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依藤氏の居城


下記城址名をクリック
小田城
豊地城
小沢城
土沢城
屋口城
その他の依藤関連地


  
小田城

「別所氏と三木合戦」より

[小田城]…別名を村田城(※)ともいう。

城主は赤松氏の一族で依藤太郎左衛門刑部少輔豊房という。
『播磨鑑』に、嘉吉の乱(1441)に、中村・粟生・藤田氏らとともに竜野の城山城に立て籠もったが、細川・山名の大軍に攻められ、豊房は辻堂に駆け入り自殺して果てた。

また、『播州古城軍記』に、足利尊氏の光明寺合戦の時には、畠山阿波守国光が二千余騎を率いて後陣に控えたのは、この村田城(※)であったと書かれている。

三木合戦の折には、依藤山城守光勝が居城したという。

(※)・・・ここで言う村田城は「名村田城」のこと。

「兵庫のふるさと散歩シリーズ」より

[小田城跡]…国道沿いの古川より約五キロ、東の東条川をはさむ集落が小田の町である。

かつては、社より久留美を通り、三木への街道に面した重要な村であった。町並みは往時の面影を残し、古色をただよわせている。
小田の発生は、おそらく中世室町期に形成されたものと思われる。

東条谷の西の拠点として中世土豪の依藤氏が小田城を築き、地理的な利点をもった町として栄えたものであろう。

ちょうど東条川が大きくわん曲する内側に小高い丘があり、これが小田城跡である。

依藤氏は赤松の一族と称し、嘉吉の乱で滅亡した。赤松家の再興の因となった南朝討入りの事件で重要な役割を演じ、赤松政則の播磨回復にも大きな功績を残した。

城跡の高台には、建物跡と思われる削平地や土塁、石垣等が残っており、中世城郭の典型的な遺跡といえる。

『播磨鑑』には「城主は依藤太郎左衛門刑部介豊房居す……」とあり『播州古城軍記』には「此東条郷小田城には観応の比(ころ)、足利尊氏光明寺合戦の時、畠山阿波守国光、三千余騎引率し後陣に控し処なり」と、この城の古さを思わせる。

のちに別所氏と東播の覇を争って敗れたが、一時は別所をしのぐ勢力を占めていた。

また、この城より東方の中谷町に、この依藤氏に関係があると思われる豊地城があり、のちには別所重棟(長治の叔父)の居城となったが、城跡もわずかながら確認できる。


小田城発掘調査図
道路となった小田城の堀切跡
小田城址
小田城跡1
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
所在:小野市小田上町
築城主:依藤太郎左衛門豊房
コメント:
平成3年8月3日、兵庫県教育委員会により小田城の発掘調査がありました。現地説明資料によると小田城は小野市西北部の小田町と船木町にまたがる位置にあり、地形的には加古川の支流である東条川左岸の段丘の突端に立地しています。
小田城跡2
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
江戸時代の地誌『播磨鑑』などにもその名が見え、この頃描かれたと思われる絵図も残されています。清水寺に残っている文書などからは、赤松氏の有力家臣「依藤氏」が当地に力を持っていたこと、別所氏や羽柴秀吉とも関係があったことなどが知られ、依藤氏が小田城主であったことが分かります。


左の写真は、城地の南側より本丸(主郭)に向かって通っている通路です。
小田城跡3
(平成5年撮影)
左上は大手口から、虎口に向かう通路です。
左下は主郭部分(本丸跡)です。(現在は護岸工事により主郭部分は残っていません)
小田城跡4
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
小田城址にある「毘沙門堂」。加東四国霊場第76番になっており、石碑には
『朝日影毘沙門堂に輝きてみのり滴る名村田の森』との詩が彫ってありました。
当城は別名を「名村田城」とも言います。
小田城跡5
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
城址にあるお稲荷さん。前回訪問時は気づきませんでした。
小田城跡6
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
城址より東条川を望む。川を堀とし守りを固めていたと思われます。
小田城跡7
(平成5年撮影)
左の写真は東条川より主郭部分を写した写真です。
まだ主郭部分が残っていた時の写真です。
現在ではこの北端部分の景色は残っていません。
小田城跡8
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
現在の写真です。
川の氾濫が起きたため河川工事が行われ、主郭部分は削られました。
河川の路傍には、小田にお住まいの依藤氏のご子孫の方が祠を建てておられます。
小田城跡9
(平成5年撮影)
城域のほぼ真ん中を、県道が東西に突き抜けています。
写真に見える両側とも小田城址になります。
   
