久保井洋次の走る世界走らせる世界
走る世界
走るきっかけ
 3歳の時、キャッシュボックスの中で突然めまいがして歩行困難になり病院へ直行。そのまま27日間検査入院しました。原因は日ごろの不摂生からの高血圧とストレス。心臓には不整脈もあしました。当時の趣味はゴルフとお酒。その後、スキー場で入院中お世話になった主治医の先生にばったり会いました。先生に成人病予防のため軽いジョギングをすすめられ、たまには一緒に走ったりしていました。先生はすぐにやめてしまいましたが、私はゆっくりですが走ることを続けて当時88キロあった体重が約8ヶ月で18キロの減量をして二十歳代の身体に戻りました。平成22年末には走行距離は100,000kmを超えました。
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 残酷マラソンを創めるにあたって自宅まで相談に伺いました。そこでマラソン運営について多くのことえお教えて頂きました。様々なランナー達がいて、、様々な交流が生まれ大会が成長すること。話す機会が増えるごとに走ることが知恵として生活を変えてしまいました。ホノルルマラソン初参加の後、「北海道には100キロを走るマラソンがあるんだよ。」と言っていただいたときの事を忘れません。「サロマ100キロマラソン」それがこの世界への入口だったと思います。ランナーとスタッフこの関係が今の人生の課題です。
 010年7月1日から7日までの7日間で、かねてからの希望であった北海道縦断走をしました。移動も合わせると延べ11日間の休みをとってのランニングでした。
 「いったい自分は何日まで楽しく走れるか?」をテーマに試したつもりでした。初日襟裳岬〜大樹町(78.4km)、2日目大樹町〜士幌(76.9km)までは結構余裕でしたが、3日目の上士幌〜層雲峡(85.5km)の三国峠越えの坂道はきつかった。4日目層雲峡〜剣淵(62.3km)は暑さに参りました。5日目剣淵〜音威子府(81.8km)では左大腿筋を痛め一時はどうなることやら・・・・?歩いた、歩いた。エアーサロンパス2本を使いきりました。6日目美深〜浜頓別(76km)は孤独との戦い。家が無い、人気が無い。さあいよいよ最終日7日目(69.1km)は朝5時前からスタート。前日から両足の小指の皮がめくれ、アシックスサロマLSD、出発時置いて行こうと思ったシューズに助けられました。7日目ゴールの宗谷岬では、数名の観光客とたまたま居合わせた自衛官からお褒めの言葉を頂きました。嬉しかった。
 特に6日目7日目あたりから通り過ぎる車から声援を受け、励みになりました。また、多くの友人たちから電話、メールの支えがあり力になりました。
 会社のメンバーや家族に大変迷惑をかけての行動でしたが、一生忘れられない大きな大きな思い出になりました。
 またいつか機会があれば別コースに挑戦しようと思っています。
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ホノルルマラソン
 酷マラソンを計画中の時、視察と思い「第20回ホノルルマラソン」へ参加してから、ほぼ毎回出場しています。当時マラソンをレースと考えていましたが、レースはレースですがマラソンは祭りであったり、交流の場であったり、心の癒しの場であったり、自分自身を正す場であったり、様々な思いが重なる42キロを体験しました。スタートに並んだすべてのランナーをゴールさせて、全員にゴールの感動を与えることを信念にしているマラソンだと思います。残酷マラソンの4時間の制限時間、エイドのありかたはすべてホノルルマラソンの教えです。
みかた残酷マラソン全国大会
 成4年春、当時町長である吉田二雄氏より「林道を使ったマラソン大会をしてみては」との声がかかりました。そのころ町内でジョギングをして目立っていたのが私だったことから相談を受けました。近隣のマラソン大会を視察、また実際参加して運営を学びました。婦人会、体育関係の皆さんたちと視察に行ったことがとても楽しく思いました。数人でコースを試走した際に、スタートから4キロだけ走り、残りを全部歩いた人のタイムが4時間でした。当時警察の方に「3時間でどうだ」と言われましたが4時間にしていただきました。ホノルルと同じくスタートしたすべてのランナーを完成させることを第一目的にしています。

 今年(13回大会)からコースが変わりました。この町は南北に長い町です。今までのコースは町の北側約半分を使っていましたが2004年新しい町道(2.5キロ)が完成し、南側の地区へ繋がりました。これでこそ全町民上げて盛り上がることができます。12年間残酷マラソンを一度も見たことのない方が何百人とおられます。しかし今年から変わります。小代には21地区ありますが、その全ての皆さんが19地区で応援できる体制が出来ました。これからのマラソンの運営は地区の盛り上がりが一番必要だと思います。町の一人一人がランナー達を歓迎し、喜んでくれる事を幸せと思う気持ちがあれば、合併後の予算削減等に怯えることなく継続できる唯一の道と考えます。参加費、参加者、予算に合ったマラソン大会で十分です。継続できることに交流があり幸せがあります。数年後、運営は各地区の代表が先頭にたってすることを望みます。高齢化県下一番の町です。私達より先輩の方たちは、この町を訪れた人を心から歓迎し、世話をすることを幸せと思う心を持っています。その心をなんとか子供たちに受け継がせていきたい思いです。マラソンは見ることは単純ですが奥も深いものです。残酷マラソンを通じてお年寄りから子供たちへ小代魂を伝えていきたい。今年からもっと大きな期待ができそうです。
4人で但馬牛をGetしよう!
14回大会から4人1組の団体戦を始めます。
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村岡ダブルフルウルトラランニング
 ルトラマラソンにはまっていた頃、一番きつかったマラソンは「八ヶ岳100キロウルトラランニング」でした。5キロ過ぎからの登りの砂利道、すさまじい下り、馬越峠、後半の長い登り道・・・どこをとってもきついマラソンです。その頃村岡に兎和野〜ハチ北線が開通しました。ハチ北から町へおりて蘇武を超えて長楽寺を回ればすごいコースが・・・。それを教育委員会へ要望し、約1年後試走会を行いました。京都、大阪、名古屋、姫路の友人に一緒に試走をして頂き、確信を得て翌年第1回「村岡ダブルフルウルトラランニング」が開催しました。八ヶ岳に負けない屈指の大会の誕生です。尚、大会の名前は高石ともやさんに付けていただきました。
 村岡には射添地区、村岡地区、兎塚地区がありますが、3地区合同でのイベントはこれが初めてでした。最初の会議は自己紹介から始まったのが一番思い出にあります。とてもいい出会いの瞬間でした。
実行委員会メンバーをはじめ素晴らしいスタッフに恵まれています。
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ランニングコースの紹介 ブログ
↑残酷マラソンコース、滝めぐりコースの
紹介です。
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