上京・西陣散策コース

出発=京都地下鉄烏丸線今出川駅   到着=JR山陰線円町駅

今出川駅南出口を出て右へ階段を上ると烏丸今出川交差点の西北角に出る。今出川通りを南へ渡って右へ、今出川通りを西へ進む。最初のやや広い通りを左折して南へ、最初の四つ角の東南に福長神社がある。

image福長神社

福長町の名の起こりともなった福長神社は,今では小社となっているが、福井(さくい)神と綱長井(つながい)神に稲荷神を併せて祀っている。そのため福長稲荷とも言われていた。福井神と綱長井神はともに平安時代,神祇官西院に祀られていた座摩巫祭神(いかすりのみかんこのまつるかみ)5座のうちの2座で,屋敷内の井戸や泉の神とされている。元は大宮と猪熊の間に,福井社・綱長井社として祀られていたのが,聚楽第の造営により,その域内に入ったと考えられる。聚楽第が廃されたあと現在の地に移された。天明の大火に焼亡後,小祠となったが,水の神としての信仰が篤く,明治以降も無格社ですが公許の神社として取り扱われてきた。

その四つ角を西へ向かうと、次のやや変則的な四つ角の右斜め前に霊光院天満宮の小さな社がある。

image霊光院天満宮

霊光殿天満宮は寛仁2年(1018)河内国若江の霊跡に菅原道真を祭神として鎮座した。この若江の地は菅公左遷の時,一条の霊光が天から降ったことから霊光殿といわれた。その後,若江家が代々の祠官をつとめたが,応仁の乱に遭って東寺に御神体を移した。その後江戸時代になって、絶えていた若江家が再興されると塔之段に再遷し、さらに宝暦11年(1761)現在の地に鎮座した。現今の社殿は明治5年に近衛家の旧鎮守社を拝領した。なお,寛永13年(1636)には若江家再興に尽力した徳川家康を合祀している。

天満宮の左側の通りを西へ向かうと、間もなく右側に武者小路千家の官休庵がある。

image武者小路千家官休庵

武者小路通に静かな佇まいを見せる茶道の武者小路千家は三千家の一つである。初代宗守(利休の孫)は仕えていた高松藩を寛文7年(1667)に辞したので,その茶室を官休庵と称した。市中のため火災に遭遇することが多く,すべての建物は明治以降の再興である。しかし庭園は代々の宗匠の手が加えられながら,半宝庵、環翠園、祖堂、弘道庵などの茶座敷が建てられ、茶庭としての形態を整えて来た。内露地と外露地を結ぶ編笠門など,この庭ならではの意匠もある。表千家、裏千家、藪内家とともに茶庭の代表作として京都市指定の名勝となっている。

突き当たりを左へ曲がると次の四つ角が一条通である。ここを右へ曲がり、一条通りを西へ向かう(曲がらないで真っ直ぐ行くと右側に楽美術館がある)。間もなく堀川に架けられた真新しい橋を渡る。これが現在の「一条戻り橋」である。

image現在の「一条戻り橋」

現在の堀川は河床をコンクリートで固められ,流れこんだ雨水を排出するだけの下水道扱いになっている。西堀川通は終戦間際の強制疎開で火除地として拡張された。東堀川通には中立売から四条まで北野線の狭軌の電車が走っていたが,昭和36年に廃止されている。上京区内には,ほぼ一丁毎に橋が架かっているが,中でも著名なのは一条戻橋(もどりばし)である。

戻橋は戦後だけでも2回架けかえられ,その伝説を想像することもできなくなっているが、「平安時代に熊野の修行から帰る途中の浄蔵貴所が父の文章博土三善清行の葬列に遭遇し,祈念をこめて蘇生させた」という伝説や,「安倍晴明が式神12体を橋の下に封じ込めて,用事のために召し使った」という伝説,さらに「源頼光の四天王の一人渡辺綱がこの橋で美女に化けた鬼女の片腕を伐り落とした」など、数多くの伝説がある。後世,「戻りを忌む橋」として,いろいろな風習を生み出した。

