恩智・高安散策コース

出発=近鉄大阪線恩智駅   到着=近鉄大阪線高安駅

恩智駅は高架駅になっている。高架下の改札を出て左へ、高架を背にして右へ、高架に沿って歩くとすぐ、高架をくぐってくる道路に出会う。この道路を左へ(高架とは反対の方向)曲がると間もなく恩智川に出る。橋を渡って緩やかな坂を暫く上ると右側に広場がある。これが天王の森である。

image天王の森

道路に面して恩智石器時代遺蹟の碑がある。この辺りは生駒西麓では大きな扇状地で、今でも3メートルも掘れば、鏃(やじり)や土器の破片が出るという弥生時代を中心とした遺跡である。

この地が「天王の森」と呼ばれる恩智神社の旧社地である,森というが今はほとんどが広場になっている。広場の端に八坂(祇園)社の祠がある。「天王」の名の由来は祇園社の祭神、牛頭天王からきている。

南北朝時代、この地の豪族、恩智左近がこの東の山麓に城を築いた時、神社を見下ろすのは畏れ多いというので、城より上手の山麓にある現在の社地に神社を移した。

元の道に戻って、さらに東へ緩やかな坂を上って行くと間もなく四つ角に出て、恩智神社の鳥居がある。この南北に通じている道が東高野街道(旧国道170号線)である。ここを右へ、東高野街道を南へ少し歩くと左側に「しゅみい地蔵」がある。

imageしゅみい地蔵

「しゅみい地蔵」という名前の由来はよく判らないが、傍らの石柱に「追善供養」といいう言葉が刻まれている。普通の供養は死後に、その遺族が故人のためにするが、生前に自分で行う供養を「追善供養」という。死後の供養よりも何倍もの功徳があるというので、室町から戦国時代にかけて、戦でいつ死ぬか判らない武士の間で流行した。


地蔵堂のすぐ左に上へ上って行く坂道がある。これを上って左へ折れて暫く歩き、左へ入ると大きな木が茂っている。その傍らに恩智左近の墓がある。

image恩智左近の墓

恩智氏は中世この辺りの豪族であった。南北朝時代には南朝に荷担して恩智左近は楠木正成に仕えた。九州から攻め上ってくる足利尊氏を兵庫の湊川で迎え撃って、正成と共にその地で戦死した。

左近の墓碑の隣に、西南戦争で戦死したこの辺りの兵士の墓が10基ばかり並んでいる。

左近の墓を出て右へ、道は2つに分かれているので左の道をとって暫く歩くと、左へ上がる石段があるので、これを上ると恩智城址である。

image恩智城址

南北朝時代には南朝に荷担して勢力を伸ばした恩智左近は、東高野街道を見下ろし、西に展望のきくこの地に城を築いた。ここから北の方を見渡すと、遙かに四条畷から飯盛山まで見える。この城を築くのに、下にあった恩智神社を城のさらに上手の山麓に新築した社殿に移した。中央に「恩智城址」と大きな字で刻まれた石が置かれている。

ここは明治になってから小学校の敷地になったようで、「南高安小学校旧恩智小学発祥の地」と刻まれた石碑が建っている。

上ってきたのと反対側の石段を下りると小さな公園になっている。真っ直ぐに公園を突ききると「万葉植物園」と書かれた所があり、それを突ききって石段を登ると住宅地になり、突き当たりを左へ曲がる。暫く歩くと三叉路になるので、突き当たりを右へ折れる。緩やかな坂道になっていて、正面の石段を登ると恩智神社である。

image恩智神社

延喜式による式内名神大社であるから、格式のある古社である。祭神は大御食津彦命と大御食津姫命である。当初は藤原氏の祖先神である天児屋根命を祀っていたが、これを枚岡神社に移したので、「元枚岡」と呼ばれている。枚岡神社に次いで河内二宮である。

末社の一つに「母木(おものき)稲荷神社、祭神:倉稲彦大神」があり。隣接する天川山感応院(俗称神宮寺)内の観音堂には十一面観音像があり、俗に「母木(おものき)観音」と呼ばれている。

社殿左裏には横穴式の古墳が開口している。中まで入れるので、興味のある方は探検されるとよい。

元の道を戻る。ゆっくりとした下り坂になっている。右側に細い流れがある。右側をよく注意して降りてくると「安養寺」という標識があり、そこを右へ曲がる。車1台がやっと通れるほどの狭い道である。暫く歩いて行くと左側が開けて展望がきくようになる。その辺りで右を見ると安養寺へ上る石段がある。四国八十八カ所の石像が並び、弘法大師の像もある。左奧に本殿が、その右、突き当たりに護摩壇があって不動明王が祀られている。

image安養寺

四国八十八カ所巡り、弘法大師像、不動堂、護摩壇と揃っているから、ここは真言宗の寺である。毎月二十八日のお不動さんの日にはかなりのお参りがあり、盛大に護摩がたかれるようである。

