伏見稲荷大社

競争社会では、稲荷信仰が頼りになる

伏見稲荷大社を正面から


伏見稲荷大社の由来は、「山城国風土記逸文」によれば、その
昔、秦氏の先祖が稲や粟を栽培して豊かな生活をしていた。あ
まりも富み栄えたので米の餅を的に仕立てて弓で射ったところ、
その餅が白鳥に姿を変えて飛び去り、稲荷山の峰に降り立っ
た。すると其処から稲がたわわに生えてきたので、秦氏は神様
が行った事として反省して、其処に社を立てたのがはじまりとさ
れています。


伏見稲荷大社は、全国にある稲荷神社の総本山で、商売繁盛の
神として信仰されています。商売をしている人達で、知らぬものは
居ないでしょう。(知らない奴は、商売をする資格無しと、言われる
ほど)
 稲荷大社は元々農耕の神様として、特に「稲」を祀る神社とし
て崇められて来たのですが、やがて密教などの影響をうけて、
農耕紳の枠を超えて商売の神様として崇められるようになって
いきました。

 

奥社参拝所の鳥居と御稲荷さん。ここから稲荷山へ行く事になる

稲荷信仰は絶大で日本全国に支社があり、その数は三万〜
四万にもおよび、海外にも支社があるようです。

この神社の具体的な始まりは鎌倉時代の「年中行事秘妙」や「室
町時代の「二十二社註式」によれば和銅年間に伊奈利山の三つ
の峰に神が示現したのでこれを祭ったとされています。
 この三つの峰には同じ神が祭られていたのではないかと推測さ
れているようですが、文徳実録に天安元年(857)に「稲荷神三前に正四位下を授ける」という記事があり、これが神の数が3柱になっている最初のようです。また、この3柱の神が一体何かということについては諸説あったようですが現在は、宇迦之御魂大神(う
がのみたまのおおかみ)を主神とした佐田彦大神(さたひこのおお
かみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神(しのおおかみ)以上五座が祭られて
います。
 ところで、稲荷神社と言えば「狐」ですが・・


お稲荷さん・正面左側
「お稲荷さん」と聞けば、多くの人々は「狐」を思い浮かべると思い
ます。伏見稲荷大社にあちこちに「狐」の像が立っています。確か
に現代の稲荷信仰には「狐」が必要不可欠です。
 しかし、其処での狐はあくまでも稲荷神の「お使い」であるので
すが、如何した事か、稲荷は狐の霊を祭ってあると思っている人
達が以外に多く、実際、誤解の末に狐の霊を祭り上げたという伝承を
持つ稲荷神社が多数存在しています。
 狐と稲荷の関係が何時頃から始まったのかは定かではありませ
ん。おそらく中世ぐらいではないかと考えられています。理由は、
その頃から稲荷神社に参拝に行ったら、夢に狐が現れて様々な
御告げをして言ったという伝承が数多くあるからです。
 しかし、何故、狐が稲荷神の御使いとして、祭られるようになっ
たのか?それに付いては、ハッキリした事は分かっておらず、様々
な説があるそうです。

「一匹の狐が中国から稲穂を盗んで日本にもたらした」という伝承がある

  1. ダニキ天と言う神様が、狐の背中に乗る女神の姿とされた為、 狐を神様の使いと祀るようになった。伏見稲荷大社も明治の頃までは祀っていた。
  2. 稲荷の神と同体と考えられる御饌津(みけつ)神が誤って三狐神と書かれ、そこから狐が稲荷神社で祀るようになった。
  3. 穀物を食べる野ネズミを狐が食べてくれるので、狐を穀物の守り神と考え、そこから結び付いた。
  4. 暑さ寒さも御彼岸までという。春の御彼岸は農繁期のおとずれ、秋の実りを祈る時である。この頃は山の狐が里へと降りて来るときであり、狐の尾の太さが豊かに実った稲穂の重みを連想させてくれる。まして、稲荷神は農業の神様であるので、狐を神様の使いとして神聖化されていった。

他にも色々な説があるのですが、イマイチ核心は無いそうです。

納められた鳥居の極一部、正確な鳥居の数は見当もつかない・・・



日本人の稲荷信仰は途絶える事はありません。伏見稲荷大社の
ある稲荷山中の参道には、数々の企業が寄進した鳥居が無数に
あり、もはや正確な数は見当もつきません。

今、日本は出口の見えない平成大不況の真っ只中にあるためで
しょうか?これらの写真を撮りに行った日は平日のでしたが、それ
でも多くの人が参拝に訪れて居ました。

 伏見稲荷大社、商売をされてる方は一度、ココに参拝に来られ
て見てはどうでしょうか。








由来・・・・・・・和銅四年(711)秦伊呂具が農耕守護神を祀って相建。中世以降、商売繁盛・開運・技術向上の
         守護社として信仰を集める。全国で約四万社ある稲荷神社の総本山
御利益・・・・・五穀豊穣・商売繁盛
行き方・・・・・・京阪電鉄本線、伏見稲荷駅下車  JR奈良線、稲荷駅下車