4車線の広い堀川通りを横断して右へ(北へ)歩くと間もなく、左側に鳥居が見えてくる。清明神社である。

image清明神社

平安時代の陰陽家,安部晴明(921〜1005)を祀る晴明神社は御所の鬼門(東北)に当たり、清明の邱跡であると伝えられている。晴明は天文博士として,また陰陽道の始祖として数々の伝説を伴っているが,幕末の火災で記録が失われているので神社の歴史はよくわからない。

今も易学の神様として信仰が強く,屋根瓦には「晴明桔梗紋」という一筆書きの星の紋がついている。これは陰陽道で用いる呪符である。

鳥居の横に、堀川に架けられていた「一条戻り橋」の一部が置かれている。

清明神社の前を左へ、堀川通りを北へ歩くと間もなく左側にあるビルが西陣織会館である。西陣織の展示や実演が行われている。今出川通りを信号で渡ってさらに北へ、上京保健所の北側を左へ入って少し歩くと右側に山名宗全邸跡の石碑がある。

image山名宗全邸跡

山名宗全は嘉吉の乱(1441)の後、赤松氏を滅ぼして但馬、伯耆、因幡、石見、播磨、美作、備前、備後、安芸の9カ国の守護となって西国に勢力を振るうようになり、管領の細川氏に対抗する勢力となった。

この辺りに広大な邸宅を持ち、応仁の乱ではここを本陣として東軍の細川氏と戦った。花の御所を中心にした細川氏の陣に対して、西の方にあったので、「西陣」と呼ばれ、それが地名になった。

そのまま西へ歩くと本隆寺に突き当たるが、その手前の細い道は「紺屋図子」と言われ、西陣の織子たちが住んでいた横丁が残っている。本隆寺に突き当たって左へ暫く歩くと、今出川通りに出る手前の右側に首途八幡宮がある。<両端がT字形の三叉路で突き抜けていない路地を「図子」または「辻子」と書いて(ズシ)と言う>

image首途(かどで)八幡宮

もとは内野八幡宮といい,宇佐八幡宮から神霊を勧請した。内野とは大内裏が廃墟となったあとの荒地をいい,その北のはずれに祀られていたようである。

平安時代の末,奥州商人金売吉次の邸址で,その鎮守社であったという説もあり,源義経が奥州平泉へ旅立つ時この社に道中の安全を祈ったところから,首途八幡宮といわれるようになった。このような由来から旅立ちの安全を祈る信仰が強まった。

元の本隆寺の方へ戻る。南の正門から境内に入ると、正面が本堂で、その左にある建物が祖師堂である。

image本隆寺祖師堂

享保・天明の大火に遭ったが,明暦3年(1657)に建てられた本堂は焼け残り,祖師堂とともに京都府指定有形文化財となっている。これは本堂に安置されていた鬼子母神の霊験によるとして不焼寺(やけずのてら)と呼ばれるようになった。

祖師堂前にある夜泣止の松は,第5世日諦が一婦人より幼児の養育を頼まれたが,その子が夜泣きをして困らせたので,題目を唱えながら松の木を廻ると泣き止んだという霊験譚から,この松の皮や松葉を枕の下に敷くと,幼児の夜泣きがやむといわれている。

祖師堂に向かって右前に見える松が「夜泣止の松」である。

本堂右手の門から出て左へ歩き、本隆寺の裏塀に沿った細い道を左へ曲がる。右側にある寺院が雨宝院である。

image雨宝院(西陣聖天)

大きな時雨の松に境内全体がおおわれている雨宝院には,狭い境内に本堂や多くのお堂が所狭しと建ち並んでいる。

北向山と号する高野山真言宗で,西陣聖天といわれている。寺伝では弘仁12年(821)嵯峨天皇の病気平癒を空海が祈り,六臂の歓喜天を安置したのが始まりとされている。歓喜天(聖天)は象頭人身の像で,当初,千本五辻の大聖歓喜寺内にあったが,応仁の乱後,雨宝院のみが現在の地に再興された。