奧の石段を登って行くと裏山の外れに「銅鐸出土の地」という石碑がある。恩智神社の裏山からこの辺りにかけて銅鐸がいくつか発見されたそうである。


安養寺の前の道を右へ、さらに右へと廻りこんで行くと大畑山青少年センターである。石段の上には藤棚もあり、この辺りはお弁当を広げるのに好適な場所である。センター施設内にはトイレもある。センター建物に向かって左へ降り、駐車場の向こう側で右への道を取る。(駐車場手前の道を上がると老人ホームへ入る)かなり広い舗装道路で、車の往来もかなりある。暫く歩くと、右側に「信貴霊園」という民間会社経営の大きな墓地が上の方に広がっている。左側はずっと低くなっていて、八尾市から大阪市街が見渡される。右側の墓地が終わる辺りで右へ上がる道がある。この道は墓地へも入るので、幅の広い舗装道路である。この分かれ道の角に「梅岩寺」という標識がある。やや急坂だが、登り切った所に梅岩寺がある。

image梅岩寺

黄檗宗の寺である。河内三十三カ所観音札所の十四番になっている。高台にあるので、境内から西の方は見晴らしが良い。ここで休憩して行くとよい。

境内の数カ所に横穴式古墳が散在している。


元の「信貴霊園」の所まで戻り、先ほど来た道と合流する。暫く道の右側を注意しながら歩いて行くと、右へ入る道があり、すぐのところに鳥居がある。「天岩戸神社」と書かれている。この道を左、右に曲がりながら10分足らず上ると、駐車場があり、その先に弁天堂がある。

image弁天堂と高御座神社・天岩戸神社

ここは生駒山麓に散在する修験道の修行場の一つである。高御座神社と書かれている石碑の横にある鳥居をくぐって一番奥まで行くと小さな滝があって、行者が水垢離修行をする場となっている。修行者がお籠もりする建物もある。

一番手前の左側にお堂があって、弁財天が祀られている。この弁天堂は元は教行寺にあったのをここへ移されたそうである。

弁天堂の奧の方を狭い石段で左へ上って行くと、一番突き当たりの奥まったところに小さな祠があり、「巳さん(蛇のこと)」を祀っているようであるが、ここが「天の岩戸」らしい。

元の広い舗装道路まで戻り、そのままこれを横切って狭い道に入る。道は下りになってすぐに右へ曲がっている。道なりに降りて行くが左側には建て売りの住宅がある。やがて左奧の方に墓場らしい石塔が見えるが、その先で左へ細い道に入る。道は左へカーブして墓場へ通じているが、途中で右へ折れて公園のようなところへ入る。右手へこの公園を出たところに小さな社がある。ここを右へとり、突き当たりを左へ曲がるとすぐ、左へ上がる石段がある。元善光寺である。

image元善光寺境内にある楠の古木

奈良時代に本田善光という人が難波の堀江で見つけた仏像を背負って故郷の信州まで帰り、そこで祀ったのが善光寺である。その途中で本田善光は数カ所立ち寄っているが、その立ち寄った寺はすべて「元善光寺」と呼ばれている。ここは難波の堀江から最初に立ち寄ったところである。

狭い境内に樹齢千年を越える大きな楠木がある。

元の道まで戻り右へ、少し行くと右へ入る小道があり、角に「元善光寺」と書かれた道標がある。その先で左へ曲がり、暫く歩いて行くと東高野街道へ出るが、その手前の左側に復元された「一里塚」がある。

image復元された一里塚

東高野街道は山城国石清水八幡から生駒山脈に沿って南へ、河内長野で西高野街道と合流して高野山に通している古い街道である。現在は旧国道170号線と重なったり離れたりしている。この辺りは国道と重なっている。

戦前までは松の木を植えた一里塚が少し残されていたが、現在は完全に消えてしまったので、ここに復元された。西高野街道には堺から高野山までの里程標がすべて残っている。

これは街道筋に設置すべきだが、道幅が狭く車の通行に邪魔なので、少し東へ入ったこの地に設置された。

高野街道へ出て右へ、少し歩いて狭い道を右へ入る。やがて左側に地蔵堂があり、その先に大通寺がある。

image大通寺の地蔵さん

お寺の門の左側に地蔵堂があり、大きなお地蔵さんが2体祀られている。

この寺の境内はそれほど広くはないが、「お初徳兵衛の墓」がある。苦労を重ねてやっと夫婦になれたのに、幸うすく早死した二人の話を、この寺の浄厳和尚から聞いた近松門左衛門が作品として書き上げたのが浄瑠璃「曽根崎心中」と言われている。


大通寺を出て左へ、突き当たりを左へ曲がり暫く歩くと、右側に教興寺の山門がある。

image教興寺山門

正式には『獅子吼山大慈三昧院教興寺』といい、その創建は聖徳太子が物部守屋の討伐を祈願し、秦河勝が588年(崇峻天皇元年)、四天王寺と同時に建立したのに始まるという伝説を持つ古い寺である。

鎌倉期、西大寺の長老、叡尊(興正菩薩)が、河内布教の帰途、信貴坂で休息した際、当寺の千手観音が雨露に濡れているのを知り、1269〜70年(文永6〜7年)にかけ再興した。また、叡尊は蒙古襲来の時、敵国降伏の祈祷を当山に於いても修している。

南北朝及び戦国時代には戦乱の場となり、兵火により焼失したが、江戸貞享年間(1684〜1687年)に浄巌和尚が再興した。かの浄瑠璃の近松門左衛門が久しく寺に寄宿したと伝えられる。その後、1885年(明治18年)の台風で本堂が倒れたので、旧客殿を仮本堂として現在に至っている。仮本堂は一番奥の左手にある。

山門を出て真っ直ぐ歩く。右側に大きな天理教の建物がある。東高野街道と重なった旧国道170号線を横断して暫く歩くと、4車線の新国道170号線(外環状線)に出る。これを横断して商店街を歩いて行くと近鉄線の踏切があり、その手前に高安駅に入る階段がある。

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