豊地城

「兵庫県の歴史22」兵庫県史編集専門委員会編集より
<依藤氏居館跡 豊地城:西田猛氏(小野市教育委員会社会教育課)著>

[城史の概略]…豊地城がいつ築城されたのかは不明であるが、出土遺物等から室町時代中頃にはすでに存在していたといえる。
城主は、赤松氏の有力被官であった依藤氏と伝えられる。

依藤氏は、西播の出身であるが東播へ移り東条谷を領していた。嘉吉の乱(1441)で没落した赤松氏を憂い千本村(揖保郡)で自刃した依藤太郎左衛門豊房の伝説は有名である。

豊地城は、この乱により一時山名氏の支配下となるが、依藤弥三郎は没落した赤松家再興に参画し、赤松政則の有力武将となり、豊地城を奪還した。
以降、台頭してくる三木の別所氏と勢力を争うことになる。

享禄三年(1530)、別所村治と柳本賢治の大軍に攻撃をうけるが、依藤氏は約1ヶ月の防戦ののちこれを撃退した。この攻防戦に勝利できたのは、豊地城を本拠とする防御体制の成果であろう。

豊地城は、一つの城として機能していたのではなく、南西600メートルの山上に屋口城、北東700メートルに土沢城(東条町)、さらにその北方に小沢城(東条町)、西方の東条谷入口には小田城と、四つの支城を設け、防備を固めていたのである。

永禄年間頃、依藤氏はついに別所氏に屈し、東条谷も別所氏の勢力下に入り、豊地城は別所重棟の持城となった。

重棟は、三木合戦時羽柴秀吉方についたため、秀吉が三木攻め途中に、河合地区から加古川を渡って、当城に入ったとも伝えられている。

三木合戦後の天正8年(1580)に秀吉は東条地区の城割を行い、豊地城はその長い歴史をとじることになった。

現在の豊地城は、南側の堀と土塁しかその痕跡をたどることはできないが、城がかかわってきた数々の歴史を私達に伝えてくれる重要な遺構が存在しており、後世に残していくべき貴重な城といえる。

豊地城要図
豊地城遠景
豊地城址

豊地城跡1
(平成5年撮影 by.yorisan)
所在:小野市中谷町字城ノ土井付近
城主:依藤氏
コメント:西の郭南側に堀跡と土塁の遺構が見られます。最初はこの場所が良く分からず、車を降りて暫く探しまわりましたが、道路沿いの民家の脇を抜けて、写真のお堂と案内板を見つけた時は「やった!」という感じでした。

豊地城跡2
(平成5年撮影 by.yorisan)
日本城郭大系(第12巻)によると、城は平城で、方60mの方形館。字限図では四囲に土塁、その外に堀があり、北側に土橋がかかり、虎口があったことが確認できる、とある。
豊地城跡3
(平成5年撮影 by.yorisan)
将来、いずれ耕地整理により遺構が消えるのではないか、と心配される。
豊地城跡4
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
豊地城址、土塁の一部
豊地城跡5
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
現在は田圃の用水路となっている堀跡。
   
小沢城


「小野市史 別巻(文化財編)」より

「小沢城」…(加東郡東条町小沢字北山)小沢城は豊地城の北北東3.5キロメートルの東条町域にある。

市域外の城だが、関連のある城としてとりあげる。
小沢城は、東条川北岸の丘陵から派生した尾根の西端がやや小高くなる所に位置し、標高は130メートル、比高は50メートルを測る。郭は尾根上に五郭、南斜面に一つ、北西斜面に三つ認められる。

尾根上の最高所が30メートル×10メートルの主郭である。北から東に低い土塁が廻り、その北端に虎口ではないかと推定される窪みがある。
主郭の東下に東二郭がある。この北側に浅く狭い空堀を隔てて、東三郭がある。これは主郭よりやや小さく、ほとんど自然地形といえるぐらい削平がいいかげんである。この西斜面に腰郭がある。その北側斜面に削り出された竪土塁と空堀のような地形がある。

これは自然地形と思われ、どこまでが城としての加工なのかは判別できない。主郭の南西下に西二郭がある。この東に「依藤城跡」の碑が立つ。〜中略

この城の南麓の字は「依藤」である。現在は耕地であり、何らの遺構も残っていない。
この字名から、依藤氏の本拠とする説がある。

『加東郡誌』は、文治2年(1186)に依藤氏が東条谷に入ったときにこの城を築き、のちに小田城に移ったとする。

しかしながら、依藤氏が東条谷に入ったのは、応仁の乱以降であり、『加東郡誌』の説は信頼できない。
だが、小字に「依藤」を残すことは、厳然とした事実である。
小沢城縄張図 小沢城遠景
小沢城址
小沢城跡1
小沢城遠景
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