観音堂には重要文化財の木造千手観音菩薩立像が安置されている。

先ほどは横から境内に入ったが、鳥居を背にして西へ出ると、前は空き地になっていて、その中に奇妙な岩が祭られている。この辺りは西陣の町屋が密集していたが、西陣織の衰退で取り壊されて空き地になっている。

image岩神の祠

2メートル近い大きな石、これが岩神である。江戸時代,ここに有乳山岩神寺があり,授乳の神として信仰されていたが,天明の大火後は衰微し,明治になって廃寺となり,石だけが放置されていたようである。大正6年に芝居小屋の跡地になっていた今の土地を所有した会社が祠を建てて神事を行うようになった。

もともと二条堀川付近にあったらしいが,徳川家康の二条堀川城築城により岩上通六角へ,さらに後水尾天皇の女御の御所へと移されたと言われている。小僧に化けるなどの怪異が絶えないところから雲乗院という真言宗の僧が今の地に安置して寺としたと伝えられている。「おっぱい」というよりも「男性のシンボル」に見える。

岩神を背にして右へ(北へ)行くと、廃業した西陣織りの建物を利用して「織成館(おりなすかん)」とか「じゅらく染織資料館」などがあり、小型の織機に挑戦出来る。そのまま北へ、寺之内通りを左へ(西へ)歩くと千本通りの大通りに出る。これを左へ(南へ)しばらく歩いて左へ入ったところに石像寺(しゃくぞうじ)がある。

image石像寺(くぎぬき地蔵)

くぎぬきさんと通称される石像寺のお堂の周囲には釘と釘抜をはめこんだ小絵馬がぎっしり懸かっている。家隆山と号する浄土宗の寺で,本堂に安置する石造地蔵菩薩像が釘抜地蔵である。藤原家隆の邸跡で、裏に家隆と定家の墓がある。

弘治年間(1555〜58)紀国屋道林は両手に激痛がおこり,医師の治療を受けても癒らなかったので、地蔵尊に7日の願かけをすると,満願の日の夢に地蔵尊が出現し,その手に2本の八寸釘が握られ,この悩みは前世において人を怨み,人形に八寸釘を打ちこんだ呪いによるもので,祈願によってその罪障は消えたと告げられる。目覚めた道林の痛みは消え失せており,地蔵尊の前には血のついた八寸釘があったということで,苦を抜くとかけあわされて今に至るまでその信仰が続いている。

千本通りを南へ、信号で向かい側に渡り、「近為」という漬け物屋さんの南側を右へ(西へ)入って、狭い道(五辻通」を暫く歩くと右側に千本釈迦堂がある。

image千本釈迦堂(大報恩寺)境内にある「於亀像」

千本釈迦堂という名前で知られている大報恩寺は瑞雲山と号し,真言宗智山派に属している。京都の旧市街地で最古の建造物という国宝の本堂を有し,承久3年(1221)に義空によって創された。

大工の棟梁、高次が柱の寸法を切り誤って困っていたところ,妻の於亀(おかめ)が枡組を用いることを教え,無事竣工させることができたが、於亀は女が夫の仕事に口をはさんだことを恥じて自害した。そこで高次が妻の冥福を祈って建てた宝篋印塔をおかめ塚といい,大工の信仰を得るようになった。上棟式のお多福の面はこれに因んだとされている。

元の五辻通に戻って左へ、すぐに右へ曲がると間もなく広い今出川通りに出る。渡らないで右へ、そのまま斜め右へ、上七軒のお茶屋さんの並ぶ道に入る。祇園、先斗町と共に栄えた舞妓さんが見られる町であるが、だんだん寂れて現在ではお茶屋さんは10軒ほどしか残っていないそうである。西方尼寺のところを左へ曲がると突き当たりが北野会館(上七軒歌舞練場)である。右へ曲がると北野天神の横に出てくるので、左へとって、天神さんの正面入口から境内に入る。

image北野天満宮

菅原道真は菅秀才といわれたように学問の家の出で,その実力で昇進した。しかし、その異例の出世を妬んだ藤原時平らの策謀により太宰権帥に左遷され,延喜3年(903)に太宰府で亡くなった。

