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鶏籠山龍野古城

龍野古城本丸にある城址碑
龍野古城
所在 兵庫県龍野市龍野町  地図→
歴史 龍野城 龍野城は、明暦4年(1658)に廃城となっていたが、寛文12年(1672)、脇坂安政が信濃の飯田城から新城主として入封してきて、明治維新まで十代200年続いた。現在龍野図書館があるところは旧本丸跡で、これより段々に二の丸以下の諸曲輪が設けられていた。
明治維新後、城門や櫓・塀などは次々に取り払われた。現在は、脇坂時代の古絵図をもとにして復元された大手門等、五つの門が市内各所に移築され現存している。
中曲輪には龍野市立歴史文化資料館が開設され、博物館として利用されている。
龍野古城 「鶏籠(けいろう)山」の山頂にある龍野古城は、明応8年(1499)に赤松一族によって築かれ、赤松村秀が最初の城主となり、この地域を治めていました。赤松氏は政秀・広貞・広英と城主になり、四代78年続きました。天正5年(1577)、織田信長の家臣羽柴秀吉が播磨を平定するため、2万の大軍を率いて揖保川の対岸まで侵攻してきます。この様子を見た広英は、籠城を覚悟しますが、赤松の滅亡を憂う家臣の諌めにより、城を明け渡し秀吉の軍門に下りました。
開城のあとは、蜂須賀正勝、福島正則、木下勝俊、小出吉政など、秀吉の最も信頼する重臣たちが代々城主となりました。その後、1598年頃に山頂の城を取り壊して、ふもとの現在の地に城が築かれたと言われています。
龍野古城は自然の地形を利用した城で、標高211,8mの山頂に、城の要となる本丸が築かれ、本丸の側には、守護神八幡宮が建てられていました。さらに、本丸より南の小高い部分には、二の丸が築かれていました。石垣は野面積みの技法を用い、腰曲輪・帯曲輪を連ねており、削平地には兵営・矢倉・米倉などが配置されていたと思われます。
また敵の攻撃を防ぐため、土塁をめぐらしたり、物見台を設けたり、竪堀・横堀などが作られていました。今もその跡に往時を偲ぶ事が出来ます。
(鶏籠山古城本丸跡にある説明板より)




「龍野城」です。
写真は「御殿」です。
平地にある龍野城を一回りしてから、今度は裏山にある龍野古城を目指す事にしました。
こちらは龍野古城の「二の丸跡」になります。
龍野古城の石積みです。
「八幡宮石畳」です。
鳥居の一部が残っていました。
龍野古城にある「八幡宮跡」です。
龍野古城の大竪掘跡です。
大竪堀は、山城と山麓の城をつないでおり、東西2本の竪堀があります。


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