PVL告知の日

保育器卒業後のとき。
珍しいカメラ目線の写真

 ゆーさくが産まれて、2ヶ月くらいたったときのこと。丁度、本来ならば、妊娠34,35周くらいのころだったと思う。
 ある平日、かあちゃん一人でゆーさくに会いに行っていたとき、看護士さんに”次、おとうさん週末きますか〜?”と聞かれた。
 とうちゃんは、毎週末、ゆーさくの面会には着ていたが、たまに仕事でこれないときがあった。
 ”今週末は、大丈夫ですよ。一緒にきます”と私は返事をした。
 そのときは、当時よくやっていたカンガルーケア(裸のあかちゃんを親の胸の素肌の上に直に抱っこする親子のふれあいの方法の一つ。あかちゃんはそれにより、心身の安定をえることができる)の都合かな〜と思っていた。
 カンガルーケアができる部屋は授乳室であり狭く(一応も上半身半分裸状態なので、みんながいるところではできない)、週末になると面会にくる親は平日にくらべかなり多くなり、みんなカンガルーケアができるとは限らないのだ。
 ところが、その週末、ゆーさくに面会に行き、ゆーさくに会ってしばらくしたとき、看護士さんに夫婦そろって別室に呼ばれた。
 部屋では主治医がが机と椅子を用意して待っていた。
 話は始まる。
 どう、話を切り出されたのかは覚えていないが、ゆーさくの脳に異常が認められたということを始めにちゃんと言われたのだけは覚えている。

 そして、ゆーさくの脳の異常、PVL-脳室周囲白質軟化症という病気のことを紙に書きながら、説明を受ける。
 主治医は丁寧に教えてくれたが、正直説明の内容は言葉では覚えていない(よって、先生の書いてくれた紙が役にたつのだが・・・。)
 とうちゃんは、ショックで気が動転していてオロオロしており、かあちゃんは頭の中が真っ白でぼーっとしていたのだ。
 ”何か、わからないことはありますか?”と聞かれた。
 主治医の問いかけに、ゆーさくを産んだ張本人であるかあちゃんは、比較的冷静になった。
 そして、”これからどうしたらいいのだろう?”と思った。
 それを主治医に聞く。
 主治医は、脳性麻痺について、ゆーさくは脳の損害部分が大きいことから脳性麻痺になる可能性が高いということ、そして、今度どう育てるかについて、PVLは脳の運動神経が集まっているところの損傷であり運動障害が起こることが大半であり、精神発達や社会性はどう育てるかによる二次障害であり、そこで療育が必要、と説明を受けた。
 結局、今は行くのを辞めたが、そのとき脳神経専門のC病院の説明を受けた。
 
 そして、私たち夫婦が不安に思うこと疑問に思うことがなくなるまで、主治医は質問に答えてくれ、告知は終わる。

 告知後、保育器の中のゆーさくを見た。
 とうちゃんは、まだまだショックで泣きそうだった。
 かあちゃんは、”ゆーさく、ごめん。ホンマごめん。”と懺悔していた。

 家に帰るまで、家に帰ってからも私たち夫婦は無言だった。
 とうちゃんは家に帰りインターネットでPVLを調べていたのだが、検索で引っかかるのはPVLに関する専門的な文献、とPVLのお子さんのHPであった。
 専門的な文献は簡単に理解はできず、PVLのお子さんのHPは障害児という現実、ゆーさくがこれからなりうる姿があるのみで、HPをみていたとうちゃんは泣き出してしまった。
 かあちゃんは、泣いてしまったとうちゃんを横目に、黙って音楽を聴いていた。
 今はもう解散してしまったがFAIR WARNING 2ndALBUM "RAINMAKER"の中の一曲、"DON'T GIVE UP"。
 日ごろあまり歌詞にこだわらないし、愛だのの勇気だのが臭くて嫌いでよく意味がわからない英語の歌ばかり聴くかあちゃんなのだが、そのときは、DON'T GIVE UP・・・くじけるな、というサビの部分の歌詞が、かあちゃんの頭の中をぐるぐる回る。

 それから、割と早く、ゆーさくをお腹で育ててきたかあちゃんは”ゆーさくを育てなければ!”と立ち直る。
 とうちゃんは、短期間では立ち直ることができず、NICUスタッフの方も心配してくれ、主治医も”お父さんはなかなか立ち直るのに時間がかかるものです”と言いつつ励ましてもらっていた。
 そして日がたつに連れ、表面上は立ち直り、いつものとうちゃんになった。
 時のながれというのは本当にすごい精神薬た。
 
 そして、私たち夫婦は、ゆーさく退院にむけて気持ちを入れ替え、またかあちゃんは毎日、とうちゃんは週末ゆーさくに会いに病院に通う生活へと戻った。
 その後、ゆーさくはNICUを退院。
 退院後もゆーさくにはさまざまな試練があり私たち夫婦は葛藤や苦渋の決断を経験することが何度かあった。
 今おもえば、このPVLの告知は、それが人生最大のショックではあったが、過去の事となりつつある。
 ゆーさくが育つにつれ、起こる病気、はっきりとしてきた障害、そのつど、私たち夫婦はショックを受けることになるのだ。
 PVL告知はとても悲しい出来事であったが、このPVL告知が乗り切れたから(といっても、時間がいくらかかっても子供の病気や障害を大半の親は受け入れ乗り越えられるものだと思うが・・・)、その後のできことも前向きに乗り越えられて来ているような気がする。