし 死んでいった あの何百万という人たちに対して その死のつぐないがこのザマだと 生き残ったぼくらが はっきり言うのでなければ ありきたりの追悼の言葉など なんにもなりはしないのだ
ぼくらに必要なのは あんな紋切型の追悼式ではなくて あの敗戦の日 大人だったぼくらひとりひとりの心の中の慰霊祭だ
ぼくらは そのたったひとりの慰霊祭で どんなにつらくても 苦しくても
痛烈なおもいをこめて
あなたがたの死によって あがなわれたのが こんな世の中だということを
そして こんな世の中を作り上げたのは ぼくらだ ということを
           かなしみうた
その肺腑をえぐる挽歌を
死んでいった何百万のひとのまえで
はっきりとうたわねばならないのだ

ぼくらは もうずいぶんと長く生きた
ぼくらは もういい
ぼくらは もうどうなってもいいのではないか
ぼくらは じぶんのこどものために そのまたこどものために もう一ど あの日に帰ろう
もう一ど あの焼け跡にたってみよう
あのとき 工場に一すじの煙りもなく
町に一点のネオンサインもなかった
あのとき ぼくらに 住む屋根はなく
まとう衣はなく 口に入れる食物はなく
幼い子に与える乳もなかった
ぼくらには なんの名誉もなく なんの地位もなく なんの財産もなかった
ぼくらだけは 狂った繁栄とわかれて そこへ戻ろう
そこから出直して ぼくらは じぶんの作った罪を じぶんの手であがなってゆこう
ぼくらが こんなにしてしまった世の中を すこしでもマシなものにして こどもたちに渡してやるために
ぼくらがつけさせた工場の火を
ぼくらの手で消そう
ぼくらが汚れさせた川や海を
ぼくらの手でさらえよう
土地のねだんを せめて十年まえにもどそう
自動車を作るのをやめよう
ジェット機を飛ばすのをやめよう
新幹線を走らせるのをやめよう
ぼくらの暮らしをおびやかすもの
ぼくらの暮らしに役立たないものを
それを作ってきたぼくらの手で
いま それを捨てよう
どんなに罵しられ どんなにさげすまれても それに耐えていこう
一切の罪は ぼくらにあるのだから
それ以外に ぼくらのこどもたちに すこしでもマシな世の中を渡してやるみちはないのだから

またあの日がやってくる
ぼくらよ
おまえの胸のなかに いま惻々と
過ぎし二十八年の日日を
痛恨もてうたい上げよ

 

 


晩年の花森さんの文章では、「暮らしの手帖」という言葉の印象からはほど遠い、異質で過激な文言が、あちこちに見られます。

また、上の文からもわかるように、漢字の使い方には、驚くほどのかたくなさがあります。

「暮らしの手帖」を、共に立ち上げた時には、隠していた気質が、晩年には隠しきれなくなったということでしょうか。自分自身もかかわった時代のかわりかたに納得できず、我慢ならなかったのでしょう。

特別号には、この歌に限らず、彼の思いが激しさを増して表現されている文章が、多々見られます。

機会があれば、手に取ってみられてはいかがでしょう。

 

暮らしの手帖社 社長は 大橋 鎭子さんです 

 

http://www.kurashi-no-techo.co.jp

 

<03/05/02>