全国の城(京都8)

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平成4年に復興された田辺(舞鶴)城、本丸城門

昭和15年に建てられた田辺(舞鶴)城、模擬隅櫓 田辺(舞鶴)城
所在:京都府舞鶴市南田辺
城主:細川幽斎(藤孝)

歴史:(舞鶴市田辺城資料館発行パンフ一部参照)
田辺城は、本能寺の変(1582)後、細川幽斎が隠居城として築城したと伝えられています。近世の幕開けとなった天正8年(1580)、丹後の国は細川藤孝・忠興親子の領国となります。細川氏は現在の伊佐津川と高野川に囲まれた平野部に田辺城を築きました。
これ以降、田辺城は細川・京極・牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在でした。明治6年(1873)、田辺城は廃城とされ、本丸付近は現在、舞鶴公園となっています。「舞鶴(
まいづる)」の地名は、田辺城の雅称「舞鶴(ぶがく)城に由来しています。
本丸城門を内側から望む 『細川幽斎という人』
細川藤孝(幽斎)は、1534年、京都の東山で室町幕府の重臣、三淵晴員の二男として誕生しました。実の父親は、第十二代将軍足利義晴と言われています。
幽斎は文人であり武人でもありました。源氏の足利将軍家の正統の血をうけ、有力な幕臣細川家の後を継ぎ、将軍の側近として27年にわたって幕府を支えました。のちの十五代将軍足利義昭を松永勢から救い出し、将軍の座にすえて、8年間もりたてました。また文人としては、49歳で隠居したあと、20年の長きにわたり、文芸界の第一人者として和歌、連歌は言うまでも無く、太鼓・謡曲・乱舞・禅・料理・茶道・書道・鞠・有職故実と幅広く才能を発揮しました。
田辺城、古今伝授の松
『田辺籠城の事』
関が原の前哨戦として、石田三成方、1万5千人の軍勢が田辺城を攻めて来た時、細川家は忠興率いる主力軍3千程が関が原で戦い、豊後国杵築城でも1千の兵が戦うなど、細川家は4ヶ所の戦線で戦っていました。そのため幽斎の軍はわずか5百人程度で、峰山、宮津の城を焼き払い田辺城に籠城しました。
この時勇将で名高い、三刀屋四兵衛も援将として主従にて入城しましたが、大阪勢は小野木縫殿介を総大将として、1万5千余の大軍で田辺城を包囲しました。田辺城は三方が沼田や海で、西方が両軍の主戦場となりました。戦いは持久戦になりましたが、細川幽斎は「古今伝授」の継承者である自分が死ねば歌道の秘訣が絶えることを憂慮し、後陽成天皇の弟、八条院宮に秘伝書の一切を奉ることを申し出ました。
田辺城本丸の石垣と堀 『古今伝授』のこと
細川幽斎は、文芸界のトップに立つ「古今和歌集」の秘事口伝者(古今伝授)でした。後陽成天皇も古今伝授の廃絶を憂慮し、田辺城を取り囲む西軍の陣に勅使を送りました。
「幽斎は古今集の秘奥を伝え、帝王のご師範で、神道・歌道の国師である。速やかに囲みを解くべし」−天皇の意向を知った西軍の諸将は大いに驚き、ただちに包囲が解かれたのは有名な話です。

“いにしへも 今もかはらぬ世の中に こころの種を残す言の葉”

細川幽斎が後陽成天皇の弟、智仁親王に古今伝授証明書と一緒に送った歌です。
(変わらない悠久の時の流れの中に、和歌は言葉によって心の種を残していくものです。…そのように私の歌と心も残るならば有り難いことです)
資料館「彰古館」の田辺城の模型
田辺城址は西舞鶴駅を下車し、駅前から北方に約500m歩くと右手に舞鶴公園があり、そこが本丸跡になってます。
田辺城発掘調査では、籠城を偲ばせる多数の鉄砲玉の他、天守台跡が確認されています。
公園内には、「古今伝授の松」や幽斎玄旨の子孫、旧熊本藩主細川侯撰文になる、明治中期建立の「心種(しんじゅ)園碑」などがあります。
田辺城に愛らしく咲く「ツツジ」 『そして、細川ガラシャ夫人のこと』
聡明な美貌で知られた明智光秀の三女・玉は織田信長の縁組取持ちで、細川忠興と結ばれました。しかし、光秀謀反の一族であったため、忠興は離縁・幽閉という形で領内の山奥深く、かくまいました。
玉は2年後、秀吉に許されて、再婚の形で細川家に戻りました。関が原合戦の折、大阪の細川屋敷にいた玉は、夫の命に従い西軍の人質に取るという命令に死を持ってこたえました。
このことは、婦徳の鑑(かがみ)と称えられ、世間の同情は細川家に集まりました。

↑「宮津城址」もご一緒にどうぞご覧下さい(^^)
現在では、城址碑しか残っていませんが・・・