佐藤健志氏の「千と千尋の神隠し」への批判は、作品だけでなく映画の主題歌までに及びます。 >「ゼロになる身体 充たされてゆけ」という一説があったにせよ、いくら充たところでゼロはしょせんゼロ >なのである。 もっといえば、ゼロににすぎない状態を、あたかも充たされているかのごとく見せかける事 >こそ『千と千尋』がはらむメッセージの本質であり、かつ本作が国内で広範から支持された大きな要因の >一つにほかならない。 だから何が言いたいのでしょうか?佐藤健志氏は。まぁ確かに「ゼロになる体、充たされてゆけ」と言う歌 詞は、確かに「ゼロになる身体が満たされてゆく?どう言う事だろう?」と、私もこの歌詞の意味は私も計 りかねるので、多少は理解出来るが、佐藤健志氏は、この後に続く歌詞「海の彼方にはもう探さない、輝 くものは、いつもここに、わたしのなかに みつけられたから」」と言う歌詞は、いっさい無視しているんです よね。(他の人は、どう取ったのか解りませんが、私は「本当に大事な物は、自分の心の中にあった。だ から、海の彼方には、探しにいきません」と言う意味に取りました)結局の所、自分に都合の悪い所は、略 いてこの作品を批判して居るわけです。しかも、佐藤健志氏は、この歌が実は、「煙突絵描きのリン」と言 う幻となった作品の主題歌だと言う事を無視してる見たいだし・・・いや、知らないんだ思う。他にも、佐藤 健志氏は、「いつ何度でも夢を画こう」の歌詞にもケチを付ける。千尋の家族は、例のトンネルの近くに住 んでいるので、「その内フラフラと再び両親がトンネルに迷い込む事があるだろう」と主張する。そして、再 び千尋がまた身勝手な両親を救ける為に親のツケを払う為に救ける事にとになるだろうとも主張する。確 かに、そう言う事があるかもしれないが、それは佐藤健志氏の勝手な想像に過ぎないし、其処からの話し は「同人誌」や「二次小説」の世界です。まぁこの人が、同人誌や二次小説を描いたりするんだったら、理 解せんでもないですが(爆) その他にも色々と、佐藤健志氏はこの作品を「千と千尋の神隠し」を永遠と批判し続けます。しかもその批 判は、とても理解しがたいもので、何故ココまで話しを飛躍させるのか分かりません。千尋が湯婆婆の試 練のとき、「だめ、ここにはお父さんもお母さんもいないもの」と言う台詞は湯婆婆への返答としては少々 不自然だと言う訳です。私は何だって良いと思いますよ。あの豚の群れの中には、豚に変えられた両親 が居ないと言う意味であれば。 私は「千と千尋の神隠しは単なる成長の物語ではないと思っています。ああ言うラストにする事によって 「千と千尋の神隠し」は良い作品として支持されているのだと私は思っています。ただ単に「主人公は成 長しました。そして、末長く幸せに暮しましたとさ」ではなく、「主人公がこの経験を元にして、強く生きて欲 しい。もっと、大きく成長して欲しい」と願う・・・ おそらく、それはこの作品を評価している人なら解ってい る事だと思います。ですが、佐藤健志氏は「千と千尋の神隠し」を子供の成長を否定していると批判する。 子供が親の犠牲になる事を奨励している作品だと批判する。たった数分間のラストシーンだけで・・・ しかもそれだけには止まらず、宮崎駿氏が、「日本が滅んでいくのを喜んでいる」とか「死にゆく国の気休 め」とか勝手に話しを飛躍させ批判し、こき下ろす。しかも、作品が気に入らないと言うだけで、上司でも身内でも友人でも無いのに「宮崎」と呼び捨てにする。礼儀もへったくれもあったもんじゃありません。 しかも、佐藤健志氏は僅か10歳にしかならない少女に、「親を見捨てろ」とか「親を殺せ」と平気で強要する。トドメに「殺して食ってしまえ」とも、 宮崎駿氏と佐藤健志氏どちらが、良い人間性を持っているか・・・・・・・考えるまでも無いでしょう。 |
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