その後道真の崇りとする落雷が度々起こり,やがて右京七条二坊に住んでいた巫女の多治比文子に神託があり,さらに近江比良の神主良種の子にも託宣があったので,時平は北野朝日寺の僧最珍と相談の上,北野右近の馬場に天満天神として祀った。以来,御霊神の一つとして崇敬は高まり,また、道真は頭が良く秀才であったので、学問の神としての信仰が起り、全国に天神信仰が広まった。

本殿に向かって左側に梅林があり、その奥に秀吉が作った土居の跡がある。そのまま裏側(北側)に抜けて、左へ暫く歩くと突き当たりが平野神社である。

image桜満開の平野神社

祭神は今木神、久度神、古開神、比賣神となっているが、今木神は平安遷都のころ大和国高市郡から移されたと伝えられる。久度神は北支から半島にかけて信仰されている竈の神の流れをくむとされる。平安遷都以前、この地にいた秦氏が信仰していた神々であろう。

北野天神の梅に対して、こちらの境内には何と約60種500本もの桜が咲き乱れている。中には珍種も多く、桜にかなり詳しい人をも唸らせる。

本殿も「平野造り」といって、2殿ごとに結合した特殊な造りで重要文化財に指定されている。4月10日には神幸祭や花山車の行列も出る桜花祭がある。

鳥居前の道を右へ(南へ)とる。暫く歩くと広い今出川通りに出る。北野白梅町の交差点を南へ渡り、西大路に沿って南下する。2つ目の一条通りを左折すると右側、紙屋川の畔に小さなお寺がある。地蔵院、「椿の寺」として知られる。境内に大きな椿が1本ある。そのまま川を渡って暫く行くと左側奥に大将軍八神社がある。

image大将軍八神社

方除けの神として信仰されている大将軍八神社は,古くは大将軍堂といわれ,素盞鳴尊とその子神を祀っていた。大将軍というのは陰陽道でいう西方の星(宵の明星)で,吉凶をつかさどる方位の神である。都の四方にそれぞれ大将軍が祀られて王城鎮護の神としたが、ここは御所の北西に当たる。

79躯が重要文化財となっている木造大将軍神像は,方徳殿に収蔵されており,武装50躯,束帯28躯,童子1躯,いずれも平安時代後期から鎌倉時代にわたる製作で,革甲(かわよろい)に冑(かぶと)をつけた武装の神像は類例がない。その伝来は不明だが,明治時代に裏の薮の中から見つかったということは,廃仏棄釈によって隠されたものと考えられる。

大将軍八神社の東側の道を南へ下る。やがて北町児童公園の向かい側に茅葺きの長屋門が見えてくる。仁和寺の御殿医を勤めた奥渓家の下屋敷である。さらに南へ下り、下立売通りを右折すると右側、紙屋川の手前に竹林寺がある。

image竹林寺墓碑

平野国臣(ひらのくにおみ)以下37士の墓がある竹林寺は,浄土宗西山禅林寺派で,弘安2年(1278)道教の開基と伝えるが,その後の由緒は全くわからない。

福岡藩出身の平野国臣(1828〜64)は京都で尊王攘夷運動に奔走,但馬の生野の変に捕らえられて六角の獄舎につながれたが、元治元年の蛤御門の変による兵火の中,囚人の逃亡を恐れた幕吏によって未決のまま同士とともに斬首された。この時には天誅組の水郡善之祐以下16名,池田屋事件の古高俊太郎以下80名も犠牲になっている。その後,明治10年になって西ノ京円町付近の西刑場址から姓名を朱書した瓦片とともに白骨が発見されて平野国臣らの遺骨と確認されたので,この寺に葬り,明治43年に墓碑が建立された。

紙屋川を渡り、西大路通りに出て左へ、丸太町通りとの交差点を南へ、さらに西大路通りを西へ渡ってから左へ入るとJR山陰線円町駅である。

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この地図は大体の略図です。詳しい道順は上の青色の文字に従ってください。


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