県道75号線の上厚利交差点(T字路)で、北に進路を取り県道564号線を進んで行くと右手に小高い山が見えます。これが小沢城です。
小沢城跡2
(平成27年5月24日撮影 by.yorisan)

小沢公民館の駐車場を少しの間借りて、徒歩で城址に向かいます。
田んぼの畦道の突き当りに、獣除けのフェンスがあり、これを開閉して左に進んで行きました。
小沢城跡3
小沢城「西郭」にある墓地
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

緩やかな山道を少し行くと墓地に出ます。
墓地の右奥から城域に入って行きましたが、とにかくブッシュが凄くて足元と頭に注意しながら西の郭を目指して進んで行きました。
小沢城跡4
小沢城「西三郭」
城内で最も広い郭で60m×20mはある。
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

最初の小さめの削平地を登ると、広めの郭に出ます。
枯れ木や枯草が酷くて写真を撮るのに苦労しました。
地面には30cm×50センチほどの石の板(石板)が落ちていましたが、たぶん後世のものだろうと思います。
小沢城跡5
小沢城「西二郭」の東端にある小沢城顕彰碑
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

藪をかき分けながら西三郭を抜けて、空堀らしき窪みを乗り越えると若干南側にまた腰郭のような削平地があります。これが「西二郭」になります。
ここには小沢城の辻氏による顕彰碑が建てられています。
小沢城跡6
小沢城主郭部分
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

「西二郭」のさらに上には主郭となる郭が存在します。
小沢城跡7
小沢城の「西三郭」と「西二郭」を結ぶ土橋状の通路。
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

帰りは登ってきた方向とは逆方向ですが、「西三郭」と「西二郭」の間にある堀底道を南東に向かって降りて行きました。
小沢城跡8
小沢城の主郭北側を取り巻く堀底道。
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)


小沢城跡9
小沢城南方にある「宿谷下ノ池」
(平成29年4月15日撮影 by.yorisan)

帰りは「宿谷下ノ池」のある東方面に下りて行くことが出来ました。
こちらの方にも獣除けのフェンスがありました。
次回は今日とは逆ルートで登って行くと、簡単に「西二郭」の城址碑の場所に辿りつくことが出来るのが判明しました。
      
土沢城
土沢城1
(平成27年9月13日撮影by.yorisan)
依藤氏の城と言われていますが、詳しい城の歴史は不明です。
土沢城2
(平成27年9月13日撮影)
豊地城・屋口城・小沢城と共に支城として機能していたのではないかと思われます。
土沢城3
(平成27年9月13日撮影)
周辺は水田になっていて、背後には東条川が流れ、天然の要害となっていました。
   
屋口(矢口)城
屋口(矢口)城1
豊地城からほど近い場所にあり、豊地城の支城とも考えられていますが、はっきりした事は分かりません。
永禄年間(1558〜1570年)には別所重棟が城主で、その家臣で吉田伊賀守の居城とも言われています。
屋口(矢口)城2
屋口城の遠望です。
西方の池田町には吉田伊賀守の墓があるそうです。
城山は比較的なだらかな感じで、登城口に車を停め、そこから見た感じではそれほど急ではないようですので、いつか機会を見て登ってみたいと思ってます。
   

その他の依藤関連地
依藤太郎左衛門:冷泉為勝自刃の地1
場所:東条町栄
コメント:小沢城の近くには、天正6年三木城主別所長治に攻められ戦死した冷泉為勝とこれを救援した依藤太郎左衛門の墓が作られている。
依藤太郎左衛門:冷泉為勝自刃の地2
地元の依藤氏ゆかりのお寺のご住職に聞いた話では、この場所には依藤公の鎧・兜が埋められており、そのせいか回りには今も草が生えない、とのこと。

依藤太郎左衛門:冷泉為勝自刃の地3
(平成14年9月21日撮影 by.yorisan)
向って左が依藤太郎左衛門の墓。
右は冷泉藤原為勝の墓。








たつの市新宮町千本にある
依藤太郎左衛門惟次の五輪塔

丹波市山南町野坂にある
依藤太郎左衛門方信の墓碑


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