平成15年10月18日に置塩城に行きました。 汗をかきながらの登頂でしたが、城山に点在する曲輪の素晴らしさに感動しました。 この日は置塩城まつりの初日で、発掘調査の現説もあり大勢の方が登っておられました。 さすがに一気に登る事は出来ずに休み休み登りました。 |
(夢前町観光協会パンフ・教育委員会現地調査説明会資料等参照) ![]() 標高370mの置塩山上に散在する郭群、それが置塩城です。東西525m、南北310mの規模を誇り中世山城としては超一級の山城です。置塩城は小塩(おじお)城、藤丸城とも呼ばれ赤松家の本城でした。 通称城山の頂上にあり、西山麓を夢前川が流れ山頂からの眺望もよく播但連絡の交通の要衝にありました。 |
“置塩赤松氏” 初代置塩城主は赤松政則と言われています。 (先般の現説では発掘調査の結果、政則の代まで遡る事が確認出来ないとの説明がありましたが…) 「嘉吉の乱(1441年)」の敗北で勢力を失っていた赤松家を再興したのが赤松政則でした。政則の播磨入国は最初のうちは国衆に歓迎されましたが、浦上氏などの国人衆が力を持つようになり、赤松氏の「守護」としての力は衰えていました。 政則を継いだのが養子の赤松義村です。そして義村の後見となったのが守護代の浦上村宗でした。村宗は次第に力をつけ、義村を幽閉、暗殺し、ついに赤松家の実権を握るようになります。 村宗の反対勢力は、密かに義村の子の晴政を置塩城の三代目城主につけました。 晴政の頃、中央では細川高国・細川晴元が対立しており、その細川家の内紛に赤松家も巻き込まれて行きました。 四代目城主は晴政の子、義祐でしたが、その所領はわずかに飾東・飾西・神東の三郡のみとなっていました。 五代目城主は義祐の子、赤松則房で、彼が最後の置塩城主となりました。 天正5年(1577)、秀吉の播磨攻めで則房も軍門に下り、城を明け渡しました。 秀吉の城割り(破城)により置塩城は廃城となり、赤松則房は天正9年(1581)、阿波加島城に一万石で移封となりました。 |
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置塩城平面図![]() |
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平成13年度より5年計画で置塩城跡の遺構の発掘調査が行われてきました。 平成15年度の第3次調査は中心部である通称「本丸跡」周辺と「二の丸北曲輪群でした。 写真上の発掘では、建築物の内壁の裾に、磚(せん)と言って瓦の一種で方形の板状をした瓦を立てていた事が判明したそうです。 床面には礫を敷き詰めて湿気抜きを行ったとされています。 この櫓は曲輪の南辺の端部付近に構築されており、堅牢な構造を持つ事から、本丸跡では中心的な櫓であったとされています。 |
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置塩城の石垣は裏込め石の入らない石積みで、この石積みには土塁の側面の土留めとして用いられるものと、曲輪(郭)の切岸面の補強に使用される2種類があります。 山頂の曲輪群には比較的多くの石積みが認められます。 |
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